谷良一 : ウィキペディア(Wikipedia)

谷 良一(たに りょういち、1956年〈昭和31年〉9月19日 - ) は、日本の作家、『M-1グランプリ』創設者、『漫才プロジェクト』仕掛け人。元株式会社よしもとクリエイティブエージェンシー専務取締役、元株式会社よしもとファンダンゴ代表取締役社長、元株式会社よしもとデベロップメンツ代表取締役社長役員 | 吉本興業ホールディングス株式会社 吉本興業、2020年2月15日閲覧。。元吉本興業ホールディングス取締役。小説執筆のペンネームは谷河良一

経歴

滋賀県出身。滋賀県立彦根東高等学校、京都大学文学部国語国文科を卒業後、1981年(昭和56年)に吉本興業に入社。初めての仕事は横山やすし・西川きよしのサブマネージャーだった著書『M-1はじめました。』186頁。

その後、横山やすし・西川きよし、ザ・ぼんち、今いくよくるよ、西川のりお・上方よしお、太平サブロー・シロー、ハイヒール、オール阪神・巨人、笑福亭仁鶴月亭八方、林家小染、間寛平など数多くのタレントのマネージャーを歴任。

なんばグランド花月などの劇場プロデューサー・支配人、テレビ番組プロデューサーを歴任。東京に異動し、渋谷公園通り劇場支配人。大阪に戻り、制作部に復任。映像メディアチームCPに就任著書『M-1はじめました。』251頁。

2001年(平成13年)春、【毎日新聞】谷良一さん(元吉本興業社員) 苦難越え「奇跡の1年」 『M-1はじめました。』刊行漫才を盛り上げる『漫才プロジェクト』を社内1人でスタートする。その途中で島田紳助から「若手漫才師を対象にした漫才コンクール」の案を貰い、2人で新しい漫才の才能を発掘する枠組を企画。当時オートバックスセブンの代表取締役であった住野公一との会談で谷はスポンサー契約を勝ち取り、『M-1グランプリ』を開催に導いたラリー遠田『M-1戦国史』メディアファクトリー新書。以降もM-1グランプリの企画・制作に携わり、一旦終了となった2010年までプロデューサーを務めた。M-1グランプリ、今年の大会をもって終了 お笑いナタリー

2003年(平成15年)高校生の漫才チャンピオンを決める「M-1甲子園」を始める。現在「ハイスクールマンザイ」という名前に変わって続く著書『M-1はじめました。』279頁。

2008年(平成20年)10月より、株式会社よしもとファンダンゴ代表取締役社長。その後、株式会社よしもとクリエイティブエージェンシー専務取締役、株式会社よしもとデベロップメンツ代表取締役社長を歴任。

2013年(平成25年)中国・四国ブロック代表「住みます専務」に就任。着任にあたり松山市長を表敬訪問【松山市】よしもとクリエイティブ・エージェンシー「住みます専務」の谷 良一 専務取締役が松山市長を表敬訪問します

2014年(平成26年)大阪文学学校・小説クラスに入学、小説家修業の勉強を始める(2023年現在まで一度も休学せずに通学中、文校学生委員会委員長を務める)谷良一・文校学生委員長の小説とコラムが、『お笑いファン』vol.2(鹿砦社)に載ってます。

自身のブログでは2015年、M-1グランプリ復活後についてもふれている。

2016年(平成28年)吉本興業ホールディングス取締役就任。

2020年(令和2年)吉本興業ホールディングス取締役退任後、奈良県あやめ池美術研究所で絵の修業を始めるかたわら、奈良市の公益社団法人ソーシャル・サイエンス・ラボで奈良の観光客誘致に携わる。

2023年(令和5年)7月31日、谷河良一名義で雑誌に小説『湖上の月』を寄稿。小説家デビュー。

2023年(令和5年)11月15日、東洋経済新報社から初めての著書『M-1はじめました。』を出版。漫才が廃れていた2000年初頭、1人の吉本社員・谷良一が立ち上がりM-1グランプリを立ち上げるまでの泥臭いドラマを描いた成功物語。芸能界を引退した島田紳助が帯に言葉を寄せたことでも話題となった島田紳助16年ぶりの告白「M-1作った本当の人物」今初めて明かされる、M-1グランプリ誕生秘話。発売前から注目を浴びて重版が決定したM-1グランプリをつくった元吉本社員、その裏側をすべて明かす!『M-1はじめました。』発売前から大注目、発売前重版決定。

現在、小説家として活動。地元の奈良で趣味の油絵などを嗜みつつ悠々自適な暮らしを送る。

人物

  • 子供の頃から漫才が好きな少年だった。父に連れられて京都花月に通った。「夢路いとし・喜味こいし」「横山やすし・西川きよし」「オール阪神・巨人」のような正統派といわれる“しゃべくり漫才”を好む著書『M-1はじめました。』60頁。
  • 京都大学を出て吉本興業に就職することを家族に話すと反対された。唯一、父は「一部上場だから」という理由で納得した。銀行員の叔父は「無借金の健全経営企業」だと擁護してくれた著書『M-1はじめました。』62頁。

M-1グランプリ功績・逸話

  • 「M-1」の名付けの親。島田紳助が「今までにあったようなもんやない。漫才のガチンコ勝負!K-1のようなガチンコの大会」と言うや否や谷が大会名を紳助に提案した著書『M-1はじめました。』67頁。
  • 大会ルールの大元は10年前に担当したテレビ番組「よしもとカラオケ選手権」。決勝の前に厳密に予選を積み重ねて戦う高校野球的な演出著書『M-1はじめました。』69頁。
  • 「M-1グランプリ」立ち上げ時の肩書きは“オートバックスM-1グランプリ2001事務局事務局長(吉本興業漫才プロジェクトリーダー)”著書『M-1はじめました。』134頁。番組エンディングロールには『<企画>島田紳助 谷良一』と流れた著書『M-1はじめました。』248頁。
  • メインスポンサーのオートバックスの社長・住野公一を口説いた殺し文句は「漫才ブームは千日前まで来てます」だった著書『M-1はじめました。』249頁。
  • 敗者復活の制度を考えた。第2回から準決勝から決勝に進出するコンビを8組に減少し、敗者復活枠のシード1組を含めて9組が決勝で争うことになった。さらに寒風の外で一般公開で行う演出にこだわった。生放送の同日に行うことで安全が保障できないと全スタッフから反対に受け、谷は「全責任はオレが取る」と1人で押し切った著書『M-1はじめました。』266頁-270頁。
  • 「M-1グランプリ」の影響で前年の3倍NSC(吉本総合芸能学院)の入学者が増えた。東京校1,000人、大阪校1,000人、合わせて2,000人以上が押し寄せ、95%が漫才師を希望する騒ぎとなった著書『M-1はじめました。』277頁。
  • 2023年、書籍を出すに当たって芸能界を引退している島田紳助に連絡。紳助から「おれ一人がM-1を作ったみたいに言われているけど、ずっと気になっていた。俺の中ではM-1は谷と二人で作ったもんやという思いがずっとあって引っ掛かっていたんや」と祝いの言葉をもらった。更に本の帯を書いてもらう。『M-1は、私と谷と2人で作った宝物です ―― 島田紳助』著書『M-1はじめました。』289頁-293頁

著書

主な担当番組

テレビ

  • 『M-1グランプリ』(朝日放送)(2001年-2010年)
  • 『恋のから騒ぎ』(日本テレビ)
  • 『ナンバ壱番館』(朝日放送)
  • 『R-1ぐらんぷり』(フジテレビ)

出演

書籍

インターネット放送

関連項目

  • 滋賀県立彦根東高等学校出身の著名人
  • 京都大学出身の著名人
  • 滋賀県出身の著名人

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/11/02 19:57 UTC (変更履歴
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