トッパー・ヒードン : ウィキペディア(Wikipedia)

トッパー・ヒードン (Nicholas Bowen "Topper" Headon、1955年5月30日 - ) はイギリスのロック・ドラマー。パンク・ロックバンド ザ・クラッシュのメンバーとして知られる。

「トッパー」というあだ名はポール・シムノンの命名で、ヒードンに似た漫画のキャラクターに由来する。

ヒードンは1970年代後半から1980年代前半にかけての最高のパンク・ロック・ドラマーとされている。評論家グレッグ・プラト (Greg Prato) は「プロデューサーのサンディ・パールマンは、ヒードンの正確なタイミングやテクニックから彼を“人間ドラムマシーン”と評した」と書き記している。

キャリア初期

十代の頃からジャズドラマーとして地元のパブで活動し、後にクラッシュのオーディションを受けた際にも影響を受けたミュージシャンとしてビリー・コブハム、バディ・リッチなどジャズドラマーの名を挙げている。高校卒業後はアルバイトをしながらバンド活動をする生活が数年続いた。アメリカのR&Bグループテンプテーションズの前座をつとめたバンドにいたことがあるが、ヒードンはこれを「テンプテーションズにいた」と偽っていた。

クラッシュ

ロンドンSSがドラマーを募集していた際にミック・ジョーンズと知り合い、これがきっかけで後にジョーンズが結成したクラッシュに加入した。ヒードンに出会うまでに、クラッシュはアルバム『白い暴動』レコーディング時のドラマー、テリー・チャイムズ他何人ものドラマーを迎えた。職人肌のドラマーだったヒードンは、評価を得るまでの一時的のつもりでクラッシュに参加した。しかしヒードンはクラッシュのポテンシャルを引き出し、当初の計画を放棄した。彼は1978年のアルバム『動乱(獣を野に放て)』、1979年のUS版『白い暴動』中の数曲、同年の『ロンドン・コーリング』、1980年の『サンディニスタ!』と1982年の『コンバット・ロック』で演奏した。また、彼は『サンディニスタ!』の「イワンがG.I.ジョーに会う時」と『コンバット・ロック』の「ロック・ザ・カスバ」でリード・ボーカルを担当している。この両曲でヒードンはほとんどの作曲と、ドラム、ピアノ、ベースの演奏をこなしている。

クラッシュのボーカル、ジョー・ストラマーは、ヒードンのドラムはバンドの生命線だったと語っている。ヒードンは力強さ、スタミナを兼ね備え、伝統的ロックドラミングに加えファンクやレゲエ等においても有無を言わせぬプレイを見せた。

解雇とドラッグ中毒の日々

ヒードンのヘロイン中毒は彼とバンドの間の緊張を高めた。1981年末にはヘロイン所持容疑で逮捕され、東京·大阪公演を翌月に控えてバンドのメンバー全員が日本への入国許可を取り消されそうになる、という事態を招いた。コカインも常用しており、ライブの最中にもステージの照明が落とされた時を見計らって使用していた'I forgive you': The Clash's drummer Topper Headon makes peace with the man who sacked him。 これらは彼のドラミングに大きな影響を及ぼし、バンドは彼に「薬をやめるかバンドをやめるか」の最後通牒を突きつけた。ヒードンはドラッグをやめることが出来ず、コンバットロックツアーの始まった1982年5月10日にバンドを去った。バンドはヒードン脱退の本当の理由を隠し、疲労によるものと発表した。

ヒードン脱退後、クラッシュはツアーのため、オリジナルドラマーのテリー・チャイムズを再び雇った。

その後ヒードンはジョーンズのクラッシュ後のバンドビッグ・オーディオ・ダイナマイトのドラマーとして考えられたが、ヒードンがまだドラッグをやめていなかったため、実現しなかった。

ヒードンはその後、結果的にはほとんど注目されなかったソロアルバム『ウェーキング・アップ (Waking Up)』(1986年)と、「ドラミング・マン (Drumming Man)」、「DuKane Road」、自作の「ホープ・フォア・ドナ (Hope for Donna)」(この曲はマーキュリー・レコードのサンプラーアルバム『ビート・ランズ・ワイルド』(1986年)にも収録されている)を収録した12インチシングルのレコーディングに集中。このアルバムの後、ヒードンからヘロインの譲渡を受けた男性が中毒死する事件があり、1年3ヶ月の禁固刑に服した。

ヒードンは北ロンドンのプライオリー・サイキアトリック・ホスピタルで中毒と向き合いながら時間を過ごした。この病院はドラッグの中毒治療プログラムを持つ組織として世界的に知られる。また、ヘロイン用の注射針からC型肝炎に感染していたが、治療の結果ウイルスが排除され治癒した。

ドラッグ中毒後の活動

ヒードンはロキュメンタリー『ウェストウェイ・トゥ・ザ・ワールド』でインタビューを受けている。この映画で彼は率直に自身のドラッグ常用について詫び、自身が解雇されていなかったらバンドはもっと長く継続し、まだ一緒にいられたであろうと述べた。一方で「やり直すチャンスがあるなら、自分は後悔無しにまた同じことをやるだろう。俺はそういう奴だから」とも語っている。

クラッシュ解散後、彼の名前を聞くことは稀有になった。解散後に手掛けた仕事のひとつでニューヨークのバンド、ブッシュ・テトラス (Bush Tetras) のプロデュースを担当した。

大衆の目前から去ったものの、ギグは続けていた。ジョー・ストラマーの死を知ったのは、パブでのステージの終演後である。そこでヒードンは以下のように述べている。

ヒードンはクラッシュの旧メンバーが『ウェストウェイ・トゥ・ザ・ワールド』での再集結の後、ストラマーの死後に再結成を計画したことを嘆くコメントを残している。

ヒードンはストラマーのドキュメンタリー映画『ロンドン・コーリング/ザ・ライフ・オブ・ジョー・ストラマー』についてのインタビューを受け、ヘロイン中毒になった過程や自身がバンド解雇に至るまで、ストラマーがヒードンのガールフレンドと寝た為に精神的苦痛を受けたこと、ジョーンズが大麻無しのバスツアーを敬遠したことといった経緯があったと述べている。またヒードンはロック・ザ・カスバのビデオを見て「誰か(テリー・チャイムズのこと)が俺の場所で俺の曲をやっている」と語った。このことが彼をひどく落胆させ、さらにドラッグへ溺れさせるきっかけとなった。ヒードンのドラッグ中毒が、1年後のジョーンズの解雇、そして1986年のバンド解散の引き金となったとも云われている。

ドラミングスタイル

ドラマーとしては、ヒードンはしばしばシンプルなバスドラムとスネアのアップダウンビートを強調し、クローズ・ハイハットの装飾でアクセントをつけるという独特のスタイルを使った。このようなやり方は、「クランプダウン」、「トレイン・イン・ヴェイン」、「ロスト・イン・ザ・スーパーマーケット」で見られる。「トレイン・イン・ヴェイン」でのドラミングは、ロックの中で最も重要で独特なビートとして特色付けられる。

ディスコグラフィ

クラッシュでの曲についてはクラッシュのディスコグラフィ参照

ヒードンは1枚のスタジオアルバムと、1枚のEP、3枚のシングルをソロアーティストとして発表。また、忌野清志郎『RAZOR SHARP』 等、他のアーティストのアルバムにも参加している。 。

スタジオアルバム

タイトルレーベル備考
1986年ウェーキング・アップ (Waking Up)マーキュリー 826 779-1
1986年ビート・ランズ・ワイルド (Beat Runs Wild)マーキュリーマーキュリー・レコードのサンプラー。ヒードンの曲はB面5曲目の「ホープ・フォア・ドナ」

EP

タイトルレーベル備考
1985年リーヴ・イット・トゥ・ラック (Leave It To Luck) /イースト・ヴァーサス・ウェスト (East Versus West) /ゴット・トゥ・ゲット・アウト・オブ・ディス・ヒート S.O.S /カサブランカ

シングル

タイトルアルバムレーベル備考
1985年ドラミング・マン (Drumming Man) /ホープ・フォア・ドナ (Hope For Donna)ウェーキング・アップ7"
1985年ドラミング・マン /Ducaine Road (Special 12" Mix) /ホープ・フォア・ドナ /ドラミング・マン (7")ウェーキング・アップ12"
1985年リーヴ・イット・トゥ・ラック /カサブランカ (Casablanca)ウェーキング・アップ
1985年リーヴ・イット・トゥ・ラック(ダブルパック)ウェーキング・アップマーキュリー MERD 201
1986年アイル・ギヴ・ユー・エヴリシング (I'll Give You Everything) /ユーアー・ソー・チーキー (You're So Cheeky)ウェーキング・アップ
1986年アイル・ギヴ・ユー・エヴリシング(フル・ヴァージョン) /フェン・ユーアー・ダウン (When You're Down) /ゴット・トゥ・ゲット・アウト・オブ・ディス・ヒート(拡大ミックスヴァージョン)(CAN)ウェーキング・アップ
1986年アイル・ギヴ・ユー・エヴリシング(7" ヴァージョン) /アイル・ギヴ・ユー・エヴリシング(ダブ) /アイル・ギヴ・ユー・エヴリシング (Douce Ruj) /ユーアー・ソー・チーキーウェーキング・アップ12"

出典

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