近藤守 : ウィキペディア(Wikipedia)

近藤 守(こんどう まもる、1949年5月9日 - )は千葉県出身のプロゴルファー。

来歴

中央工学校卒業後の22歳からゴルフを始め、1975年にプロに転向近藤 守 コンドウ マモル MAMORU KONDO

1987年には茨城オープンで初優勝し 朝日新聞縮刷版p927 昭和63年5月23日朝刊19面「プロ14年目の近藤 ツアー初優勝 ペプシ宇部」、1988年にはハワイパールオープンで横井ジョウジ・泉川ピート・白石達哉と並んでの10位タイハワイパールオープンに入った。

1988年のペプシ宇部では初日に67をマークし、中村通・羽川豊・青木功と並んでの2位タイ朝日新聞縮刷版p786 昭和63年5月20日朝刊22面「杉田がトップ尾崎将出遅れ ペプシ宇部初日」でスタート。2日目には68とスコアを伸ばし、通算9アンダー135で陳志明(中華民国)と首位タイで並んだ朝日新聞縮刷版p894 昭和63年5月22日朝刊26面「陳と近藤、トップに ペプシ宇部」。最終日も他の選手のスコアが伸び悩む中で着々とスコアを伸ばしHistory 宇部72㏄の歴史、15番までに3バーディー、1ボギーで11アンダーの単独首位に立つ。16番でボギーを出し倉本昌弘に並ばれたものの、最終ホールでは7番アイアンで放った第2打をピン手前1mに着けると、先にホールアウトした倉本の見つめる前で会心のバーディーパットを沈める。プロ2勝目と14年目でのツアー初優勝を飾り、プロ14年間で稼いだ金額に相当する賞金900万円を獲得。

1994年6月には森静雄が主催する日本初のミニツアーに出場し、優勝賞金100万円、2位60万円をかけた試合で、当時研修生の樋口勝信と4アンダーで並び、プレーオフへと突入私がラウンドしたプロゴルファー 近藤守プロ。1番377ヤード、パー4のホールでは3Wでナイスショットし、2打目には5mにオン。近藤と樋口は共にいいパットがカップをかすめパーに終わり、2ホール目は4番558ヤードパー5のホールで12mにオンするが、近藤は外して2位に終わった。たった2ホールであったが、樋口はツアーでの優勝の実績があるプロとラウンドするのは初めてのことで、緊迫したプレーオフで近藤の迫力と凄まじい気合を目の当たりにし、近藤はその後会った時には「俺の天敵だ!」といつも言っていた。

1998年の宇部興産オープン近藤 守選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Siteを最後にレギュラーツアーから引退し、シニアに転向した1999年には日本シニアオープンで天野勝・井上久雄と並んでの5位タイ1999日本シニアオープンゴルフ選手権競技、2000年には1日大会のN.CUPシニアオープンで青木の2位N.CUPシニアオープンゴルフトーナメント、2001年にはオールドマンパーシニアで冨田三十士と並んでの8位タイオールドマンパーシニアに入る。

2010年の日本プロシニアを最後にシニアツアーから引退し、現在は平岡牧場サンバレーや勝浦東急ゴルフコースでレッスンを担当。

主な優勝

  • 1987年 - 茨城オープン
  • 1988年 - ペプシ宇部

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/08/10 09:30 UTC (変更履歴
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