武田秀雄 : ウィキペディア(Wikipedia)
武田 秀雄(たけだ ひでお、1863年1月5日(文久2年11月16日) - 1942年(昭和17年)2月16日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍機関中将。
履歴
文久2年(1863年)11月、土佐国香美郡野市村(現:野市町)に生まれる。土佐藩家老の武田秀友の長男。
大阪英語学校を経て、1878年(明治11年)8月、海軍兵学校機関科に入校。1883年(明治16年)10月、海軍機関学校(旧2)を卒業。1886年(明治19年)4月、海軍少機関士(少尉相当官)に任官した。
1890年(明治23年)7月から1894年(明治27年)6月までフランスに留学。帰国後、「厳島」乗組となり日清戦争に出征。次いで軍令部第2局付に異動し、1897年(明治30年)4月、海軍機関少監(少佐相当官)に昇進。1901年(明治34年)7月から翌年9月までフランスに駐在。1902年(明治35年)9月、海軍艦政本部出仕となり、海軍教育本部第2部長に転じ、1903年(明治36年)9月、海軍機関大監(大佐相当官)に進級。
1905年(明治38年)4月、臨時煉炭製造所長に就任し、煉炭製造所長、海軍火薬廠製造部長を歴任し、1909年(明治42年)12月、海軍機関少将に昇進。1910年(明治43年)12月、教育本部第3部長に発令され、1913年(大正2年)12月、海軍機関中将に進み機関学校長に就任。1914年(大正3年)4月に待命となり、同年6月、予備役編入となった。
その後、三菱合資会社顧問、同管掌、三菱造船会長、同理事、三菱内燃機製造会長、三菱電機会長を歴任した。その他、財団法人滝乃川学園理事をつとめ社会福祉事業にも関わった。墓所は青山霊園1-イ-4-1。
栄典
- 勲章等
- 1895年(明治28年)11月18日 - 明治二十七八年従軍記章『官報』第3830号・付録「辞令」1896年4月9日。
- 1905年(明治38年)5月30日 - 勲四等瑞宝章『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
- 1940年(昭和15年)11月10日 - 勲二等瑞宝章『官報』第4157号「叙任及辞令」1940年11月13日。
- 外国勲章佩用允許
- 1896年(明治29年)6月9日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章シュヴァリエ『官報』第3917号「辞令」1896年7月20日。
親族
- 父 : 武田秀友 明治9年5月14日卒 44歳
- 母 : 武田丑衛 大正11年6月12日卒 80歳
- 妻 : 武田貢子 大正8年1月12日卒 50歳
- 義兄(姉の夫): 武田秀山(陸軍少将、体操練習所(のちの日本体育大学)所長)
- 甥: 武田秀一(陸軍中将)
- 娘婿: 豊田貞次郎(海軍大将)
- 実孫、かつ養嗣子: 武田光雄(海軍大尉、豊田貞次郎の二男)
注釈
出典
参考文献
- 湯浅与三『武田秀雄伝』武田秀雄伝刊行会、1944年。
- 『高知県人名事典』高知市民図書館、1970年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/06/07 09:36 UTC (変更履歴)
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