花柳徳兵衛 : ウィキペディア(Wikipedia)

花柳 徳兵衛(はなやぎ とくべえ、1908年〈明治41年〉1月16日 - 1968年〈昭和43年〉5月24日)は、日本舞踊家。本名は寺崎 孝太郎(てらさき こうたろう)。

花柳流に属し、芸術祭文部大臣賞を4度受賞して日本舞踊の新たな境地を開拓した。後進の育成にも尽力し、徳兵衛日本舞踊学校を設立するなどして多くの弟子を育てた。徳兵衛舞踊団団長および、民族舞踊研究所所長を務めた。日本民謡協会常務理事、日本舞踊協会参与、日中友好協会理事、日中文化交流協会理事、日ソ親善協会常任理事。また、「東村山音頭」の振り付けを担当したことでも著名。

経歴

1908年(明治41年)、群馬県高崎市で生まれる。小学生のときに国鉄職員だった父を亡くす。

1917年(大正6年)に上京。1924年(大正13年)花柳徳之輔に入門した。1928年(昭和3年)に花柳徳兵衛を名乗り独立。1933年(昭和8年)第1回創作発表会を開催。

1937年(昭和12年)には、国際親善芸術使節の一員としてタイ王国で公演した。

戦時中は各地への慰問に追われた。戦争末期には画家の岩田専太郎の疎開先を頼って岩手県に移り、食糧に窮して岩田やその妹(湊明子)と一座を組んで、岩田の解説で花柳が踊る出し物(湊明子は衣装係)で村々を慰問して食糧を得た津村節子『銀座・老舗の女』文藝春秋〈文春文庫〉、1985年、p.230。

1954年(昭和29年)、「慟哭」で芸術祭文部大臣賞を受賞する。1956年(昭和31年)にはアジア連帯委員会の文化使節団に日本代表として参加、アジア各国を歴訪した。同年の文部省芸術祭では「鶴ふたたび」を上演。1957年(昭和32年)に「土に生きる」で2度目の芸術祭賞を受賞。カイロで開かれたアジア・アフリカ諸国民会議に日本文化界代表として出席した。1959年(昭和34年)には東京新聞社制定の舞踊芸術賞を受賞。「三つの世界」で3度目の芸術祭賞を受賞した。1960年(昭和35年)舞踊ペンクラブ舞踊よりペンクラブ賞を授与。

1962年(昭和37年)徳兵衛日本舞踊学校を設立し校長に就任。大阪府芸術祭奨励賞受賞。大阪松竹歌劇団の「春のおどり」「秋のおどり」の振り付けに対して大阪芸能記者会よりレインボー賞を贈られる。同年、「壇ノ浦」で4度目の芸術祭賞を受賞した。また「野の火」「田の神の暦」により舞踊ペンクラブ賞受賞。1963年(昭和38年)の文部省芸術祭では「宝蓮灯」で奨励賞受賞。

1964年(昭和39年)民族舞踊研究所を設立。同年国立文化財研究所の委嘱を受け麦屋節ほか3曲を採譜。翌年には石見神楽ほか2曲、翌々年には蓮華会舞ほか3曲を採譜。

1968年(昭和43年)、肝硬変による急性心不全で死去。没後従五位勲四等瑞宝章を贈られる。

著書

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