藤原弘達 : ウィキペディア(Wikipedia)

藤原 弘達(ふじわら ひろたつ、1921年〈大正10年〉7月31日 - 1999年〈平成11年〉3月3日)は、日本の政治学者、評論家。広島県尾道市生まれ。「ふじわら こうたつ」と呼ばれることが多い。

略歴

雑貨店の忠雄と美容師キクノの長男。5歳の時に父を腸チフスで亡くし、母は国鉄駅員と再婚。尾道市立筒湯小学校(現・尾道市立久保小学校)、福山誠之館中学を経て、第六高等学校に入学。同級生に星野直樹次男の星野良二。

1942年(昭和17年)東京大学法学部に入学。同級生に志垣民郎。高等学校の教師の伝手で法制局参事官の長村貞一の邸宅に下宿していた。1943年(昭和18年)12月末に学徒出陣に召集され、歩兵第11連隊補充隊(広島西部第2部隊)にて3か月間の普通教育を受けたのち、久留米第一予備士官学校に入学。入学間もなく肺炎を患い入院している。福知山中部教育連隊を経て昭和19年12月、見習士官となり広島西部第2部隊に復帰。このころ、仮卒業証書を受け取っている。

1945年(昭和20年)1月、門司港を出港、広東省仙頭に上陸。慶来にて新規編成の第130師団隷下独立第100大隊に配属され、機関銃隊小隊長。仏山にて陣地構築につとめ、またゲリラ化した村落襲撃で小規模な白兵戦を経験した。

敗戦目前の8月、香港の水上特別攻撃隊への転属を命ぜられ、わずか2,3日の訓練で実戦配備されるが終戦。独立第100大隊に復帰し、捕虜として拘留されたのち1946年3月、浦賀にて復員を完結させた。

復員後は尾道に帰郷していたが、外交官を志し再上京。中野の養蚕試験場寮に仮住まいしていた長村貞一を尋ねたところ、実業家への道を勧められ、長村の伝手で日綿実業に入社したが、GHQの貿易制限下でほとんど仕事を得られずにいた。そんな中、雑誌「世界」を読んで東京大学への復学を希望し、大学院で丸山眞男に師事衆議院会議録情報 第038回国会 法務委員会 第15号 昭和36年5月24日。なお、帰郷時に小学校の幼馴染の戦災未亡人と結婚していたが、これを機に破談している。

1949年3月に大学院修了後、6月、明治大学政経学部講師に就任。また、小松製作所会長・河合良成の姪と再婚。

1950年に政治学博士の学位を取得し、1955年には明治大学政経学部教授に就任。雑誌「思想」や「改造」への寄稿で頭角を現すようになり、1957年、大宅壮一が創設した「ノンフィクションクラブ」に参加する大隈秀夫「大宅壮一を読む」(時事通信社)プロローグ。

1962年(昭和37年)明治大学より政治学博士を取得。明治大学教授を務めたのち政治評論家となった。

人物

思想以前の人間成長

幼少期は悪童であったが、当時の社会の立身出世主義的な風潮が脱悪童のバネになったと語っている。子どもの頃は軍人を志したが、小学6年生のころに火薬で遊んで右手中指に障害が残り、また軍国主義への反発から中学生以降は文官への道を志し、広田弘毅に憧れて外交官を経て総理大臣になろうと思っていた。高校に進学したころから人格主義的な考えに傾倒するようになる。2年生になると軍部に無力な外交官への魅力が褪せ、右翼思想に傾倒しだした。

東京大学に対する見解

東京大学入学後、講義の席を我先に奪い合うような周囲の生徒の「立身出世主義の亡者」的な風潮に「おのれ自身の「半身」を見た気がして」次第に嫌気がさし、右翼思想の方がましだと平泉澄の朱光会に参加していた。講義にも興味を持てず、政治学の矢部貞治を「がっかりするような内容」、国際法の安井郁を「歯の浮くような話」と評している。唯一、反骨主義的な田中耕太郎の講義にだけは興味を示し、試験を受ける気がないにもかかわらず1年間受講した。

復員後間もなく東京大学を訪れた際、大学に赤旗が翻っている光景に「一種の絶望感を味わった」と記している。一方で、教授辞職後も講義を続ける平泉澄に軽蔑のまなざしを向けている。

出身である東京大学から寄付を求められていたが、医学部から始まった東大紛争が未だ存在しているとの根拠で拒否していた。 日本教育改造案では、東京大学を廃校にせよとの記述があり、学生運動に対する大学当局の姿勢を批判している。

テレビ界での活動

TBSの『時事放談』で細川隆元とホストを務めた他、同局のニュースショー『JNNニュースコープ』で金曜日と土曜日1965年(昭和40年)からスタートされた日曜版も含むのメインを務めた。また、企業のトップをゲストに招いてゴルフを交えた対談番組『藤原弘達のグリーン放談』(テレビ東京)の司会もしていた。

晩年は、フジテレビの『たけし・逸見の平成教育委員会』に放映開始時から数回出演。「たけし落とし」を最初に獲得した「生徒」であり、同番組の第1回の最優秀優等生でもある。

またラジオでは、TBSラジオで平日午前7時から放送されていた「サラリーマンニュースショー・朝のファンファーレ」のニュース・パーソナリティーを長く務め、番組冒頭では「おはよう!!サラリーマン諸君!!今朝のニュースパーソナリティーは藤原弘達です」と言うのが定番だった。

創価学会・公明党に対する批判

藤原弘達は1962年(昭和37年)から創価学会を非難する論評をしており『時』(1962年)4月号 参議院の目〃創価学会〃-第三勢力をねらうその実力と組織に(『 文藝春秋』昭和38年(1963年)7月号藤原弘達 『角栄、もういいかげんにせんかい』(講談社 1984年9月)藤原によると、その都度創価学会信者から激しい抗議の手紙が相次いだという。その一方で、創価学会系の出版社が発行している雑誌(『潮』)への寄稿、講演会への出席などを誘う懐柔策も採られていたという。その後、元学会会員だった植村左内、隈田洋(ペンネームは福島泰照)などが書いた創価学会批判の本が創価学会側の妨害に会い、出版できなかったと主張。藤原によると、彼をマスコミに出られなくし、教授としての地位を奪おうとするためと思われる中傷やいやがらせが、エスカレートするようになったと主張している。藤原は『新評』(新評社)紙上で「公明党七つの大罪」という論評を書いたが、これに対しても、掲載前から圧力があり、同雑誌の発売後も、広告代理店などに手を回して、圧力をかけてきたと主張。さらに、毎日新聞社記者・内藤国夫の公明党批判の本も各方面から圧力を受けたとし、創価学会・公明党の問題を指摘すること以上に、言論に対する圧力に対して人間の権利を確保するための闘いとしての認識が強まったというと後に主張している。懇意にしていた書店、出版社主から本の出版を断られたので、「日新報道」という小出版社を選んだと表明した。、1969年(昭和44年)8月、2か月後に創価学会と公明党の政教一致などを批判する『創価学会を斬る』を出版するという広告が出ると間もなく、公明党の中央幹部の藤原行正や『聖教新聞』主幹(当時)の秋谷栄之助などから出版の中止や、書き直しなどを要請された。藤原は2回目の1969年(昭和44年)9月14日の約1時間40分に及ぶ藤原行正・秋谷栄之助との会話を隠しマイクで録音した。同年直後に藤原のインタビューがマスコミによって報道された。藤原はこれを出版阻止を目的とした創価学会による言論弾圧の脅しであり、金銭授受による買収工作であったと表明した。

年明けの6か月後、テープの内容が誌上で公開された(『週刊朝日』、昭和45年3月20日号)(藤原行正 『池田大作の素顔』 講談社)。今度は公明党委員長(当時)の竹入義勝の依頼を受けた自民党幹事長(当時)の田中角栄から2度に渡り出版の中止や書き直しを求められたが、これも断り出版に踏み切った。

出版された該当著作の書き出しは「日本の極貧層は約五百万人である。創価学会の公称会員は一千万以上であるが実際には五百万人くらいであろう。両者は五百万人でありこの数は一致する。創価学会員全員が日本の極貧層とはいわないが、日本の底辺層の民衆である」という内容。

。。。。これに続きマスメディアや社会党、民社党、日本共産党の議員による国会の予算委員会で政府への追及が起こった。マスコミは後にこれを言論・出版の自由の侵害の問題(「言論出版妨害事件」)と呼んだ。

この件の数年後に起こった宗門との問題について、創価学会の会長(当時)であった池田大作が公式に「猛省」表明を行い、創価学会と公明党を制度的に分離することなどを約束した。声明の中には公明党の議員が創価学会の役職に就かないことが含まれており、これは即座に実行された。。藤原の1969年の著書『創価学会を斬る』および他の創価学会批判本にまつわる「言論出版妨害事件」についての世論の批判を受け、創価学会会長の池田大作が1970年に謝罪した島田裕巳『創価学会』 岩波書店、2004年6月20日。ISBN 4-10-610072-X。pp.95-96 固定資産税賦課徴収懈怠違法確認(住民訴訟)請求事件,損害賠償(住民訴訟)請求事件 東京地方裁判所 平成16年3月25日 。

1990年(平成2年)以降は主だった活動がなかったが、1994年(平成6年)に藤原は創価学会に反対する保守派の政治家、宗教団体などが設立した「四月会」に顧問として参加。。

1999年(平成11年)3月3日死去。

藤原の自宅に不特定多数の者から匿名で「おめでとうございます」などという藤原の死亡を祝う電報が届いたり電話が頻繁にかかっていたとの遺族の証言が『週刊新潮』2000年(平成12年)3月30日号に掲載された。

著作

単著

  • - 藤原弘達執筆。
  • - 発売:学習研究社。
  • - 発売:学習研究社。
  • - 発売:学習研究社。
  • - 発売:学習研究社。
  • - 発売:学習研究社。
  • - 発売:学習研究社。
  • - 発売:学習研究社。
  • - 発売:学習研究社。
  • - 発売:学習研究社。
  • - 発売:学習研究社。
  • - 藤原弘達年譜:pp.396-419。

論文

  • - 明治大学政経論叢第23巻第3・4号(政経学部五十周年記念号)。

共著

  • - 現代日本の政治意識(藤原弘達)の続編。

編著

  • - 発売:学習研究社。
  • - 発売:学習研究社。
  • - 発売:学習研究社。
  • - 発売:学習研究社。
  • - 発売:学習研究社。
  • - 発売:学習研究社。
  • - 発売:学習研究社。
  • - 発売:学習研究社。
  • - 発売:学習研究社。
  • - 発売:学習研究社。

翻訳

  • - 英語書名:Tanaka Kakuei: godfather of Japan、英文併記。

その他

  • 1968年頃から、ある不動産会社の原野販売の広告(『週刊サンケイ』(昭和43年10月28日号)『週刊読売』(昭和44年1月3日号))に藤原の推薦文が掲載されるようになった。この原野販売はいわゆる原野商法であり、藤原は断りもなく広告に文章を使われたとして不動産業者に抗議をしたが、既に雲隠れ状態となっていた。代わりに藤原の事務所には、北海道大滝村の原野を買わされた被害者からの抗議の電話がかかり続けた原始林売りつけ暴利 PR文を藤原弘達氏『朝日新聞』1970年(昭和45年)10月23日夕刊 3版 11面。

注釈

関連文献

関連項目

  • 池田大作
  • 言論出版妨害事件
  • 田中角栄
  • デヴィ夫人
  • 中曽根康弘
  • 藤原弘達のグリーン放談
  • 吉田茂
  • 高嶋秀武:明大時代の教え子
  • 本田維憲:明大時代の教え子

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2025/03/05 03:08 UTC (変更履歴
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