中村敏行 : ウィキペディア(Wikipedia)

中村 敏行(なかむら としゆき、1936年7月22日 - 1979年12月7日)は、兵庫県出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。

来歴・人物

赤穂高校では遊撃手として活躍。1953年秋季近畿大会県予選準々決勝に進むが、喜吉文雄(大映スターズ)を打線の中軸とする滝川高に9回サヨナラ負け。翌1954年夏の甲子園県予選では決勝に進むが、またもや滝川高に完封負けを喫し甲子園出場を逸する。

1955年に大洋ホエールズへ当初は投手として入団。当時の選手名鑑では速球、カーブが武器の投手と書かれていた。1年目から一軍に上がり、三塁手として6試合に先発。翌1956年は、6月から手塚耀朗に代わり三塁手の定位置を獲得。主にチャンスメーカーとして63試合に先発出場を果たし、打率.251を記録した。1957年はベテランの児玉利一が移籍入団、その控えに回るがシーズン後半には二塁手も兼ねて活躍した。1958年は児玉が一塁手に回り、二塁手、三塁手として81試合に先発、自己最高の9本塁打を放つ。1959年には新入団の桑田武が三塁手に定着したため二塁手に専念。1960年は開幕から芝野忠男と併用されるが、5月には近藤昭仁にポジションを奪われ出場機会が減少。1961年は一軍での出番はなく、同年限りで引退。

詳細情報

年度別打撃成績

大洋2838361520070000010192.139.184.194.379
802662431561911751233721103460.251.292.309.600
6813612111232202991251900306.190.246.240.486
903172802459102910023341212410693.211.273.357.630
8929227522511405801443301202482.185.225.291.516
3461571710081012020081.123.153.140.293
通算:6年389111010127420638515299591113294591621014.204.252.295.547

背番号

  • 48 (1955年)
  • 43 (1956年 - 1958年)
  • 25 (1959年 - 1961年)

関連項目

  • 兵庫県出身の人物一覧
  • 横浜DeNAベイスターズの選手一覧

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/05/19 15:18 UTC (変更履歴
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