藤井浩明 : ウィキペディア(Wikipedia)
藤井 浩明(ふじい ひろあき、1927年(昭和2年)8月7日『現代物故者事典2012~2014』(日外アソシエーツ、2015年)p.500 - 2014年(平成26年)6月21日)は、日本の映画プロデューサー。日本映画プロデューサー協会会員藤井浩明「原作から主演・監督まで――プロデューサー藤井浩明氏を囲んで(聞き手:松本徹・佐藤秀明・井上隆史・山中剛史)」()。「映画製作の現場から」としてに所収。旧姓は、清水。
約20年間大映で企画を担当し、倒産に伴う退社後は独立プロダクション「行動社」を設立。通算、約200本近い映画の企画・製作に携わり、映画監督の市川崑や増村保造らと組んで多くの作品を生み、市川雷蔵の主演映画や、作家の三島由紀夫の小説の映画化にも尽力した「第六章 原作映画の世界 『炎上』――藤井浩明と三島文学の映画化」()。
来歴・人物
1927年(昭和2年)、岡山県で誕生巻末。戦時中の1944年(昭和19年)春に岡山県の笠岡から北海道に渡り、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に入学し寮生活となったが、篠路村への援農や、幌加内村、一已村での学徒勤労動員の日々を送った。浩明は同宿の友人と文学・音楽・映画の話題に熱中し、休日には深川の映画館で、大映の『無法松の一生』を観に行き感動を覚えた。
その後、群馬県新田郡太田町の中島飛行機小泉製作所に勤労動員となった浩明は、帝大法学部から動員された学生らの中に(すぐ近くの工場寮にいた)、『花ざかりの森』の作者の三島由紀夫がいるという噂を聞いた藤井浩明「私の勲章」(月報)藤井浩明「映画『憂国』の歩んだ道」(ブックレットpp.5-13)。浩明自身も書店で見た『花ざかりの森』を知っており、すがすがしいタイトルだと思っていた。終戦後、早稲田大学文学部英文学科に入学した浩明は、講談社の講堂に三島由紀夫が出席する文芸講演会を聴きに行った。浩明は三島の短編『煙草』などを愛読してファンになっていた。
1951年(昭和26年)に早稲田大学を卒業した浩明は、映画会社の大映に入社し、東京撮影所の企画部に配属となった。後から入社した中島源太郎は、浩明の部下となった。源太郎の父は、浩明が勤労動員されていた中島飛行機の創始者中島知久平という奇遇だった。
中島源太郎が愛読し、面白いですよと報告したことで企画を通した『永すぎた春』(1957年封切)の映画化をきっかけに、原作者の三島と親交を持つようになった藤井浩明は、その後も三島原作の『炎上』(1958年封切)、『お嬢さん』(1961年封切)、『剣』(1964年封切)、『獣の戯れ』(1964年封切)、『複雑な彼』(1966年封切)や、三島が俳優デビューした主演作『からっ風野郎』(1960年封切)を企画した「第十章 映画『からっ風野郎』と俳優宣言」()。
公私ともに三島と親しくなった藤井は、三島の自主製作映画『憂国』(1966年封切)を共に製作し、俳優出演した『人斬り』(1969年封切)でマネージャー的に三島を補佐した。『炎上』で仕事を共にした映画監督の市川崑とも『鍵』(1959年封切)、『破戒』(1962年封切)など文芸路線の映画を多く製作し、市川雷蔵とも親交を深め、雷蔵発案の『剣』(1964年封切)の企画を共にした藤井浩明「あとがき」()。藤井は、大映で助監督から監督へと活躍した増村保造とも組み、多くの映画を企画製作し、1968年(昭和43年)には企画部長、1971年(昭和46年)に取締役企画本部長を歴任した。
1971年(昭和46年)の大映の倒産に伴う退社後は、増村保造と、脚本家の白坂依志夫と共に独立プロダクション「行動社」を設立し『大地の子守歌』(1976年封切)『曽根崎心中』(1978年封切)などを手がけた。また、三島が死んだ1970年(昭和45年)以後も、三島原作の映画『音楽』(1972年封切)、『鹿鳴館』(1986年封切)、『春の雪』(2005年封切)の企画をした。三島が自死する数日前、藤井宅に「いくら遅くてもかけてくれ」と三島からの電話の伝言があり、夜中に映画『憂国』のことを話したのが最後の会話となった。藤井は三島の葬儀で弔辞を読み、その後も遺族と交流した。
2005年(平成17年)8月、かつて三島と共に製作した映画『憂国』の、現存しないと噂されていたネガフィルムが三島の自宅にて発見されていたことが報道された山中剛史「三島映画略説――雑誌、新聞記事から」()。これは、三島の死の翌年の1971年(昭和46年)に三島夫人の要請により上映用フィルムは焼却処分されたものの、「ネガフィルムだけはどうか残しておいてほしい」という藤井の要望を夫人が密かに聞き入れていて保存されていたものであった。
この『憂国』のネガや資料は既に、夫人が死去した1995年(平成7年)の数年後に三島の息子の平岡威一郎と藤井が一緒に家中を探し、三島邸の倉庫で発見していたもので、2006年(平成18年)にDVD化の運びとなった。藤井は三島が生前、暇が出来たらポルトガルの鄙びた漁村を舞台に映画を作ろうと藤井に話していたことを、2000年(平成12年)の三島没後30年祭の遺影の前で思い出し、その実現も考えていた。
しかし、その思いは叶うことなく、2014年(平成26年)6月21日の午後0時10分、心不全のため東京都内の病院で死去、86歳没。喪主は長男の慶太が務めた。
主な企画・製作作品
出典はallcinema「藤井浩明プロフィール」日本映画データベース「藤井浩明」
〇印は大映東京撮影所、●印は京都撮影所の製作。大映時代のクレジットは、特記以外はすべて「企画」。
出演作品
- ジョセフ・ロージー 四つの名を持つ男(1998年6月、秀作工房)
監修著書
- 文庫版は2014年7月(上) ISBN 978-4898302781、12月(下) ISBN 978-4898302859
注釈
出典
参考文献
- ハードカバー原版(飛鳥新社)は1995年10月、ISBN 978-4870312340
- 文庫版は2014年7月(上) ISBN 978-4898302781、12月(下) ISBN 978-4898302859
関連項目
外部リンク
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/07/02 16:42 UTC (変更履歴)
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