アンディ・ホワイト : ウィキペディア(Wikipedia)
アンドリュー・"アンディ"・ホワイト(Andrew "Andy" White、1930年7月27日 - 2015年11月9日)は、スコットランド人のドラマーで、おもにセッション・ミュージシャンとして活動した。ホワイトは敬愛を込めて「5人目のビートルズ」と呼ばれることがあるが、これはビートルズの最初のシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」で、リンゴ・スターに代わってドラムスを演奏したことで、最もよく知られているためである。アメリカ合衆国で発売された7インチ・シングルや、イギリスにおけるデビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』では、ホワイトが演奏したバージョンが採用されている。また、シングル「ラヴ・ミー・ドゥ」のB面曲「P.S.アイ・ラヴ・ユー」でも、ホワイトがドラムスを担当している。
ホワイトは、イギリスでもアメリカ合衆国でも、チャック・ベリー、ビリー・フューリー、ハーマンズ・ハーミッツ、トム・ジョーンズなど、様々な有名ミュージシャンたちやグループと共演した。AllMusic は、ホワイトについて「1950年代末から1970年代半ばにかけて、イングランドで最も忙しかったドラマーのひとり」と述べている。
生い立ちと初期のキャリア
アンディ・ホワイトは、1930年7月27日にスコットランドのグラスゴーで生まれた。12歳の時にでドラムを始め、17歳の時にはプロのセッション・ミュージシャンとなった。1950年代から1960年代はじめにかけて、ホワイトは数多くのスウィングやのグループやミュージシャンたちと共演した。1958年、ホワイトはビッグバンドを編成し、アメリカ合衆国北東部で活動したが、この時、チャック・ベリー、プラターズ、など、ロックンロールのバックを務める機会をもった。ホワイトの言によれば「我々は、ビッグバンド用の編曲を使って、それにバックビートを加えて、ロックンロール曲に合うようにした。ロックンロールを肉体で聴く機会をもったわけだ。このとき私は、ドラムにおいてこれから何が起ころうとしているのか、ひらめいたんだ。1960年、ホワイトはロンドンで、ビリー・フューリーの最初のアルバム『The Sound of Fury』の録音に参加したが、このアルバムは一般的に、イギリス最初のロックンロールのアルバムと見なされている。
1960年代はじめ、ホワイトはに住み、イギリス・デッカのアーティストだったと結婚していたが、彼女は後にや、さらに、『ビルボード』誌のチャートに5週入って最高39位まで上昇した、ビートルズ関係のノベルティ・ソングとしては最大のヒット曲「We Love You Beatles」を歌ったのメンバーとなった。
ビートルズ
1962年9月、ホワイトはからの電話を受け、ロンドンのアビー・ロードにあるEMIのアビー・ロード・スタジオで行われるビートルズのレコーディング・セッションに参加してほしいと依頼された。当時リチャーズは、レコード・プロデューサーであるジョージ・マーティンの助手をしており、過去にもホワイトを起用したことがあった。ビートルズは既に「ラヴ・ミー・ドゥ」を2回録音しており、1962年6月6日のEMIのオーディションでは、この時点でまだメンバーだったピート・ベストがドラムスを担当しており、9月4日にはその前の月にベストと交代したリンゴ・スターがドラムスを担当していた。マーティンは、ベストの演奏を良しとせず、新参のスターの演奏にも不満だった。1962年9月11日、その日の録音担当だったリチャーズは、サイドの録音を求め、ビートルズは「ラヴ・ミー・ドゥ」の3度目の録音に臨んだが、このときホワイトがスターに代わってドラムスを演奏し、スターはタンバリンを叩いた。このセッションでは「P.S.アイ・ラヴ・ユー」も録音され、ホワイトは「軽快なチャチャチャのビート (lightweight cha-cha-chá beat)」を叩き、スターはマラカスを演奏した。ホワイトによれば、このセッションの報酬は5ポンドで、ドラムセットを持ち込んだ経費として10シリング(1ポンドの半分に相当)が上乗せされたというが、レコードの売上に応じて支払われるロイヤルティーは何もなかったという。
スターがドラムスを演奏したバージョンの「ラヴ・ミー・ドゥ」は、1962年にイギリスでプレスされた初期のシングルに採用された。一方、ホワイトがドラムスを演奏したバージョンは、1964年にアメリカ合衆国で最初にプレスされたシングルに用いられ、その後のすべてのシングルや、ビートルズの1963年のデビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』、その後、この曲を収録したほとんどすべてのアルバムで用いられている。スターがドラムスを演奏しているバージョンも、幾度かリリースされており、1980年に北アメリカで発売されたコンピレーション・アルバム『レアリティーズ』や、1988年に全世界で発売されたコンピレーション・アルバム『パスト・マスターズ』にも収録されている。1992年には、スターとホワイトの両バージョンを収録したシングルがリリースされた。 ホワイトのバージョンにはスターが演奏するタンバリンの音が入っているので、両バージョンの聴き分けは容易である。ピート・ベストが演奏しているバージョンは、かつては失われたものと思われていたが。1995年の『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』で初めてリリースされた。ホワイトがドラムスを演奏した「P.S.アイ・ラヴ・ユー」は、 「ラヴ・ミー・ドゥ」のB面曲となり、アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』にも収録された。
英国放送協会 (BBC) による2012年のインタビューで、ホワイトは、9月11日のセッションでは楽曲「プリーズ・プリーズ・ミー」も吹き込み、このバージョンがヒットしたシングルに用いられたとも述べている。「ドラムのサウンドから、これを叩いているのは自分だと分かるよ、何しろ当時のリンゴのドラムセットとは、音色がかけ離れているからね。この時、彼はまだラディックのドラムセットを持っていなかったんだ。ドラマーはひとりひとり個性あるサウンドを持っているんだが、これはまず、個々のドラムのチューニングの仕方で違いが生まれ、さらに演奏の仕方でも違いが生まれるんだ。」
ホワイトがビートルズと共演したのは、この時だけであったが、それだけでも彼が「歴史書に入る」には十分だったし、いわゆる「5人目のビートルズ」と言われる一人となるだけの特別なことであった。ホワイトによれば、その日、スタジオの中で彼と一緒に演奏したビートルズのメンバーは、この曲のソングライターでもあったジョン・レノンとポール・マッカートニーだけだったという。「彼らは、楽譜を一切使わなかったので、レコーディングを始める前に、私はルーティーンを彼らと一緒に演奏して、彼らが何を望んでいるのかをつかむことが必要だった。」
その他のプロジェクト
その後、ホワイトは、ハーマンズ・ハーミッツの一連のヒット・レコードや、トム・ジョーンズのヒット曲「よくあることさ (It's Not Unusual)」、ルルの「シャウト (Shout)」で演奏した。このほか共演したミュージシャンやグループは多数にのぼり、その中には、ロッド・スチュワート、アンソニー・ニューリー、、グラスゴーのなどもあった。1960年代半ば、ホワイトはマレーネ・ディートリヒとともにアメリカ合衆国をツアーし、彼女のキャバレー・ショーで演奏したが、その音楽監督をしていたのは、当時まだ無名だったバート・バカラックであった。1965年から、引退する1975年までは、イギリス人のピアニストで作曲家のとともにツアーをした。
ホワイトは、2008年に再び「P.S.アイ・ラヴ・ユー」を演奏することとなったが、この時は、ニュージャージー州を拠点とするバンド、のバージョンに参加したのであった。その前年、2007年に、スミザリーンズは、ビートルズへのトリビュートとして、『ミート・ザ・ビートルズ』を丸ごとカバーしたアルバム『ミート・ザ・スミザリーンズ! (Meet the Smithereens!)』を録音していた。ビートルズの専門家であるトム・フランジョーネ (Tom Frangione) がホワイトをバンドに紹介し、バンドの面々はホワイトに、にある彼らのスタジオ「House of Vibes」で行う、次のビートルズ・トリビュート企画の録音への参加を依頼した。ホワイトは「P.S.アイ・ラヴ・ユー」のドラムスを演奏し、このバージョンは、ビートルズの1962年から1965年のシングルB面曲をカバーしたアルバム『B-Sides the Beatles』に収録されて、2008年の遅い時期にリリースされた。ホワイトは2008年5月にニュージャージー州ので開催されたヘルスケア関係の資金集めのチャリティ・イベント「We Get By with a Little Help From Our Friends」でも、スミザリーンズと共演してドラムスを演奏した。
1980年代後半、ホワイトはアメリカ合衆国に移住し、ニュージャージー州に定住して、スコットランドのパイプ・バンドのドラミングを教えるようになったRacioppi, Joseph. "Caldwell resident has big Beatles connection", The Progress, 17 September 2009. Accessed 31 January 2011.。また、ホワイトは、Eastern United States Pipe Band Association (EUSPBA) の審査員や、エメラルド・パイプ・バンド (Emerald Pipe Band) のドラム指導員なども務めた。ホワイトは、司書で、カートゥーン ネットワークの番組『おくびょうなカーレッジくん』でミュリエルの声優もしていると結婚生活を送った。ホワイトは、自分の車に貼っていたには「5THBEATLE」と記されていた。彼の話では、「生徒の一人がそいつをくれたんだ」という。
死
ホワイトは、2015年11月9日に発作を起こし、ニュージャージー州コールドウェルにおいて、85歳で死去した。
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