青山杉作 : ウィキペディア(Wikipedia)
青山 杉作(あおやま すぎさく、1889年7月22日 - 1956年12月26日)は、日本の俳優、演出家、映画監督である。本名は青山 達美(あおやま たつみ)上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 8頁。。
来歴・人物
新潟県北蒲原郡紫雲寺村KINENOTE「青山杉作」の項(紫雲寺町を経て、現在の新発田市米子)にある浄土真宗大谷派紫雲寺に、父・宣と母・綱の長男として生まれる『日本映画俳優全集・男優篇』pp.6-12。12歳下の弟に青山敏美青山敏美(1901年 - 1990年)は、東宝東和の元宣伝部長で、川喜多記念映画文化財団の職員でもあった。1986年(昭和61年)に山路ふみ子映画賞功労賞を受賞 がいる。旧制新発田中学校(現在の新潟県立新発田高等学校)を卒業した。
1909年(明治42年)、旧制早稲田大学哲学科に入学した。在学中から演劇活動に参加し、同大学創立記念祭の野外公演で、青山杉作を名乗り初舞台を踏む。しかし、僧籍を拒み演劇活動に熱中しすぎたため、実家から送金を絶たれてしまい佐藤忠男著『日本の映画人 日本映画の創造者たち』p.5、英文科に転じた後大学を中退する。
1914年(大正3年)、新劇女優の内田鞠子(のちの青山万里子)と結婚した青山万里子、『講談社 日本人名大辞典』、講談社、コトバンク、2010年1月6日閲覧。。この頃から村田実らの新劇団・とりで社の舞台に立つようになる。
1917年(大正6年)2月17日、村田、関口存男、木村修吉郎、近藤伊与吉らと踏路社を創立した。牛込芸術倶楽部で長与善郎原作の『画家とその弟子』を公演して旗揚げした。1918年(大正7年)4月、イプセン原作の『幽霊』にマンデルス牧師を演じ、好評を博した。また、1920年(大正9年)には友田恭助、水谷八重子らが結成した「わかもの座」でも演出を務めた。
同年、帰山教正の映画製作に村田、近藤らとともに参加し、同年製作(翌年公開)の『生の輝き』と翌年の『深山の乙女』に出演した。1919年(大正8年)に映画芸術協会を名乗り、『いくら強情でも』(1920年)では監督・脚本を務め、主演も果たした。1923年(大正12年)には伊藤大輔の脚本を得て帝国キネマで『山は語らず』主演は友田恭助で、山本嘉次郎が助監督を務めた を撮った。
1924年(大正13年)、築地小劇場の創立に参加し、劇場開場後に同人となる浅野時一郎著『私の築地小劇場』p.64開設時の同人は、土方与志、小山内薫、友田恭助、和田精、浅利鶴雄、汐見洋。始めは演技部に属し、第2回公演『狼』でチュリエ役等を演じた。同年10月の第12回公演『地平線の彼方へ』から演出部に加わり、『青い鳥』『令嬢ジュリー』(1925年)、『大寺学校』(1928年)等を演出した。その傍ら『役の行者』(1926年)などでは俳優として出演し、演技指導も行った。
1928年(昭和3年)、小劇場創立者の小山内薫が死去し、その影響で劇団が分裂した。土方与志、丸山定夫、山本安英、薄田研二らは脱退して新築地劇団を結成したが、青山は小劇場に残り、他の残留組らと劇団築地小劇場として活動を続けた。しかし、1930年(昭和5年)1月に脱退して、東山千栄子、汐見洋らと劇団新東京を創立(翌年劇団東京に改組)した。同時に松竹少女歌劇団の養成指導を10年間行い、水の江瀧子らを育てただけでなく、元野伊作の筆名で脚本も書き、70作もの作品を演出した。1942年(昭和17年)からは東京放送劇団で5期生までの演技指導を行った。
同年の藤原歌劇団公演グノー『ファウスト』から、オペラの演出も23回にわたり手掛けている。後に長門美保歌劇団に加え、1952年(昭和27年)の二期会旗揚げ公演プッチーニ『ラ・ボエーム』も青山の演出であった。オペラ演出は、療養中で死去前年の1955年(昭和30年)まで続いた。その中で助手に栗山昌良を起用し、のちの演出の第一人者に育てている。
1944年(昭和19年)2月、千田是也、小沢栄太郎、東野英治郎、東山らと俳優座を結成した。第1回作品『検察官』で千田と共同演出・共演し、以来演出・演技の両方に携わった。 1945年12月26日、戦後初の新劇公演(合同公演)では『桜の園』の演出を行った戦後初の新劇「桜の園」を公演(昭和20年12月26日毎日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p8 毎日コミュニケーションズ刊 1994年。 1949年(昭和24年)には俳優座養成所所長となり後輩の指導を行った。一方で、映画にも多く出演しており、黒澤明監督の『醜聞』や溝口健二監督の『雨月物語』(1953年)などに脇役で出演した。
1954年(昭和29年)、三島由紀夫作の舞台『若人よ蘇れ』の稽古中に倒れて療養していたが、1956年(昭和31年)12月26日午前5時半、心筋梗塞のため死去した『俳優座史,1984-1993』p.145。享年67。12月30日に俳優座劇場で劇団葬が営まれた。墓は青山霊園にある。
受賞歴
- 1951年:NHK放送文化賞
- 1951年:毎日演劇賞
- 1955年:紫綬褒章
出演映画
- 生の輝き(1919年、映画芸術協会) - 照子の父 役
- 深山の乙女(1919年、映画芸術協会) - 万里子の義父 役
- 幻影の女(1920年、映画芸術協会) - 長浜錠吉 役
- 白菊物語(1920年、映画芸術協会) - 結城定信 役
- さらば青春(1920年、映画芸術協会)
- いくら強情でも(1920年、映画芸術協会) ※兼監督・脚本
- 悲劇になる迄(1921年、映画芸術協会) - 辻村 役
- 別れ行く女(運命の船)(1923年、映画芸術協会) - 父 役
- 山語らず(1924年、帝国キネマ) ※監督作
- 阿片戦争(1943年、東宝) - チャールズ・エリオット 役
- 姿三四郎(1943年、東宝) - 飯沼恒民 役
- 秘話ノルマントン号事件 仮面の舞踏(1943年、松竹) - ヘンリー・マクドナルド 役
- 月の出の決闘(1947年、大映) - 大原幽学 役
- 女優須磨子の恋(1947年、松竹) - 土肥春曙 役
- 偉大なるX(1948年、松竹) - 神経病の博士 役
- お嬢さん乾杯(1949年、松竹) - 祖父 役
- 斬られの仙太(1949年、東宝) - 甚伍佐 役
- 深夜の告白(1949年、新東宝)
- 真昼の円舞曲(1949年、松竹) - 雨宮浩二郎 役
- 醜聞(1950年、松竹) - 片岡博士 役
- 長崎の鐘(1950年、松竹) - 鈴木神父 役
- われ幻の魚見たり(1950年、大映) - 治郎左衛門 役
- レ・ミゼラブル あゝ無情 第一部・第二部(1950年、東横) - 神保 役
- 七色の花(1950年、東横) - 父・由信 役
- 三つの結婚(1950年、松竹) - 寿美子の父 役
- 我が家は楽し(1951年、松竹) - 大宮画伯 役
- 風雲児(1951年、東映) - 青木院長 役
- 悲歌(1951年、映画芸術協会・東宝) - 亘理信直 役
- 風雪二十年(1951年、東映) - 神森博士 役
- 戦国無頼(1952年、東宝) - 浅井の老将 役
- 上海の女(1952年、東宝) - 李克明 役
- 慟哭(1952年、新東宝)
- 銭形平次捕物控 からくり屋敷(1953年、大映) - 阿部対馬守 役
- 妖精は花の匂いがする(1953年、大映) - 生田教授 役
- 韋駄天記者(1953年、東映) - 尾本博士 役
- 雨月物語(1953年、大映) - 老僧 役
- 青色革命(1953年、東宝) - 正岡総長 役
- 早稲田大学(1953年、東映) - 客渡辺 役
- 思春の泉 1953年 出演 ※新東宝・俳優座
- 第二の接吻(1954年、滝村プロ) - 川辺宗太郎 役
- 愛染かつら(1954年、大映) - 津村保樹 役
- 春琴物語(1954年、大映) - 春松検校 役
- 勲章(1954年、俳優座)
- 黒い潮(1954年、日活) - 水谷主幹 役
- 伊達騒動 母御殿(1954年、大映) - 伊達安芸 役
註
- 注釈
- 出典
外部リンク
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