ハンク・グリーンバーグ : ウィキペディア(Wikipedia)
ヘンリー・ベンジャミン・グリーンバーグ(Henry Benjamin Greenberg,1911年1月1日 - 1986年9月4日)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク出身の元プロ野球選手 (一塁手・左翼手)。ニックネームは「Hammerin' Hank」。
MLBにおける最初のユダヤ系スター選手として知られている。
、ジャッキー・ロビンソンが黒人初のメジャーリーガーとなり、多くの人種差別や嫌がらせを受けたが、グリーンバーグも多くの軋轢を経験した。
骨折や第二次世界大戦による従軍により、シーズン通じてプレイした(100試合以上に出場)のは9シーズンだけであるが、通算331本塁打・1276打点を記録している。そのため、現役離脱がなければ、500本塁打・1800打点以上は記録出来たとされる。
経歴
少年時代・メジャーリーグ入団まで (1911年 - 1930年)
ニューヨーク州ニューヨークのグリーンウィッチ・ビレッジにて、ルーマニアからの移民であるユダヤ人の父デービッドと母サラの間に誕生した。
兄弟が多い家庭で育ち、4歳年上の兄・ベン (Ben) 、5歳年下の弟・ジョー (Joe) 、2歳年上の姉・リリアン (Lillian) がいた。兄のベンと弟のジョーはハンクと同じく、野球をしていた。
ブロンクスに移住後、ジェームズ・モンロー高校とニューヨーク大学を経てHank Greenberg Statistics and History - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。、9月にフリーエージェント選手としてデトロイト・タイガースと契約を結んだHank Greenberg Statistics and History - Transactions - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。。
、マイナーリーグのラレー・キャピタルズ (英語:Raleigh Capitals) とハートフォード・セネターズ (英語:Hartford Senators) で計139試合に出場し、打率.303・27二塁打・16三塁打・21本塁打という打撃成績を記録、高い打力を発揮した。守備面では2チームで計138試合のファースト守備に就き、25失策・守備率.981という成績に終わり、拙守だった。当時、グリーンバーグは19歳であったHank Greenberg Minor League Statistics & History - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。。
デトロイト・タイガース時代 (1930年 - 1946年)
- 1930年
- 9月14日、地元での対ニューヨーク・ヤンキース戦にてメジャーデビューを果たした。同試合には途中出場して1打席に入ったが、ヒットは放てなかったSeptember 14, 1930 NYY vs DET - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。。同年メジャーで試合に出場したのは、この試合だけであった。
- -
- 1931年はマイナーでプレーし、メジャーでの試合出場はなかった。マイナーではエバンスビル・ハブズ (Evansville Hubs) とビューモント・エクスポーターズ (英語:Beaumont Exporters) で計129試合に出場し、打率.318・41二塁打・10三塁打・15本塁打という打撃成績を残した。なお、ビューモントでは3試合に出場しただけであり、安打は全てエバンスビルで放ったものである。守備では、126試合のファースト守備で25失策・守備率.982という成績を残し、前年からほぼ横這いの数字となった。
- 1932年はフルシーズン、ビューモントでプレーした。この年は154試合に出場し、マイナーでは初めて打率.300未満 (.290) に終わったが、自己記録を大きく更新する39本塁打を放った。守備も改善され、154試合でファーストを守って17失策・守備率.989という数字だった。
- 3年ぶりにメジャー復帰を果たした。この年からファーストのレギュラーに定着し、117試合に出場して打率.301・12本塁打・87打点・6盗塁という好成績をマークした。守備面では15失策を犯し、守備率.988だった。
- この年は153試合に出場し、大きく躍進するシーズンとなった。打率.339 (リーグ6位) ・26本塁打 (同7位) ・139打点 (同3位) という数字を記録し、打撃三部門でリーグベスト10に入る活躍ぶりだった。また、リーグ1位となる63本もの二塁打を放ち、これは1シーズンでの本数としてはメジャー歴代4位となる記録であるSingle-Season Leaders & Records for Doubles - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。。グリーンバーグの活躍は、タイガースの25年ぶりのワールド・シリーズ進出に大きく貢献したが、セントルイス・カージナルスに敗れてシリーズ制覇はならなかった。MVP投票では6位にランクインした1934 Awards Voting - AL MVP Voting - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。 (同年の受賞者はチームメイトのミッキー・コクレーン) 。
- 同年は9月10日がローシュ・ハシャナ (ユダヤ暦の新年) 、9月18日がヨム・キプル (ユダヤ暦の贖罪の日) であり、グリーンバーグは両日で試合を欠場する旨を発表した。しかし、この発表に対してファンの間からは「ローシュ・ハシャナは毎年やってくるが、タイガースは1909年以来ペナント・レースを制していないのだ」との不平が出た。このファンからの意見についてグリーンバーグは悩み、ラビ (ユダヤ教の指導者) とも相談の上で、ローシュ・ハシャナに行われる試合には出場することを決めた(ヨム・キプルは欠場した)Hank Greenberg Baseball Stats, facts, biography, images and video. - Biography - The Baseball Page.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。。同試合に「6番・ファースト」で出場したグリーンバーグはソロ・ホームランを2本放ち、チームはこの2点によりボストン・レッドソックスに勝利したSeptember 10, 1934 BOS vs DET - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。。
- この年はオール・スターまでに25本塁打・103打点を記録していたが、カクレーン監督はグリーンバーグをオール・スターのメンバーに加えなかった。これは、反ユダヤ運動に対する懸念があったためであるとされる。このような不遇にも直面したグリーンバーグだったが、最終的には152試合に出場し、打率.328・36本塁打・170打点・4盗塁・OPS1.039という好成績を記録し、本塁打王と打点王のタイトルを獲得した。また、MVPにも選出された。チームは2年連続でワールド・シリーズに進出し、シカゴ・カブスを破って初の世界一に輝いた。同シリーズでは第2戦でホームランを放ったが、同試合で手首を骨折した。
- 多くのタイトル獲得、ワールド・シリーズ制覇があった一方で、オール・スター不選出、手首の骨折など起伏に富んだシーズンを送った。
- 4月で12試合に出場し、打率.348・出場試合数を上回る16打点を記録ていたが、再び手首を骨折して残りのシーズンを棒に振ってしまった。
- 手首の骨折から復活し、初めてオール・スターの一員に選出された(試合出場はなし) 。この年は183打点を記録し、自身2度目となる打点王のタイトルを獲得したほか、打率と本塁打でもリーグベスト10入りした。守備面では154試合のファースト守備で13失策・守備率.992という成績を残した。シーズン180打点以上を達成しているのは1930年のハック・ウィルソン (191打点) と1931年のルー・ゲーリッグ (185打点) だけであるSingle-Season Leaders & Records For Runs Batted In - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。 (シーズン終了時点) 。打撃三部門の数字は、自身初のMVPに輝いた1935年より上だったが、この年はチャーリー・ゲーリンジャー(チームメイト) 、ジョー・ディマジオに次ぐ3位に終わったAwards Voting - AL MVP Voting - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。。
- この年は58本塁打を放ち、ベーブ・ルースが保持する60本塁打のシーズン記録(当時)にあと一歩のところまで迫った。また、この年は11試合でマルチ本塁打を記録しているが、これはメジャー記録 (にサミー・ソーサも達成) であるThe Ballplayers - Hank Greenberg - Biography - BaseballLibrary.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。 (2014年シーズン終了時点) 。58本塁打という記録は、1998年にマーク・マグワイアとソーサが破られるまで右打者のシーズン最多本塁打記録だった。MVP投票では、2年連続で3位に終わった1938 Awards Voting - AL MVP Voting - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。。
- なお、この年にグリーンバーグがルースの本塁打記録を超えられなかったのは、反ユダヤの感情を持つ投手が意図的に四球を与え、グリーンバーグに本塁打を打たせなかった(いわゆる敬遠)とする意見もある。事実、この年はリーグ最多の119四球を記録しており、グリーンバーグのキャリアを通じて最も四球率が高かったとするデータもある。
- 出場試合数が3年ぶりに150試合を下回り、それに伴って打撃成績も若干低下した。しかし、3年連続でオール・スターに選出され、初めて試合にも出場した。「5番・ファースト」で起用されたグリーンバーグは3打数1安打を記録し、四球を1つ選んだJuly 11, 1939 All-Star Game Play-By-Play and Box Score - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。。守備面では、100試合以上でファーストを守ったシーズンとしては自身初となる1ケタ台の9失策に留め、守備率.993を記録した。
- この年はルディ・ヨークに一塁のポジションを譲り、グリーンバーグはレフトにコンバートされた。4年連続でオール・スターの一員に選出され、試合には途中出場した。また、いずれも自身3度目となる本塁打王と打点王のタイトルを獲得し、1935年以来5年ぶりとなる打撃二冠に輝いた。さらに自身2度目となるMVPにも選出されたが、前回選出された際は一塁手だったため、MLB史上初めて異なるポジションでMVPに選ばれた選手となった。チームはワールド・シリーズまで駒を進めたが、シンシナティ・レッズに敗れ、世界一はならなかった。
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- この年は4月半ばから5月上旬にかけて19試合に出場したが、ナチス・ドイツに対する強い反感がグリーンバーグを駆り立て、メジャーリーガーとしては初めて第二次世界大戦に従軍することになった。その後、28歳以上の人物を採用しない国の方針により一時軍を外れたが、真珠湾攻撃が発生したことにより再度従軍した。以後、1945年に終戦するまでアメリカ陸軍航空軍 (US Army Air Forces、現在のアメリカ空軍) の一員として戦争に参加した。
- 終戦後、タイガースに復帰したグリーンバーグは78試合に出場し、打率.311・OPS0.948を記録、従軍前と変わらぬ打棒を発揮した。シーズン最終戦ではグランドスラムを放ち、チームのリーグ優勝に貢献。また守備面でも72試合でレフトを守り、ファーストを守っていた時代も含め、初めて無失策と安定した守備を発揮した。ワールド・シリーズでは2本塁打を放ち、チーム史上2度目のシリーズ制覇の原動力となった。
- この年、ファーストに再コンバートされると本塁打王と打点王のタイトルを獲得し、自身3度目となる打撃二冠(いずれも本塁打と打点)を達成した。しかし、打率は.300に届かなかった。また守備面でも、失策が15まで激増して守備率.989という成績だった。
ピッツバーグ・パイレーツ時代・引退まで(1947年)
- タイガースは年俸の減額を提示するが、グリーンバーグはこれを受け入れなかったため、交渉が決裂した。これを機にグリーンバーグは引退を考えるようになり、他方でタイガースは1月18日に彼をピッツバーグ・パイレーツにトレードした。パイレーツは、グリーンバーグに引退を思い止まらせるべくナ・リーグ史上初となる10万ドルの年俸を提示し、フォーブス・フィールド (当時のパイレーツの本拠地) のレフトスタンド側にブルペンを建設して、レフトスタンドまでの距離を短縮する改修を行った。このレフトスタンドは「グリーンバーグ・ガーデン (Greenberg Garden) 」と名付けられた。また、当時パイレーツの共同オーナーであった歌手のビング・クロスビーは、コメディアンのグローチョ・マルクスと共にグリーンバーグを歓迎する「Goodbye, Mr. Ball, Goodbye」という曲を製作した。
- 同年パイレーツでは125試合に出場して25本塁打を放ち、リーグ最多の四球を記録したが、一方で打率.249に終わり往年の強打は発揮されなかった。しかし、グリーンバーグの存在は当時メジャー2年目のシーズンを迎えたラルフ・カイナーに多大な影響を与え、カイナーにとっての良き指導者となった。カイナーについて、グリーンバーグは以下のようなコメントを残している。
- "Ralph had a natural home run swing. All he needed was somebody to teach him of the value of hard work and self-discipline. Early in the morning on off-days, every chance we got, we worked on hitting."
- 「ラルフは、天性のホームラン・ヒッターだ。彼が必要としていたのは、懸命にプレーすることと自己鍛錬の重要性を説ける誰かである。オフの日は朝早くから、チャンスさえあれば、我々は打撃練習に取り組んだ。」 (和訳)
- 9月29日、パイレーツは契約を解除し、この年限りで現役を引退した。
引退後(1948年 - 1986年)
、当時クリーブランド・インディアンスのオーナーであったビル・ベークから、チームのファーム・ディレクターとして雇われた。。その後、1950年にはファーム組織のゼネラル・マネージャーに就任し、チームの再建及びのリーグ制覇に大きく貢献した。
その後、シカゴ・ホワイトソックスの共同オーナー及びバイス・プレジデントに就任した。ホワイトソックスのフロント在籍中の、BBWAAの殿堂入り投票にて193票中164票の賛成票を獲得し、得票率約85 %でアメリカ野球殿堂に選出された。9年目の挑戦での選出であった。、ホワイトソックスはリーグ制覇を果たし、インディアンス時代に続いてチームの躍進に貢献した。
1963年、インベストメント・バンカー (Investment banker:証券引受業者) に転身し、野球界から完全に身を引いた。
1970年に勃発したカート・フラッド事件では、ジャッキー・ロビンソンやビル・ベックらと共に選手側の証人として法廷に立ち、カート・フラッドを擁護する立場を取った。
引退後も健康体で過ごしていたグリーンバーグだったが、1980年代に入って癌が進行した。1983年、現役時代の大半を過ごしたタイガースで在籍時の背番号『5』が、かつてのチームメイトだったチャーリー・ゲーリンジャーの『2』とともに永久欠番に指定された。
その3年後の1986年9月4日、カリフォルニア州ビバリーヒルズで逝去。75歳だった。グリーンバーグの墓は、カリフォルニア州ロサンゼルスにあるヒルサイド・メモリアル・パーク (Hillside Memorial Park) に建てられている。
ジョー・ディマジオは、グリーンバーグについて以下のコメントを残し、彼の打棒を高く評価していた。
- "He was one of the truly great hitters, and when I first saw him bat, he made my eyes pop out."
- 「彼は間違いなく、真に偉大な打者の1人だった。私が彼の打撃を初めて見た時、目玉が飛び出すような思いだったよ。」 (和訳)
詳細情報
年度別打撃成績 (メジャー)
DET | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | -- | 0 | 0 | -- | .000 | .000 | .000 | .000 | |
117 | 499 | 449 | 59 | 135 | 33 | 3 | 12 | 210 | 87 | 6 | 2 | 2 | -- | 46 | -- | 1 | 78 | -- | .301 | .367 | .468 | .835 | ||
153 | 667 | 593 | 118 | 201 | 63 | 7 | 26 | 356 | 139 | 9 | 5 | 9 | -- | 63 | -- | 2 | 93 | -- | .339 | .404 | .600 | 1.005 | ||
152 | 710 | 619 | 121 | 203 | 46 | 16 | 36 | 389 | 170 | 4 | 3 | 4 | -- | 87 | -- | 0 | 91 | -- | .328 | .411 | .628 | 1.039 | ||
12 | 55 | 46 | 10 | 16 | 6 | 2 | 1 | 29 | 16 | 1 | 0 | 0 | -- | 9 | -- | 0 | 6 | -- | .348 | .455 | .630 | 1.085 | ||
154 | 701 | 594 | 137 | 200 | 49 | 14 | 40 | 397 | 183 | 8 | 3 | 2 | -- | 102 | -- | 3 | 101 | -- | .337 | .436 | .668 | 1.105 | ||
155 | 681 | 556 | 143 | 175 | 23 | 4 | 58 | 380 | 146 | 7 | 5 | 3 | -- | 119 | -- | 3 | 92 | -- | .315 | .438 | .683 | 1.122 | ||
138 | 604 | 500 | 112 | 156 | 42 | 7 | 33 | 311 | 112 | 8 | 3 | 11 | -- | 91 | -- | 2 | 95 | 8 | .312 | .420 | .622 | 1.042 | ||
148 | 670 | 573 | 129 | 195 | 50 | 8 | 41 | 384 | 150 | 6 | 3 | 3 | -- | 93 | -- | 1 | 75 | 15 | .340 | .433 | .670 | 1.103 | ||
19 | 83 | 67 | 12 | 18 | 5 | 1 | 2 | 31 | 12 | 1 | 0 | 0 | -- | 16 | -- | 0 | 12 | 1 | .269 | .410 | .463 | .872 | ||
78 | 312 | 270 | 47 | 84 | 20 | 2 | 13 | 147 | 60 | 3 | 1 | 0 | -- | 42 | -- | 0 | 40 | 9 | .311 | .404 | .544 | .948 | ||
142 | 604 | 523 | 91 | 145 | 29 | 5 | 44 | 316 | 127 | 5 | 1 | 1 | -- | 80 | -- | 0 | 88 | 17 | .277 | .373 | .604 | .977 | ||
PIT | 125 | 510 | 402 | 71 | 100 | 13 | 2 | 25 | 192 | 74 | 0 | -- | 0 | -- | 104 | -- | 4 | 73 | 16 | .249 | .408 | .478 | .885 | |
通算:13年 | 1394 | 6097 | 5193 | 1050 | 1628 | 379 | 71 | 331 | 3142 | 1276 | 58 | *26 | 35 | -- | 852 | -- | 16 | 844 | *66 | .313 | .412 | .605 | 1.017 |
---|
- 「--」は公式記録なし。
- 通算成績の「*数字」は、不明年度がある事を示す。
- 太字はリーグ1位。
- 1931 - 1932年、1942 - 1944年は試合出場なし。
年度別打撃成績 (マイナー)
Raleigh | 122 | - | 452 | - | 142 | 26 | 14 | 19 | 253 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | .314 | - | .560 | - | |
Hartford | 17 | - | 56 | - | 12 | 1 | 2 | 2 | 23 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | .214 | - | .411 | - | |
'30計 | 139 | - | 508 | - | 154 | 27 | 16 | 21 | 276 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | .303 | - | .543 | - | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
Evansville | 126 | - | 487 | - | 155 | 41 | 10 | 15 | 261 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | .318 | - | .536 | - | |
Beaumont | 3 | - | 2 | - | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | .000 | - | .000 | - | |
'31計 | 129 | - | 489 | - | 155 | 41 | 10 | 15 | 261 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | .317 | - | .534 | - | |
154 | - | 600 | - | 174 | 31 | 11 | 39 | 344 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | .290 | - | .573 | - | ||
通算:3年 | 422 | *1597 | 1597 | - | 483 | 99 | 37 | 75 | 881 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | .302 | *.302 | .552 | *.854 |
- 「-」は公式記録なし。
- 通算成績の「*数字」は、参考記録。
タイトル
- 本塁打王:4回 (1935年、1938年、1940年、1946年)
- 打点王:4回 (1935年、1937年、1940年、1946年)
表彰
- シーズンMVP:2回 (1935年、1940年)
- オールスター選出:4回 (1937 - 1940年)
- ワールド・チャンピオン:2回 (1935年、1945年)
- 1シーズンでのマルチ本塁打記録:11試合 (1938年)
※ 以上、いずれもア・リーグで記録。
- アメリカ野球殿堂入り (1956年)
背番号
- デトロイト・タイガース
- 7 (1933)
- 5 (1934 - 1946) - タイガースの永久欠番
- ピッツバーグ・パイレーツ
- 5 (1947)
※ 1930年は背番号なし。
出典
関連項目
- メジャーリーグベースボールの選手一覧
- ユダヤ系の野球選手一覧
外部リンク
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