あの名盤のジャケットは現場での発想から生まれた―― 写真家・鋤田正義氏の偉業に迫る
2018年5月18日 15:00
[映画.com ニュース]デビッド・ボウイをはじめ、イギー・ポップ、ジム・ジャームッシュ、寺山修司、YMOら時代の寵児たちのポートレートやアルバムジャケットを数多く手掛けてきた日本人写真家・鋤田正義氏の軌跡と、世界的アーティストが写真家の横顔を語る姿を映したドキュメンタリー「SUKITA 刻まれたアーティストたちの一瞬」が5月19日公開される。鋤田氏がジャケット写真を手掛けたレコードを多数所有し、「僕の原体験だった」と話す、現代美術家で写真家の松蔭浩之氏が、鋤田氏の偉業に迫った。
松蔭「'80年代、僕が中高校時代に、なけなしの小遣いで買ったレコードのほとんどが、気がつけば鋤田さんのお仕事でした。今回の映画でも、展覧会でも大きく取り上げられる、デビッド・ボウイの『HEROES』より僕は先に、一風堂のデビューアルバム『NORMAL』を見て、こういう仕事をしたいって思ったんです。アートディレクターや、カメラマンという仕事がわかってなかった時期に、どうやったらこのように人が撮れるんだろうと」
鋤田「土屋さんのジャケット『NORMAL』は、アイディアは白紙の状態で行って、現場で出てきた発想です。ホリゾント幕を切り抜いて、位置を調整したんです」
松蔭「鋤田さんのレコードジャケットや篠山紀信さんのグラビアを見て、どうやったらこういう仕事に就けるんだろうって夢想しまくってる中高生でした。その頃に父が使っていた一眼レフをもらって、当時のガールフレンドを撮り始めたのが僕のキャリアの始まり。鋤田さんはお母様から、二眼レフを買ってもらって、お母様を撮った。それが生涯の1カットかもしれないということを映画の中で述べられていて、うそ偽りない言葉だと思い、大変感銘を受けました。そして、既に鋤田さんのスタイルが出来上がっていますね」
鋤田「戦後、鋤田家は親父が戦死して、母親ひとりで4人の子どもを育てたので、あの写真の奥には、自分の全てがあります。日本の歴史を残すというフジフィルムの企画に参加し、一枚選べと言われて、初めてボウイと母親のどちらかを選択しなければなりませんでした。音楽雑誌のベスト100だったら、ボウイを出したとも思うんだけど、土門拳さんや木村伊兵衛さんら大先輩に混ざって載るので、戦後一番厳しい生活の中の、夏の盆踊りの華やかな日の母親を選んだのです。彼女はいつも『眠るより楽はなかりけり』『好きこそ物の上手なれ』っていつも言っていて、僕はこの二言で育ったんです。だから、この母親の作品が代表作の一枚ですね。自分のなかのドキュメンタリーみたいな感じです」
松蔭「この写真はお母様の横顔ですが、笠に隠れていてお母様がどういう顔だったかが、誰にもわからないですね。少しだけ出ている顎のラインがとても色気があります。高校生の母への憧憬だと思うのですが、やはり、エロスという概念がないにしても、美しいなと感じていらっしゃったんでしょうね」
鋤田「無意識のうちにそれはあったと思います。そこがいいところだと思うのです。いろいろと感じさせてくれたり、見る人が自分の母親を思い浮かべてもらっても良いと思うのです」
松蔭「きれいな画を作る、きちんとフレーミングして写真に切り取るという一番大事なことを、アマチュア時代からやられている。このお母様の写真がベスト1だったというのがこの映画のひとつの大きな導入だったと思います。あとは、ファッションブランド『JAZZ』の広告シリーズの、カラスの横顔の写真。モデルの顔が横顔で、何者かがわからないのは、お母様の写真との共通項があると思うのです。興味深い発見だと思いました」
鋤田「ボウイの撮影は仕事ではなく、自分から撮らせて欲しいといったのですが、彼はポートフォリオのこの『JAZZ』のシリーズを見て、撮影を許可したくらいに気に入ってくれたんです。シュールレアリズム的な写真。ちょうどその頃マグリットの展覧会が東京であって、自分のなかでちょっとその意識があったのでしょう」
松蔭「シュールと言う言葉が出ましたが、映画の中でマン・レイのTシャツを着てらっしゃいましたね」
鋤田「マン・レイの写真の創世記については学校で教わりましたが、後に、いいなと思ったのは、マン・レイは自分の狭い部屋のベッドのようなところでヌードを撮っていて、決してお金を掛けていると言う感じではないんです。まずは撮りたい気持ちのほうが先にあって。時代とか、当時パリという場所にそういう雰囲気があったのかもしれませんが、僕はアシスタントに『金がないから撮れないと思うな。スタジオがなかったら自分の家でいいし、モデルがいなかったら自分の女友達でもいい。マン・レイだってそうでしょ』と、よく言うんです」
松蔭「僕は美術学校で教えていますが、やはり、『道具やお金がないからできないと言うのでは、本物の芸術家であるとは言えない』と生徒に断言します。YMOの『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』の写真も、予算がある環境で撮られたとは思わないのですが」
鋤田「ちょうど、麻雀がはやっていた時代で、みんなで集まってよくやっていたんです。写真の台が麻雀にちょうどいいサイズだったので、自分の日常の中のアイディアから生まれて。本当にお金がかかっていないんです。困ったのは、YMOは3人だから、麻雀は4人でやるからマネキンを増やしましたが。衣装係は、高橋幸宏さんでしたが、靴と靴下が違うって後から嘆いていましたね(笑)。スタイリストもいない、そういう時代だったから、自分たちで足りないものを探して作っていた時代でした」
松蔭「そういう意味では本当にDIYというか、なにかお金をたくさん使って遊んだわけではなくて、本当に物を作る意識がある人たちが試行錯誤して作ったことを、最終的に写真家がしっかり切り取って成立した幸せな一枚だと思うんです。また、映画の中で、ボウイを最初に撮影したときに、被写体が変化していくことに対して、どう反応していくか、ポートレイトに対する考えを改めたとおっしゃられています。ある程度のキャリアを積んだ40歳手前くらいだったとのことですが」
鋤田「それまでは、自分の撮影スタイルはある程度こうだって、年齢やキャリアを積むにつれて思い込んでいました。それが、ボウイとのセッションでそれが完全に打ち破られました。向こうがどんどん動くのを捉えるだけでも大変で、そういう対応だけでも融通が利くようにしなければと初めて教わった。だから、自分のスタイルは持たないようにして、その時の空気や相手、その時に表現したいものをどう切り取るか。自分のなかでは、ライティングよりそちらに対応する方が大事だと感じています」
松蔭「順風満帆とはまた言葉が違うと思いますが、淡々とこれらの仕事を楽しんでやってらっしゃる様にお見受けします。健康管理や息抜きはどのようにされているのですか?」
鋤田「九州男児でありながら、酒がだめなんです。兄も甥も飲みますが、僕だけ飲めないんです。だから、すぐに家に直行して録画した映画を見たり、本はあまり読まないけど、仕事以外ではそういう時間を過ごしています」
松蔭「僕はどうしても飲んでしまって……(笑)。映画の中で、ご自身のことをミーハーだとおっしゃっていましたけど、好奇心旺盛で、お酒やギャンブルなんかせず、本当に写真と仕事に集中できてらっしゃるんですね」
鋤田「僕らの青春時代は、テレビもなく、情報がほとんどなかったんです。情報を受けるだけで、天国に行くような心持で、山を越えて映画を見に行ったりしていましたね。それが割と苦にならないし、大学入学に失敗したということもプラスに働いています。大学に行っていたら、当時はみんな学生運動で闘っていたので、参加できなくてちょっと負い目がありました。横目で見ながら俺も何かやらなくちゃいけない、そういう気持ちが強かったです」
松蔭「僕は高度経済成長期を経て、こういう豊かなアレコレに育てられたんですが、鋤田さんの戦中戦後世代は、文化的なものに対して、山をひとつ越えてまで、自分で向かっていく。それがあるからこそ、デビッド・ボウイにも会いにいかれる。このお話は、いつの時代にも伝えていかなければならないと確信しました。また、この映画を見て、写真を撮るという人間にしかできないこと、記憶を記録しておくことを改めて考えさせられました」
鋤田「ええ、ボウイも時にこだわっていましたね。Time may change meってね。そのへんは写真と共通点があると思います」
「SUKITA 刻まれたアーティストたちの一瞬」は18年5月19日から東京・新宿武蔵野館、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国で公開。
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