大いなる不在のレビュー・感想・評価
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タイトルが秀逸
最初に感じたのは、あれほど愛していた人のことも認知症は忘れてしまうんだなぁと切ない気持ちになった。
この映画、父と息子の物語でもあり,男と女の物語でもあり、いろんな要素が盛り込まれて,でもちゃんとまとまりのある深い映画になっていた。ひとえに役者の力量だろう。森山未來,藤竜也,そして原日出子。この人たちの静かな演技は、言葉一つ一つが観てる側に丁寧に届けられて、深く刻まれる感覚だった。
インテリで偏屈で理屈やの男が、愛する人が去って行くその時に見せるしぐさ、深い愛情に涙が出た。そして、息子も自分を捨てて出て行った父親の生き様を知る中で,最後に施設の人にできるだけ長生きさせてあげてと静かに語る。実は深い愛情の持ち主なんだと知る。
登場人物はそれぞれにとっての大いなる不在を抱えて生きてきたんだなぁ。良い映画でした。
ただ、出てきてないが、対して好きでもないのに結婚して出産して捨てられるって、息子の母の女性にしたら最悪だなあと、正直ちょっと思った。
ちょっとわかりにくい…
静かな作品だけど、恐怖心が募る
ふぅ〜、深く重い思い
何とも感想を言葉にするのが難しいです。
藤竜也さんの演技に引き込まれながら、
陽二と卓と直美さんのそれぞれの関わり方を見守るように、
息を詰めるように集中し魅入ってしまいました。
夫婦の愛、親子の愛
直美さんにとっての陽二さん
卓さんにとっての陽二さん
認知症が発症する前と後の陽二さんで二人にとっては別人で...
でも、陽二さんは、本人にとっては、もう、ずっと陽二さんのままで、
周りの受け取り方で違う人なわけで…
自分が卓の立場だったら…
疎遠だった過去ではなく、
父と息子の距離が縮まるような感覚の今が重要で、やはり愛情が湧くだろう…
直美さんだったら…
わたしは、陽二さんが夜中錯乱し直美さんが日記を見せるシーンで、
陽二さんがハッと我に返るハッピーさを求めてしまっていたのだけれど、
全く別で、日記を投げつけるという展開に、
まじかっ!の衝撃で胸がチリチリしたそのシーンに、
おそらくそれが現実で、自分がなんて安直なんだろうと、
そして現実はなんて辛く悲しいのだろうと涙がこぼれてしまいました…
だから、直美さんが陽二さんの元を去ったのも責めることはできないし…
ただ、直美さんが、
陽二さんの最高のラブレターに書かれていた素晴らしい海となってしまったとしても、
それとも違う人生を送っていたとしても、
どちらにせよ幸せな気持ちでいて欲しいと願うしかなく…
あと、妹さんには性的な暴力ではなく、直美さんの荷物を持って行かせたくなくて、
階段から引きずり下ろしてしまったんだと、
これまた現実逃避かもしれない思いでおるのです…。
陽二さんの立場だったら…
どうしよう、誰かに迷惑掛けたくないし、
でも判らなくてなってしまったらどうしようもないし、
ただただ、怖くなってしまいました…
うーん、とにかく簡単に感想がまとまらず、深く深く心にのしかかる作品でした。
そして、藤竜也さん、森山未來さん、原日出子さんの演技に痺れました。
大いなる不在、そしてそこには必ず存在がある
認知症を患う父親、その父親の人生を紐解こうとする長年会っていなかった息子の葛藤を描くドラマ。
藤竜也が、認知の混乱、題名通りの大いなる不在、そして存在を演じ切っており、その卓越した演技が圧巻。また主役となる息子役の森山未來の演技も秀逸。それを真木よう子、原日出子などのバイプレイヤーうまく支えている。
認知症という病に関する、本人と家族の辛さを押し付けがましさなしに、空気感で伝える巧みな脚本と演出。現代社会における認知症をテーマとした映画として高い完成度。
認知症が他人事ではない時代、そのどうしようもない状況における家族の存在の大切さ、その難しさについて深く考えさせる作品。
役者たちの素晴らしい演技、それを巧みに演出した監督に拍手したくなる映画だった。
大いなる心の不在。
謎多しだがわりと面白かった
役者さんの演技が良いのとなんとなく引き込まれていくストーリーであるので観る価値あり。
謎が多い。
原日出子さんは生きてるの?
原日出子さんの息子さんは本当に入院費を請求に来たのか? それは本当にお父さんは拒んだのか?
最大の謎はお父さんは確信犯だったのか?
デカプリオのシャッターアイランドを彷彿とさせる。
玄関に虫除けスプレーがあり、余りにもリアリティがあって、映画はテレビドラマとは流石に違うなと思ってたら実際に監督の家だったんだ。
レストランでケーキ食べてて、何故食事でないのか疑問だったし、森山未來何これ?と言ったのって意味があるのか? ケーキだったらレストラン予約する必要無いし。。
単純に映画の予算の都合で食事無しなのか? 奇妙だった。
お父さんの普通に関するセリフ、大河ドラマに関するセリフが説得力あった。
認知症ってのがこういうものなのかなと勉強になった。
時系列とか年齢とか気になった。71歳というから40歳の時にラブレター書いたのかな? でも20年好きだったというから大学の時に知り合ったの? 奥さんの方が年上の設定?
最初の市の職員に対しての尖り方が森山未來が石丸伸二氏の選挙直後のメディア対応みたいだと思った。
そこにいない
そこにいない、それがすべて。
そこにある、それがすべて。
実際にどうかはわからないけど、認知症になってからの言動に、そのひとの中にわずかでも内在するものがデフォルメされたり歪になったりしてあらわれているのだとしたら、いろいろとつらいな、と思いながらみた。
あんな状態になっても(あんな状態だからか)ひとは身勝手に許されたいと願う傲慢さと滑稽さが、なんたか物悲しかった。
「できるだけ長生きさせてください」というのはやさしい寄り添いなのか、簡単には死なせない、楽にはさせないという小さな抵抗なのか、考えている。
鑑賞動機:藤竜也/森山未來5割、あらすじ4割、巡り合わせ1割
原日出子さんはやはり素敵な役者さんだということを、再認識した。今作ではお人好しすぎるくらいの役柄で、こういう人こそ幸せになってほしいと思うのだが…。
過去と現在を交互に描写しながら、この愚かな男に何が起こっていたのかが紐解かれていく。不可解なことも多くて、『ファーザー』みたいに画面に映っていることが必ずしも事実ではないのかも、と勘ぐったりしたが。必ずしも全てが説明されている訳ではなく、特に直美さんの気持ちは推し量るしかない部分がある。自分を認識してもらえなかった時のショックの大きさは、あの表情から推してしるべし。
随所に鏡が使われているのはやはり目についた。
はあ、でもあれだけ熱烈な愛の告白をした相手を、な・ん・で・いっときでも忘れてしまうのさ。愚かだ…。
私の心は私のものなんです。勝手に揺らさないでください。
見事な演技の応酬。雰囲気を作る間も、深みのあるセリフも、対峙する役者同志(藤竜也と森山未來だけでなくすべての)の空気感も、そしてその泰然たる存在も。
「存在」とは、肉体的、物質的な存在だけではなくて、精神的なものも含めてか。おそらく直美(原日出子)は、たとえ言葉がぞんざいであろうが傲慢であろうが、陽二の言動のなかに、かつて自分を愛してくれた彼の名残りがありさえすれば、支えていけたんだと思う。だけど陽二の「精神」のなかにもう自分が存在していないことに悲嘆した。だから大事にしていたノートも要らなくなった。バカバカしくなったんだろうな。ここが、後妻として熟年結婚した夫婦の限界なんだろう。それまでの自分の人生をなかば捨てるようにこの男と結婚したのに、まだ自分は元気で生きられる人生が残っているのに、その旦那は、こんな姿になってしまった。それだけでなく自分の存在さえも否定してくる。悪気はないのは分かっていても、糸がプツンと切れてしまう。彼とだけ繋がっていたたった一本の糸が。家族というものがあるにしても、もともと血のつながっていない関係だからもろい。いつまでたっても他人でしかない。現実でも僕は、そんな家族を間近で見ているのでよくわかる。ほんとうなら直美にとって、余生を送るために心の拠り所になるべき"我が幸せの証"であるノートを、放棄せざるを得ない心境とはいかばかりか。そんな彼女の現在を画面でどう映していたかが、「不在」の意味を一層深めているなあ。
ただ、気になったのはキャスティング。演技に難癖をつけるつもりはないけれど、どうしても年齢相応に思えない関係もあった。ちなみにあとで調べてみる(すべて現時点での実年齢)と、藤竜也84歳、原日出子64歳。若いころに出会ったってのは無理がないか。大学の教え子とすればあり得るが。息子森山未來39歳は、45歳の時の子となってまあまあ高年齢だけどここはまだあり得るか。だけど直美の息子三浦誠己48歳。いくつの時の子の設定?実年齢で16歳差しかないんだけど。直美は見た目が若いって設定なのかな。
演者が凄い、心が温かくなりました
父・陽二にとってはそれは 紛れもなく〝事件〟だった。
「事件です。」
その通報後、施設に入ることになった陽二と疎遠だった息子・卓が再会する。
父は認知症が進み、再婚相手の義母・直美は行方不明だという。
2人のことを少しでも知りたいと出向いた卓が実家で目にしたのはおびただしく張り巡らされていたメモ。
それは真面目で厳格な父の〝自身の不明〟への自覚と抵抗と恐怖の跡だった。
互いの家庭を捨ててまで一緒になった父と直美を引き裂いた忘却。
うちのめされていく日々を明らかにする散らかった部屋。
そこにあった直美の日記に挟まれていた陽二からの手紙。
現状と共にふたりの運命的な愛と思いを知り、卓のなかで、思いがけず父・陽二という男の〝存在〟と〝人生〟が初めて〝開かれ、刻まれ〟ていく。
大切な思いが散りばめられた日記が投げられた時、倒れた自分に気付かず去る夫をみた時、直美の胸の痛みが波動のように伝わり、あの冒頭を思い出した。
それは手立てと自信を見失った直美の純心のようだった。
安らぎの住処で次々と踏み倒されていった水仙はせめて最後に澄んだ香りをのこそうとしたのだ。
誰のせいでもなく忘却の彼方へ連れ去られつつある愛する人を責めてしまう自分。
その度に互いが傷つくのは、苦しみの終焉への過程なのかも知れない。
自分の体調の悪さもあり、それをコントロールして回避する役目をこなせないと自覚した直美が、これまでのふたりの幸せな日々を守ろうと一緒に居ることを〝絶望〟で止め、断腸の思いで夫から離れたように私には映った。
それを貫くために意図的に携帯電話をのこして妹の元に出かけたのだろう。
そんな妻の〝別れ際〟に夫は車の鍵を渡したのは、彼の最後の妻への思いやりだ。
しかし、夫のいる世界でそれはほどなく妻の〝失踪〟と車の〝紛失〟となり携帯電話がそこにある理由も持ち主も〝不明〟になるのだ。
そうして妻のなかで静かに納められることになった〝不在〟であるかつての夫。
その真裏にある幸せだった時間が濃く想像できるから、過去を手紙から聞くシーンは切ない。
今日もどこかで避けられない老いに誰かが抗い、また受け入れながら「向き合う」人がいる。
そのまわりにもはかり知れない葛藤がある。
それは自分の身近にも感じられる話なのだ。
ー大いなる不在ー
その存在をただひとつの断片でとらえずに、見えないもの聞こえないものに思いを寄せると露わになるもの。
不在だが確かに「私に」流れつきここにある家族のかたち、愛のかたち。
卓はきっと幼少期からの空白に一滴の和らぐ色を足すことができたはず。
もはや父は知らずとも、何かがなんとか卓につながれたことが嬉しかった。
藤竜也の「今、ここにいる」のにつかめない焦りや抗う気持ちに人生と歩むことを感じた。
原日出子の〝自分をちぎり振り絞るようなひとつの愛情〟に複雑な葛藤と当事者にしかわかり得ない気持ちを知った。
森山未來の大人として親を「静かにみつめる」ときの心の揺れに自分を重ねて夢中になった。
静かな余韻のなかで大切な人の笑顔や声を思い出す作品だった。
誤字修正済み
大いなる何かを探して
リアルな理不尽
藤竜也と森山未來の演技に凄みを感じ、稀有の作家性にエンタメ性をプラスした監督に魅せられた
近浦啓 脚本・監督による2023年製作(133分/G)の日本映画
配給:ギャガ、劇場公開日:2024年7月12日。
過去パートと現在パートがいり乱れて展開されるが、主人公が父親の謎を追うという言わばミステリー仕立てとなっており、スローテンポながらも退屈せずに見ることができた。
まずは、元大学教授という知的な認知障害者陽ニを演ずる藤竜也のきめ細やかな演技に、感心させられた。記憶障害をカバーするために、家中にメモがメチャ沢山書かれているのにリアリティも感じさせられた。そして施設に入ってからの言動が落ち着いた話ぶりと対照的に妄想的で、年取ると人間はああなってしまうのかと恐怖さえ覚えた。ラストの方で、家を出る際に水で髪型をビシッと決める姿も鮮やかで、流石に年季が入ってる!と唸らされた。
藤竜也が入る施設のリアルさも、なかなかに良いと見ていたが、撮影に本物の介護付きホーム北九州市の「さわやか鳴水館)を使い、実際の職員も出演してるとか。
藤竜也の息子である主人公卓を演じた森山未來も、父親と疎遠だったがごく普通の人というとても難しい役ながら、父の人生の謎解きに次第にのめり込んでいく様を、上手く自然に表現していた。
亡くなった恩師を偲んで、研究室一門の前で元教授としてスピーチをする父陽二。この集まりの雰囲気が何とも本物っぽさがあって驚かされた。X線による結晶解析の教室と専門分野まで明らかにされる。そこで専門分野から調べてみると、近浦吉則・元九州工業大学教授という名前が出てくる。彼が近浦監督の父親ということだろうか?撮影には監督の実家を用いたというし、監督自身の父親に対する強い気持ちが感じられた。
最初と最後に出てくる芝居ワークショップは、見ている最中は分からなかったが、イヨネスコの戯曲『瀕死の王』とのこと。死期が近づいている王様が権力も経験も何もかも身ぐるみ剥がされて無になっていくという物語らしい。長年疎遠だった父の人生を知り・体感したことにより、卓は役者としてよりレベルアップしたという、言わば成長の物語となっていた。
多分、近藤啓監督の実感に基づく物語なのだろう。卓こと森山未來は監督の分身であり、お堅い家に生まれた強い意志を有する表現者を、見事に体現していた。
スピーチ内容に添えば、大脳皮質だけで生きている様に見えていた父親陽二。彼が実は人妻直美(原日出子)を熱愛し、熱烈な恋文を出して一緒になったことが露わになってくる展開は、コレって不倫とは思いながらも、純愛が感じられ凄く感動的。なのに、認知症で陽二は直美に当たり散らし、彼女が大切にしていた恋文を貼り付けた日記帳さえも、放り投げてしまう。そうして、献身的に陽二に尽くしていたが、そういった反応に打ちひしがれてしまったのか、直美は故郷に帰ってしまう。
卓は直美の故郷を訪ねる。直美の妹(神野三鈴)に会い、日記帳を直美の元へ返すことを依頼するが、拒否されてしまう。妹はなぜ日記を受け取らなかったのか?視聴後ずっと謎であった。
ただ、直美が砂浜で海に向かってどんどん歩き進む映像を、思い出した。それは、彼女の自死を暗示している様に思えてきた。渡す相手が既におらずに、妹は日記は受け取れなかったのか。直美をただただ悲しいヒトと自分は思っていたが、大きな海に抱かれ若き陽二に会えたという作りなのだろうか?
長編映画はまだ二作目というが、稀有の作家性にエンタメ性を上手く組み合わさせた近浦啓監督には大きく魅せられた。前作も是非見てみたいし、今後にも大いなる期待を抱いた。
そして、十分な会話しないうちに自分の父親を亡くしてしまったことを、初めてとても勿体無いことをしてしまったと思わされた。
監督近浦啓、脚本近浦啓 、熊野桂太、プロデューサー近浦啓 、堀池みほ、ラインプロデューサー越智喜明、監督補熊野桂太、撮影監督山崎裕、録音森英司 、弥栄裕樹、美術中村三五、衣装田口慧、ヘアメイク南辻光宏、リレコーディングミキサー野村みき、サウンドエディター大保達哉、編集近浦啓、音楽糸山晃司、エンディングテーマ佐野元春&THE COYOTE BAND、助監督石井将、制作主任齋藤鋼児、スクリプター保坂栞。
出演
卓森山未來、陽二藤竜也、夕希真木よう子、直美原日出子、三浦誠己、神野三鈴、利重剛
塚原大助、市原佐都子。
まさに大いなる不在の映画
映画のタイトルの”不在”とは何だろう?藤竜也の記憶の不在か、かつての妻を捨ててまで再婚した原日出子への愛の不在か?ただし、不在には大いなるという言葉がかぶせられている。悲しき不在でも、忘れられた不在でもない。不在の反語の様な大いなるの付いた不在である。
藤竜也に捨てられた妻の息子の森山未來は何十年ぶりかでまるで心の内を埋める様に父親に会いに来る。父親が事件を起こしてしまったからとは言え、多分、警察から(あるいは病院から)、連絡がきたとき、もう私は関係ないと断ることもできたのに(多分)。しかし、森山未來は、あまり嫌そうでもなく事件を起こした父親に会いにきてしまう。そこで、藤と原の運命的とも言える関係を知る。森山は、藤と原の関係を知れば知るほど、のめりこむ様に、父親との長い別れを取り戻すかの様に、調べを進めていく。そう、これは、藤と森山の長い不在=大いなる不在の物語なのだとようやく気付かされる。ある時、藤は、森山を幼少期に暴力をふるったことを告白し、森山に許しを請う場面がある。ああそうか、これは、藤にとっても息子との長き不在=大いなる不在の物語でもあるのか、と気づかされる。森山は父との邂逅を、藤は息子との和解を、長くながく求めていたのだろう。不在、まさしく、大いなる不在の物語。
全122件中、41~60件目を表示










