大いなる不在のレビュー・感想・評価
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大いなる不在、そしてそこには必ず存在がある
認知症を患う父親、その父親の人生を紐解こうとする長年会っていなかった息子の葛藤を描くドラマ。 藤竜也が、認知の混乱、題名通りの大いなる不在、そして存在を演じ切っており、その卓越した演技が圧巻。また主役となる息子役の森山未來の演技も秀逸。それを真木よう子、原日出子などのバイプレイヤーうまく支えている。 認知症という病に関する、本人と家族の辛さを押し付けがましさなしに、空気感で伝える巧みな脚本と演出。現代社会における認知症をテーマとした映画として高い完成度。 認知症が他人事ではない時代、そのどうしようもない状況における家族の存在の大切さ、その難しさについて深く考えさせる作品。 役者たちの素晴らしい演技、それを巧みに演出した監督に拍手したくなる映画だった。
大いなる心の不在。
偏屈で揚げ足取りでプライドが高い父親の記憶や精神が壊れてゆく過程が時間軸を変えながら描かれる。思い出したり忘れたりを繰り返す様がとても残酷だ。藤竜也が圧巻でした。 疎遠だった息子が行方不明の義理の母を探しながら父が書いた大量の手紙やメモを通してその痛みに触れてゆくことになる。ベルトのシーンがとても良かった。親子として失っていた隙間が少しだけ埋まったような、そんな優しい時間だった。 そしてこの映画の一番衝撃的なところは、物語のラストにコロナ禍の始まりをもってきたところ。せっかく縮まった距離がまた離れてしまうかもしれない。そんな余韻がなんだか切なかった。
構成を複雑にする意味が?
こういう事・物はシンプルな方が伝わるしシンプルにするのが才能。 最近のメジャー映画の傾向を意識しすぎと感じた。 鏡を使った見せ方には辟易w醒めるよ。 映画としてのユーモアが欠如している、致命的…。
謎多しだがわりと面白かった
役者さんの演技が良いのとなんとなく引き込まれていくストーリーであるので観る価値あり。
謎が多い。
原日出子さんは生きてるの?
原日出子さんの息子さんは本当に入院費を請求に来たのか? それは本当にお父さんは拒んだのか?
最大の謎はお父さんは確信犯だったのか?
デカプリオのシャッターアイランドを彷彿とさせる。
玄関に虫除けスプレーがあり、余りにもリアリティがあって、映画はテレビドラマとは流石に違うなと思ってたら実際に監督の家だったんだ。
レストランでケーキ食べてて、何故食事でないのか疑問だったし、森山未來何これ?と言ったのって意味があるのか? ケーキだったらレストラン予約する必要無いし。。
単純に映画の予算の都合で食事無しなのか? 奇妙だった。
お父さんの普通に関するセリフ、大河ドラマに関するセリフが説得力あった。
認知症ってのがこういうものなのかなと勉強になった。
時系列とか年齢とか気になった。71歳というから40歳の時にラブレター書いたのかな? でも20年好きだったというから大学の時に知り合ったの? 奥さんの方が年上の設定?
最初の市の職員に対しての尖り方が森山未來が石丸伸二氏の選挙直後のメディア対応みたいだと思った。
そこにいない
そこにいない、それがすべて。
そこにある、それがすべて。
実際にどうかはわからないけど、認知症になってからの言動に、そのひとの中にわずかでも内在するものがデフォルメされたり歪になったりしてあらわれているのだとしたら、いろいろとつらいな、と思いながらみた。
あんな状態になっても(あんな状態だからか)ひとは身勝手に許されたいと願う傲慢さと滑稽さが、なんたか物悲しかった。
「できるだけ長生きさせてください」というのはやさしい寄り添いなのか、簡単には死なせない、楽にはさせないという小さな抵抗なのか、考えている。
『認知症の人って、ここ、こうじゃないのに』って思うところがあった ...
『認知症の人って、ここ、こうじゃないのに』って思うところがあった そのせいか、 乗れないまま終わってしまった すみません すごく雰囲気は良かったのに、 なんだろう、脚本?
鑑賞動機:藤竜也/森山未來5割、あらすじ4割、巡り合わせ1割
原日出子さんはやはり素敵な役者さんだということを、再認識した。今作ではお人好しすぎるくらいの役柄で、こういう人こそ幸せになってほしいと思うのだが…。
過去と現在を交互に描写しながら、この愚かな男に何が起こっていたのかが紐解かれていく。不可解なことも多くて、『ファーザー』みたいに画面に映っていることが必ずしも事実ではないのかも、と勘ぐったりしたが。必ずしも全てが説明されている訳ではなく、特に直美さんの気持ちは推し量るしかない部分がある。自分を認識してもらえなかった時のショックの大きさは、あの表情から推してしるべし。
随所に鏡が使われているのはやはり目についた。
はあ、でもあれだけ熱烈な愛の告白をした相手を、な・ん・で・いっときでも忘れてしまうのさ。愚かだ…。
私の心は私のものなんです。勝手に揺らさないでください。
見事な演技の応酬。雰囲気を作る間も、深みのあるセリフも、対峙する役者同志(藤竜也と森山未來だけでなくすべての)の空気感も、そしてその泰然たる存在も。 「存在」とは、肉体的、物質的な存在だけではなくて、精神的なものも含めてか。おそらく直美(原日出子)は、たとえ言葉がぞんざいであろうが傲慢であろうが、陽二の言動のなかに、かつて自分を愛してくれた彼の名残りがありさえすれば、支えていけたんだと思う。だけど陽二の「精神」のなかにもう自分が存在していないことに悲嘆した。だから大事にしていたノートも要らなくなった。バカバカしくなったんだろうな。ここが、後妻として熟年結婚した夫婦の限界なんだろう。それまでの自分の人生をなかば捨てるようにこの男と結婚したのに、まだ自分は元気で生きられる人生が残っているのに、その旦那は、こんな姿になってしまった。それだけでなく自分の存在さえも否定してくる。悪気はないのは分かっていても、糸がプツンと切れてしまう。彼とだけ繋がっていたたった一本の糸が。家族というものがあるにしても、もともと血のつながっていない関係だからもろい。いつまでたっても他人でしかない。現実でも僕は、そんな家族を間近で見ているのでよくわかる。ほんとうなら直美にとって、余生を送るために心の拠り所になるべき"我が幸せの証"であるノートを、放棄せざるを得ない心境とはいかばかりか。そんな彼女の現在を画面でどう映していたかが、「不在」の意味を一層深めているなあ。 ただ、気になったのはキャスティング。演技に難癖をつけるつもりはないけれど、どうしても年齢相応に思えない関係もあった。ちなみにあとで調べてみる(すべて現時点での実年齢)と、藤竜也84歳、原日出子64歳。若いころに出会ったってのは無理がないか。大学の教え子とすればあり得るが。息子森山未來39歳は、45歳の時の子となってまあまあ高年齢だけどここはまだあり得るか。だけど直美の息子三浦誠己48歳。いくつの時の子の設定?実年齢で16歳差しかないんだけど。直美は見た目が若いって設定なのかな。
演者が凄い、心が温かくなりました
最近多いですね。親が痴呆になる映画。切実。 私の祖母や父や親戚も痴呆症になっている人はいるので、なんか切ない。 いちばん大切な人に辛く当たってしまったり、それでいて普通の時もあったり。周りの人も優しくて、否定したり怒ったりしない。温かいです。 わざと?時系列がバラバラだったり、痴呆症の思い込み?だったり、ちょっと分かりにくい映画でしたが、演者さんが凄すぎて、心が温かくなりました。
父・陽二にとってはそれは 紛れもなく〝事件〟だった。
「事件です。」
その通報後、施設に入ることになった陽二と疎遠だった息子・卓が再会する。
父は認知症が進み、再婚相手の義母・直美は行方不明だという。
2人のことを少しでも知りたいと出向いた卓が実家で目にしたのはおびただしく張り巡らされていたメモ。
それは真面目で厳格な父の〝自身の不明〟への自覚と抵抗と恐怖の跡だった。
互いの家庭を捨ててまで一緒になった父と直美を引き裂いた忘却。
うちのめされていく日々を明らかにする散らかった部屋。
そこにあった直美の日記に挟まれていた陽二からの手紙。
現状と共にふたりの運命的な愛と思いを知り、卓のなかで、思いがけず父・陽二という男の〝存在〟と〝人生〟が初めて〝開かれ、刻まれ〟ていく。
大切な思いが散りばめられた日記が投げられた時、倒れた自分に気付かず去る夫をみた時、直美の胸の痛みが波動のように伝わり、あの冒頭を思い出した。
それは手立てと自信を見失った直美の純心のようだった。
安らぎの住処で次々と踏み倒されていった水仙はせめて最後に澄んだ香りをのこそうとしたのだ。
誰のせいでもなく忘却の彼方へ連れ去られつつある愛する人を責めてしまう自分。
その度に互いが傷つくのは、苦しみの終焉への過程なのかも知れない。
自分の体調の悪さもあり、それをコントロールして回避する役目をこなせないと自覚した直美が、これまでのふたりの幸せな日々を守ろうと一緒に居ることを〝絶望〟で止め、断腸の思いで夫から離れたように私には映った。
それを貫くために意図的に携帯電話をのこして妹の元に出かけたのだろう。
そんな妻の〝別れ際〟に夫は車の鍵を渡したのは、彼の最後の妻への思いやりだ。
しかし、夫のいる世界でそれはほどなく妻の〝失踪〟と車の〝紛失〟となり携帯電話がそこにある理由も持ち主も〝不明〟になるのだ。
そうして妻のなかで静かに納められることになった〝不在〟であるかつての夫。
その真裏にある幸せだった時間が濃く想像できるから、過去を手紙から聞くシーンは切ない。
今日もどこかで避けられない老いに誰かが抗い、また受け入れながら「向き合う」人がいる。
そのまわりにもはかり知れない葛藤がある。
それは自分の身近にも感じられる話なのだ。
ー大いなる不在ー
その存在をただひとつの断片でとらえずに、見えないもの聞こえないものに思いを寄せると露わになるもの。
不在だが確かに「私に」流れつきここにある家族のかたち、愛のかたち。
卓はきっと幼少期からの空白に一滴の和らぐ色を足すことができたはず。
もはや父は知らずとも、何かがなんとか卓につながれたことが嬉しかった。
藤竜也の「今、ここにいる」のにつかめない焦りや抗う気持ちに人生と歩むことを感じた。
原日出子の〝自分をちぎり振り絞るようなひとつの愛情〟に複雑な葛藤と当事者にしかわかり得ない気持ちを知った。
森山未來の大人として親を「静かにみつめる」ときの心の揺れに自分を重ねて夢中になった。
静かな余韻のなかで大切な人の笑顔や声を思い出す作品だった。
誤字修正済み
大いなる何かを探して
藤竜也さん本当に名演でした。 原日出子さん切なさと愛情がスクリーンから伝わってきました。 森山未來さんの静かなる感情に心が揺さぶられました。 大いなる不在というタイトルですが、みんな自分と大きな存在を探してると解釈しました。 とても素敵な作品でした。
リアルな理不尽
思えばこれまで、自分もいろんな理不尽と 闘って闘ってここまで来たな、と。 そしてこれからも、まさにこの映画のような 理不尽に晒される事がリアルに感じられる。 そんな、終始嫌ぁ〜な空気の中、主人公の 最後の優しさが胸に刺さる映画だった。 人間ドックの帰りに見る映画ではなかったが ある意味でこのタイミングに出会うべくして 出会った映画だと思う。年齢的にも。
藤竜也と森山未來の演技に凄みを感じ、稀有の作家性にエンタメ性をプラスした監督に魅せられた
近浦啓 脚本・監督による2023年製作(133分/G)の日本映画
配給:ギャガ、劇場公開日:2024年7月12日。
過去パートと現在パートがいり乱れて展開されるが、主人公が父親の謎を追うという言わばミステリー仕立てとなっており、スローテンポながらも退屈せずに見ることができた。
まずは、元大学教授という知的な認知障害者陽ニを演ずる藤竜也のきめ細やかな演技に、感心させられた。記憶障害をカバーするために、家中にメモがメチャ沢山書かれているのにリアリティも感じさせられた。そして施設に入ってからの言動が落ち着いた話ぶりと対照的に妄想的で、年取ると人間はああなってしまうのかと恐怖さえ覚えた。ラストの方で、家を出る際に水で髪型をビシッと決める姿も鮮やかで、流石に年季が入ってる!と唸らされた。
藤竜也が入る施設のリアルさも、なかなかに良いと見ていたが、撮影に本物の介護付きホーム北九州市の「さわやか鳴水館)を使い、実際の職員も出演してるとか。
藤竜也の息子である主人公卓を演じた森山未來も、父親と疎遠だったがごく普通の人というとても難しい役ながら、父の人生の謎解きに次第にのめり込んでいく様を、上手く自然に表現していた。
亡くなった恩師を偲んで、研究室一門の前で元教授としてスピーチをする父陽二。この集まりの雰囲気が何とも本物っぽさがあって驚かされた。X線による結晶解析の教室と専門分野まで明らかにされる。そこで専門分野から調べてみると、近浦吉則・元九州工業大学教授という名前が出てくる。彼が近浦監督の父親ということだろうか?撮影には監督の実家を用いたというし、監督自身の父親に対する強い気持ちが感じられた。
最初と最後に出てくる芝居ワークショップは、見ている最中は分からなかったが、イヨネスコの戯曲『瀕死の王』とのこと。死期が近づいている王様が権力も経験も何もかも身ぐるみ剥がされて無になっていくという物語らしい。長年疎遠だった父の人生を知り・体感したことにより、卓は役者としてよりレベルアップしたという、言わば成長の物語となっていた。
多分、近藤啓監督の実感に基づく物語なのだろう。卓こと森山未來は監督の分身であり、お堅い家に生まれた強い意志を有する表現者を、見事に体現していた。
スピーチ内容に添えば、大脳皮質だけで生きている様に見えていた父親陽二。彼が実は人妻直美(原日出子)を熱愛し、熱烈な恋文を出して一緒になったことが露わになってくる展開は、コレって不倫とは思いながらも、純愛が感じられ凄く感動的。なのに、認知症で陽二は直美に当たり散らし、彼女が大切にしていた恋文を貼り付けた日記帳さえも、放り投げてしまう。そうして、献身的に陽二に尽くしていたが、そういった反応に打ちひしがれてしまったのか、直美は故郷に帰ってしまう。
卓は直美の故郷を訪ねる。直美の妹(神野三鈴)に会い、日記帳を直美の元へ返すことを依頼するが、拒否されてしまう。妹はなぜ日記を受け取らなかったのか?視聴後ずっと謎であった。
ただ、直美が砂浜で海に向かってどんどん歩き進む映像を、思い出した。それは、彼女の自死を暗示している様に思えてきた。渡す相手が既におらずに、妹は日記は受け取れなかったのか。直美をただただ悲しいヒトと自分は思っていたが、大きな海に抱かれ若き陽二に会えたという作りなのだろうか?
長編映画はまだ二作目というが、稀有の作家性にエンタメ性を上手く組み合わさせた近浦啓監督には大きく魅せられた。前作も是非見てみたいし、今後にも大いなる期待を抱いた。
そして、十分な会話しないうちに自分の父親を亡くしてしまったことを、初めてとても勿体無いことをしてしまったと思わされた。
監督近浦啓、脚本近浦啓 、熊野桂太、プロデューサー近浦啓 、堀池みほ、ラインプロデューサー越智喜明、監督補熊野桂太、撮影監督山崎裕、録音森英司 、弥栄裕樹、美術中村三五、衣装田口慧、ヘアメイク南辻光宏、リレコーディングミキサー野村みき、サウンドエディター大保達哉、編集近浦啓、音楽糸山晃司、エンディングテーマ佐野元春&THE COYOTE BAND、助監督石井将、制作主任齋藤鋼児、スクリプター保坂栞。
出演
卓森山未來、陽二藤竜也、夕希真木よう子、直美原日出子、三浦誠己、神野三鈴、利重剛
塚原大助、市原佐都子。
まさに大いなる不在の映画
映画のタイトルの”不在”とは何だろう?藤竜也の記憶の不在か、かつての妻を捨ててまで再婚した原日出子への愛の不在か?ただし、不在には大いなるという言葉がかぶせられている。悲しき不在でも、忘れられた不在でもない。不在の反語の様な大いなるの付いた不在である。
藤竜也に捨てられた妻の息子の森山未來は何十年ぶりかでまるで心の内を埋める様に父親に会いに来る。父親が事件を起こしてしまったからとは言え、多分、警察から(あるいは病院から)、連絡がきたとき、もう私は関係ないと断ることもできたのに(多分)。しかし、森山未來は、あまり嫌そうでもなく事件を起こした父親に会いにきてしまう。そこで、藤と原の運命的とも言える関係を知る。森山は、藤と原の関係を知れば知るほど、のめりこむ様に、父親との長い別れを取り戻すかの様に、調べを進めていく。そう、これは、藤と森山の長い不在=大いなる不在の物語なのだとようやく気付かされる。ある時、藤は、森山を幼少期に暴力をふるったことを告白し、森山に許しを請う場面がある。ああそうか、これは、藤にとっても息子との長き不在=大いなる不在の物語でもあるのか、と気づかされる。森山は父との邂逅を、藤は息子との和解を、長くながく求めていたのだろう。不在、まさしく、大いなる不在の物語。
父との空白の時間を知りたい、という思い
遠距離介護だの介護離職など、親の介護のために子どもの生活や仕事、キャリアが変わっていくことはよく報じられている その一方で、若い時の親のトラブルで疎遠となったはずの「親子関係」が、「事件」によって復活する場合もある 本作は後妻をもらったことで、父の老後を「安心」していた息子が「事件」(警察沙汰)によって、父の住む九州に呼びつけられる 当初は他人事の「迷惑な親の尻拭い」の対応から、父の認知症の進行に面会の都度直面し、父との空白の期間を埋めていこうとする姿に変わっていく姿がよかった 大学教授という権威を持つ父親とのいい思い出は、主人公の卓(たかし)にはあまりなかったかもしれない しかし年月が経ち自分の老いに直面し、父親もメモを張り付けたり、カレンダーに書き込みをしたり、彼なりに老いと向き合っていたのだろう それが後妻の直美との生活では保たれていたバランスが、言葉の行き違いで脆く壊れてしまった 老いに向き合い、弱気になってから、息子や後妻との修復を願っていても、元に戻らないことが痛々しく、そういった現実・葛藤を抱えながら介護と向き合っている子・嫁・配偶者はたくさんいるに違いない 60代の私が子どもの頃観ていた本作の藤竜也さん以外に、カルーセル麻紀さん、岩城滉一さんが出演された作品が今年上半期は公開されたが、もちろん劇場用映画での話であるが、それぞれの老いに触れることができた 長い長い思いに支えあっていた健気な直美さんとの生活は観ていてほほえましく、あの生活がずっと続いて欲しかった 原日出子さんは京都ローカルで「街ブラ」番組を永年されていて、あの映画のまんまの姿で視聴者として楽しませてもらっています (7月18日 テアトル梅田にて鑑賞)
藤竜也の陽二の魅力とラストの願望的考察…。そして謎について
とてもとても良かった。
演技の事など何も分からない私でも、スクリーンの中の藤竜也に圧倒された。
名優を精巧な機械に例えるなら、彼は老練な機械のように精緻で大胆で狂いなく、時折接合部から滲み出るオイルのような人間味が、唯一無二の個性を醸し出していた。
なんと表現したものか難しいのだけれども。
親に向き不向きがあるならば、恐らく陽二は後者で。
他者の目線に合わせられない陽二は、常に他者を自分の目線まで登らせるか、下から呆然と見上げさせるかの二択しか与えない。
幼い子にとっては背伸びしても届かぬ存在。必死の訴えも甘えたい想いも、彼の顎先を掠めるだけで、彼の視界に入ることはない。関心を得ることは無い。
父との埋められない距離感は今も卓に付き纏う。擦り寄るか、拒絶するか。どちらも健全な親子関係とは言い難いが、卓は拒絶を選んだ。そもそも陽二が妻子を捨てたのだけれど。
とは言え陽二は不義理な人間ではなく、むしろ義理堅く一貫して誠実に努めていて。
実子の結婚式に参列していない事を理由に、継子の式にも参列せず。直美との関係を再開させるにあたって、己と相手方の家族関係を精算して。卓と結婚した夕希に対し、事後報告だったが両家顔合わせをしなかった不義理を詫び。卓に対し、幼少の頃に奮ってしまった暴力と暴言を詫びる。
固すぎる程に、義理を通す人間として描かれていた。”気持ちさえこもっていれば形は拘らない。”という現代の風潮とはっきり隔絶した、気持ちいい程の男気ある人物だ。
愛に対しても一直線で。熱烈な恋文と、決して口だけで終わらせない行動力。
偏屈で高慢で配慮に欠け、論理的思考で他者を批判する嫌味な側面もありつつ、愛と義理を全身で体現する雄々しさが、とても魅力的だった。
こういう人物はとても狡いと思う。他者に媚びず、自分を生きて、それでも愛されるのだから。
私も途中から陽二という人間の魅力に呑み込まれて行った。親族にはいてほしくない。けれども恒星のように輝き、燃え上がる存在感には見蕩れる。教え子の鈴元が陽二を尊敬し、慕っていたのにも納得する。(チョイ役だったけれど、鈴元役の人の演技大好きだった)
直美は陽二に対し、一抹の苛立ちや呆れを抱きつつ、それでも根底にある強い愛と尊敬の念で支えていた。それが垣間見える夫婦のやり取りが素晴らしかった。
直美は深く陽二を愛していたからこそ、認知症による彼の変容に耐えられなかった。
あの熱烈な恋文と、陽二が自分に向ける確固たる愛があったからこそ形作っていた夫婦が崩壊し、愛の矛先と供給先を失った直美も崩壊する。
”無かったことにされた” ではなく、本当に無になってしまった。その悲しみと苦しみは想像がつかない。
愛し合った記憶を自分だけが有した状態で、最早別人の伴侶と共に生きる孤独は深くて暗い。
時折元に戻り、変わらぬ愛を向けられても、いつかまた病の海に沈むと考えたら…そしていずれ、二度と浮上することのない暗黒の日が訪れると考えたら…目を背けた方が楽かもしれない。
愛あるが故に、共に居ることは耐えられないのかもしれない。
『大いなる不在』 は、直美の不在を指しているのだと思っていたけれど、直美にとっての、かつての陽二の不在も指しているのだろう。
ラストのシーンには様々な憶測がある。故郷の海へ向かい歩を進める直美の姿。かつて陽二が表した通り、彼女は故郷の海そのものになってしまったのだろうか。燃えたぎる恋慕に心を爛れさせながら、陽二が眺めることしかできなかった故郷の海に。
街を徘徊し、妻の名を叫ぶ陽二の溢れる想いは、宛もなく直美の故郷の地を彷徨ったかつての陽二の姿と重なる。
二人はまた会えるのだろうか。これが悲劇の愛の物語ならば、在りし陽二との幸福な日々を護るため、直美は死を選び、何も知らない陽二は病が見せる世界の住人になってしまうのだろう。
希望のある考察をするならば、直美は生きていて、また陽二の元へ戻ってくる。病の世界へ徐々に囚われていく陽二を見守りながら、彼の魂に交信し続ける。次は直美が、熱烈な恋文を送り続ける。
私の願望は勿論後者。
最後に、序盤に繋がるシーンにて。陽二は誰も受信していない無線で、あたかも息子の卓と交信出来ているかのように語りかける。
今から行くと告げた後、彼は矍鑠と身支度をし、身なりを整え、直美の日記を携えて外に出る。その目には強い決意があった。その決意とは何だったのか。なぜ彼は、無線で息子を呼ぶ時、幼少期の愛称である『たっくん』と呼んだのか。
彼があの時交信していたのは、かつて彼のプライドにまみれた心を揺るがし、彼の執着する美徳とエゴを陳腐にさせ、アイデンティティに亀裂を生じさせた、幼く無垢な息子だったのだろうか。
直美への愛さえくすませる純な脅威に、かつては拒絶する事しかできなかった陽二であったが、何故この期に及び、会いに行こうとしたのか。
あの無線のシーンで語りかける相手は、当然直美だろうと思っていたから、とても驚いた。
男女間の燃え上がるような愛とは異なり、胸を奥底から温めていくような父子の愛。その感覚は今も陽二を翻弄させ、困惑させ、希望を与えているのかもしれない。
そうであるならば、卓が数十年間離れていた事も、陽二にとっては大いなる不在だったのだろう。
藤竜也すごい
サスペンス仕立てなので、「ファーザー」とはちょっと違う。ただ、内容はみにつまされるものがあり、主人公を演じた藤竜也さんの迫真の演技に尽きる映画。森山未来さんも名演技だったのだが、それが霞むほどであったが、ダンスは素晴らしかった。
目の前の不在と30年の実在
物質としての存在と事象としての存在、そしてその喪失を扱った作品と感じた。
正直、ストーリーと呼べるほどのものはない。
過去と現在をシームレスに行き来しながら、親子や夫婦など様々な関係性が描かれていく。
冒頭の警官隊の突入(何をどう言えばあんな部隊が来るのか)や直美の行方などは、映画的な“惹き”でしかない。
本質は“知ろうとすること”と“忘れてしまうこと”。
卓にとって元々断絶に近かった父は、痴呆によってより掴みどころのない存在になってしまう。
それでも母の死を伝えようとするぐらいにはまだ“親子”だったのだろう。
直美の日記や関係者との会話、そして父の残したメモから少しずつその実在を掴んでいく。
ベルトを譲る直前だけ「父さん」と呼べたのは、多少なり象を得られた証だろう。
対して直美の立ち位置は非常に苦しい。
宝物である手紙と、それに対する想いを読み聞かせてすら、「あなたは誰だ」と言われてしまう。
普通ならイチャイチャに感じる「スベスベ」のシーンにかかる不穏なBGMなどもあまりに的確。
妹のもとへ行くことは陽二も了承の上だったようだが、それにあたりどんな会話があったのか…
ひたすら重い流れの中で、終盤の位牌おじぎは癒し。
キャストに関しては基本文句なしなのだが、夕希だけは他の人がよかったかな。
真木よう子がダメだったわけではないが、立ち位置的にビジュアルが強すぎるんですよね。笑
手紙や台本の朗読など文学的すぎて掴みづらいのは難点。
ただ、老齢の両親を抱える身としては色々と感じるところのある作品でした。
全118件中、41~60件目を表示