「「不在とはなにか」」大いなる不在 かなさんの映画レビュー(感想・評価)
「不在とはなにか」
俳優の卓は30年近く離れていた父のことで警察から連絡を受ける。卓と妻夕希は帰郷し父が保護された介護施設を訪れ、父と会うが完全にボケていた。スーツを着てネクタイもして身なりはきちんとしているが、話の内容は突飛である。
その前に帰郷し父と再婚した直美と三人で話をしたとき、父は元大学教授らしくごたくをならべて主張を言い放つ。卓は変わらない父を見てある面安心する。その父が完全にボケてしまった。卓は施設を訪れたさい、鞄から一冊のノートを見つけ実家に足を運び父の本質を模索する過程で現在と過去が映像化される。
卓を見ていると言葉が少ない。話す間が十分保たれており、時間がゆっくり流れ、風の自然な音が響いている。なにか卓がノートをめくりゆっくりと父の過去を追い求めて、ノートから父の実在を理解していくことが、卓が抱く父への「大いなる不在」だ。
近浦啓監督が見る者対して「大いなる不在」とは何かこの親子をとおして思考を促している。卓が父に会わなかった時間的不在か、かくしゃくとしていた父がボケた精神的不在か、父が愛していた直美と結婚しないで別な女性と結婚した精神と時間的不在か、直美が家を出た時、愛しい人の不在と自分自身の知性の不在か、卓が演技をしていて他の人になりきり自分が不在になっているのか、様々な思考を促す。
筆者の「不在」とは何か。真っ先にうかぶ言葉は「後悔」だ。筆者がやらなかったこと、決めなかったことに対する後悔。しかし、もしやっていて、決めていたら今の筆者は「不在」だ。
「不在」の反義語は「いる、ある」だ。卓には愛する妻夕希がいるし、演技への情熱はある。すべて現在進行形だ。反して父は、「いた、あった」のすべて過去形であるから今「不在」だ。「不在」と「いる、ある」はある意味表裏一体なのだ。現在の「いる、ある」が、いつ「いた、あった」の不在になるのか予測不能だ。それゆえ卓は施設の人にできる限り父に会いに来ると言う。ボケた父の「いる、ある」を目に焼き付けるために、父の「いる、ある」を想いだすために。