大いなる不在のレビュー・感想・評価
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病に揺さぶられ変容する父と息子がそれぞれに見出したもの
警察の特殊部隊が家に来るという予想外のシーンから物語は始まる。何故? と思わせることで惹き込むオープニング。過去と現在、2つの時間軸で、このセンセーショナルな場面に至る経緯が解き明かされてゆく。その過程にもいくつかの謎が見え隠れし、錆びついた家族関係が動き出す人間ドラマだけではなく、ミステリーのような味わいもある。
序盤、父の陽二を施設に入れるために職員と面談する卓(たかし)のちょっと面倒そうな態度で、陽二との時間的・心理的な距離が伝わってくる。
実は卓は5年前にも陽二に会いに来ていた。結婚したことさえ報告していなかったが、大河ドラマ出演決定が訪問の契機だったようだ。卓の中にわずかに残る親子の情が、実家に足を向けさせたのだろうか。だが、いざ会ってみれば相変わらずの偏屈親父ぶり。実は卓の大河出演を報じる新聞記事を切り抜いていたりするのだが、そんなことはおくびにも出さない。思い切って会いに来た卓の心もかたくなになってしまう。
この序盤の陽二の性格描写が、あの年代のインテリにありそうな高いプライド、相手の物言いへの厳しさなどの面倒臭い雰囲気を脚本と演技で非常に上手く表現していて、卓の気持ちがよくわかる。
しかしやがて、そんな陽二の自尊心を支える記憶を、病が容赦なく剥ぎ取ってゆく。
途中で現れるいくつかの謎のうち、直美の息子を名乗って現れた塩塚の言動には少しもやもやとしたものが残った。
彼は直美が入院していると言ったが、有希が病院を訪ねると直美はいなかった。塩塚に問いただすと「今入院しているとは言っていない」と不自然な言い訳をした。
また彼は車庫を見て「車がないんですね」などと言っていたが、陽二が直美と最後に別れる時に車の鍵を彼女に渡したので、車は彼女が使っているはずだ。直美の携帯が陽二宅に置き忘れられていた理由も塩塚は思いつかない様子だった。
つまり、塩塚は最近の直美の生活の様子も、別居後の直美が陽二を訪ねてきたことも知らないのだと思われる。塩塚と直美の親子関係にもどこか距離を感じる。単に遠方に住んでいるのか、それ以外の事情かはわからないが、そのへんの実情を卓には隠して、入院費用を請求しにきた。直美が倒れたことは事実と思われるので、実際入院はしたのかもしれないが、個人的には塩塚の言動に不信感を持った。
陽二が朋子に性的暴行を働いたという彼の証言も、そういう理由で鵜呑みにできなかった。過去パートで陽二は階段で朋子の腕を引いて怪我をさせたようだが、性的暴行を匂わせる描写には見えなかった。
もし本当に性的暴行にまで至っていたら、直美は陽二を再訪するだろうか(終盤の、陽二宅で直美が鈴本からの電話を受けていた場面)。
このあたりのことは作中では明確な事実の描写がないので、あくまで私の想像ではあるが。
陽二ひとりになった家の中、そこかしこに貼られたメモは彼が忘却にあらがった痕跡だ。必死の闘いに敗れた彼が訳もわからずいじった電話は、110番にかかる。そして冒頭のシーンにつながるのだが、お年寄りの通報だけでいきなり特殊部隊が来たりするかな? という気もした。人数も少ないし。警察は来たのだろうが、それが特殊部隊というのは陽二の妄想……というのは考えすぎだろうか。
病は本人にとってつらく悲しいことだが、「あちら」の世界に移った陽二は、どこかプライドの武装が解除されたような印象もある。子供の頃の暴力を卓に謝るのも、ただ自分が許されたいだけの勝手な謝罪だが、以前の彼ならそんな謝罪さえ絶対しなかっただろうから大きな変化だ。あの父親のそんな姿を見て、卓は本心ではすぐ許す気にはなれなかったとしても、気持ちが揺れたはずだ。
彼が施設を後にする時、自分のベルトを陽二の腰に巻いてやる場面は静かだが心を打った。病は陽二を苦しめたが、卓が陽二の過去を辿るきっかけにもなり、親子関係に雪解けの兆しをもたらした。
卓にとっての父親、若き日の陽二にとっての20年間の直美への思慕、病んだ彼の元を去った直美、現代パートで姿を見せない朋子の謎など、さまざまな「不在」のコラージュで描かれた物語の最後に、陽二と卓それぞれの胸に残ったのは妻への思慕と父への情だった。
禍福は糾える縄の如しというが、2人がこれらを取り戻したことは、病が思いがけずもたらした希望なのかもしれない。
磐石の俳優陣だが、とりわけ藤竜也に圧倒された。認知症という設定もあってか、映画「ファーザー」のアンソニー・ホプキンスを思い出した。それぞれに素晴らしいが、日本人俳優による演技だからこそ肌感覚で伝わってくるリアリティのようなものが確かにあった。
本作は日本公開に先立ち、各国の国際映画祭に出品され、サン・セバスティアン国際映画祭では藤竜也が最優秀俳優賞を、サンフランシスコ国際映画祭では最高賞(グローバル・ビジョンアワード)を受賞するなど、既に海外での評価を得ている。物語自体に国境を越える引力があることは確かだが、やはり母国語でニュアンスを味わいながら観られるのは一味違うはずだし、幸運なことだと思う。
体の医療の進歩に対して、脳の退化に対する医療技術が追いついていない
冒頭のシーンを見て、どんな映画なんだろうと混乱してしまった。
自動小銃(MP5)を持った特殊部隊が住宅に突入しようとする。
所轄の警察には存在しない特殊部隊、てっきり国家レベルでの何か事件の話なのかと思ってしまった。
話はアルツハイマーに侵される父親を取り巻く家族の話。
私の父もボケ始めているので身につまされる話だった。
アルツハイマーになってしまった父親と家族とのドラマが展開される。
他の認知症ものの映画と違って、ドラマチックな何かが起こる事はない。。
原日出子が演じる奥さんの行動には納得出来ない。。
逃げたくても逃げられないのが認知症介護。
でも逃げ出してしまう人って結構いるんでしょうか?
そうだとしたら、現実的な展開なのかもしれないけど。。
過去の記憶がなくなり、人間を壊してしまい、別人になってしまう。。
体の医療の進歩に対して、脳の退化に対する医療技術が追いついていない。
昔の人はボケる前に病気になって死んでいたんでしょう。
父が父でいる間に死んで欲しいと思う。
長生きはして欲しいけど、別人になった父親を長く面倒見る自信はない。
別人、動物のようになっていく父親を家族愛だけで面倒みるのは難しいと思う。
親子の無償の愛を持ってしても、別人→ただの動物になっていくのを面倒みるのは地獄だろうと思う。
在ってほしい
30年近く離れていた父親が認知症を患い、一人息子の卓が戸惑いながらも対峙していくストーリー。
病に優劣はなく、どんな病気も大変なのだが、認知症は改めて厳しくつらい病だと思ってしまった。
大学教授だろうが主婦だろうが関係ない。
思いもよらない言動や行動で、周りの人の心も壊れてしまうから。自分の好きだった人がいなくなってしまうから。
その人によって症状も家庭の事情も異なるわけだが、今作の人間関係はやや複雑で、どの立場にいてもつらい。父の再婚相手の息子との対話シーンで、特にそれを感じた。
大人になった卓を「たっくん」と呼ぶ父。寄り添ってくれた再婚妻の心情。色々考えると涙が出てしまった。
藤竜也の演技が流石でリアルだった。
*****
森山未来が右に位置する画が多かったような。部屋で電話してるところ、桜をバックにしたところ、車窓から景色を眺めてる場面など。印象に残った。
今作の真木よう子が一瞬、宮澤エマに似てると思ってしまった。
「不在とはなにか」
俳優の卓は30年近く離れていた父のことで警察から連絡を受ける。卓と妻夕希は帰郷し父が保護された介護施設を訪れ、父と会うが完全にボケていた。スーツを着てネクタイもして身なりはきちんとしているが、話の内容は突飛である。
その前に帰郷し父と再婚した直美と三人で話をしたとき、父は元大学教授らしくごたくをならべて主張を言い放つ。卓は変わらない父を見てある面安心する。その父が完全にボケてしまった。卓は施設を訪れたさい、鞄から一冊のノートを見つけ実家に足を運び父の本質を模索する過程で現在と過去が映像化される。
卓を見ていると言葉が少ない。話す間が十分保たれており、時間がゆっくり流れ、風の自然な音が響いている。なにか卓がノートをめくりゆっくりと父の過去を追い求めて、ノートから父の実在を理解していくことが、卓が抱く父への「大いなる不在」だ。
近浦啓監督が見る者対して「大いなる不在」とは何かこの親子をとおして思考を促している。卓が父に会わなかった時間的不在か、かくしゃくとしていた父がボケた精神的不在か、父が愛していた直美と結婚しないで別な女性と結婚した精神と時間的不在か、直美が家を出た時、愛しい人の不在と自分自身の知性の不在か、卓が演技をしていて他の人になりきり自分が不在になっているのか、様々な思考を促す。
筆者の「不在」とは何か。真っ先にうかぶ言葉は「後悔」だ。筆者がやらなかったこと、決めなかったことに対する後悔。しかし、もしやっていて、決めていたら今の筆者は「不在」だ。
「不在」の反義語は「いる、ある」だ。卓には愛する妻夕希がいるし、演技への情熱はある。すべて現在進行形だ。反して父は、「いた、あった」のすべて過去形であるから今「不在」だ。「不在」と「いる、ある」はある意味表裏一体なのだ。現在の「いる、ある」が、いつ「いた、あった」の不在になるのか予測不能だ。それゆえ卓は施設の人にできる限り父に会いに来ると言う。ボケた父の「いる、ある」を目に焼き付けるために、父の「いる、ある」を想いだすために。
これは!
間違い?かと思う導入部、ガラス戸を閉めるとピタッと消えるBGM、鏡の使い方、アイドルのように撮られる真木よう子、ただならぬ映画の予感。
藤さんのサンセバスチャン映画祭受賞作がやっと観られた。老い、自分が無くなる事は世界共通、つくづく人間って面倒になったなと思う。所々で甦る愛情、こっちの方が双方ともに辛そう。またメメントだよ。
明らかに海外向けなエンディングにちょっと鼻白みますがね。
明らかになっていく事実が悲しい
認知症になった父が施設に入ることになり、20年ぶりに息子と再会する。
父親がそれまでの家族を捨てて一緒になった再婚相手は行方不明。
現在と過去の二つの時間軸で”壊れてしまった現在”と”壊れていく過程”が描かれる。
現実でもこういったことって起こりうるけど、それぞれ家庭を捨てて一緒になった二人には助けを呼べる人が限られるだろう。
息子の卓が二人の暮らしを知って徐々に言動が変化していくのがよかった。
愛とは?家族とは?
年を重ねてから見るともっと刺さるかもしれない。
藤竜也の圧倒的存在感
基本的に陽二と卓の父子関係を軸に敷いたドラマであるが、そこに認知症の怖さ、陽二と再婚相手の女性・直美の夫婦関係といったドラマも入り込んできて、何だか散漫な印象を持った。特に、終盤は父子の絆を描きたいのか、夫婦愛を描きたいのか。作品としての方向性に若干のブレが感じられた。
物語は、卓の視点で描かれる現在と陽二の過去に迫る回想。この二つで構成されている。このほかに直美の姉や息子、大学教授時代の陽二の教え子といったサブキャラ。更には直美の日記や陽二が残した手紙が出てきて、卓が知らなかった陽二の過去が明らかにされていく。この辺りは巧みに構成されていて引き込まれた。
また、認知症の怖さというのも本作は上手く表現されていたように思う。
印象に残ったシーンは2つある。
まず一つ目は、倒れた直美を陽二が置き去りにするシーンである。この時にすでに陽二には直美=妻ということすら認知できなくなっていたのだろう。すがるような眼差しで助けを請う直美が憐れに思えてならなかった。
もう一つは、施設に面会に来た卓に、陽二が過去の虐待を詫びるシーンである。卓にはそんな記憶が一切ないのだが、考えてみれば厳格な陽二なら躾には人一倍厳しかったかもしれない。虐待とまでは行かないにしてもスパルタ的な教育に繋がった可能性はある。
ただ、これはもしかしたら陽二の勘違いで、実際には直美に対する虐待だったのではないか…という想像もできるのだ。陽二は亭主関白気取りで直美は常にそんな彼に気を遣って寄り添っていた。直接的な暴力ではないが精神的に抑圧していたことは明白で、陽二はそれを混濁した記憶の中で申し訳ないと告白したのではないだろうか。そう考えると、このシーンにはゾッとするような怖さを覚える。
このように認知症を患ってからの陽二の言葉は、ほとんどが勘違い、妄想ばかりである。そんな彼に翻弄されながら、卓は父と正面から向き合わざるを得なくなっていく。改めて介護の難しさというものが実感された。
尚、映画はオープニングとエンディングで役者をしている卓の舞台稽古のシーンが挿入される。かなりアヴァンギャルドな演劇で最初は意味不明だったのだが、エンディングでその意味が判明する。要は卓と陽二のドラマのメタファーになっているのだが、これも中々面白い”仕掛け”だと思った。
キャスト陣では、陽二を演じた藤竜也の演技が絶品で、完全に独壇場と言った感じである。泰然自若とした物言いは受け取り方次第では時に冷たく感じられ、これじゃ家族崩壊も当たり前と容易に想像がつく。そんな彼が認知症を患ってからは一転。喋る言葉もあやふやになり、勘違いや被害妄想に取りつかれた憐れな老人になり果ててしまう。人間が人間らしく生きることの喪失、不安、苛立ち。それらが見事に表現されていた。
藤と森山のW主演
1 認知症が引き起こす家族関係の変化を描く人間ドラマ。
2 「藤竜也が本作の演技で外国の映画祭の男優賞を得た」との新聞記事を見た記憶がある程度の認識で見に行くと、そこそこ人が入っていた。粗筋は次のとおり。
主人公は元大学教授の藤とその息子の森山。藤は森山が小さい頃家庭を捨て、今の妻と再
婚。そのため森山と藤の関係は希薄で、二人の再会は藤の出奔後20数年を経てからのこと。それから数年後、森山は遠く離れて暮らす藤が前後不覚の状態で保護されたとの連絡を受けた。認知症であった。森山は藤を施設に入所。藤の自宅内部は荒れていて、妻は不在だった。そして・・・。
3 映画は現在と過去を行きつ戻りつながら、三つのことを描く。一つは、藤の認知症の進行具合。そして、愛情深く尽くしてきた妻の心が切れ決別してしまう夫婦の姿。二つは、森山の心中に長らく不在であった父との絆を繋ぐとともに父の足跡を辿ろうとする子の姿。三つは、藤の妻の行方探し。
4 本作の特徴は、第一に構成が独特であった。冒頭の緊迫感、前後する時系列。第二に印象的なショットの数々。①胸の痛みで倒れた藤の妻が離れていく藤の足元を窓越しに見るときの絶望的な目のアップ、②森山が義母の郷里で海岸に寝そべりながら藤が出奔前に書いたラブレターを読むシーン、③藤と決別した妻が郷里を彷徨い夜の海辺に佇むシーン。第三に謎めいたストーリー。森山が義母の行方について、義母の息子から義母の妹宅にいると聞き、そこを訪ねたが、妹からはいないと言われた。一つ前のシーンでは庭で姉妹が語らっていたが、これは姉が藤の家を出た直後と思われる。その後も姉は彷徨いその行方は謎のまま残された。
なぜか真木よう子さんが
長らく疎遠だった父親が認知症になって久しぶりに再会した息子が、互いに離れていた間の父の暮らしと向き合うお話です。
言う事がフワフワしているのに、恐らく生来の権威主義的態度を秘めた藤竜也さんのリアリティが凄まじく、「このお父さんはもしかして詐病なのか」とすら感じさせ、観る者を惑わせます。それと向き合う息子の森山未來の眼差しも繊細です。
でも、なぜなのでしょう。僕は本作で、森山さんの妻を演じる真木よう子さんが最も印象に残りました。特に、強さや激しさがある訳ではなく、記憶に残る台詞がある訳ではありません。でも、第三の眼としての穏やかな佇まいが静かに染み入って来るのでした。
ツカミとオチの落差、恋文朗読は不要。
強いツカミとその回収としては余りに弱いオチとの落差で一気に鼻白んで幕。
恋文上手のインテリ男女の古き良き恋愛、
回想シーンが無いのは買うが、
恋文朗読は脚本家の文章力を披瀝するだけだから不要。
ツカミを弱く、恋文朗読が無しなら支持したかも。
竜也の演技は新味と評すが。
延命措置についての同意に関する姿勢の変化
観るかどうか迷っていて、再上映に架かったので、観ることにした。序盤はわかり難く、人物設定が理解できなかった。施設で卓が夕季とともに陽二と面会する場面から、少しずつ事態が飲み込めてきた。どんなに立派な施設でも、多少は不自由を感じて刑務所にいるような感じを受けるのは仕方のないことなのだろう。森山未來氏も藤竜也氏も、これまでの役柄と比べて違和感なく演じていたが、真木よう子氏は、終始大人しかった。
突然、陽二の家で卓が食事を食べることになったり、直美が出てきたりで、戸惑った。日記に綴じ込まれている恋文が卓や直美によって繰り返し読まれ、その度の陽二の反応が違っているが、観客にはだんだんとその意味がわかるようになっている。
卓が直美の連れ子正彦と会い、話し合いをもち、その後、正彦の話に疑念をもち、直美の行方探しを始め、妹の朋子とは会うことができ、裏づけは取れたようだった。
施設での延命措置についての同意に関して、当初は責任回避の姿勢をみせていたが、終わりには終身刑のように妄想に取り憑かれる時間を長らえる途を指示していたように感じた。
北九州ナンバーの車から、ロケ地の多くがその辺りだったようだ。九州工業大学の研究室も出てきて、利重剛氏が陽二を慕う大学教授を演じている。海に続く電柱の列が、干潮で道路である場面が出ていたが、近場では熊本県宇土市にあるようだ。
俳優陣の演技が素晴らしい!
藤竜也・森山未來をはじめとする俳優陣の演技が
とにかく素晴らしく没入できました。
時間軸があっちこっちするので、なかなかついていくのが難しかったのですが、
・陽二に認知症の兆候があらわれる
・ふたりで買い物に行った際に直美が倒れる
・直美の妹が陽二の面倒を見にくる
・↑この後に直美は陽二のところへ帰ってきている
・陽二は直美を送り出し、警察へ電話(間違い電話?)し、事件が起きたと言う
・警察がくる(特殊部隊ですよね)
↑
で、おそらくこの後に陽二が施設に入ることに・・・
こんな感じで理解しました。
陽二に認知症の兆候があらわれたら直ぐに病院に行かなかったのかな?や
最後に家を出る直美はどこへ行くつもりだったのか、ここが本当の別れのシーンだったのかな?や
とはいえ、施設に入った陽二は心配にならなかったのかな?など、たくさん疑問は残りましたが
なんとなく解釈をして、見終えました。
藤竜也さん、本当にすごくリアルな演技で怖くなりました。
一方、森山未來さんの淡々とした口調も、平坦でありながらも、最後の最後は父親に寄り添っているところを
うまく演じていらっしゃいましたね。
なんといっても真木よう子さんが美しすぎて眼福すぎて話が入ってこない的なところもありつつ、
俳優陣の演技を堪能させていただきました。
さらっと観るとさっぱりわからない・・・しかし
幼い頃に自分と母を捨てた父が警察に捕まった、と連絡を受け、久しぶりに父・陽二を訪ねることになった卓は、認知症を患い変わり果てた父と再会した。そして、父の再婚相手で長年一緒に暮らしていた義母の直美が居なくなっていた。何があったのか?と、卓は父がどう生活していたのかを調べ始めた。父の家に残されていた大量のメモや手紙、そして父を知る人たちを訪ね、そこで聞く話、卓は父の人生を知ることになり・・・てな話。
本作品、さらっと観終えての感想は、???だらけだった。
直美さん、実際はどうなってるんだろう?というのが最大の疑問だった。
あまりにレビューが書きにくく、ほとんどした事がないが、信頼できる素晴らしいレビューアーさんたちのレビューを先に読んでしまった。
そういう事か、といちいち納得。
若い時から理数系で文学脳を持たず、今でもこういう実在するのに不在みたいな作品は苦手です。
認知症になった人が主人公だと、何が真実で何がその人の妄想なのか観ている他人にはわからない。
ましてや、直美の息子のように金目当てでウソをつくような人まで出てくると話がこんがらがって、サスペンスみたいな感覚を受けた。
そうなってくると、直美さんの妹も本当の事を卓に言ってるのだろうか、とか、友希さんは大丈夫なのか、とか登場人物全てをうたがって観てしまった。
そのくらい、卓役の森山未來を含め、父・陽二役の藤竜也、卓の妻夕希役の真木よう子、義母・直美役の原日出子、などの演技は素晴らしかった。
直美の妹役の神野三鈴もさすがだった。
ストーリーを理解した上で、もう一度観たい、そう思える奥深い作品だった。
世界中が敵
日本映画で幾度となく描かれてきた認知症。実体験している人の手で作ることは難しいため、多くは第三者視点で物語が進む。しかし、本作では認知症の父を持つ息子・卓を主人公に当てながらも、その父・陽二の目線からも病の恐ろしさが描かれており、見たことの無い演出に心奪われると共に、彼の目に映る世界から遮断されたような絶望に、とにかく胸が痛くなった。
時系列がばらばらで、記憶も断片的。映画の構成すらも認知症を患った人の頭の中。世界中から狙われている。スクリーンを間違えたのかと思った驚きのスタートは、映画が終わりに近づくと同時に納得し、そして体感したことの無い複雑な感情で心が破裂しそうになる。
スクリーンデビュー60周年を機に、映画出演作が相次ぐ藤竜也。昨年の同時期に公開された「高野豆腐店の春」も良かったが、本作の藤竜也は言葉を失うほど。元大学教授であるため、常に社会問題や世界情勢に目を向けていたのだろう。柔軟性がなく、頑固な性格だが、丁寧な物言いで知的な雰囲気が身から漂う。そんな人が認知症を患ってしまったら。無理難題といえる役柄を彼は見事に演じきった。それどころか、監督の想像の範囲を大きく超えてしまったのではなかろうか。まさに、怪演という言葉がふさわしい。メジャーな作品では無いけど、今年のアカデミー賞には是非ともノミネートされて欲しい。一見の価値あり。
演劇を入れてくる映画はあまりいい思いをしたことがない。本作においても、他の演出やメッセージ性は素晴らしいのだけど、演劇があまり機能しておらず、このせいで安っぽい雰囲気が出てしまっていた。激重テーマを扱っているにもかかわらず、一種のエンターテインメントとして面白い。すごいなぁと感心していたポイントだったから、ここに演劇の面白さも加われば、もっといい物になっていたんだろうなと。最後があんな感じだと、なんだか締まりも悪いし、せっかくならバチッと決めて欲しかった。
この点数だから、正直全て理解出来たわけじゃないし、この映画のことを全面的に受け入れられる訳じゃないんだけど、ストーリー概要からは想像し得ないストーリーでかなり面白く、色々と考えさせられる力作だった。何回も見たり、解説を読んだりして、長い時間をかけて味わう作品。こういう映画に出会えるとは思ってなかったから、テンション上がっちゃった😁
老いた、大嫌いな父が・・・
藤竜也の年老い認知症に成った親父が秀逸、大学教授を終えて知的で気の合わない父が・・・
今まで彼の演技を気にした事(ごめんなさい)はなかったけどあまりのリアルさに引き込まれました森山未来含め他の俳優も良い隙間が有りません、途中我に返った無器用な父の子に対する謝罪はそれぞれの立場で誰しも心当たりが有るのでは、人は皆何時も迷って活きている
ラスト、一瞬の平常に戻った親父の決断と結末は強引にも思えるが原作はフランス、彼方の司法機関ならあの最後(銃声)は有り得るのだと思った。
放置はいかん
藤竜也と森山未來の組み合わせなんて、期待しかない! が、ちょっと内容が…。父と息子の関係なのか、父とその妻の関係なのか、どちらを重点的に描きたかったのか、よくわからなかった。不在って、誰が誰にとってなの? 藤竜也の演技はとても良かった。森山未來も良かった。二人とも脚本をより膨らませる演技をしたのだと思う。他のキャストも、与えられた役目はきっちり果たしていた。なので、大変もったいない作品であった。
変貌
なんとなくサスペンスって印象があって見に来たのだけれど、老人が痴呆になっていく過程の話だった。
特にサスペンス要素などない。
予告を誤解していたようだ。
だってね…直美を探したところで何かの真相に行き着くわけでもないし、誰かの無実が証明されるわけでもない。彼女はキーパーソンでもなんでもない。
必要性が薄いのだ。
今すぐに見つけなきゃいけない理由がない。そりゃいつか会わなきゃいけない人ではあるけれど、いつかでいい人物なのだ。
金を請求してくる息子への反証の必要性もない。
だからサスペンスでもミステリーでもない。
探す理由があるとするなら、老人ホームに入った父のお世話をしてもらうくらいのもんだ。
父の口から直美への執着が吐露される事もない。
冒頭、森山氏の一人芝居があって…人が溶けていくように見える身体表現がさすがだなぁと唸る。
そのワードが頭にこびりついて、以降ボケていく様が「溶けていく」ように感じてた。
形ある厳格だった父から、記憶なんかが剥がれ落ちていき父親像は溶けて歪な者に変わっていく。
そんな状態と重なってくようだった。
物語の時系列は逆行したりもして、何故だとも思うのだけど、痴呆症が進行していく脳内の表現ならばありなのかなと思う。泡のように消えたり、唐突にごくごく自然に認知できたり。
とまぁ、なかなか込み入った作りだったりもして、含みもあるような設定と展開ながらも、作品としてはイマイチつまんなかった。
藤さんの怪演は見ものではあるけれど。
「海辺のリア」をやった仲代さんは、どっか狂ったような感じであったのだけど、藤さんのソレは怪物のようだった。
外見も本人だし、思考も本人のソレだし、話し方もなんら変わらない。ただ、およそ本人が話すであろう内容とかけ離れてる事を喋る。
虚空に目線が泳がない。
むしろ対象から視線が剥がれない。
淡々とした口調で信じ難い主張を繰り返し、ジッとまるで目の奥を覗き込むような視線が剥がれる事がない。そんな視線を浴び続ける息子は恐怖そのものだったんじゃなかろうかと思う。
空き家のような感じだろうか?
外観は変わらないのに、屋内は荒れ果ててたときのような不気味さが藤さんにはあった。
……。
うーん、やっぱ正直に書くか。
正直、気持ち悪いのだ。
痴呆症が、ではなくて監督の思い入れが。
いや、あるのか無いのかわからないよ?
でも、そう感じてしまったんだもの…痴呆症を患ったお父さんの事好きだったんだろうなぁとか、懺悔なのかなぁとか。タイトルからして「大いなる」なんだもの。
本人に何を語りかけても蓄えられていく事はなく、不在と言えば不在だ。
確かに居たんだ。今は居ないだけなんだ。
でも帰ってくる事はないんだよ。
大いなる不在が誰かの事ではなく、痴呆症の事だとして、老人が行使する特権なのだとしても簡単に受理はできないし享受するのも難しい。
ただただ受け入れるしかない。
どんなお題目を並べたとしても当事者の救済や軽減にはならないのだと思われる。
突如、変貌した父に巻き込まれていく息子は、拒絶も放棄もしなかったけど観察はしてた。どこか他人でラストに至り邂逅したようではあったが。
そこら辺りが懺悔に見えちゃったりする…。
人が溶けていくように歪な者に変貌していくとして、最後に残るのは何なんだろうと考えた。
父は人生の大半を占めていたであろう直美さんとの愛情も忘れた。忘れてしまった事への自覚もあったような描写もあった。直美さんは旦那さんが全てだったのだろうと思う。彼と暮らす為に色んなものを捨てて一緒になったようでもあったし、彼女としては旦那さんとの愛ある生活だけが、彼女が彼女を許していける唯一のモノだったようにも思う。
それが失われた。
他でもない旦那さんによって、泡のように消えた。
人格は残ったのかな?
体裁と言ってもいいのかもしれないけれど、体外的な印象は保とうとしてるような雰囲気だった。
藤さんの芝居を見てて荒唐無稽な発言も多いけど、その裏にはソレを肯定するものが本人の中には必ずあるような印象だった。
その何かを把握できれば対処もしやすくなるかなと考えなくもない。実際はわからんが。
そんな中で、息子に対する情だけが無くなる事はない。
…そんな都合のいい事あるの?
いや、あるんだろう。無いとは言い切れない。
が、どうにも粘着質な空気を嗅ぎ取ってしまう。
どのような解釈なら父を卑下しないで済むのか、父の尊厳を保ってあげられるのか…そんな意図があるような気がしてならない。
藤竜也さんが好きだから観にきた。
やはり名優だと何度も思う。昔からそうなのたけど、台詞に気負いを全く感じない。その時生まれたかのような言葉が発せられていく。
痴呆症って役所を鑑みて、所々アドリブだったりワザと変えたような箇所もあんのかなと邪推してしまうくらいだ。
原さんは、復帰作なのかな?久しぶりに拝見したが、お元気そうで何よりだった。
真木さんは…日本語のアクセントが妙で、英語脳にでもなってるかのようで、舌が日本語用じゃないような印象だった。
あ、原さんの妹はナイスなキャスティングだった。何だろ?艶っぽい空気感があって「乱暴された」って状況に説得力をもたらしてくれてた。
言うなれば、崇高なテーマがあったのであろう本作の大半を俺は汲み取る事ができませんでした。
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