僕の中に咲く花火のレビュー・感想・評価
全3件を表示
若さと未熟さと閉塞感
良かったです!
高校生の主人公の稔は、小学生の頃の母親の死がまだどこかで受け入れる事ができず、どうしても亡き母につながりたくて、怪しくて危険な道に足を踏み入れようとします。
妹は引きこもり状態で、再婚を考えていると話し、亡き母の遺品の処分する父に反発して家出しても、結局は行くあてもなく、自宅に戻るしかないのです。
若さや未熟さ、行き場のない想いから来る閉塞感が岐阜の田舎の風景と相まって、とてもよく表されていると思いました。今の私には若さって眩しいし、素敵なものだけど、若い時は確かにこんな向こう見ずな危なっかしさや辛さもあったなあとしみじみ思い出させてくれます。
気になることはあったんです。そんな汚れた服で居酒屋行っちゃうの?とか、焼肉屋の帰り、お父さん鍵預けちゃうんだ…とか、妹さんの葬儀の場面とか…。
でも町の暗さ、外で高校生がタバコ吸っちゃうような緩さ、こじんまりした花火大会、ふるさとを出てお盆に帰省してくる人、田舎独特の夏のちょっとした異界感や雰囲気がよく出ていました。
最初のコメントにも書かれてましたが、ラストシーンがとても良かったです!あの1日の終わりを告げるメロディと夕暮れの暗くて赤い川原、私は子供の頃に大垣に住んでいたのでなおさらですが、時間を巻き戻したような懐かしさや、何ともいえない気持ちが溢れてきました。
朱里さんも居酒屋の主人も、主人公を取り巻く人たちはどこか優しいし、父親とのわだかまりも溶けていきそうです。でも必ず最後は1人で立ち上がらなければならない、という厳しいメッセージもあったような気がしました。
とても若い監督さんとのことで、今後もとても期待しています。
最後に…あちこちさりげなく、スポンサー企業が劇中に出てくるのが、ちょっとした楽しみでした。
喪失との葛藤。びっくりするほど素晴らしい映画!
先行上映での鑑賞。人気のないマイナー系の映画ですが、今年観た中でも上位に入ってきそうな息を呑むほど素晴らしい描写の映画でした。
主人公の稔の母の死から始まる物語は、誰もが起こり得る内容で、全体的に暗い影を落としています。
喪失との葛藤で、稔も妹も引きずってしまい、心の拠り所を探しているように感じました。
稔が出会った朱里が「私はずっと1人だよ」というセリフにあるように、結局最後は、人間は自分で考えて行動していかなければいけないのだなと感じました。
人間の普遍的な内容を様々な描写で、見る者に訴えかけてくる珠玉の作品です。
新進気鋭の新人映画監督 清水友翔の半自伝的夏物語
【初めに】
昔ちょろっとだけご縁があった青年が映画を撮った。そこで、今回の映画評は、客観的視点で書く事が大変難しい。ごりごりの主観と、ともすれば身内贔屓な評価で論じられるものだとご理解頂いたうえで、私の拙い感想を読んで頂けるとありがたいです。
【あらすじ】
原風景の広がる岐阜県の、恐らくは監督の出身地周辺をモチーフに、そして何シーンかは恐らく、実際にロケ地としても撮影され、多分ほぼ全編、岐阜県をロケーションとした本作。小学生の頃に母を病気で亡くした主人公、大倉稔。高校生になった彼は、仕事等でほとんど家に帰ってこない父や、不登校で中学校に行けていない妹の鈴、祖母の4人で暮らしており、鬱々とした日々を過ごしていた。そんなある日、テレビで観た、死者と交流できる霊媒師を訪ねた稔は、それをきっかけにドラッグに手を出してしまう。そこへ、東京から神戸町へ帰省してきた女性、朱里との関係が加わり、彼の鬱々とした日々は目まぐるしく動いていく……。
【超主観的批評】
映画を観る前は、監督の自伝的な作品なのだろうと思っていた。観終えてみると、彼の少年期の体験はエッセンスにありながら、今の彼が伝えたい事を表現した作品であると感じた。
まず初めに思ったのは、ロケーションとしての岐阜の素晴らしさ。超田舎なんだけど、この原風景が、観ている人にノスタルジーを感じさせ、どこか懐かしい気持ちにさせるのだと思う。オレはまぁまぁな地元ってバフもあるから、なおさらだね。
特に序盤は、監督の少年期の思いが、そのまま稔の心情なのだろうと思って、かなり監督と稔を重ねてみてしまった。だから、普通の映画評にならんのよね。母を恋しく思う気持ち、そんな母を忘れたかのように何事もなく日々を過ごす父への反発、世話焼きで優しいけど、その優しさを煩わしくも感じる祖母、不登校でずっと家に居る妹……。誰が悪いわけでもなく、母の死が、稔を始めとした登場人物達に暗い陰を落としている。この辺が、稔なのか監督なのか、知りもしない彼の当時に思いを馳せる等して、厄介オタクのような気持ちで観ていた。
父の「自立しろ」という言葉は、ある意味的を射ていて、要は稔はお母ちゃんの事を引きずりまくりなのだ。今でも母との繋がりを求めて、だから母が亡くなった廃病院に無免許運転で車を乗り付けて不法侵入をしたり、テレビに出ている怪しい霊能力者を訪ねて、故人である母と繋がろうとする。行動に移すかはともかく、故人を偲んで、できる事ならまた言葉を交わしたいという思い自体は、知人の死を経験した人なら、理解できる感情だと思う。
そこで、怪しい霊能力者から斡旋されて、ドラッグのバイヤーに会いに行った稔の行動は、理解できないものではない。不和である家族への反発もあっただろう。
ただ、オレは正直、ドラッグの件はなくてもよかった気がしている。形振り構わず母を求める稔のエピソードとしては、分かり易いといえば分かり易いけど、その後の展開に深く関わってくるものでもなかったしね。単純に、清水友翔監督の描きたかったものは、ここではなかったという事なんだろうけど。
あと、バイヤーのおっちゃんは、実は心底悪い奴ではないのかもしれないなんて思いながら。一応、稔が薬物の世界に入って来ないように、やんわり止めてくれてたしね。でも結局は稔がどうなってもおっちゃんには関係なくて、最後は引き込むような描写があったから、やっぱ悪い奴 笑
なんやかんやあって、バイヤーのおっちゃんからドラッグを盗んで乱用した稔は、朝帰りの道で、再び朱里と出会う(これより前に出会っていた)。稔がドラッグを使ったと告白した事を、すんなり受け入れた朱里やおでん屋のおっちゃんどないやねんとも思ったけど、このおでん屋でのおっちゃんのセリフが、実は清水友翔監督が1番描きたかった事なんじゃないかと思う。これは後で書く、忘れなければ。
家に帰ると、お父ちゃんが亡き母の遺品を捨ててたり、新しい彼女が居ると報告したりで、稔くんそりゃもうおこ。「家族が邪魔なら出ていけ」と吐き捨てる稔に、「嫌ならお前が出ていけ」と売り言葉に買い言葉で返しちゃうお父ちゃん。ムカつくのもわかるけどさ、それはダメよ、お父ちゃん。
家出した稔は、三度、朱里と出会う。朱里が、亡くなったお婆ちゃんの遺品を捨てているのを見て、ちょっと大人になる稔。遺品を整理する事は、故人を蔑ろにする事ではない。同じ遺品整理という行動を、不仲のお父ちゃんではなく、ちょっと気になる近所のお姉さんである朱里を通して見た事で、そう気付けた稔。いや、気付けたというか、認めた、かな。理解はしてたと思うんよね。お父ちゃんがやってるからムカついただけで。
稔自身も、朱里に手伝ってもらって、お母ちゃんの遺品を燃やす。演出上の事やと思うねんけど、なんで1袋目はそのまま燃やしたのに、2袋目はわざわざ中身出して燃やしたんかなー、とは思った 笑
そんな中、妹の鈴が突然亡くなってしまう。明確な描写はないけど、多分、自死なのかな。稔を含め、学校復帰への周りからのプレッシャーもあったのだろう。実は、清水友翔監督には妹はいない。そんな妹を登場させたのは何故か、ぼんやり考えながら観ていた。観終わった今の理解は、彼女は死ぬべくして登場した。物語ではよくある事だと思うんだけど。
小学生であった稔にとって、母の死はあまりにも大きすぎた。高校生になった今でも引きずるくらいに。そして、自分の辛い気持ちを、家族に向けてしまった。家族も、自分と同じように母を亡くして辛いとは、彼には思えなかった。もしくは、家族にヘイトを向ける事で、曲がりなりにも母の死と折り合いながら生きていくエネルギーを得ていたのかもしれない。
そして、高校生になった今、今度は妹が亡くなった。
妹を亡くした稔は、生前に妹と話していた(大垣?)花火大会に、朱里と行く事になる。
ここの撮影って、実際の花火使ったんかね?2人が歩いてて、コンテナに写る花火の色で表現されてるところがエモくて懐かしくて心えぐられてました。その後、土砂降りの雨から逃れた廃トンネルみたいなとこで、稔と朱里は求め合う。うん、だからちょっと生徒にはお勧めし辛いわ 笑
ただこればっかりは、稔にとっては必要な事だったのかな、と思う。母の死に対して整理がつき始めた矢先に、今度は妹を亡くしてしまった稔。そんな稔にとって、身近にいた縋れる女性である朱里は、まぁ都合が良かったのだ。稔は、朱里に母性を求めていた。もちろん、母とセックスしたいみたいな話じゃなくて、まぁ男ってのは、女性に多少の母性を求めてしまうものなんですよ、多分。またしても家族を失ってしまった喪失感を、都合よく朱里で埋める稔。朱里は……まぁ、朱里も都合よく稔を使ったんだろうね。ちょっと前に男女間で色々あったっぽいし。事後の朱里の何でもなさそうな感じは良かったけど、稔くんは些か落ち着きすぎてやいないかい?君、高校生やんな?笑
まーた朝帰りした稔は、自宅の鈴の下へ向かう。そこで、父からどこへ行っていたか詰問され、花火に行っていたと答える。それに対して父の言った言葉は、
「キレイだったか?」
だった。これ、ここでお父ちゃんに怒られる展開か、どっちなんやろうなー……って思って観てたから、お父ちゃんがすげぇ大人で良かったなって思いました(小並感)。稔が無事に帰ってきてくれて、嬉しかったんだよね、お父ちゃん。
ご遺体を燃やすシーンは、ウチのじいちゃんを燃やした時の事を思い出す等した。ウチの時はまだコロナ禍で、親父しか収骨できなかったんだよな。
高校生になった今、鈴の死の悲しみを周囲と共有できるまでに成長していた稔は、この出来事をきっかけに態度を軟化させる。
父の彼女が、肉じゃがを作って持ってきてくれた時、稔が
「折角だから、一緒に食べますか?」
って聞くんだよね。いやお前作ってきてくれた人やぞって話なんやけど、稔にとっての精一杯の歩み寄りであり、彼なりの和解なんよね。
それが、お父ちゃんと焼肉行くシーンや、父ちゃん婆ちゃんと稔の3人、家で飯食うシーンに表れてた。
おでん屋のおっちゃんは言った。
「寂しい時は、温かい飯食って、人と話せば、体と心が温かくなる。それでいい。」
……的な事を。特に、最後の家族で飯食うシーンは、ほぼ誰の喋らなかった。おでん屋のおっちゃんのインサートもなかった。だから良かった。ただ家族で集まって、黙って飯を食う。それだけでいいんだ。それだけで、人は繋がれるんだっていうメッセージ。
最後に、ぐっときたシーン2つ。1個は、お父ちゃんと焼肉行ったシーン。ここで、稔はお父ちゃんに、お母ちゃんが好きだったかを聞く。お父ちゃんは、好きだったと素直に答える。本当、それだけ。自分と同じように、家族も母を大切に思っている……それだけで良かったんだよね。だけど、それが理解できなかった。理解しようとしなかった。それを、言葉にして聞いて、言葉で聞けた事で、彼は父と和解できたんだと思う。
あと1個は、超個人的な話なんだけど、最後の河原のシーンで17時前後に流れる夕焼け小焼けの放送入れたの、マジ天才かと思った。あれ、地元の人ならほぼ100刺さると思う。オレみたいなガキンチョにとって、あのチャイムは1日が終わるチャイムなんだよね。そっから家帰って、飯食ったり、風呂入ったり、テレビ観たり。
別に家が嫌とかじゃ全然ないんだけど、終わりを感じさせる心に染み付いたメロディ。あそこで、様々思いを馳せて涙を流す稔。
あれ、チャイム原曲を使ってんだよね、多分。アウトロのメロディや、ちょっと遠いスピーカーから遅れて聞こえてくるところまで、もう全てがエモい。
タイトルである、僕の中に咲く花火。
これは、人との繋がり、なのかなと思った。ちなみに線香花火のシーンめっちゃキレイだった。
後になって改めてパンフレットを見た。
『この夏、静けさだけが残った』というキャッチコピー。つまり、最後の団欒は、静けさだったんだな。花火の後の、祭りの後の静けさ。終わってしまってどこか寂しいような、でもその日の出来事を胸に抱いて、愛おしいような静けさ。
【終わりに】
超主観的で雑多な感想になってしまいましたが、読んで下さった方がいたら、感謝。監督が海外で映画の勉強してるってのは聞いてたけど、高校中退して渡航したのは知らなくて(忘れてただけかも)、1本映画が撮れて、それが劇場限定ではあるけど全国公開もされて、ほんまに凄いし頑張ったねの気持ち。
たまたまネットで本作の記事を見付けて、監督の名前にぴんと来て調べたら、公開日がすぐそこであっという間に視聴までこぎ着けた。
色んな資料を読むうちに、清水友翔監督のこんな言葉を見付けた。
『映画を作るお金もなく、人望もなく、経歴もないところから、周りの方々との出会いのおかげで映画を撮ることが出来たからこそ(中略)社会はひどく冷たいものではない、その隙間にはちゃんと人と人が手を取り合う温かみがあると、皆さんに対して言い切ることが出来ます。』
彼が映画監督として、立派に一作撮り終えて、公開までされたって事で、概ね同意なんだけど、1つだけ反対したい。
そういう文脈じゃない事は重々承知なんやけど、君、人望はあるやろ。だって、良い奴やん?心の中に稔のように鬱々とした思いを抱えながら、だけど素直で明るく、笑顔の素敵な君は、きっと多くの人の心を動かしてきたのでしょう。だから、沢山の人が手を差し伸べ、素敵な作品ができた。
これからも映画監督 清水友翔の作品を、地元映画館で観られる事を願って。
全3件を表示
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。