「生きることへの渇望」市子 moo*さんの映画レビュー(感想・評価)
生きることへの渇望
市子は市子として生きたかったんだよね。
人は簡単には変われないとも思うし、二面性・三面性もあるとも思う(家族の前での自分、友達の前での自分、職場での自分…)。本当の「市子」はどの時だったのか?を考えてしまった。
幼き頃の家族写真に写る市子は間違いなく市子であった。そこから20年弱の時を経て、現在28歳の市子が市子として生きていけることを望みたかった。
しかし、物語終盤、彼女に想いを寄せ彼女を助けたかった高校の同級生と、自殺願望のある女性が乗った車が海に沈む。(何らかの方法で市子が車を沈めた、または死を仕向けたと思われる。)
誰かの死と引き換えにしなければ身分さえ手に入れられないという闇。でも、そこまでしても市子は生きたかったのだと。
独りよがりの生への渇望とも思えるが、オープニングとエンディングで市子が鼻歌で歌っていた童謡「にじ」。自ら殺めてしまった障がいをもつ妹の寝床の天井に描かれていたのも虹。それが繋がった瞬間、自分のためだけじゃない、死んだ妹の分も生きたいのではないかと思った。
市子の母親もにじを口ずさんでいた。徳島を訪れた長谷川とのシーンからも分かるように、愛する娘を殺したくなんてなかったはず。でも、介護に疲弊しきっていた。
月子が息を引き取ったあと、母親が市子に掛けた「ありがとう」が何とも重く切ない。母親のためというのもあったのだろうか。月子の呼吸器を外す前、月子の身体を拭いた後「暑いな」と声をかける市子の顔には滴るほどの汗。
劇中はどこをとっても夏のシーンなのだが、この汗が、生きることへの苦しみも表現しているように思えた。月子をこの苦しみから解放してあげたかったと同時に、自分への解放でもあったのだろうか。
同棲する長谷川の家で作ったクリームシチューを少しずつ頬張る市子。小学校の同級生梢の家で出されたショートケーキを上品に食べる市子。(大人になってから下宿先のキキがくれたケーキを食べる時もとても丁寧。)長谷川と初めて会った場面で、縁日の焼きそばを静かに口に運ぶ市子。
それとは対照的に、自分の弁当を溢され「夕飯どうしてくれんねん」と激昂する小学生の市子。涼しい顔して万引きをする市子。高校の時の恋人宗介との熱い口付け。夕立の雨に打たれながら「最高や」と叫ぶ市子(乾ききった市子への潤い)。
冒頭にも書いたが、どれが本当の市子なのだ?となる。観終わって思うのは、長谷川の前での彼女は取り繕った市子なのでは?ということ。それとも、本当の市子として生きられていると感じていた矢先、長谷川からのプロポーズによって自身の身分の闇に改めて触れてしまったのか。
母親が働くスナックで、市子ではなく月子と呼ばれているシーンで、市子は戸籍がないのでは?と推測し、婚姻届を拒んで失踪した理由とも繋がった。でもここではまだ月子との関係がわからない。
そして、刑事さんが長谷川の家を訪れたシーンで市子は87年生まれという情報が出てからは、自分より3歳年上ね、という視点で観ていた(私自身が90年生まれ)。しかし、高校生のシーンで記された西暦におや?と思う。ゆうに高校生である年齢を越えているはずでは…。一瞬、計算を間違えたかと思ったが、月子のことを含めて後にそういうことだったのか!という伏線回収に繋がった。構成が秀逸である。
現在も過去も、描かれているのは夏。その描写がじわじわと身体に入り込んでくるようで、観終わったあととても喉が渇いていた。乾くということは、潤いを求めて生きているということだ。
はじめまして
「そばかす」に共感ありがとうございます。
本当に蝉の鳴く真夏の場面ばかりでしたね。
その汗の滴りが、生きることへの苦しみ・・・を表現・・・
市子の2面性、3面性、
私には終盤の車の事故・・・殺人を手伝ってストーカーになる
高校の同級生と自殺願望のの2人でしたか?
そこが私、見落としました。
具体性のない描写もあり、
(市子の殺人などは想像するしかありません)
ここまで観る人々の心に訴える作品。
わたしはそこまで入り込めず残念です。