悪は存在しないのレビュー・感想・評価
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悪は存在しなくても、衝突も罪も存在する世界
冒頭から映像と音楽を贅沢に味わい、自然の恩恵と不穏さにゆっくり浸る。
ストーリーとしては八ヶ岳でのグランピング施設のための説明会、それに携わる二人の心情が語られ、無機質な悪でもなくどこにでもいる自然体な存在だなと感じる。
やはりこの物語はまさしく「悪は存在しない」なのだと思う。手負いの鹿が稀に見せる凶暴性、嫌悪感や怒りはあっても普段は抑え振るわない暴力の存在。それは悪とは言い難いはず。仕事で担当だからと結果的に水を汚してしまう人も、手負いだから興奮して人を襲う鹿も、悪ではない。ということは、なされた罪の多くは悪の問題ではなくて。
自然体な物語だけど、ラストの展開はまさに手負いの鹿の豹変のような、起きないはずのことが起きたと感じさせられた。ただ、ここの解釈がここまでブレるのは想定内なのだろうか。
私としてはどちらとも解釈できるような曖昧さとか、そこをはっきりさせることは重要じゃない描き方というのは、基本的に嫌いじゃないほうなのだけど、この作品については、ラストの展開とその語られなさはあまり好みじゃなかった。映画は答えを提示するものであるとかその答えが関心事だとは思っているわけではないけど、あまりに解釈のブレを招いてしまう突き放し方で。答えを求めるのは貧しい考え方だという指摘は、監督の知性からすれば酷くブレる解釈をする層はおよびじゃないということなのかなと思うけど、うーん…
悪は存在しなくても、相互理解は容易じゃない。
自分の解釈としては、たくみのあの行動は悪がゆえではないよ、でも罪ではあるねってことかと。悪じゃなくても罪はおかされる。手負いの鹿の暴走のように、声を荒げることのないたくみが暴走をしてしまう。なぜ暴走したのかは、娘を失ったことを東京から来た薄っぺらい男に結びつけたか、それともただやり場のない怒りが彼にむいたか、その原因はたくみにもわからないかもしれない。ただ、たくみはずっと怒りをためていたはず。黛と対比するかのように、高橋は、無責任で無神経でしかも結果的に罪を犯すであろう人間として描かれていたし。
どこかで響いた銃声によって手負いとされた鹿がはなを傷つけ、はなは死に、そして遠目でもそうと確信したたくみが暴走をする。
ラストシーンは、はなを抱えたたくみなのかな、息遣いのみ聞こえる。映画冒頭の雄大さと不穏さのコラボがここでも。無力で不穏でちっぽけな、それでいて必死な息遣いで幕が閉じられる。
うーん。
唐突過ぎ!
惹き込まれて面白い作品だなと思いながら観ていたのに、唐突な終わり方に呆然とした・・・
なぜ、失神するほど羽交い絞めにする必要があったのか。
全く理解できないという思いだけが強く残ってしまって、何か台無しになった感じです。
「上(上流)」を目指し迷子になった監督は存在する
スパイの妻やドライブ・マイ・カーは良かったからあえて点数を低くする。
出口が見えないから適当に作ってお前ら自分で考えーみたいな監督メッセージ。
そもそも二項対立を崩すようなタイトルこの題材にした時点で、面白くなるのはキャンプ地建設の成功とか失敗とかそういう予想のつく円満な話じゃなくなり、
監督の表現ともっと奇抜でもいいから観客を驚かせる何かの結末が肝心になる。
それを意識しながら答えを求めた果てに放棄した監督の姿がどうしても目に浮かぶ。
後味の悪い映画だ。
そのせいで前半の森に誘い込むような空ショットも台無しになり、
リアリティを追求してるかのような奇妙な角度からの撮影も、観客を揶揄うような作者の狡賢さを示唆してるみたい。こんな悪意で考えてしまいとても残念だった。
現実的かと思いきや!
現実的な作劇かと思いきや、神の領域を描いた快作!
●生きる場所、立場が違えば善悪の見え方が違ってくることが伝わってくる。その描き方がリアルで面白かった。
善悪の判断は神の領域。だからこのタイトルなんだろうな。
●会話がいい。少なくとも社会人なら身に覚えがあるような内容が共感できる。
そうそう、自分やまわりもそうだよな…と。
●キャラクターもいい。こういう人、現実にいるよなぁ…と思わせる。
●ラストは意味不明…というか監督が観客に仕掛けた時限爆弾と思う。
これ、いろいろな解釈ができる。主人公は娘の死を隠したかったのか?楽園の存在を隠したかったのか?矮小な自分を自然に紛らわせたかったのか?
人によって解釈はわかれるだろうな。
社会派ドラマであると同時に重層的に人もあるがままの神域の住人であると描いていると思う。面白かった。
サブミッションの名手
映画祭の箔が付いているからか、有難がっている方が多いのに驚きました。
アート的な画をテンポのろく繋げば芸術風映画の出来上がり。濱口さんの映画は初見なのですが過去作もこんなもんなんですかね?去年の東京フィルメックスがこの手の映画ばかりでウンザリしたのですが、自分には本作も同列にしか見えませんでした。
とはいえ無名の俳優を使い、雰囲気で書いた第一稿をそのまま撮れ、それでも監督の名前で客を集められる、本当に素晴らしい事ですね。観客に向き合い、表現に腐心している名も無き監督たちが気の毒に思えます。
唯一の救いはチョークスリーパーで笑いが起こっていた事です。信者でない一般客もチャンと高い金を払って見に来ているんだな、とホッとしました。
さすがにわからない
分からないのは全然いいんだけど、これ、創り手も分かってねえんじゃねえのかって感じがすんの。だから最後ぶん投げて終わりにしたんだろっていう。
もちろん、そんなことないと思うけど、そう観えるんだからしょうがないね。
最初の説明会まで長いんだよね。寝た。
たぶん水挽町の美しさを描いてたんじゃないかと思うけど、そこまで映像美しくなかったでしょ。
あの辺の美しさというか良さって、肌にあたる空気の感じとか、音が高い空に吸い上げられてしまったような感じとか、視覚より触覚、聴覚さらに嗅覚みたいなところにある気がすんの。
それを映像で表すって、難しいね。表せなかったら、その辺の山だし。
グランピング場の云々かんぬんは、「調べたんだな」って感じはあったね。だからどうした感もあるんだけど。
《悪は存在しない》ってことで、グランピング場を推し進める側にも色々あるんだよってことにしてるけど、これ推し進める側がハッキリ悪だろ。
本業のタレント事務所がうまくいかないからって、思いつきでグランピング場に手を出して補助金もらっちゃダメでしょ。
どんな理由があったって、地元の人を喰い物にしちゃ駄目。
地元の人も開拓三世で、自然破壊してきたことには変わりないからって理屈だけど、変わりないわけないだろ。田舎をナメてんのか。
その辺のヌルさが「最後にぶん投げやがった」っていう感覚につながるんだろうな。
最後はなんで都会から来た人を殺したんだろうね。
『お前が来たから』ってことなのか、殺したオジサンは実は森の精だったのか、あるいは鹿だったのか。
「これ、このあと事情説明してもグダグダするだけだから、ここでスパッと終わりがいいな」と思ったら終わりになったので、そこは良かったよ。
面白いは、面白いんだけど、少し腹立つところもある。
レビュー書いてみて、それは創り手側の田舎蔑視を感じてしまうところにあると気付いたよ。
自然に悪は存在しないが、人に悪は存在する 自然への謙虚さを忘れたとき、その報いは訪れる
何か悪いことが起きるのではないかと、ドキドキしながら観ているのは少し嫌なものです。
その顛末を見せるのが映画の一つのパターンだから。
(たまに、何も起きない平安の安らぎを見せるパターンもある。)
娘が一人で歩いて帰宅するのもどうかと思って観ていると、案の定行方不明に。
銃声が2発聞こえたのは、鹿が撃たれたのだろう。
帰宅途中、ぶらぶらしていた娘は、手負いの鹿と遭遇し、愛でるつもりで、不用意に触ろうとしていた。
そこで、娘を見つけた主人公は、一緒にいた高橋が声を出して鹿を驚かせ、娘に怪我させることが無いように、必死で羽交い絞めにして押さえつける。
その後、見ると鹿はおらず、娘が横たわっていた。
途方に暮れた男は娘を抱いて、去るのだった。
「悪は存在しない」とは、鹿のことか。
鹿が人を襲うのは悪意からではないから。
グランピング場開発で助成金を無理にでもせしめるのは悪である。
自らは出張らずに通り一遍のコンサルをして強引に進めるコンサルタントも悪。
自然の怖さも忘れ、つい娘を迎えに行くことを忘れてしまう父。
手負いの鹿は襲ってくることを、東京の人間には偉そうに説明する反面、娘には言って聞かせていない。
何をおいても最大限の努力で、子供の命を守るのが親の務めだ。
それを怠ることこそ、最大の悪だ。
説明会では、住民側に立ち、それでも自分たちも以前はよそ者だったと言いながら、いつしか謙虚な気持ちを忘れ、自然をわかった気でいた。
その報いがあったのだ。
ラスト20分の変調
中盤までは長野県水挽町で暮らす人々と、そこにグランピング場を建設しようとする東京の芸能プロダクション社員との人間関係が中心に描かれる。その延長線でストーリーが進むと思いきや、終盤の20分で展開は大きく変化する。
芸能プロダクションの社長が煙草を吸うシーンや淡白すぎるエンドロールなど、面白い演出はいくつもある。また、作品を通して水挽町周辺の風景が美しく描写されているため、見応えは充分にある。
しかし、ラストシーンが唐突かつ衝撃的すぎるため、見終わった後はその意味を理解することにしか意識が向かなかった。
考察させるためだけのラスト?
最初の30分間は環境ムービーか?と思うほどの、自然と水汲み薪割り映像。自主制作映画か?と思うようなぶった切りの場面切替。ムビチケもない正規料金でこれはキツい、ランチ後腹一杯状態だったら間違いなく「落下の解剖学」のように寝てた。午前に見に来てまだ良かったと思ったところで、物語が動き出す。
コロナ禍での補助金欲しさにグランピング施設を作ろうとする芸能事務所と、計画が杜撰すぎるので検討し直すよう求める地元住民。漸く映画における対立軸が見え、それぞれの登場人物の背景も見えてきたところで、大事件が起こり、えっ?これで終わり?というぶん投げエンディング。
分かりやすくしろとは言わないし、観客に考察や解釈の幅を与えるのはありだと思うのだが、監督や脚本家は自らの中で、この人の行動はこういう理由、この人の結末はこうなっているという帰結を持っているのだろうか? もし監督の中にそれがなく、結末どうすればいいか分からなくなったから観客の解釈で、という投げ出しの作り方をしているとしたら、有名になったのを良いことに手抜きした駄作としか言いようがないし、見終わった直後の今はそのように見えてしまう。
友人は監督の傲慢さというか、偉そうさ、観客を見下してる感があるとすら言っていました。
以下ネタバレです。
※※※※※
濱口監督のエンディングに対する以下のコメント。
「ただ単にそれが起きた、ということが第一です。それを受け止めていただきたい。主人公の側にもいわゆる悪意は存在しないという解釈でいいと思います、たぶん(笑)」
「わかりやすい対立構造みたいなものがあって話が進むなか、主人公はずっと誰とも対立する立場にはいないんです。議論が紛糾する場面でも、実のところ中立的なことを言っています。そんなキャラクターの最後の行動が観客を驚かせるわけです」
この監督コメントからエンディングを勝手に考察すると、
・花は死んでいる
・死因は不明だが、鹿の角で刺されたり、銃で誤射されたような跡はない
・(鼻血が出ていることから)手負いの鹿に襲われ頭を強打するなどしたように思える(巧と高橋は実際は鹿を見ていない)
・巧は花の遺体を高橋に見せたくなくて高橋を襲った?
・巧が、見せたくなかった理由は不明(鹿は人を襲わないと断言しながらも、例外として手負いの鹿は人を襲うことがあるかもと話しているので、自分の見解が間違ったことを隠したいわけではない。また、そんな理由で死体を見せたくないと思うような男ではない)
・花を失った悲しみと怒りが暴発し単に目の前の高橋に向かって、首を絞めた?
・高橋は死んでいない(1度起き上がって再度倒れるが、死んでいるなら1度起き上がる描写は不要)
花が何らかの事故で死んだのは事実として、巧が高橋を襲う理由が分からず、監督も脚本家も自分たちの中で帰結はあるのか?と大いに疑問。
「聖なる鹿殺し」のように、高橋は花を取り返すための生け贄だという考察を拝見し、自然をないがしろにする高橋(鹿はどこか別のところに行くんじゃない?と軽く発言したり、薪割りを1本やっただけで1番スッキリした、管理人やろうかなと軽く言い出す)を受け入れるわけではない、だから花を返してくれという表れなのかとも考えてみたが、監督自身が中立的という巧の行動に、そこまで自然崇拝のバックグラウンドは見いだせない。
濱口監督は以下のように言う。
「彼自身が生きてきた人生と、あの瞬間の偶然みたいなものが、彼にああいう行動を取らせているんじゃないかと考えています。あの瞬間に、タイトルと物語の緊張関係がもっとも高まります。劇中の高橋のラストのセリフは観客の疑問でもあると思いますが、その答えは与えられることはなく、高橋も観客もなぜこうなったのか自問するしかない、という構造です」
濱口監督の「行動の前に感情があるわけではない」という棒読みメソッド、そして、上の「あの瞬間の偶然みたいなものが彼にああいう行動を取らせている」からすると、花が死んだ怒りを突発的に目の前の高橋にぶつけただけ?とすら思えてしまう。
高橋同様「何でだ?」と思わずにいられないし、観客は自問するしかないという構造を作り出すためだけに、うやむやにしているように見え、考察させるための投げ出し、話題作りのための投げ出しのようで好きになれない。監督自身の伝えたいことはないのだろうかと思ってしまいました。
タイトルが持つ意味を考えている…
観賞後ずっと、タイトルに込められた、濱口監督の真意を図りかねている。
自然そのものに悪は存在しないということか、社会で対立する人間のなかにも悪など存在しないということか。
山でしか生きられない生物にとって、人間は単なる「侵略者」でしかない。
昔から住んでいようが、新たに「仲間」に加わろうとするものであろうが、彼らからみれば同じ「エイリアン」に過ぎない。住民の環境云々はただの言い訳にすぎず、すでに「完成」されたコミュニティに加わろうとする新参者を排除する構図があるのみ。劇中のグランピング建設の説明会は、さながらケアサービスの施設建設に反対する近隣のマンション住民の構図と同じ。
海辺で生まれ育ち、山を多少なりともかじった身としては、山は恐ろしい存在だ。陽が沈み漆黒の闇に包まれた山中に取り残される恐怖は体験したものでないとわからない。
山に優しかろうが、汚す存在であろうが、関係なく、時として無慈悲に自然は牙をむく。悪い行いをしようが、善行を積もうが、自然の行為そのものに意味はなく、因果論の入る余地もない。
人々の対話を作品の中に重きをおいているところは、濱口監督らしい世界観。
たとえ解決に至らずとも、コスパ・タイパなどの効率世界の対局にあろうとも、人間が対話を重ねることの意味を考える。
最後の場面をどう理解したらいいのか。そもそも理解しようとすることが人間の傲慢さなのかもしれない。
それだけのこと?
いまさらですが、〝自然〟って何?
辞書に書いてある通りに理解するならば、
『人の手の加わっていないありのままの状態のこと』
とするならば、開拓三世である巧もその他の集落住民も、別に自然と共生しているわけではない。都会に住む人よりは山川森林に近い場所に住んでいて、都会の人よりは人の手が加わっていない燃料や水資源を利用する機会が多いだけである。山や川や森林との距離が遠いか近いか、電気や水道などの公共インフラを利用する度合いが高いか低いか、つまり都会に住む人とはその使用方法において、程度が違うというだけのこと。
こういう映画を見るときに、気をつけなければいけないのは、自然側に属する人間と都会的な現代人との対立構造のように捉えてしまうこと。
劇中で語られた〝上流に住む人間の義務〟〝それに相応しい振る舞い〟というのも同列の人間同士に成り立つ話であって、本当の自然にとっては、どうでもいいこと。汚染されようがなんだろうが、自然にとっては、どうぞご勝手に、なにしろ我々は何万年だって待てるのですから。
放課後の学童クラブに迎えにいくのを忘れてばかりの親だと、こどもに及ぶリスクが増大する。
鹿と間違われて猟銃に撃たれてしまう確率は、都会に住む人よりは、鹿の住む山の近くに住んでいる人たちの方が高い。
それだけのこと。
あれ?
自分、なんだかおかしいかも。
この映画を見た後の印象が、『人間なんてみんなクズなんじゃないか』
それしか残ってない。
どうしよう!
ラストの突き放し感
冒頭の長回しの森林を見上げるという俯瞰ショットは一旦誰の視点なのかワクワクしながら観ていたが、ラストでそういうことか!も腑に落ちた。
グランピング施設の説明会は住民側も開催側も不快感MAXで、みんな嫌いだわ!と思いました笑
が!!物語の中盤、開催側のタカハシとマユズミの2人のドライブーシーンの会話劇リアリティと面白さで、ドライブが終わる頃にはみんなこの2人のことが好きになっていると思います笑
ラストは衝撃的な展開だが、タカハシの「オレの居場所らここだわ〜!」の安易な台詞を踏まえると、「お前の居場所がここなわけねーだろ!」と自然代表のタクミに拒絶されたのでしょう。
自然代表と言っているが、あくまでも本物の自然の恩恵を受けている存在であって、住民と自然、東京から来た部外者2人と住民、それぞれ悪でもないし正義でもないのだが、交わってはいない一定の距離感を常に感じる。
個人的には村長の「水は低いところに流れる」という水を人間社会の構造に例えた言葉から、タカハシとマユズミがタクミと水を汲みに行く一連の流れが好きでした。笑えるシーンも挟みつつ、マユズミが一生懸命水を運ぶ姿に何故かグッとくるものがあった。
ドライブシーンとうどん屋のシーンさ濱口監督本人的には笑いを狙いに行ったわけではないそうだが、フランス公開時も爆笑だったそう。
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