オッペンハイマーのレビュー・感想・評価
全206件中、181~200件目を表示
反核や苦悩が主題ではないオッペンハイマーの伝記映画
クリストファー・ノーランお得意(?)の時間軸がコロコロ変わる演出。
前触れなく、過去と現在が入れ替わるのでとてもわかりにくい。
きっとアメリカ人なら調度品などである程度、現在か過去か把握できる(日本人が昭和の映像だとわかるように)のだろうが、正直、日本人には辛かった。
公聴会で証言した人たちとオッペンハイマーの過去のやり取りを描いておく必要はあっただろうから仕方がないが、登場人物が多すぎて混乱に拍車をかける。
私の頭では一度観ただけでは相関図の理解が追い付かなかった。
何度か観れば『過去の伏線』なども見えてきて感想が違ってくるのかもしれない。
結局、オッペンハイマーが何を考えて原爆を作ったか、原爆が日本に落とされてどう感じたかには触れる程度で明確には描かれない。
あくまで私見だが、同じドイツ系ユダヤ人でノーベル賞まで取った敬愛していただろう、アインシュタインがマンハッタン計画から外されて『アルベルトの理諭を形にしたい』という気持ちはあったのかもしれないなと思う。
赤狩りに関してはオッペンハイマーがどんな活動をしていたかわからないが、時代もあったろうからな。
原爆投下後、アインシュタインとオッペンハイマーに反核(水爆開発反対)の姿勢を取られたことはアメリカにとって都合が悪かったのかもしれない。
反核(核の怖ろしさを描いた)映画ではないし、開発者の苦悩が主題でもない。
あくまでオッペンハイマーがどういう経緯で核開発に関わり、なぜ、偉大な科学者が失脚に追い込まれたかを描いた映画。
むしろ、原爆開発より『赤狩り批判』の方が強いかもしれない。
3時間の大作だが、飽きさせない。
役者たちの演技も上手い。
映画全体の出来は素晴らしく、アカデミー賞を取って当然だろうね。
ただ、内容(ストーリー)がな。
個人的には興味深い話で観ごたえがあったが、興味の薄い人には『難解な映画』としか思えないかもしれない。
米国で本作で作られた意味を考える
以下3つの観点で批評したい。
❶映画のテーマと世に与える意味について
❷原子爆弾の映像表現の意味について
❸映画の構造と演出について
❶映画のテーマと世に与える意味について
この映画のテーマは2つある。
1つは「オッペンハイマーという人物をどう評価するか」。
もう1つは「科学技術の進展と、人類の倫理性のバランスをどう取るか」。
オッペンハイマーの人生については肯定的に描かれていた反面、科学と倫理性のバランスについては
視聴者に重い問いを投げかける形で映画は幕を閉じる。
前者は伝記映画の基本形だし、後者のテーマは米国映画で繰り返し描かれたものであるが、
「オッペンハイマー」が特別なのは、アメリカ人が米国映画としてこの作品を作りそれにアカデミー賞を与えた、という事実。これが重要な意味を持つと思う。
その意味とは「核兵器を人に対し使用した国民として、その事実に向き合い続けるという意志表明」ではないだろうか。
核への脅威と責任は古くは「博士の異常な愛情」、定番で言うと「ターミネーター」などがある。
広義で捉えると「科学の進歩V S人類の責任」となるが、これは「スパイダーマン」の主要テーマであり、
コミックというポップカルチャーレベルで米国に浸透しているテーマだ。
これは憶測だが繰り返しこのテーマが描かれるのは、米国が人工的に誕生した国家であることが背景の1つではないだろうか。
なぜなら、太古からの民族的文化の脈略を持たず、アメリカ大陸を科学技術で自らの領土として開拓し、
論理性で国家(国民)を統治し、社会を形作ってきた歴史を持つからこそ、
科学と論理を推し進めた結果の、負の側面である「倫理観の忘却」「未来に対する責任不在の警鐘」が
国民のテーマになっているのではないかと思うからだ。
本作「オッペンハイマー」もその流れに沿っているが、
原爆投下という戦後一貫を通して米国が蓋をし続けてきた「戦争犯罪」「人道責任」について、
本国に対してはもちろん、全世界に対して問いを投げかけたこと。
そしてそのメッセージに対して、アカデミーという最高権威が価値を認めたこと。
これが米国民の歴史認識に対する転換点になったと言える、その意味で我々日本人にとっても非常に重要だと言えると思うのだ。
本作は原爆投下後の惨禍や投下に対する反省シーンが少ないため反発意見も多い。
この点は映画を見ながら私自身感じたし、史実として知ってはいたが実際にスクリーンを前に日本人としては嫌な気分になった場面はあった。
だがその点も含めて「アメリカの原爆に対する1つの意見」を知るための重要な映画だ。
この映画をみて、何を考え、どう振るまうか。
アメリカが試されていると同時に、日本人もまた歴史に対する関わりを試されいる。
❷原子爆弾の映像表現の意味について
これまでのノーラン映画と異なり空想世界のアクションやギミックが使えない中、
本作は見事に期待を凌駕してくれた。中盤のクライマックスである「トリニティ実験(最初の原爆爆破実験)」の描写はまさに白眉だった。ノーラン作品でお馴染みの、あの真綿で首を締め続けるような息苦しい時間が今作では過去最高に味わえる。
表現おいて特筆すべきは「音」。
いよいよ実験が間近に迫ると、BGMは弦楽器の単調な繰り返しとなり、
それが爆破ボタンを押す瞬間までクレッシェンドで続く。まさにお得意の「ボレロ」的演出だ。
しかも今回は実際にあった「歴史的現実」で、相手は「原爆」である。
その存在自体が否応なく恐怖の対象である。一体どんなことが起こるのか。
人類が経験したことがない現象を前に、登場人物たちは皆、心臓が口から出そうな表情。
過度な緊張と浮き足立つ空気が、上記のBGMとテンポよい編集に掛け算され、
おまけに天候は雷雨ときたから、もう席を立ちたくなるほど緊張した。
そして起爆ボタンが押され「爆発」。劇場はシーンと静まる。
スクリーンいっぱいに広が炎。火の織りなす「不気味さ」と「美しさ」の共存した不思議な映像。
「バックドラフト」で感じた「火=生き物」のような怖い魅力がそこにはあった。
そして駆け抜ける大轟音。生きた心地がしない。
「ああ、原子爆弾とはこういうものなのか」
理屈ではなく身体で感じとり、そして「記憶」する。
人類にとって意義深い映像体験になることが間違いないだろう。
❸映画の構造と演出について
結論、構造は「尋問を通して、過去を回想する」という、「ユージュアルサスペクツ」や「アマデウス」でもお馴染みの展開だが、なんせ非常にスピーディーで説明もないので理解には3回以上の視聴を前提とする。
例えるなら、というかノーラン作品は全てそうだがミステリー小説に近い。
何度も繰り返し知識が増えるにつれて解釈が変わっていくような作品だ。
ラストはノーラン作品お馴染みの「意味深なBGMと短いカット、宣説的なモノローグが展開しぷつんと切れる」の演出。これもお約束。気持ちがいい。
芝居の演出については正直「野暮ったく」感じた場面もあった。具体的にはオッペンハイマーと女精神科医との関係、
それに対する妻の嫉妬のシーン。ベタベタな表現だったので、もっと抑えてもよいのでは?と。
以上が「オッペンハイマー」の批評だ。
といっても2度、3度見るたびに感想は更新されるだろうから、今後も本作とは長く関わっていきたい。
We got a Sun
量子力学
分子や原子それらを構成する電子などを対象とし
その物理現象を研究する学問
・・とこう書くともう訳が分からんが
物理学はニュートンの運動方程式
みたいな決定論(こーしたらこーなる)
という考え方で20世紀初頭までは当たり前
だったのだが熱量や電磁波・粒子といった
要素の発見とともに予測不能な運動が増えてきて
より推測するという分野が生まれ
重視されるようになった
今では現代物理学の根幹をなす分野である
今作は日本では太平洋戦争末期
広島と長崎に投下された原子爆弾を生み出し
原爆の父と呼ばれたロバート・オッペンハイマー
の半生をクリストファー・ノーランが描いた
氏の作品初の伝記的作品
どうだったか
当初は日本人がこんな原爆賛美の映画を
観てはいけないとか好き放題言われ
よくわからんミームも騒ぎになったが
当時から思っていたがじつにくだらない
観る人々が判断することでそんな
くだらないバカの無駄な検閲はいらない
「そこをどけ」
と心の底から思えるほどの
実直に当時のアメリカの核兵器開発に
まつわる側面とそれを主導した
オッペンハイマーの側面と内面と外面を
描いた素晴らしい作品だったと思います
テーマ的には掘り込むともうわけがわからない
と感じてしまいますがノーラン監督が
これまでも触れてきた
「インターステラー」「テネット」等で
触ってきたわけわからなげなエッセンスを
と思えば不思議なほど
わかりやすかった気がします
映画は初老に差し掛かり大戦後の
水爆実験に異を唱えるオッペンハイマーが
米原子力委員会委員長ルイス・ストローズに
告発され国家の反逆者か否かと言う公聴会で
詰問を受けるところから始まり
回想的に話が進んでいきます
オッペンハイマー(以下オッピー)はユダヤの家系でNY生まれ
頭脳は極めて高くハーバード大を首席で卒業
英ケンブリッジ大に留学しニールス・ボーアに
実験を伴う科学から理論物理学をすすめられ
独ゲッティンゲン大学で博士号を取得
当初はブラックホール研究など当時では
誰も講義を聞きにこない(来れない)ほどの
先進的な研究でしたが徐々に講義を受ける
学生が増えていきます
オッピーは大変「変わり者」
いわゆるノンポリで弟フランクが加入していた
共産主義団体でも何でも関係なく付き合い
どんな女性とも付き合います
(これが後々色々物議をかもすのですが)
ところが当時のアメリカは知っての通り
第二次大戦参戦中
そんなオッピーもとへある日
「マンハッタン計画」なる計画を指揮する
軍人レスリー・グローヴス准将がやってきて
君の理論物理学を国家に活かす時が来た
と原子爆弾開発計画のリーダーを
打診に来ます
オッピーは爆弾?と最初は( ゚д゚)
としていましたがグローヴスは
ドイツのナチス政権が開発している
らしい爆弾について尋ねると
オッピーは「ドイツの量子力学研究は
アメリカより断然進んでいるけど
研究者がユダヤ系だから絶対ナチスは
冷遇して進まない」と漠然と答えます
(この漠然とした物言いがオッピーの特徴)
そこでグローヴスは我々が先んじて
原子爆弾を開発すれば戦争を早く
終わらせられるとオッピーをたきつけます
オッピーは刺激を受けこれを
「理論」と「実践」の機会と受け取り
アメリカ中の資源や調査・解析を
鉄道で繋げる中間点に町(研究所)
を作りこれを実現できると提唱すると
グローヴスはオッピーを「変なヤツ」だと
訝しみつつ一任しその中間点
ホントにアメリカのど真ん中
ニューメキシコ州ロスアラモスに
街が作られます
これが有名な「ロスアラモス研究所」
となります
グローヴスとオッピーはアメリカ中の
物理学研究者にこの計画への参加を
呼びかけ家族とともに移住させますが
中には人々を殺す爆弾を作るなんて
と参加を拒否する科学者ももちろん
いますが
「平和のために必要なこと」
「作るからと言って使うのとは別だ」
と上手に説き伏せてしまいます
かくしてロスアラモスには街が出来
3年で20億ドルを費やした原爆開発計画
が始まります
ロスアラモスではこだわりのない
オッピーが集会を開いたり
研究者の嫁を働かせたりしており
グローヴスはこれでは当然
機密が守られないと激怒しますが
オッピーのノリで進んでいきます
当然中では研究者同士の衝突もあります
ウラン核分裂より三重水素の分裂での
爆弾いわゆる「水爆」をただ一人
提唱するエドワード・テラー
(戦後の水爆開発の第一人者)
らが衝突し出て行こうとしますが
オッピーは独特のキャラクターで
うまくまとめてしまいます
そして研究が進んだ1944年
ドイツが降伏しナチスが崩壊
これで原子爆弾を作る必要がなくなった
じゃないかとロスアラモスの
研究者たちは喜びますがオッピーは
「まだ日本が降伏していない」
「ソ連も開発しているかもしれない」と
原爆開発の続行を訴え研究者も
乗っかってしまいます
もはや「オッピー教」なのです
そして1945年当時のトルーマン大統領は
日本への原爆投下を示唆しロスアラモスに
原子爆弾実験の成果を求め
ついに7月に人類初の核実験
「トリニティ実験」が実行
この時点でもなお
核分裂が大気と触れた時に
連鎖反応して地球上全てが爆発して
しまうのではないかという懸念も
まだ持っているレベルでの実験
結果は見事成功しますがオッピーは
その火柱の強大な破壊力に
言葉を失います
言われたことはやった
実験も成功した
そしてロスアラモスから
「二つの大きな木箱」が運ばれて
いくのを虚ろなまま見つめるオッピー
大統領に面会を求める申請を
グローヴスに頼みましたが
その機会は訪れることなく
その1月後に
広島と長崎に原子爆弾が投下
そして終戦を迎えました
この部分はビジュアル的な
シーンもなくグローヴスが
電話で知らせるのみです
オッピーは戦争を終わらせた
英雄かのように扱われますが
ここでオッピーはロスアラモスで
作られたものがどう使われたか
を痛感することになります
日本人からすれば大変複雑な
気持ちになります
怒りも感じる人はいるでしょう
よく「作るから使いたくなる」
といった批判をする人がいますが
「作る人」と「使う人」は違うのです
トルーマン大統領と面会した時のシーン
オッピーはソ連の脅威はわかっている
がロスアラモス研究所は閉鎖するべき
と漠然と言ってしまいます
国防長官と大統領は
ソ連が脅威ならむしろロスアラモスを
強化しなければいけないだろうと
たしなめます
そりゃ国防的には後者が正しく
なってしまい
国家予算で原爆を作り上げた
オッピーの発言は矛盾してしまいます
科学者が「理論」と「実践」だと思っている
ものは「理論」と「現実」に降りて来る
のだというのがノーラン監督が
伝えたかったやるせない
テーマなのかなと
思うところです
3年で20億ドルが費やされた
理由はアメリカにとっては
戦争に勝つため・戦後の主導権を
ソ連に上回って握るためなのです
そりゃそうです
誰も詳しく分からないものに
予算は簡単につきません
(つくバカみたいな国もあるけど)
かくして核兵器の恐ろしさを
知ることになったオッピー
戦後は功績を称えられ原子力研究所の
所長をアインシュタインにも
断られたストローズに打診されますが
前述のとおり一貫して
水爆等の開発には反対方針
このつかみどころのなさに
プライドを砕かれた
ストローズはオッピーの名誉を
突き落とす工作を仕掛けます
というのが回想の間に挟まれて
いきます
急に取り調べで全裸になって
愛人とまぐわうシーンになったり
してるのがIMAXGTで大映しに
なったのはなんか笑って
しまいましたが
それくらい「漠然と」話して
しまう性格なんでしょうね
まあこれが災いして結局
ロスアラモスにはソ連の
スパイが入り込んでたし
それなりに疑惑もかけられる
ハメになったのですが
参考人の妻キャサリンの
気丈な姿勢も手伝って
結局仕組んだはずの公聴会でも
オッピーが厳しく裁かれることは
ありませんでした
ラストはストローズがオッピーに
私怨を抱くきっかけになった
オッピーがアインシュタインと
話した途端ストローズに
口も利かなくなった瞬間
アレは何を言ったのか?
「世界は破壊された」
米ソは核開発競争によって
相互確証破壊などどんどん
冷戦へと突入していくのです
今では北朝鮮が核開発を盾に
ついにソ連より長く続く国家に
なってしまいました
ラストのオッピーの虚ろな顔
彼は太陽をつかんでしまった
その太陽はまばゆい光でもあり
その裏に大きな闇を作ったのです
理論物理学では予測しきれなかった
現実です
観客は常にオッペンハイマーの
人どなりや性格に移入出来ぬまま
話は終わっていきます
ご都合的でなく天才科学者を
通じて人類全体が手にした物
手に入れてしまった物という
受け取り方をしました
オッピーは
誰かであって誰でもない
京都大学の学長が少し前に
「戦争に加担する学問の研究はしない」
みたいなことを言いました
これには大変呆れました
学問の前に思想があるなんて
もうそんなものは学問ではないでしょう
またかつて某悪夢の政権の
バカ政治家が事業仕分けとやらで
スパコン開発が世界2位だった
点に「2位ではダメなのでしょうか」
なんて言い放ったことがありましたね
研究は突き進むべきですが
予算を出す側がこういうバカばっかり
なのが「現実」です
そういう意味では戦中という極限状態が
生み出してしまった原子爆弾と言うものが
意味するものは「叡智」であり「宿題」
であり「宿命」なのかもしれません
そして人類が迎える「運命」は果たして
アインシュタインの名言で
「第三次大戦はどんな武器が
使われるかわからないが
第四次大戦は石っころと木の棒で
人類は戦っているだろう」
というのがあります
そうならないように
していかなければなりませんが・・
キャスティングも文句のつけようがなく
(そういえばマイケル・ケイン出てなかったな)
「必ず自分の目で見て思って」
まさしく必見の大作です
180分?
自分一番デカいバケツみたいなコーラ
買って持ち込みましたがトイレ忘れるくらい
のめり込みましたから問題なし!
あっちゅーま
我は死神なり、世界の破壊者なり
ヒンドゥー教の聖典『バガヴァット・ギーター』からオッペンハイマーが引用した聖句。
これが若かりし頃の恋人ジータとのベッドシーンに出てくるので驚いた。
騎乗位で腰を振る彼女に「声を出して読んで」と強いられるのだが、このシーンに対して、インド政府筋から「ヒンドゥー教社会に対して戦争を仕掛けるに等しい」と指摘されているほか、右派政党のインド人民党(BIP)からは非難声明も出されている。
この聖句は、人類初の核実験トリニティ計画が成功し、現代のプロメテウスになった恐怖を実感したオッペンハイマーが思わず呟くシーンで使えば十分であり、性行為の最中に使う文句ではないだろう。制作側の意図が不明で、無神経と云われても仕方ない。
私の手は血塗られているbyオッペンハイマー
(なにを泣き虫男が、とトルーマン大統領は立腹!!)
作ったのはオッペンハイマーだが、投下を決断したのは
俺様だ!!とトルーマンは思ったのだ!!
広島・長崎に原爆投下が成功した祝賀会。
オッピー!!オッピー!!と熱狂するアメリカ人。
彼らの心に、業火に焼き爛れ苦しみ死んだ20万人の日本人の顔は
浮かびもしない。
それがアメリカ人の現実。
《原爆投下はこの戦争を終わらせるためだった》
この台詞は飽きるほど聞いています、
免罪符のように!!
《配色濃厚だった日本に原爆投下は本当に必要だったのだろうか?》
オッペンハイマーには原爆を投下すれば
広島で11万人。
長崎で7万人。
合計して20万人近い人が死ぬことは事前に分かっていたのです、
明確に。
オッペンハイマーは苦しみます。
焼け爛れた人々の幻影や夢にうなされます。
《プロメテウスは神に逆らって、火を盗んだ、》
その言葉が度々示されます。
大きなプロジェクト。
【マンハッタン計画】
1942年。原爆の開発・製造を目的とする計画で、
そのリーダーが物理化学者のオッペンハイマー。
ニューメキシコ州の町ロスアラモスに50万人を集めて、
20億ドルと3年の月日を掛けて原子爆弾は製造された。
そして大掛かりな最終実験がニューメキシコ州の
【トリニティ・サイト】で行われた。
大きな画面全体に火の玉の爆発と大爆音。
ここがDolbyシネマの見せ場でした。
(私の観た映画館では、IMAXではなくてDolbyシネマ上映でした)
トグロを巻く火球は溶岩の噴出のように煮えたぎっています。
そして、ためらいつつも、広島・長崎の原爆投下のゴーサインは出て、
原爆は投下されてしまいます。
【第3章】
そして戦後の1954年。
この映画のもう一つのハイライトは、
赤狩りの標的となり、聴聞会で吊し上げられるオッペンハイマー。
オッペンハイマーの視点での回想シーンはモノクロです。
妻キティー(エミリー・ブロント)は、
「どうして反撃しないのよ!!」と怒るけれどオッペンハイマーには、
そんな気力もなく俯いているばかり。
そして1959年の公聴会では
ここで鬼の首を取ったように暗躍するのがロバート・ダウニーJr.が扮する
アメリカ原子力委員会の委員長のルイス・ストローズ。
そのストローズのオッペンハイマーへの策略を追求されるシーンは
カラーで(オッペンハイマー以外の視点はカラー映像なのです)
この辺の時間経過が分かりにくく混乱しました。
ストローズのオッペンハイマーへの敵意と嫌らしさは、浮き彫りにされる。
それにしてもストローズの実物写真を見ると瓜二つです。
はじめ見たときロバートダウニーJr.とは気付きませんでした。
狡猾で人でなしでコンプレックスが強く、隙あらば人を出し抜く
そんな男。
オッペンハイマーは共産党協力者の烙印を押されて、
公職から追放されてしまいます。
(2022年に撤回される)
この小狡い男の演技でロバートはアカデミー賞助演男優賞を受賞。
そしてもちろんキリァン・マーフィーもアカデミー賞主演男優賞を
受賞します。
【まとめ】
核兵器の開発競争に各国が血眼になり、
特にナチスドイツに先を越されることを何より恐るアメリカが、
如何にして原子爆弾をオッペンハイマーをリーダーに
開発・製造に奔走して成功する過程は興味深いものではありました。
ヒトラーが自殺してドイツが降伏して、もう殆ど壊滅状態の日本への投下。
日本人の私には、
なんとか、止める手立てはなかったのか?と本当に悔しいです。
オッペンハイマーの苦しみなんか、広島・長崎の被爆者に較べたら、
おままごとのようなもの。
(確かに日本は戦争加害国ではあるけれど・・・)
そして現在の国際情勢は、ロシアとウクライナ、
イスラエルとハマスの戦争、
核で威嚇する北朝鮮・・・と予断を許さない状況です。
第二次世界大戦後、約80年。
核爆弾はその後一度も使われていません。
核の恐ろしさを日本人が身を持って伝えている事も一因でしょうか?
理性を失くした独裁者により、この世界中の叡智と努力が
無駄にならない事を願うばかりです。
「原爆の父」オッペンハイマーの半生記。
「世界を壊してしまった」
そう呟くひとりの天才科学者の功績と罪が浮かび上がり、
非常に重かったです。
終始うるさい音楽が流れて非常に苦痛で疲れる
だいぶ前から海外で注目されていたので公開初日に鑑賞。
結論から言うと、ずっと音がうるさすぎる。
音楽がいいとか事前に絶賛されていたが、逆にこれほどまで耳が苦痛な映画もないだろう。
ずっとやたらうるさい張り詰めたBGMが流れていて内容に集中できたもんじゃない。
終始うるさすぎる。
そしてところどころ心臓に響くバカみたいな音量の爆発音が鳴り響くもんだから、頭がおかしくなりそうだった。
映画ってこんなにもBGMがうるさいものだったかな?と疑問に思った。
それに加えて、ストーリー的に初老の既婚おじさんの不倫シーンなどなくてもよかったのにあれは必要だったのだろうか?
いろんな無駄な情報が邪魔して肝心の内容はいまいち入ってこなかった。
そして睡眠は確実にとってからの鑑賞をおすすめする。
内容をきちんと追っていこうと話を真剣に聞いていたら眠ってしまい何十分か意識がなかった。
よくあんなうるさい映画の中で寝られたものだ。
音響のせいでめちゃくちゃ疲れたわけだが
戦争というものは、人間というものは、いつまでたっても愚かなものだというのは再認識させられた。
4/12追記:見るのを悩んでまで観る映画じゃない。正直、別に…である。ただしZ世代は見ておいて損はない。
文頭追記
クリストファー・ノーランは誰も知り得ぬ恐怖を、ビジュアル化する、既に偉大さすらある、アーティストだ。映画はエンターテイメントであるという、普遍的な前提を水杭と打ち、素晴らしい作品群を私たちに届けてくれた。
ある時はアメコミのヒーローの悲哀を現実化させ、またある時は人間の深層心理を映像に仕立て、時間と犯罪を交錯させ、時には人類の及ばぬ遥か彼方の惑星に我々を降り立たせてくれた。
そのどれもが「人間が理解しているのにも関わらず手が届かないもの」で、かつ「人間が抗えないことを直感で感じられる恐怖」を描くのだ。サイエンスフィクションの表現者としての同氏は、天才的なアーティストの域にあると考える。
さて、本作『オッペンハイマー』はノンフィクション作話であるから、前述したノーラン氏の脳内映像の表現はどれも事実確認に収まる。これが表す事実はつまり「人間が既に手に経過したもの」ということ。「人の手に届かぬもの」の表現の天才が「手に届いたもの」を描いたということだ。
例えば「パブロ・ピカソの絵画」と言われたとき、脳裏にどの様な絵が浮かぶだろうか。異論も認めるがほとんどの人はあの独特な抽象画を思い浮かべるはずだ。しかしピカソの作品には写実的なものも多々あり、その事を知ってはいても代表作はと聞かれると、またほとんどの人は回答に窮するはずだ。
『オッペンハイマー』は、天才的なアーティストが、その特徴や強みを「使えずに」作られた映画だ。これは本来、ノーランの作品とすら呼べないものではないか。
人の考えた事を享受するだけではなく、たまには自分たちの想像力も働かせろ。そう言われているのは分かる。分かるが、ファンの残念な気持ちも分かってほしいのだ。
ことわっておきたいのは、私は同氏の映画の大ファンであり、彼は今でも世界一のSF監督であり、今後も作品を見続けると思う。
だからこそ、私は彼のアートであるSF作品でアカデミー賞を総なめしてほしかったし、今後その機会が訪れることを切に願う。
2024/04/12
---------------------------------
鑑賞後しばし 熟考。
オッペンハイマー博士についてはずいぶんと昔からある程度の知識は持っていたし、本作を観る前には再度、その人物史をなぞってみた。昭和35年の来日時講演「科学時代における文明の将来」の内容も読んだ。(どうか興味のある方は読んでいただきたい。晩年のオッペンハイマー博士の考えがよくわかる)平和記念資料館にも行きたかった(再訪)くらいだが、かなわず、ネットにある資料を悲しい気持ちで再度、見て回った。
そんなこんな、しっかり前準備の上で鑑賞した直後の感想はこうだ。
「この映画の何をどう評価すればよいのか??」
史実に基づいているし、台詞ひとつにも気配りをしているので、ある程度人物史を知るひとにとっては、真新しい情報もなければ面白みもないと感じた(ノンフィクションだから当然といえば当然だが)。
広島と長崎での虐殺(私個人の意思としてこの言葉を使わせてもらう。オッペンハイマー博士の本意での出来事ではなかったことと前提してなお)の描写が作品内では無いことはNHKクロ現のノーラン氏インタビューで知っていた。
だから、原爆実験での表現に地獄的なものを描いているのかと多少の期待をしたのだが、どうもそれも弱含みのように感じた。これも史実に忠実に描いたのかもしれない。
まあまあ安牌な線で描いたノンフィクション。
そんな感じだ。
ノーラン氏の『表現者』としての、思いというか、伝えたいことというか「これをわかってくれ!」という、間違ってても何でもいいから突きつけたい思い、みたいなものがどうも伝わってこない。
熱がないんだ。
いや、ウソを書けと言っているわけではなく、表現していいとおもうんです。
映画なんだから。
それが「否定も肯定もせず描いたオッペンハイマー博士の人物史」であるなら、正直なところ現存フィルムをまとめたNHK「映像の世紀」とか、BBCの歴史ドキュメンタリーを見ているときの方が、グッとくるし、現実感としてゾッとしたりして心が動くというものだ。
ノーラン氏がクロ現インタビューでお話されていたが、ご自身の息子(10代)が『核問題よりも環境問題の方が重要だし興味がある』に衝撃を受けた---へのカウンターとして、今のZ世代に事実を見ておいてほしい、だから作った本作、というのがノーラン氏の唯一のメッセージなのだろう。それはそれで良きことと思う。
でもね、
はっきり言ってアカデミー賞7冠受賞はやりすぎだ。
作品全体を眺めると、物語の核心部分が、三部構成のラスト1時間のところ。本作の主題のようになっているし、それはそれでアメリカ国内ウケは良いだろう。だって「2022年に米エネルギー省は公職追放することになった54年の処分を撤回した」わけだから、翌年に公開の本作の意義はそこ、ラスト1時間の物語になってしまっている。(1時間目=序章、2時間目=ロスアラモス)
よく考えると、あえてそうしたような気もするが。
いま世界では、核の脅しが流行っているので。私の感覚では3つの国が血気盛んに核の脅威を振りかざしている真っ只中だ。アメリカだって目には目をと言いたい。が、言えないので、もう少し人命コストの低いミニ核兵器の開発に躍起になっているようだ。
死後ずいぶんと経過してからの、オッペンハイマー博士への処分撤回は政治的なニオイがしてならないのだが。
それで翌年、このような作品が生まれ?
アカデミー賞総ナメ?
ああ、そういうことですか。
日本人として云々とは言わない。そもそも私は日本人だし、誇りとまで言えそうもない程度のナショナリズムは持っている。原爆の惨禍をみなまで描かなかったことは悲惨な歴史をエンタメにしなかったノーラン氏の良識としておきたい。ノーランSFは大好きだ。
山崎監督のアンサーに期待したい。
(採点内容で細かい部分に触れるためネタバレ扱い)実にいろいろな観方ができる映画。3時間と長いがおすすめ。
今年121本目(合計1,213本目/今月(2024年3月度)39本目)。
(前の作品 「Moonlight Club in LOVE」、次の作品「Here」)
タイトル通り、実にいろいろな観方ができる映画です。まぁ、少し長いですが…。
個人的には他の方が触れていない観点でみました。デュープロセス論等の論点になります。
この映画の半分ほどを占める、オッペンハイマー氏に対する一連の聴聞は、日本では「オッペンハイマー事件」といわれ、アメリカではアメリカ行政手続法にのっとって行われたものです。しかし、当時のアメリカ行政手続法は「例外的なケースで立証責任が転嫁される、証拠の開示義務がなくなる」といった規定があり、その例外的規定をつかれた形になります(日本の行政法の発祥はドイツですが、戦後はアメリカの影響も受け、日本でもアメリカにならって(反省した形での)行政手続法が作られています)。
また、先に述べた「デュープロセス論」というのは、刑罰や何らか不利益な処分を課する場合は相手側に告知弁解の機会を与える必要があるというものです。日本では日本国憲法などにもあらわれがあります。これら規定は表面上は刑事事件に対してのものですが、行政手続きに対してもその考えは及ぶというのが日本の通説で、その考え方は「現在では」アメリカでも同様であるものと思いますが、当時はそもそもそういった考え方が通用しなかった(映画の描写の通り、思想論が全てを支配する考えだった)という部分があります。
そしてこの映画の大半を占める「オッペンハイマー事件」は、告知弁解の大切さを説くと同時に、科学者は国によって内容を「拘束されうる」(研究内容等について)、無関係な政治思想論を持ち込むと非公開の審議は無茶苦茶になるという禍根を残したものです。もっとも、研究の自由は日米とも無制限ではありませんが(例えばクローン技術等は日本でも憲法の学問の自由の例外にあたるものとして規制対象)、何ら明文化されていないものを政府が突然言い出したのがこの事件の特徴で(その事件の背景として、思想論があることは映画の描写の通り)、戦後の混乱期もアメリカは経験したのだな、といったところです。
こうした事情があるので、「原爆もの」(超広義の意味での「戦争もの」)という観点もありますが、個人的にはこうした「アメリカにも戦後の混乱期で、無茶苦茶な扱いを受けた人がいて、その人がまさに「日本にもアメリカでも評価が割れる人である」といったことを扱っていたことにこの映画の意義があるのだろう、といったところです(そういった事情なので、やや法律枠の観点で見ました)。
※ なお、1963年に政府がフェルミ賞(物理に関する賞の一つ)を与えて収束を図ったとも言われますが、完全に名誉が回復されるにあたった、公職追放の処分撤回は2022年12月16日(資料によっては15日)と「きわめて最近の話」です(同氏は1967年没)。
採点に関しては以下を考慮しました。
------------------------------------------------------
(減点0.2/以上のような見方をするにはかなりの知識を要する)
この映画は表面的に見れば、原爆は是か非か、核兵器の保有問題、あるいはドイツへの対処といった問題で見られることが多いと思いますが、アメリカ国内ではこうした見方で見る方も少なくなく(海外レビューサイトも参考のこと)、これらの知識にまで描写がなかったのは残念でした。
ただ、このことはアメリカの行政手続法にはじまり、日米の行政法の戦前から現在までの動きなどハイレベルな知識が求められるので、仕方なしかなといったところです。
------------------------------------------------------
(減点なし/参考/「物理学者は数学が嫌いだ」)
この当時(第二次世界大戦中)、物理と数学者は実際に分離されていました。数学者は主に暗号解読や暗号理論の構築などに従事しており、この映画がいう「管理区分」といった概念がまさにそのまま当てはまるような状況でした(たとえ隣接する学問といえども簡単に近づくことはできなかった)。ただ、この当時の量子力学は当時の数学の理論を必要としなくても「自己生産」できるほど発達しており(かつ、量子力学で用いられる数学理論は当時の水準では一通り完成していた)、「数学が嫌いだ」と「言い得た」のはこうした事情もあります(実際にこの当時の数学は代数学一色だったので(暗号関係)、量子力学と接点が少ない事情もあって、そういう心情を持つ人は少なくなかった)。
オッペンハイマーの主観が終わった後には...
紆余曲折があったものの、遂にオッペンハイマーが劇場公開された事を嬉しく思います。
バービーとのネットミーム「バーベンハイマー」は、日本人として悲しい気持ちとなりましたが、ノーラン監督作品は、どうしても劇場で観たいと言う気持ちがありました。
結果論ではありますが、世界唯一の被爆国である日本が、最後の劇場公開国になったのも何かの縁なのかも知れません。
余談ではありますが、私はゴジラ信者でもあります。
多くの方々が仰ったようにオッペンハイマーと対になる作品は、公開時期が被ったと云う理由のバービーではなく、被爆国日本が生み出した「ゴジラ-1.0」です。
本国アメリカでは叶わなかったゴジラ-1.0とオッペンハイマーを同時期に鑑賞出来た事は運命だったと思います。
以下、印象に残ったポイントを紹介します。
○キリアン・マーフィーの熱演
ある程度には脚色されてはいますが、キリアン・マーフィーによるオッペンハイマーの人物像に説得力を持たせた演技は素晴らしかったです。
オッペンハイマーと言えば奇行が目立つエピソード。
現代で言う所の鬱病とも言える心の病を患っていた訳ですが、更に世界を変える兵器を生み出す環境下であれば、尚のこと精神のバランスが崩れてしまうのは想像に難くない。
実際のオッペンハイマーを知る訳ではないですが、彼の栄光と没落を追体験出来たのも一重にキリアン・マーフィーのお陰です。
○ノーラン監督の手法(視点の切り換え)
ダンケルクやTENETのように過去・現在が入れ乱れる時系列。
オッペンハイマーが公聴会で追求されている1954年、
同時期の水爆推進派にしてオッペンハイマーに対する私怨を持つルイス・ストローズの1959年、
そしてオッペンハイマーが学生時代から原爆を生み出し、反核活動へと至る過去の3つの視点が、交差しながら物語は進む。
過去作と比較するとそこまでの奇想天外な構成ではないです。
しかしオッペンハイマーは共産主義者なのか?
誰がソ連のスパイなのか?
ルイス・ストローズの策略等に迫るサスペンス仕立ての構成は、観ていて楽しかったです。
シチュエーションが反復する場面も、登場人物に新しい側面を見せる事で人物像が変化していく手法もノーラン監督らしく素晴らしい!
○原爆を墜とす者と墜とされた者
アメリカ人にとって原爆は戦争を終わらせた勝利の象徴。
トリニティ実験が成功した時、日本に原爆を投下した時、日本が降伏した時...彼等にとって輝かしいものだった。
日本人ならば誰しもが、彼等の歓喜に怒りとも哀しみとも何とも言い難い感情が湧き上がったはず。
キリアン・マーフィー演じるオッペンハイマーも自分の感情が整理出来ていない描写が良かったです。
あの描写は日本人として救われました。
○戦争による倫理観の崩壊
劇中で広島と長崎の名が出る度にやはり複雑な感情が込み上げて来ました。
「京都は思い出深いので目標候補から外す」、
「東京大空襲は10万人だった」...
墜とす側のユーモアを交えた議論は、被爆国としてホラー映画でした。
あの時代、何万人レベルの死傷者なんて当たり前だったのでしょうが、誰も彼も倫理観が壊れていた。
台詞の一つ一つにおぞましさを感じました。
○オッペンハイマーが惹かれた世界
量子力学に足を踏み入れるオッペンハイマーが学生時代より、量子に惹かれて行く描写が美しかった。雨粒や波紋、そして女性関係。
精神の不安定さを逆手に取った量子のビジョンだったり、女性関係の背徳感が際立った。
○赤狩りの時代
この作品では、当時の共産主義者の赤狩りの背景が描かれていました。
「赤狩りの時代を繰り返してはならない」...この側面が日本人的にはピンと来なかったのではないでしょうか?
このマッカーシズム(共産党排除)は、戦時中の日本の憲兵による少しでも疑われたら逮捕される状況のようなもの。
このオッペンハイマーは、この魔女狩りのような歴史への教訓も汲んでいる訳なんですね。
○オッペンハイマーとストローズの結末
1954年、カラーで描かれるオッペンハイマーの聴聞会(原爆/核分裂)。
1959年、モノクロで描かれるストローズの聴聞会(水爆/核融合)。
どちらも大敗する結末ですが、大きな違いがありました。
オッペンハイマーは、ストローズの徹底した包囲網により核への権限を失ってしまう。
しかし彼の名誉を守る為の証言が集まった。
対してストローズは、多くの不利な証言が集まり、更にはその傲慢さが暴露されて商務長官へとなれなかった。
そして後年、オッペンハイマーは1963年ではフェルミ賞を受賞。
原爆を生み出し、後年は葛藤し、核軍縮に尽力した科学者ロバート・オッペンハイマー。
とても波乱な人生でした。
○オッペンハイマーの主観は終わり...
ラストはオッペンハイマーが目を閉じて映画は終わりました。
ここまで徹底したオッペンハイマーの目線から離れ、今を生きる私達の目線に戻される。
核により危うい世界に生きる私達は、どうすればいいのか。
【最後に】
ノーラン監督が広島・長崎の描写を入れなかったのは、オッペンハイマーの主観を尊重したからだと発言していました。
また「簡単な答えは出ない、ただ問いかけたかった」とも言っていました。
未来に生きてる私達は、何とでも言える。
神の如く、あの時代の批評をするのは烏滸がましいとは思いますが、やはり原爆投下は正しかったとは言いたくないです。
あれから何も変わっていない人類。
変わらないからこそ問い続ける。
ゴジラやオッペンハイマーは、人類に必要な作品です。
予備知識ないと難しい。
原爆を作ったオッペンハイマーの栄枯盛衰を描いた作品。
びっくりするほどの頭脳を持っている物理学者のオッペンハイマーが原爆を作る責任者になる。原爆に対して恨まれるのは大統領や落とした人、それは確かにそうだろうが、研究者としてのプライドと苦悩が見え隠れする。公聴会ではそれが顕著になり、見ている人にその揺らぎを託している。
驚いたのが、オッペンハイマーの奥さん。子育てのストレスを酒に求めたり、女性関係にだらしない旦那にもめげず、強くなっている姿には同一人物!?と思うほど。
ドイツのヒトラーが亡くなったことで原爆投下の矛先が日本になったとあったけど、そうなの?レビューでもそれはないという方もおられるし。どちらにせよ、投下で戦争を終わらせる目的だったというのはアメリカの主張でしかないことは心にとどめておかないと。
戦争のため、抑止力のための原爆の開発を望んでいなかった、と思いたい。
俳優と内容など〇 ※音量が非常に大きい
【あらすじ】
この映画は、物理学者オッペンハイマーが原爆の製作にどのように関わったのかと、戦後米国でどのように評価されたのかを映像にしています。
【構成】
自分なりにまとめると、
①開始~約20分:中~終盤の場面がハイライトみたく出現。
②中盤:原爆実験の道のり。
③終盤:戦後、主人公への賞賛と批難。
といった感じでした。
【構成別の感想】
①時系列がバラバラに映し出されるため、集中して観る必要性は感じませんでした。音量については、開始から大きいです。
②1時間半くらいですが、どのような環境で原爆が作られたのか、歴史を観ることができます。特に、原爆実験の成功はこの作品の山場だと思います。
③公聴会に呼び出され、政府や検事から原爆製作時のスパイ疑惑(やってはいないが、ソ連に情報を洩らした疑い)について問い詰められます。実は、②から部分的にこの場面が出てくるので、時系列がバラバラになったように感じてしまいました。情報量が多いので、ラストですが、聞き流してしまいました。
【観る際の注意点】
・場面転換が多いので、今の場面が戦前の原爆実験なのか、戦後(冷戦時)なのかは意識するとよいです。
・ホラー映画みたく音量(爆発音や聴衆の足音など)の大小が「非常に」激しいので、耳栓など持っていくと安心です。私はイヤホンで代用しました。
科学者としての苦悩や哀愁を強烈に描き出した最高傑作!
予備知識なしで観ましたが、原爆が何かが分かれば大筋の内容は把握できると思います。
とは言え、序盤から聞き慣れない人名や専門的なセリフが出てくるため、ウトウトしてしまいます。
実際にオッペンハイマーをリーダーとした原爆の実験が行われる辺りから緊張感が高まり、映画の世界に入っていけました。
何と言ってもキリアン・マーフィーがカッコよすぎで、オッペンハイマーの表情やしぐさに自然と惹き付けられます。
終盤は彼が告発されて、科学者としての苦悩や哀愁を深く感じることができました。
アカデミー賞も納得の作品で、オッペンハイマーの表情が心に残る映画でした。
人間の本質
不穏な空気感からの始まり。
予告で拝見した音や画像も気にかけたので視聴。
長丁場の3時間、9割は人間ドラマの会話劇。
開発と投下は別、技術と論理も……。
科学者達の傲慢な態度、無神経な政治家。
日本人として悲痛を感じ苦痛で聴きたくない
セリフもある。ただ、あの時何がおこっていた
かという史実が映画で表現されている。
量子力学や宇宙のシーンは圧倒的。
トリニティの実験の慎重さと緊張感は此方にも
伝わってきた。
物理学者オッペンハイマーの苦悩と没落。
人間の愚かさをはっきり感じただろう。
絶え間無い人類のおぞましい本質を観た
映画でした。
なぜノーランはオッペンハイマーを描いたのか
(映像と音響による観客の没入体験に重きをおく)鬼才ノーラン監督がなぜオッペンハイマーを題材に作品を作ったのか、納得できた気がする。
過去と今の時間を複雑に交差させる構成、主観と客観を織り交ぜたストーリー構造。三時間という短い時間で決して詰め込み感を感じさせないのはノーラン監督ならではの力量。
広島、長崎の惨状を描かないことに賛否両論入り乱れているが、(長崎市出身で友人知人に被爆者家族もいる)自分としては、そのシーンは(作品の構成を歪める可能性が高くなり)必要ないと解釈した
(鑑賞のうえで、この論点を盛んに議論できることは歓迎したい)。原爆の暴力性は別のシーンで十分に伝えられているし、被爆シーンがあったとしても伝わらない人には決して届かない。
(いつか誰かが発見するという意味での)経路依存性を持たない自然科学の研究者が陥る「悪魔の誘惑」や、神への生贄を誰かに負わせたがる大衆の暴力性、悪魔性は十二分に伝わってくる。
何度か観ないと監督の本当の意図は理解できないかもしれない。
だいぶ集中力が要る
・3時間、字幕の言い回しと内容が難しかったりひねってるので、だいぶ集中力が要ると思った。たまたま体調が良かったのか、ちゃんと観れて良かった。NHKのフランケンシュタインの誘惑でオッペンハイマーを取り上げてて、原爆を作って使い所がなく試したくてたまらなかった人っていう勝手な印象を作り上げてたけど、自責に苛まれていたり、女好きだったり、作ったら政府に取られたような形になってて驚いた。登場人物が多くて複雑な関係なのと演出がノーランっぽい時系列の組み合わせで、若干混乱した箇所もあったけど何となく理解できてみることが出来た。
ストローズが恨みに思ったという裁判?とアインシュタインとのやりとりのところが割とあっさりしてるように見えて、えっ?あれで?と思い、そんなに恨んでたんだ、、、と驚いた。
事実が知りたくなる作品
反戦映画でも核推奨映画でもなく、オッペンハイマーという人の栄光と後悔と苦悩をもう本当に淡々と描いているなという印象でした。
実験のシーンは、カウントが少しづつ減っていくのがとても恐ろしく感じました。
(小さな頃からの平和学習が原因かも)
少なからず、人への被害こんなもんじゃないから!!って思う方もいるかもしれないですが、そこには重点を置いてないようなので、それでいいのだとわたしは思いました。
(オッペンハイマーが核兵器を作らなくても)いずれ誰かが作ったというセリフに心が痛かったです。
全編通して随所に、人間の愚かさが感じ取れ、ストローズが腹いせでオッペンハイマーを表舞台から引きずり下ろそうとしたり、元カノとズルズル関係を続けてしまっていたり、原爆使ったらどうなるかなんて実験を見れば分かるのに使ってみたいという気持ちが勝ったり、どんな人間にも存在する愚かさというのを、描いていたのかなと感じました。
だからといって、愚かな行動はやめようね!というメッセージも込められてないです。
ずっと何だかやるせないな、という気持ちになります。
でも個人的には、この映画のおかげで、オッペンハイマーという人物や、戦争、原子爆弾、核兵器について、色々と知りたくなりました。
私のように映画を通して様々な方がそれらについて考え、議論するきっかけになるといいなと思います。
エンタメとしてはキツいものの、歴史の教科書を映像化したものと考えればセーフかもしれない
2024.3.29 字幕 イオンシネマ久御山
2023年のアメリカ映画(180分、R15+)
原作はカイ・バード&マーティン・J・シャーウィンの『American Prometheus: The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer(アメリカのプロメテウス:J・ロバート・オッペンハイマーの勝利と悲劇)』
原爆の父オッペンハイマーのマンハッタン計画とその後に行われた秘密保安聴聞会と上院承認公聴会を描いた伝記映画
監督&脚本はクリストファー・ノーラン
物語は、第二次世界大戦中のアメリカにて、ドイツの核開発に対抗する科学者たちの奮闘を描いていく
冒頭にて、1954年に行われた秘密保安聴聞会(カラー:主にオッペンハイマーの共産党員疑惑追及)と、1959年に行われた上院議員公聴会(モノクロ:主にオッペンハイマーをマンハッタン計画に推奨したルイス・ストローズの進退問題)が描かれ、それぞれのシーンから「回想」へとつながっていく
ロバート・オッペンハイマー(キリアン・マーフィー)は、共産党員との関わりを疑われ、それは恋人ジーン・タトロック(フローレンス・ピュー)が共産党員だったことと、それにまつわる告発が行われたからであった
ルイス・ストローズ(ロバート・ダウニー・ジュニア)は、自身の昇進の意見交換会にて、「なぜ、オッペンハイマーを選んだのか」について追及され、「当時は有能な科学者だった」と、彼の背景に関して疑わなかったことを訴えていく
オッペンハイマーの回想は、ケンブリッジ大学時代から紡がれ、そこでは恩師パトリック・ブラケット(ジェームズ・ダーシー)の研究シーンと、大学で講義を行うニールス・ボーア(ケネス・ブラナー)とのやりとりから始まる
このパートでは「青酸カリとりんご」が登場し、彼の隠された破壊衝動というものが描かれる
ストローズの回想では、高等研究所に彼を招く様子が描かれ、そこでオッペンハイマーとアルベルト・アインシュタイン(トム・コンティ)の「秘密の会話」というものが描かれる
ストローズは二人の会話の内容が気になっていて、しかも数年前に行われたある会合でバカにされたことを根に持っていることが暴露されていく
この2本の物語の軸があり、「オッペンハイマーの回想は彼の研究生活」に言及し、「ストローズの回想はオッペンハイマーの共産党員との関係」を紐解いていく流れになっていた
科学者の人脈が広がるのがオッペンハイマーの回想で、プライベートの人脈の広がりがストローズのパートとなっていると考えればわかりやすい
その後、人脈が描かれた後に「マンハッタン計画への打診」というものが行われ、オッペンハイマーの元に陸軍大佐のグローヴス(マット・デイモン)とニコラス中佐(デイン・デハーン)が登場する
この時点のオッペンハイマーは、カリフォルニア大学バークレー校にて教鞭を執っていて、その時の生徒であるロマニッツ(ジョシュ・ザッカーマン)が後にグローヴスとの連絡係になっていた
また、隣の教室で実験を行っているアーネスト・ローレンス(ジョシュ・ハーネット)との交流が描かれ、友人のアルヴァレス(アレックス・ウルフ)や弟のフランク(ディラン・アーノルド)たちとの交流が描かれる
高原に馬で訪れる場所がのちの「ロスアラモス」で、そこに街が建設されていくのである
原爆開発に入ってからのメインイベントは「トリニティ」で、ここではシカゴ大学から合流したデヴィッド・ヒル(レミ・マレック)やエンリコ・フェルミ(ダニー・デファリ)たちとの研究が描かれていく
ここまででも登場人物の3分の1くらいで、マンハッタン計画に関わったアメリカ人科学者が15人くらい、軍部関連で10人以上、公聴会の議員が5名、聴聞会のメンバーが5人ぐらいは登場する
ぶっちゃけ、当時の人間関係と原爆投下後に何が起こったのかを知らないと意味不明な会話劇を眺めるだけになってしまう
人物の理解にパンフレットはさほど役に立たず、オッペンハイマーの年表とか、各用語の解説は使えると思う
登場人物相関図を個人的に作ったが、B4用紙まるまる細かい字で埋める感じで、全ての関係性を線で結ぶのは不可能に近い
印象として「ストローズの公聴会(議員から吊し上げ)」「オッペンハイマーの聴聞会(赤狩り関連)」「プライベートとしての共産党員との関わりと学外活動」「ケンブリッジから始まる科学者人脈の広がり」「マンハッタン計画で関わる科学者と軍人」という感じに区分けはできると思う
とにかく、180分間の講義を聞いている気分になるので、字幕を追うだけでかなりのカロリーを消費する
そして、脳が疲弊した時に「ドカン!」とくるので、なかなか強烈な映像体験だった
公開が伸びた経緯とかを掘り下げるとキリがないのだが、この映画は「原爆肯定」でもないし、「戦争賛美」でもない
アメリカの開発者目線における「原爆の投下」なので、被爆した広島や長崎の映像を当時の彼らが知ることはない
戦後にようやくそれらの情報が彼らの元に舞い込むのだが、その頃に聴聞会が行われ、その後に公聴会が行われたという流れを掴めばOKではないだろうか
いずれにせよ、人物が登場するたびに字幕で説明が必要な感じになっていて、鑑賞のハードルは思った以上に高い
180分の長さはそこまで感じないが、時系列が入れ替わりまくるので、全体像を把握するまでに時間がかかる印象があった
IMAXでの鑑賞も考えたが、かなりの混み具合で断念、会話劇なのであまり意味はないだろうとは思っていた
実際に観ればその違いはわかると思うので、時間が許すならIMAXレーザーで鑑賞したいと思っている
要予習
過剰に大きな効果音や長過ぎる上映時間などのため、観ていてやや苦痛を感じる作品だった。
実在した学者が何人か登場するが、いずれも本人に似せた風貌となっているあたりに製作者のこだわりを感じる。モノクロを使って時期や場所の違いを表す手法も面白い。
史実や実在した人物を掘り下げて描く作品は、展開のわかりやすさよりもインパクトを重視してつくられる場合がある。本作もそのような作品であるため、視聴前にオッペンハイマーの人生や身近な人物を予習しておくと展開を理解しやすく、作品をより楽しめるようになると思う。
予習を怠ったため展開を追うだけで精一杯となってしまい、監督の意図をあまり読み取ることができなかった。再視聴を検討中。
ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr. 、本作でアカデミー助演男優賞)にも注目すると入ってきやすい
クリストファー・ノーラン監督の原爆を題材にしたオスカー作品。
ーー
「まちがいなくアカデミー賞っぽい」「やや長く重苦しい」「クリストファー・ノーランとロバート・ダウニー・Jr」「おもったよりも作品は「原爆」ではなかった」
ーー
<印象に残ったもの>
①ロバート・ダウニー・Jr. (ストローズ役):序盤から気になったが重要な役どころだった。もしもう一度見るなら、彼をよく見る。
②映像美:主人公のオッペンハイマー視点はカラー、主人公以外(ストローズ関連シーン?)はモノクロで表現され、映像美の要素としてのみでなく、話の道筋の理解の参考にもなった
③音:原爆の恐ろしさ、主人公と他の人との距離などの表現に音響効果が”極めて”印象的だった。できればまたDOLBYなどで鑑賞したい
<作品メモ>
原爆の父である主人公の科学者としての倫理観が作品全体のテーマ
①ナチスとの原爆開発競争から実験成功、日本への実戦投下、ソ連側の原爆開発脅威との向き合いといった時代を背景に
②大学での研究、砂漠の研究所の開発、公聴会の3つのシーンで描かれ
③対峙するもの(共産党員関係者として見られていたこと、軍人や政治家etc)との重苦しさがそのまま作品に暗い影を落とす
エンディングの暗転したスクリーン。その向こうに私たちが見出すもの・・・
この映画は、カラーで描かれるパートとモノクロで描かれるパートで構成されます。
どちらのパートも、オッペンハイマーにかけられた国家の安全保障政策(水爆開発)や国家機密に対する彼の思想・行動の危険性という嫌疑を審理する、その「裁き」のプロセスを描いています。
Fission「核分裂」(→原爆を象徴する言葉)というタイトルがついたカラーパートは、嫌疑をかけられたオッペンハイマー自身の申し立てを、彼の言葉によれば「彼の今までの人生全体を時系列的に」述べることで審理委員たち、そして私たち映画の観客に伝えようとするのですが、ノーラン監督は、そこにオッペンハイマーの心象風景、彼が幻視した核の脅威のイメージも含めながら映像化しています。それは確かにこの映画を見る私たちには訴えるものがあるのですが、一方、オッペンハイマーが申し開きする審理委員たちに彼の心の中のイメージまでは決して伝わらず、審理の場での彼の孤立感がますます深まっていく様子が描かれます。
一方のモノクロパートにはFusion「核融合」(→水爆を象徴)というタイトルがついて、嫌疑をかけた側、その中心人物ストローズという男の証言をメインに構成したもの。しかもこのモノクロパート、オッペンハイマーを裁いたいわゆる「オッペンハイマー事件」の数年後、彼に嫌疑をかけたストローズ自身のホワイトハウス高官就任の是非を問う聴聞会での、ストローズの証言、国家への危険人物と見なされたオッペンハイマーとストローズの関りについての彼の証言、という形で構成されています。
オッペンハイマーが裁かれるプロセスと、その数年後に彼を裁きにかけたストローズも審理にかけられるプロセスを、交互に構成しながら二人それぞれが迎える審判に向けてストーリーは展開するのですが、映画では冒頭近く、このストローズという人物の動機、彼とオッペンハイマーとの間の確執のきっかけが、二人の出会いのシーンにさりげなく描かれます。(原作にはないノーラン監督オリジナルの脚色ですが、ちょっと向田邦子を思わせるピリピリした味わいがありました。)
プリンストン高等研究所の所長に推挙されたオッペンハイマーと、彼を推挙したストローズの出会いのシーン。commuteという言葉を「通勤の便」という実務的な意味で使うストローズと、そこに「重荷の軽減」或いは「重い刑からの減刑」という意味をかけているオッペンハイマーの気持ちのずれ。ストローズの前職shoe salesmanをlowly「卑しい」と形容してしまう名門出のオッペンハイマーとjust「まっとうな」とみなすたたき上げのストローズとの間の微かな緊張感。そして、オッペンハイマーとアインシュタインという知の巨人二人の会話を遠くから遠望するストローズ。彼はその会話の中身を知りえないまま、それを自分への中傷と思い込み・・・
出会いの時の気持ちのずれ、思い込み、小さな反感・・・それを疑念や憎悪、そして復讐心へと募らせていくストローズ。
そんなストローズに仕組まれた裁判は、オッペンハイマーの人格と業績を卑しめるための意趣返しに変質し、ただの茶番のような様相を帯びてくる。
過去の交友関係をほじくり返し、その不倫現場を再現し、ささいな虚言をあげへつらう、そんな展開が延々と続くカラー、モノクロそれぞれの裁判シーン。そこには真実が暴かれる高揚感・スリルのようなものは感じられず、むしろ何とも言えないやるせない感じ、彼らは何を裁いているのだろうという思いが募ってきます。
本質的にそこで審理されるべきは、「人類はいかにして核に向き合うべきか」という、今や人類全体の生存に関わる課題、水爆は必要なのか否か、という問題であるはずだった。オッペンハイマーはその課題を敵も味方もないオープンな場で議論することの必要性を唱え、機密という殻で真の脅威を秘匿することの危険性を訴えただけ。それが、いつしかその主張は敵国へのスパイ容疑、国家の安全保障への裏切りにすり替えられ、過去の思想傾向や、不倫、ささいな虚言に結び付けられながら彼の人格、個人的な欠陥の裁きに矮小化されてしまう・・・
この茶番のような裁き、審判の結果が、今なお世界に覆いかぶさる「核の影」なのか、という暗然とした思いに囚われるけど、それこそがノーラン監督が意図したことでしょう。
そして、そのような裁判が行われた時代の国民の姿、感情を直接的に描かずに、ストーリーは密室の裁判劇、或いは砂漠の研究所での秘密の開発ドラマとして進められる、そこにもノーラン監督のある種の意図が感じられました。
直接的ではないけれど、じわじわと不気味に浮かび上がってくる感じ・・・
日本への原爆投下を研究所メンバーたちが無邪気に喜ぶシーン。そしてトルーマン大統領の登場シーン。
G・オールドマンがチョイ役ながら印象的に演じるトルーマン大統領。歴史においては、彼こそ影の主人公・ラスボスのように思います。
「私の手は血塗られている」とつぶやくオッペンハイマーに「広島の人々に呪われるべきは、原爆投下を決めた私だ。君が背負うことではない」と諭したトルーマンの言葉には、何億という国民の命(それはあくまで自国の民だけど)を背負う政治家としての矜持、重みが伺えます。(トルーマンはこの会見後、「彼の手は私の半分も血塗られていないよ」と言い捨てたとか) 核の時代の真の脅威を理解しない凡庸な大統領が原爆投下を決定し、朝鮮戦争の戦火を開き、民主党大統領でありながら「赤狩り」を黙認し・・・それでも国民は1948年の大統領選で彼を再選するのです。そして、今なお多くのアメリカ国民が原爆投下は戦争早期終結のため必要だったと信じるに至った、その端となったのもトルーマンの言葉。
ロスアラモスの集会所で、足を踏み鳴らしながらオッペンハイマーを英雄として迎えようと集まる研究所職員たちの姿に、或いはトルーマンという大統領を支持した国民の声なき声に、民衆は歴史の被害者だけではない、時に加害者となりうることを描こうとするノーラン監督の意図を感じました。ふと、映画キャバレーのtomorrow belongs to meのシーンを見たときの印象もよみがえる・・・。(このロスアラモスの職員たちが踏み鳴らす足音は、世界の破滅への足音としてオッペンハイマーが幻聴する足音として劇中何度も現れます。)
この映画は、オッペンハイマーという人物やオッペンハイマー事件について既に多くを知っている人には、不満の残る部分があると思います。広島・長崎の惨状描写や、それへのオッペンハイマーの悔恨感情の描き方が甘いという指摘は確かにあるかもしれない。ただ、彼の悔恨は、広島・長崎へのそれ以上に、それが切り開いた核に支配された未来、それがもたらすかもしれない世界の壊滅への恐れであり悔恨であった。同時代、もう一人の「パンドラの箱」を開けた科学者・ウェルナー・フォン・ブラウン(彼は後にアポロ計画のリーダーとしての栄光を手に入れる・・・)の手になるV2ロケット、それはやがてICBMとして無数に空に向けて放たれる・・・彼が見たそんな未来への悔恨が原爆後の彼を突き動かしていたことに重点を置いたノーラン監督の意図は十分に理解できました。むしろ私自身は、オッペンハイマーの行動の支えとなったニールス・ボーアの思想、「the Open World」(開かれた世界)という言葉に集約されるボーアの哲学をもう少し掘り下げてほしかった。映画では一度も使われなかったこのOpen Worldという言葉に、個人的には核の問題だけではなく、今の世の中の様々な断絶、分断へ対峙する時に最も求められる姿勢を表しているように思うだけに、そこだけは少し不満が残ったかな・・・。
それでも私は、オッペンハイマーという人物、安易な感情移入を拒む複雑で矛盾に満ちた人物がたどった運命をあえて今この時代に描くこの映画の意義はとても重いと思います。何年か前、スミソニアン博物館での原爆展に異を唱えた人々、原爆投下は戦争の早期終結に有効だったと信じる人々、或いはオッペンハイマーという人物なんて知らなかったという人たちが、改めて今世界にかぶさる「核の影」、「世界終末時計」90秒前という世界、様々な国の元首が他国との交渉の手札に核兵器をちらつかせる、そんな世界の今に目を向けること・・・茶番の裁判で審理されることのなかった「人類はいかにして核に向き合うべきか」という課題に、何らかの思い・感情・或いは明確な意思を抱くそのきっかけとなること・・・それを私たちに促す力を、ノーラン監督のシナリオと映像は、そしてキリアン・マーフィーをはじめとする俳優の演技は十分持っていると思いました。
この映画のエンディングのシーン、茶番の裁判劇にストローズを駆り立てるきっかけとなったオッペンハイマーとアインシュタインの会話の秘密が明かされます。その後、世界終末を幻視したオッペンハイマーが耐えかねるように目を閉じる・・・
そして画面は暗転。真っ暗になったスクリーンは、その先にあなたは何を見出すのかというノーラン監督の問いかけだと思うのです・・・
全206件中、181~200件目を表示