オッペンハイマーのレビュー・感想・評価
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『オッペンハイマー』でわかった僕がノーラン監督を苦手な理由
ようやく観れました!アカデミー賞総なめの話題作、クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』。観たい観たいと、観なきゃ観なきゃと思い続けて、数ヶ月。期待値の高まりが激しすぎたせいかもしれないけれど、結果的には「やっぱり僕はノーラン監督が苦手だな…」と思ってしまった。
米国をはじめ全世界での公開から遅れること半年以上。唯一の被爆国である日本で、「原爆の父」とも呼ばれるオッペンハイマーの伝記映画が公開されること、あるいは公開されないことが大きな議論を巻き起こし、公開以前から話題を呼んでいたこの『オッペンハイマー』。蓋を開けてみれば日本国内でも興行収入は10億円を超え、3週連続で洋画1位を獲得するなどのヒット作となった。
上半期が終了した今日この頃、SNSで見かける「上半期ベスト」なるリストに『オッペンハイマー』が並べられることも少なくなく、そのヒットの背景には興行的な意味合い以外のものもあるのだろうと推察できる。
しかし、だ。
僕はこの作品の良さがまったくわからなかった…。
それは被爆国に住む人間として「広島」「長崎」の扱われ方に違和感や憤りを抱くといったようなものではなくて、シンプルに映画としての面白さ、映画としての表現といった視点で言っても、脆弱な作品に思われてならなかった。
この作品の基本構成としては、「核分裂」と章立てられたオッペンハイマー(キリアン・マーフィー)への尋問(公聴会)のシーンと、「核融合」と章立てられた原子力委員長ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr.)への公聴会のシーンから成り立っている。
そのうえで、「核分裂」で描かれるオッペンハイマーの回想(供述)として戦前〜戦中の原爆開発の物語がカラーで描かれ、「核融合」で描かれるストローズの回想(供述)として戦後の水爆開発や原子力委員会の活動などがモノクロで描かれる。
ここで最初の疑問が頭にもたげるのだけれど、なぜこのような複雑な構造になったのだろう。
もっともらしい説明としては、時系列でオッペンハイマーの人生を描いていても、それはただの伝記であって(ノーランの目指す)エンタメではないという考え方だ。それはたしかに理解できる。オッペンハイマーという男の物語に、「公聴会」というカタチで舞台装置からして疑惑や疑念を投げかけることで、「原爆の父」という神話的な英雄(プロメテウス)を疑うという姿勢は悪くはないと思う。
※時系列で描いた伝記映画にも傑作は多いのだけれど。
ただそれにしても、本作では時系列がごちゃ混ぜにされすぎていはいないだろうか。それになぜ、より過去の話である「核分裂」がカラーで、新しい「核融合」がモノクロなのかもわからない。こちらもオッペンハイマーの目線か否かとか、もっともらしい説明ができなくはないけれど、そうまでして押し通したい演出なのかは甚だ疑問だ。
例えばではあるが、「オッペンハイマーの解説」「時系列や登場人物の整理」などの記事が多く掲載され人気を呼んでいるのも、この映画が必要以上に複雑であることの証拠ではないか。
そこで僕の頭に浮かぶのが、ノーラン監督らしい「インテリ主義」だ。ノーラン作品の多くが——その際たるものは「TENET」だけど——複雑な構造を読み解いていくことを要求し、その謎解き的な快楽にこそ映画の魅力を見出そうとしているような気がしてならない。
ノーラン監督作品の多くは「構造がわかった」「謎が解けた」というレベルの読後感しか与えないというのが個人的な印象で、だから僕はどうしてもノーランが好きになれない。ノーラン好きの友人たちに総スカンをくらうのだけれど、僕が唯一好きな作品は「ダンケルク」。なぜなら、あの作品には“心”が描かれているような気がするからだ。
そしてこの作品を観たあとに僕が感じたことも、「で、結局なにを伝えたかったんだっけ?」という感想だった。ノーランなりに、オッペンハイマーの苦悩やらストローズの独善やらを描こうとしているのかもしれないけれど、上述の複雑な構成ゆえに心情に寄り添っている余白がそこにない。「悩んでいます」「怒っています」という感情が貼り付けられた映像と演技が構成されていくだけ。少なくとも僕はそんなふうにこの作品を観てしまった。
当然SFやファンタジーに、精緻で奥深い感情表現など必要ではないという考え方もあると思うけれど、本作は「原爆の父」であるオッペンハイマーの物語。それこそ感情や反省を抜きにして「エンタメ」として昇華させてしまうことに、多少なりとも躊躇いは感じて欲しい。
そしてその軽薄さを上塗りするように、演出もまたチープだ。やたらうるさい爆発音や足音で無理やり盛り上げようとする、あるいは緊迫感を出そうとする、力業な音の世界。(前作まではもっと重厚で苦しいちゃんとした音世界だったと思うんですが…)
オッペンハイマーにフラッシュバックする原爆投下のイメージは、「とりあえず明るくしておけばいいだろう」という程度に白々しく光り続ける画面と、あまりにちゃちなケロイドの肌(しかも繰り返されるのはたった1人の女性)、リアルとは程遠い黒焦げになった遺体など、さすがにお粗末ではないかと感じてしまう。あの痛みのないチープなフラッシュバックで、オッペンハイマーが”ちゃんと悩まされている”とは到底思えない。
長々と文句を書いてきてしまったけれど、当然あくまでも僕個人の意見で、『オッペンハイマー』が大好きな人もいるだろうし、ノーラン監督に心酔する人もいるに違いない。それを理解できるほどには屹立していた作品だ。
この映画で僕がいいなと思ったところが1つある。
観賞していると、否が応でも「トリニティ作戦」の成功である種のカタルシスを感じ、映像のなかで歓喜する登場人物たちの胸中がわかるような瞬間がある。でも同時に、その成功が「広島」「長崎」に災禍をもたらし、オッペンハイマーの言葉を借りるなら「世界を滅ぼす」ということを私たちは知っている。
その矛盾した感情、ドラマとして感じさせられるカタルシスと、それを抑制しなければいけないと痛感する現実の理性とがせめぎ合う独特の映画体験がここにはあった。
オッペンハイマーの人物像、人生を描いた映画
原爆の父と言われたオッペンハイマーの人生の物語。
※日本人からの視点ではなく、完全に個人的な、
一人間としての視点でレビューすることをお許しください。
オッペンハイマーは
天才物理学者で語学も堪能。
天才科学者達を含むたくさんの人々を惹きつけてまとめるカリスマ性があり、
母国愛が強い人物。
驚いたのは、
オッペンハイマーは実験は苦手で精神的に不安定、
女性関係も淫らなところがある、友人をかばうような発言をする、など、
とても人間らしい人だったというところ。
完全に私の偏見だったが、
そういうプロジェクトに携わるような天才な人は
もっと、まるで心がないような精神の持ち主なのかと思っていたからだ。
ただ、人間らしく感情があるがゆえに
様々な葛藤や苦悩があり、その感情や思考と必死に向き合ったオッペンハイマーのストーリーが描かれている。
オッペンハイマーをはじめ
天才な科学者たちは先を見通す力がある。
作ったモノの先がどうなるかわかっていた。
オッペンハイマーは矛盾した現実その全てを受け入れ、覚悟をしていた。
覚悟をし、実際に受け入れ、必死に乗り越えていっていた。
精神的に弱いところがあったとは感じさせない、もの凄い強さだと感じた。
自分に正直でいることを貫いたオッペンハイマー。
彼を裏切るものもいたが、見てくれている人もいた。
そして最後、裏切られた水爆の父からの握手に笑顔で応えていた。
あの時の気持ちはどういう気持ちだったのだろうか。と考える。
この映画を観て
知識の危うさも感じた。
科学者として皆で原子力の可能性を発見して知識を深めていく場面。
科学者として知識を深めることが、ただ楽しくて好きだとして。
それが世の中の役に立てればと思う気持ちがあっても
人を殺める凶器を作り出してしまうことがある...
なんとも言えないジレンマ、胸が痛む。
そして国同士の争い。
国の中でも政治の派閥争い
同じプロジェクトの中でも妬みや恨み、派閥争いがある。
オッペンハイマーの社会的な立ち位置、さまざまな側面とそのドラマが描かれている。
人が集まれば派閥や争いがあるのは、
時代が変わろうが、国から自分の身近な場所でも、人間である以上変わらない、無くならないことなのか。
自分は関係ないと思っていても、知らず知らずのうちに派閥争いに巻き込まれる可能性がある。
色んな視点から、考えさせられることが沢山あり、とても複雑な感情に包まれた。
あっという間の3時間だった。
この映画を知ることがなければ、オッペンハイマーの存在を知ることも、もっと理解を深めたいと思うことはなかっただろう。
紛れもなく私の人生に影響を受けた。
もう一度観てまたレビューしたいと思う。
愚かな人間には過ぎたる兵器 ノーランがアメリカと人類に突きつけるメッセージ
量子力学が目覚ましい発展を見せた時代を生きた天才オッペンハイマー。同胞のユダヤ人を迫害するナチスが原爆開発をしており、彼が一目置く物理学者ハイゼンベルクがそれに関わっている。それに対抗する「ガジェット」開発への助力をアメリカが自らに望んでいる。そんな時代の要請が、内向的でナイーブな研究者だった彼を、カリスマで名だたる物理学者たちを率いるリーダーに変えた。
ナチスへの怒りと、彼らが先んじて原爆を実現することへの焦り、そして愛国心。そこには、物理学者としての知的探求心もきっとあっただろう。
それらの動機は、私欲とは距離をおいたある意味純粋なものである反面、完成したガジェットが現実に使われた結果もたらされる地獄絵図を見通す目を曇らせた。
第二次大戦後の安全保障に関する公聴会で、オッペンハイマーは言った。
「技術的に甘美なものを見つけたら、まずやってみる、それをどう使うかなどということは、成功した後の議論だ、と(科学者は)考えるものです」
しかし科学者には、特に原爆のような国策で開発したものに関しては、使い方を決める権限はない。一方、それを決める権力を持つ人間は、国家間の権謀術数や政治的駆け引きにまみれている。
この構図を考えた時、誰か原爆投下を止められる者がいただろうか、と思う。確かにオッペンハイマーはロスアラモスで科学者たちを牽引した。だが、仮に彼一人が開発を拒否したとして、アメリカという大国が大量破壊兵器を求め、テラーのような科学者たちがいる限り、多少時期が遅れることはあれ、止める道はなかったように思えてならない。
トリニティ実験の直前、ドイツが連合国軍に降伏した。オッペンハイマーはこの時点でグローヴスに、ロスアラモスの研究所を継続すべきでない旨の手紙を出した。「ヒトラーより先に原爆を持つ」ことを至上命令としてきたロスアラモスの科学者の中でも、敗色濃厚な日本への原爆投下の是非が論じられた。一部の科学者は原爆投下反対の署名を集めた。だが、研究所を去る者は誰一人いなかった。
戦後、オッペンハイマーが水爆開発に反対しだしたと見るや、国は赤狩りを口実に彼を排除した。ストローズの私怨だけではなく、ソ連の核開発の脅威がそこにあった。
物理学者の藤永茂氏は、著書「ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者」で、20年以上オッペンハイマーの記録を追い続けた末の答えとして「広島、長崎をもたらしたものは私たち人間である」と述べている。本作を観た私も、藤永氏に近い感想を持った。
確かにこの映画には、原爆投下後の広島や長崎の人々が晒された凄まじい災禍の描写はない。「被曝」の恐ろしさを知る私たち日本人の間で、描写不足との批判が上がるのも無理はない。
だが、人間が大量破壊兵器を持つことへの疑念を訴えるにあたり、さまざまな視点や切り口があることもまた表現のあるべき姿だと思う。ノーランは、圧倒的な兵器の力や大義がいかにして大量殺戮への罪悪感を覆い隠すか、その陥穽にあっけなくはまる人間の弱さや愚かさを描くことで警告を発している。強大すぎる兵器は、その存在自体が時代の趨勢を作る。それを平和裡に御する能力は、人間にはない。
オッペンハイマーが1965年にテレビ番組で回想とともに述べたバガバッド・ギーターの一節(「われ世界の破壊者たる死とならん」)は、ドキュメンタリーなどでよく引用され、彼を特別な人間のように印象付ける。しかし天才と言われた彼もその反面で、人並みの弱さと、原爆が正しい判断の元に管理されるという無邪気な幻想を持ったただの人間だったのだ。
ラストでアインシュタインが発する予言めいた台詞はノーラン監督の創作だ。設定上、この邂逅は1947年だが、その後1963年にオッペンハイマーがエンリコ・フェルミ賞を受賞した時の映像が重ねられる。アメリカはこの授賞によってオッペンハイマーの名誉回復を図ったが、その贖罪の姑息さを、アインシュタインの言葉を通じて監督は指摘しているように思えた。時代の都合でオッペンハイマーを理不尽に切り捨て、持ち上げるアメリカの勝手さも、本作は批判する。
ノーラン監督らしく、物語は時間軸を忙しなく切り替えながら進んでゆく。だが、オッペンハイマーに起きた出来事の時系列と、彼に接した主要な人物、それを演じる俳優の顔を予習しておけば、完全にとは言わないが比較的わかりやすく観られる作りになっている。ノーラン作品の中では親切な部類と言えるかもしれない。
上に書いた藤永氏の著作は、文庫で3冊ある原作よりもコンパクトにオッペンハイマーの生涯や人間関係を把握できるのでお勧めだ。映画の中でちらっと出てきた原子爆弾の構造、砲撃法・爆縮法の説明も図解付きで載っている。
IMAXフィルムの恩恵は、ロスアラモスの広大な風景などで感じたが、トリニティ実験のきのこ雲は、映像自体には正直期待したほどの恐ろしさがなかった。
遅れて到達する轟音と爆風、実験成功後に講堂でオッペンハイマーを賞賛する人々が踏み鳴らす足音がそれに重なる。胸を震わせる重低音が効果的だ。彼の視界でその風景が閃光に白飛びし、皮膚がめくれる女性が一瞬映る。日本人から見れば手ぬるく感じる被曝描写ではあるが、この女性をノーランの娘が演じたことに、彼のメッセージがあると信じたい。
映画作家ノーランのネクストレベル。
ちょっと偉そうな物言いになってしまうのだが、ノーラン、脚本の腕が上がったんじゃないか。いままではノーラン特有の理屈っぽさと、それを凌駕するロマンチスト気質がうまくブレンドされておらず、どこかチグハグな印象を受けることが多かった。しかしこの映画、相変わらず時系列は入り組んでいるものの、ひとつひとつのシーンに多層的なニュアンスがあって、次のシーンに繋がっていく推進力がある。3時間、初見ですべてを理解できなくとも、観客を否応なしに引き込む巧みさが備わっているのだ。
そして、原爆被害を直接見せなかったことに対してモヤモヤする気持ちはあるのだが、オッペンハイマーが原爆の衝撃を感覚的に理解してしまうシーン(ロスアラモスで科学者仲間を前にスピーチする場面)を、映像はもちろんだが音響の力を駆使して表現していて圧巻だった。確かにあの演出を成功させたら、それ以上の描写は説明のための説明になってしまうような気がする。IMAX云々よりも、音を浴びせられるような設備がある劇場で観るのが一番なんじゃないだろうか。
この時代のひとつの解釈として意味がある
日本への原爆投下の描写がないとか、十分だとか、いろんな意見を読みました。
でも中身がどうであれ、受け取り手がどう思おうが、この映画がこの時代に出たことに意味があると思いました。
少なくとも、アメリカのこの時代の原爆に対する、現在の解釈のひとつの例になるんだろうと思います。
ただわたしが受け取るには、当時のアメリカの理解が足りなかった。それぞれの人物の立場も関係性もよくわからないまま見てしまいました。
その上で、オッペンハイマーがなにかしらの罰を受けたいと考えていたのは意外でした。兵器を製造したこと、核戦争の火蓋を切って落としたことに対する苦悩があったと描かれていたと思います。
ロバート・ダウニー・Jrの演技は、マーベル作品や『シャーロック・ホームズ』でしか観たことがなく、しかもこのときのアカデミー賞の授賞式しかり、不遜なキャラクターが板についているイメージでした。
こんなにそのキャラクターを抑え込んだ、普通の人間をやるんだと言ったら俳優だから当たり前ですが、勝手に感動してしまいました。後半の畳み掛けがすばらしかった。
ノーランでなくても良い映画
オッペンハイマーの心情視点で描かれてはいるが入り込めないままどんどん上滑り展開で畳み掛ける長尺映画。誰が誰やらわからないまま早口会話で延々続く会話、会話、会話。疲れた。
ムズっ
登場人物が多すぎるから1回観ただけでは、ちんぷんかんぷん
アメリカのドラマや映画でよく見かけることだけど、時にはファーストネームで呼んだり、ニックネームで呼んだりミドルネームで呼んだりして更にちんぷんかんぷん
物理学に長けていないと、難しい内容はちんぷんかんぷん
現在かと思えば過去にタイムスリップ?モノクロとカラーで分けているとは言えちんぷんかんぷん
悪い映画ではないけれど、理解するためにもう1度観よう!とは思わない映画だった
ただいくつか分かったことはある
①実際にはこの言葉は使われてはいないのだけれど、アメリカ人にとっては
日本人=ジャップ=奴隷=56しても良い存在
つまり、未だに差別と侮蔑を当然のように浴びせている黒人達と同じレベルの民族なんだということ
②国というものは、国家に忠誠を誓っていても、都合が悪くなれば平気で『斬る』ということ
③原爆の開発者(オッペンハイマー)は、日本にそれが落とされたことに、かなりの責任を感じ、悩み、後悔していたこと
④投下する都市は、なんとも適当に選出等がなされていたこと
⑤原爆投下が戦争をやめさせるために使ったというのは建前でしかなかったこと
⑥多くのアメリカ人は、当時も今も原爆投下に後悔の念すら持っていないこと
⑦アメリカにも『ヤラセ』『茶番劇』があり、周囲はそれを分かっていて罰する側にいとも簡単になり下がること等
アカデミー賞は、そのアメリカ的な発想から授ける「太鼓判」であり、「お墨付き」であることを、特に日本人は感じないと今後も奴隷対応されてしまうだろう
この作品はアカデミー賞を●●個ノミネートされ、◆◆個受賞したから凄いんだ!なんて短絡的に捉えていていいのかな?
世界はこの映画の何に絶賛を送ったのだろう?
アメリカ人以外に本音を是非聞いてみたい‼️
▲広島・長崎のむごたらしい映像を微塵も出さずに、戦争の無意味さ悲惨さを訴えた作品だから?
▲前代未聞の悪魔の兵器を使った相手国に対して、日本人の多くが心の底からがリスペクトしているというその恐るべき洗脳力の高さ??
▲クリストファー・ノーランの匠なカメラワーク?
▲1人だけでも十分に主役をはれるメンバーを大勢集めておきながら、彼等で脇役を固めたこと?
▲主演&助演の男優達の演技力?(微妙)
▲緊迫したシーンを、観客がまるで体感しているかのような臨場感溢れる持っていき方?
原爆の父の苦悩とスパイ疑義…
オッペンハイマーの人物像、史実を知らなかったので、ノーラン監督のいつもながらの時系列の交錯や、登場人物の多さ、早口の会話の応酬、緊張感を煽るような大音量と不気味な音に狼狽えながら、何となく理解はできた。アメリカ側の視点で描かれた映画なので当然日本人が見たら賛否はあるだろう。原爆を開発してから、その後苦悩に至るまでの原爆の悲惨さ、惨状の描写が圧倒的に少ないので、苦悩を描くという点と水爆反対に至るまで、その深さだったり、時間だったりが足りていないと思う。敢えて描かずとも、その惨状は知っているだろうと、それは前提、当然だと言われている気もするが。オッペンハイマーが原爆を作ったことで世界の破壊者という言い方ができるかも知れないが、作らずともソ連の科学者が作ったかもしれない。新たな水爆を作るより、地球滅亡には十分な威力のある原爆を管理する体制を作る彼の理想は形は違えど、冷戦を経て、抑止の為に核保有国が増えたが、結果的には地球滅亡を意味する核戦争には至っていない。しかし、結局戦争や紛争は無くなってない。映画でもあるように兵器を作るのは科学者でも、それを実行するのは政治家であり、いつ何時、その政治家が判断を下すのか分からない危険性が常にある。ノーラン監督が伝えたかったのは分断化が進むことで危険性が更に増す現代への警鐘なのかもしれない。
この映画が描くべきことはこんなことか?
オッペンハイマーを主題としている映画であり、それ以上でもそれ以下でもない。
オッペンハイマーを描くにあたり原爆の悲惨さを描く必要はないが、この映画が扱うべきテーマとしてはかなり矮小なものだった感は否めない。
オッペンハイマーに対してしょうもない理由で復讐する男との戦いみたいなしょうもない話を3時間もかけてやる必要があるのか?
評価が難しい
自分は、社会科教師をしており、歴史に対する見方では一歩踏み込んでいるので、この映画の評価は微妙で分かれるだろうなと感じた。米国でも、「あの原爆投下は不必要だった」という言説が少し広がっているらしい。トルーマンが、上陸作戦をした場合の米兵を守るためという嘘を流したのは有名な話だが、実際はWWⅡ以降の世界の覇権争いを有利に進めるためで、2発の原爆はウラン型とプルトニウム型の二つの種類を試すためというのが真相だろう。(映画では、1発目は衝撃を与え、2発目は降伏しないと落とし続けるためとの説明)この映画は、どうやら戦後に原爆や水爆を製造する情報がソ連に漏洩してしまい、誰がスパイだったかを特定する査問会が中心になっており、そこに主人公の民の視点を大切にする共産主義への傾倒、女性問題、物理学者としての苦悩などが描かれている。
実際、ソ連側に情報を提供したのは、帝国主義的なアメリカに核兵器が一極集中することの危うさを感じたという記述を見たこともあるし、また、ロスチャイルド家を中心とするディープステイトが、ウランを抑え、ソ連への情報漏洩を手助けすることで、米ソの核開発競争を促し、ウランの需要を吊り上げぼろ儲けするためという情報を見たこともある。
自分も、あのWWⅡの悲惨さから出発して、何故、戦争がなくならないかを考え始めた。戦争が一番お金が儲かるからであって、政府、財界、マスコミが結託して、相手を過大に恐れるような情報を流し、戦争に誘導して、軍備拡張し、したからにはどこかで使用するからって思っている。そのように世界はできているのだ。
今、日本は反戦だけでなく、如何にしてその罠に陥らず、諸国民が共存共栄できるかを考えていく必要があると思っている。そのためには、世界がどんな力学で動いているかを、理解しなければならない。
この映画は、自分からすると、米国のプロパガンダの一環であって、歴史的に多くの年月が過ぎた場合には、害のない情報であれば暴露して、その映画で少しばかりの反省のポーズをとって見せ、良識を示すふりをし、映画で金儲けするためにしか見えない。
凝ったつくり
日本人の私からしてみれば原爆を作ったオッペンハイマーの伝記など観たくもないのだが人間の心の闇を描き続けるノーラン監督だし、アカデミー賞でも話題になったので気にはなっていました。アマゾンで配信当初は字幕なしだったのが字幕がついたので観てみました。
オッペンハイマーはユダヤ人だし同じユダヤ人のアインシュタインとの交流シーンは見もの、原爆開発の動機がナチスに先を越される恐怖からというのも分かる気がします、日本は被爆国ではありますが日本軍も秘かに原爆開発を進めていたことは史実、終戦間際には朝鮮での核実験に成功していたそうですからひょっとしたら全く逆の加害者にもなっていたかもしれないので、米国を一方的に責める資格はないのかもと複雑な思いはあります。
以前、NHKで原爆開発のドキュメンタリーを観ていましたのでオッペンハイマーが戦後、水爆開発に反対し公職追放されたことなどは知っていました、本作も史実に基づいているのだろうと思いますが妻も不倫相手で更に結婚してからも不倫など私生活の裏面迄踏み込んでいるのは映画らしいですがB級映画のごとく必然性のないヌードやベッドシーンまでたっぷり入れているのにはどうなんでしょう、ノーラン監督ってそんな面があったのか意外でした。
映画は3つの時系列、2つの視点と凝ったつくり。意味不明な毒リンゴが出てくる奇妙な学生時代から原爆開発過程(~1945年)、スパイ容疑を受けた聴聞会(1954年)、アメリカ原子力委員会委員長ルイス・ストローズの公聴会(1959年)という3つの時系列が交錯するかたちで展開しますのでちょっとわかりづらいしオッペンハイマーの一人称で書かれた場面はカラーで、オッペンハイマーの“宿敵”ストローズの視点を描いた場面はモノクロで描かれていました。単なる伝記的再現ドラマを嫌ったノーラン監督らしい手法でしたが、3時間近い長尺が必要だったのかはちょっとわかりかねます・・。
【良作】彼らに厳しく罰せられたら世界が赦すとでも?無理よ
日本公開前「オッペンハイマー」公式Xが映画「バービー」と合わせて原爆をエンタメ化したようなプロモーションを行い炎上。日本の配給会社が日和って手を上げず、日本公開が遅れに遅れ、私も劇場まで行く必要ないっかーってサブスクで観た次第。
結果、観に行けば良かったと後悔しました。
ノーランは、なんだかんだ哲学的な小難しい台詞の応酬をしながら、平凡なディズニー的エンタメ着地をするから苦手だったけど、大っぴらに広島・長崎を描くとハリウッド(お金を出す人達)の抵抗に合うから、原爆の父と呼ばれるオッペンハイマーを巧妙に「赦してはいけない人」として描いていて巧いなぁと思った。
オッペンハイマーが科学者チームのリーダーとして原爆を作り、戦後すぐは「第二次世界大戦を終わらせたヒーロー」として祭り上げられるも、広島・長崎の惨状を目の当たりにして、核・水爆反対の立場となり、コミュニスト、危険思想の持ち主として、公職を解かれ、名声が地に落ちる……、までを描いている。
「“卑しい“靴屋」ウェイトレス“ごとき“と結婚するのかなどと、言葉の端々に選民意識が表れるオッペンハイマー。能力と実績のある自分は、何をしても、言っても「許される」と思っている。そんなオッペンハイマーを、俯瞰して見てる奥さんのセリフが、本作でノーランが言いたいことなのではないかと思った。
学生時代からの恋人で、結婚してからも愛人関係にあった女性が自殺(他殺?ここは曖昧に描かれている)自分のせいで愛人が死んだと、打ちのめされ、泣き崩れる夫に奥さんがいう。
「罪を犯しておいて、その結果(貴方)に同情しろと?しっかりしなさいよ!」
これは、浮気に対してのセリフだけど、原爆投下後、罪悪感に苛まれトルーマンの前で泣くオッペンハイマーにスライドできる。
「卑しい靴屋」と呼んだストローズから陥れた審問会の場で、オッペンハイマーは自己弁護しない。沈黙し、むしろ厳しく罰してほしいとすら思っているように見える。それは大量虐殺兵器を作ってしまった自責の念からではなく、殉教者のように自己犠牲をすれば、自らの罪がいつか赦されると思っているからだ。そう、罪悪感からではなく、世界から大量破壊兵器を作った破壊者と見られている自分への評価を変えたいんだ。
どこまで行ってもこの人は「自分のこと」しか考えていない。
そうやって、もやもやしているところに、また奥さんが言ってくれる。
「彼ら(審問会で)に厳しく罰せられたら、世界が赦すとでも?無理よ」
更にノーランは被せてくる。
ストローズは、アインシュタインとオッペンハイマーが話しているのを見て、自分を孤立させることを画策してると「思い込む」が、実際は全く別のこと(この冒頭のシーンが後半に効いてくる)。出自や学歴から来るコンプレックスによる被害妄想。ルサンチマン的な思考が垣間見えるが、その辺りを深く掘り下げることはしない。
また、涙するオッペンハイマーに時の大統領トルーマンがいう。「皆が憎むのは原爆を作った人じゃない。落としたやつ。つまり俺」みたいな。
こう解釈した。
原爆による、無差別大量殺戮、大量破壊、放射能の障がいによる長きに渡る苦しみより、ストローズの成り上がり劇や、オッペンハイマーの苦しみを大きく、ドラマティックに描くことはできない。お前らの苦しみなど、広島・長崎の人達の苦しみに比べたら、取るに足らない、どーでも良いことだ。
ノーランはそう言いたかったのじゃないか。
広島・長崎の惨状が映像としてないことに批判があるようだが、
私は原爆投下が「決して赦されないこと」として描かれていることを(偉そうだけど)評価したい。そこが一番、重要でしょ。
良作。
なぁーーーーがぃ
原爆の父。
もし開発が失敗だったらどうなってたのかな?
もしドイツが先に完成していたらどこで使ったのかな?
もしソ連なら.....
研究者?科学者?
頭に思い描いたものを作る時はさぞ楽しかろう。
当然完成までは苦悩の連続であろう。
作中で「水爆」にも触れていて
勘違いかもしれないけど「水爆」は
ただの大量虐殺兵器だ!と...(勘違いかもしれんが)
原爆も同じ。
あと、日本との戦争が長引いたらあと何万人兵が死ぬ...とか
観ていて「はぁ~」って。
実験が成功したときの参加者の中で結果に驚愕している人がいて。
本人もそうなんだけどね。
結局想像以上の結果が出て
もう核なんか使っちゃだめだよ
作っちゃだめだよって
そりゃ政治家には伝わらないよね。
オッピーってこういう人なんだって。
辛かったんだろうなって。
作った人が悪いわけじゃないんだろうな。
使い方が悪かったんだろうな。
投下候補地から京都は外す
新婚旅行で行ったけど素晴らしい街だから...
はぁ?
いきなり投下しないで
ちゃんと予告しようよ!
とかって意見もあったんだね。
さて、長くなってしまったけど
本当にいろんなの事を知って感じて考える作品だった。
小難しい作りしてるし、観てて疲れたw
流石ノーランって感じなのかな?
生意気かも知らないけど
みんな観たほうがいい作品って思った。
米国版「大河ドラマ」
中盤過ぎの、原爆投下を喜ぶ米国人のシーンでは日本人として悲しみの涙と共に米国人への憎しみの感情が沸く事も有りましたが、それも「娯楽」の内として作品のクオリティの高さです。内容は成功を収めた男と、それに嫉妬する男の物語だと感じました。鑑賞中に色々な思いを感じながら、3時間という尺を感じぬ程に時間が過ぎて休日を有意義に過ごす事ができました。
わたしにはまだ早すぎたのかもしれない
広島にいくので鑑賞。
博士の愛した数式をイメージしていた。
原爆の父と呼ばれたアメリカの物理学者の生涯を描いた作品。
3時間もあったのね。
ちょっとわたしには難しく、序盤しかついていけず、
気づくと原爆が投下されていた。
時系列が交錯して、ついていけなかった…。
広島で、原爆投下後の悲惨な資料をたくさん見てきた。
アメリカで、原爆が良いように持ち上げられる中、
原爆を作り上げたオッペンハイマーが広島の実状を見て罪悪感を感じる。
なんというか…。
日本人でも日本人じゃなくても、人間には心があるのだから、
戦争相手とは言え、同じ人間だと思えば争いが少なくなるのではないのかな…。と…。
映画的にはほとんど寝たし、最後まで見れなかったし、
リピートも無いかな。
彼の生涯を知りたくなったときは、
ほかのことで知ろうかなと思います。
24.8.9 レンタルDVD
3回繰り返し観ました。
私はもともと戦争の歴史に興味があり、色々な本当を読んでいましたが、アメリカ側の視点を捉えた映画は初めてだったかも知れません。
新しい科学の発見があったことは素晴らしいことだと思います。それが宇宙の星からヒントを得たなんて意外でした。
ロマンチックなのとは裏腹に世界最強兵器であることが悲しくもありました。
科学者達はただ純粋に自分達が与えられた使命を果たそうと慢心したこと、リーダーシップを発揮したオッペンハイマーの人格者やその結果実験も成功したのは、とても素晴らしかった。
その中で「本当に使うのか、使うべきなのか」という事が科学者の中でも頭の中に何度もチラついたと思う。原爆を止められなかったのは、その時代が悪かったんだと私は思います。
クリストファーノーラン監督の独特な時系列は最初は理解しづらかったが、これがノーラン監督の味だと思いました。
三つの時系列が並行していて所々縦に割った構造は、視聴者に限られた上映時間内に原爆前と後のストーリーを見せるためだと思いました。流石!だなぁ。
この映画が核保有国の権力者に届けばいいなと思います。日本人として、この映画を観て良かったと思います。この映画を作ってくれた方々ありがとう!
この映画を見るまで知り得なかった歴史に触れる事ができました。
次はどんな映画を作ってくださるのか今から楽しみです!
結構心臓に悪い
大人の映画です。でも大学生には見てほしい。
IMAXで見ました。三時間。音の迫力がすごいです。長いけど、それほど退屈ではなく。多分ですが、アジア人は一人も出てきませんでした。それどころか、黒人、イスラム系も。ユダヤ人、白人のみです。原題にも使われているプロメテウスとか、日本人には越えなければならない壁がいくつもある。A.アインシュタインは後半、結構ちょくちょく出てきます。
子供には不向き。字幕追いかけるのも大変だし、愛人とやっちゃってるのが、これみよがしで。最初は愛人ではなかったらしいし、もしかしたら共産党のスパイだったかも?みたいな描き方ではあるんですが。この時期、ソ連とアメリカは、連合国側で、対ドイツや対日本で共同戦線をはっていたので、それほど問題にはならないはずなんですが、やはり共産党は、戦後にアメリカ国内からは排除されてしまうわけで。ソ連の共産党員が身分を偽って、ロスアラモスにさえ潜入していた?このへんも子供にはわかりにくいでしょう。
話は、複雑。と、いうか、非公開の公聴会ともう一つの会議みたいのが、交互に重なる。
その進行に従って、オッペンハイマーの過去が暴かれてゆくという筋立て。
まあ、そんなに、あばかれるほどの過去はでてこないんですが。
見どころは、ロスアラモスです。
ちなみに、日本人なら一番気になる原爆投下のシーンはほぼありません。
うまく編集してあり、広島と長崎で焼けただれた人々が、苦しむシーンはゼロです。そのかわりに主人公が、ロスアラモス研究所の人々に演説をする場面が入っています。
監督のメッセージはすごく入ってきました。
この実験で、確率はゼロに近いが、大気の空気をすべて巻き込んでしまって地球そのものが破滅する可能性も考えられなくはないほど、大変な実験を行ったのです。
ロスアラモスでは被爆してる人たちは結構いたはずです。プロメテウスの火を手にしてしまった人類。
そして時代はすぐ水爆、ICBMの時代になるわけです。
ロスアラモスという、町そのものから、作り上げたというマッハッタン計画。ナチスドイツに二年?遅れていた原子爆弾の開発と製造。
とにかく、長い。でも理解するためには、二、三回は少なくとも見る必要があるような。
長くて私は見れてないけれど。
タイトルなし(ネタバレ)
VOD鑑賞
残念ながら理数系の脳が皆無なので
物理学的なことは全く理解できませんでした
でも、深みのある人間ドラマはとても見応えがありました
テンポよく進んで行く点、
時間軸が遡ったり
ドラマの主点が複数あったり
それが交互に描かれて緊迫感が盛り上がりました
原爆投下後のドラマは興味深く
二転三転、いやそれ以上に目まぐるしく展開が変わり
一気にエンディングまで楽しめました
ですが、
題材が原爆というのが‥
分かってはいたけど、娯楽性を感じることが
できないのが残念です
従来のノーラン監督作品よりも
複雑ではないけど
やっぱ、自分はテネットとかインターステラーとか
インセプションのような映画が好きです
次回はそっちに戻って欲しいな
音楽がいいですね
どっか居心地が悪い感じの音楽
でも、それが嫌じゃない
テネットみたいな音楽でした
臨場感が盛り上がりました
登場人物が多く複雑ですが
有名俳優さんが多いので
俳優さんで人物を把握できるので
そこは豪華キャストの産物ですね
人件費高そう
いや〜、見応えあるけど
人間って怖いものだと
つくづく再認識しました
やっぱ架空のエンタメのがいいな
アメリカが描く反核映画。
事前に予習なく鑑賞しました。反省しました。 アメリカではオッペンハイマーは原爆の父と言われて浸透しており、アメリカ人なら初見でもわかる内容なのでしょう。
日本人が観る場合、事前にアメリカ、ドイツ、イギリスの当時の物理学者の基本情報と主人公との関係性を押さえておかないと、アメリカ映画らしくテンポよく進んでいく為、恐らく映画についていけなくなると思います。また、政治的な争いに巻き込まれる晩年の主人公も描かれています。それも時系列に描かれていないので事前にオッペンハイマーの伝記を読んでおくと混乱なく鑑賞できるかもしれせん。
日本への原爆投下の描写が全くありませんが、彼が後にその惨状映像から目を背けて全く見る事が出来なかったシーンで表現されていたと思います。
その後彼は水爆開発に反対する立場となります。 十分な反核映画だと思うのですが、何故日本での公開が遅かったのでしょうか、疑問に思いました。
被爆国である日本人が目を背けてきたかもしれない原爆投下国側の事情が、原爆の研究と開発の当初から知り得る機会になリました。
原爆開発の為にロスアラモスに町を作ってしまうあたりにアメリカの国力を感じました。
映像、音響も重厚に仕上がっていて流石にアカデミー賞受賞作品だなと思いました。
あと、ベッドシーンの描写が複数回あるのでカップルでの鑑賞にはご注意を。
我は死なり。世界の破壊者なり。
『ダークナイト』『インターステラー』『TENET』等、今や世界で最も新作が待望されている監督の1人と言っても過言ではないであろう、クリストファー・ノーラン監督の最新作。第二次世界大戦下、政府の要請で原子爆弾の開発に携わり、後に「原爆の父」と呼ばれる事になるJ・ロバート・オッペンハイマーの人生を描く伝記映画。
個人的には、ノーラン監督にとっての新境地であったように思う。『ダンケルク』でも第二次世界大戦を扱っているが、あちらは音楽と作中の時間経過を効果的に扱って、観客に追い詰められた兵士の恐怖を追体験させる“体感型”の戦争映画という側面が強かったように思う。対して今作は、オッペンハイマーと彼に敵対するストローズの視点を軸に、稀代の天才の人生と原爆開発という人類の大罪を追ってゆく伝記映画なのだ。
まず初めに述べておきたいのは、本作は明確な“答え”を示すタイプの作品ではなく、あくまで我々観客一人一人が鑑賞後どう受け止め、どう考えるかという“考え”を促すタイプの作品だったのではないかという事だ。
また、本作はあくまで史実を基に淡々と会話劇で展開していく作品なので、ノーラン監督が得意とする「荒唐無稽なアイデアを、複雑な構成や物理学の知識を用いて格調高い作品に見せる」という特徴は多少鳴りを顰めている(オッペンハイマーとストローズの視点をカラーとモノクロ映像で区別し、交互に見せるといった構成の複雑さはあるが)。
本作1番の特徴は、膨大な登場人物の数々と、それらについてのある程度の基礎知識を要する作品であるという事。
宣伝チラシの登場人物紹介は、事前予習として役立った。パンフレットの充実ぶりも素晴らしく、人物紹介は勿論、作中の用語解説や時系列も記載されているので、鑑賞前の予習にも、鑑賞後の復習にも非常に役立つと思う。
ようやく本題に入るが、先述した通り、本作は明確な“答え“を提示しない。なので、これはあくまで私個人の本作に対する一つの考えである。
私が本作を鑑賞して抱いた感想は、【世界の破滅は、「賢者」の皮を被った「愚者」によって招かれるのかもしれない】という事だ。
既に指摘している人を見かけたが、本作は宮﨑駿監督の『風立ちぬ』を彷彿とさせる。主人公の堀越二郎は、あくなき飛行機への情熱で零戦の開発に携わる事になるが、オッペンハイマーもまた、愚直なまでに人類の可能性を追及した事で、パンドラの箱を開けてしまった一人という印象を受けた。しかし、あちらよりもオッペンハイマーの人間性は、より丁寧に、より具体的に描写されているように思う。念のため誤解されないように断っておくと、『風立ちぬ』に関する私の評価は、素晴らしい作品という認識だ。
『風立ちぬ』における堀越二郎の描かれ方は、空想家で自らの好奇心に忠実。女性に対する接し方は、「綺麗だ」と容姿を褒める言葉ばかりで内面を深く見ていない。所謂“非モテのオタク気質”な人物として描写されていた。だからこそ、特にクリエイターやそれを志す観客の中には、彼に自分達を重ねて「これは俺たちの映画だ」と、一種のクリエイター賛歌として評価していた部分もある。
対して、本作におけるオッペンハイマーの描かれ方は、類稀なる頭脳の持ち主だが、決して他者への共感力や想像力までも持ち合わせているわけではないという事が随所で示されている。子育てに追われ、精神的に疲弊して酒に溺れるキティや、2階で泣き叫ぶ我が子の元にすぐさま駆け付けない様子。そんなキティを放って、かつての恋人であるジーンの元へ行き、体を重ねる等、一時の感情に身を任せた自由奔放な恋愛に邁進する。正確には、ジーンとの交際中に人妻であるキティと恋に落ち、彼女を妊娠させてしまった事でジーンには別れを告げるという酷い有様。決して、良き恋人でも、良き夫、良き父親でもなかった事が示される。また、マンハッタン計画のメンバー選抜、足りない人員の補充におけるスカウトも、人間性より能力を重視したもので、それが後にソ連のスパイを招いていた事にも繋がる。
ノーラン監督は、決してオッペンハイマーに同情させようという気はないのだ。
しばしば議論の的になる、本作における広島・長崎への原爆投下や犠牲者に関するシーンの欠如に関して。本作はあくまでオッペンハイマーの視点に立った物語であって、原爆投下の瞬間を見ていない彼には、まして他者への共感力や想像力の乏しい彼には、あの時点で自らの行いに対する被害を想像する事は出来ないのだ。
だが、それでもノーラン監督は、映画ならではのあらゆる手法を用いて、オッペンハイマーに罰を与えている。投下の成功を祝したスピーチの際、「ドイツにも落としてやりたかった」と語る彼が見つめた観衆の1人に、原爆で焼け爛れた皮膚の人間が重なる。やがて、彼にとって喝采は悲鳴となり、足元には炭と化した人間の幻を見る。喜びの嗚咽を漏らす女性の姿は、家族や友人を失った被害者の悲痛な嗚咽に見え、肩を抱き合って座る男女は、瓦礫の山となった街で行き場を無くした人々に映った事だろう。
また、ラストで明かされる、アインシュタインがオッペンハイマーに掛けた言葉が実に印象的だ。
“君が十分な罰を受けた時、罪は償われたと彼らは君の肩を叩くだろう。君のためじゃない。彼らのために。”
この一言で、本作は原爆開発の責任者であったオッペンハイマーだけでなく、それに携わった全ての人々に、等しく批判の目を向けているのだと知る事が出来る。「開発には携わったが、自分達は使用に反対した。罪の意識を持っているオッペンハイマーの肩を叩く事で、自らも許された気になりたい。」と願う人々も痛烈に批判するのだ。
それを更に強調するのが、握手を求めるテラーを鋭い眼差しで睨みつけるキティの姿だ。あの瞳の中には、単に夫と敵対した裏切り者を見つめているだけでなく、水爆というもう一つの世界の破滅を招く兵器を生み出した者に対する怒り、侮蔑が宿っていたように感じられた。
あるいはそこには、ノーラン監督が本作で明確には示さなかった“答え”の一つがあるのかもしれない。
「人間の好奇心、向上心は素晴らしいが、その先には決して開いてはならないパンドラの箱もある。あなた方は愚かにもそれを開けたのだ」と。
もう一つ、ノーラン監督が明確な“答え”を提示しなかった事で浮かび上がってくる事がある。それは、【これは現実に起きた事であり、原爆の開発によって世界は変わった。そして、その変わってしまった世界で我々は今日も生きている】という事だ。
実際、つい先日ガザに原爆投下を提案する発言をした議員がニュースとなった。ラストでオッペンハイマーが想像した、“核の炎によって焼き尽くされる世界”の説得力が増すというのは、何とも皮肉な話だ。
現実だからこそ、未だ人類は答えを出せずにいる。だから、考えを促すのだ。フィクションではなくリアリティだからこそ、簡単に答えは出せないし提示すべきではないと考えたのではないだろうか。
長くなったので、ここから先は駆け足で行くが、オスカーを受賞した主演のキリアン・マーフィーとロバート・ダウニー・Jrは勿論、体当たり演技を披露したフローレンス・ピュー、ラストの眼差しが抜群のエミリー・ブラント、味のある顔付きになったジョシュ・ハートネット、他にも挙げ出したらキリがない名優達の素晴らしい演技の数々は、それだけでも鑑賞料金分の価値があった。
更に、監督の前作『TENET』でも組んだルドウィグ・ゴランソンの音楽が抜群に良い。会話劇中心の本作において、名優達の演技と同じくらい重要な役割を果たしていたと思う。
新境地に達し、更なる円熟味を感じさせるクリストファー・ノーラン監督の次回作が早くも楽しみで仕方ない。
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