オッペンハイマーのレビュー・感想・評価
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『オッペンハイマー』でわかった僕がノーラン監督を苦手な理由
ようやく観れました!アカデミー賞総なめの話題作、クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』。観たい観たいと、観なきゃ観なきゃと思い続けて、数ヶ月。期待値の高まりが激しすぎたせいかもしれないけれど、結果的には「やっぱり僕はノーラン監督が苦手だな…」と思ってしまった。
米国をはじめ全世界での公開から遅れること半年以上。唯一の被爆国である日本で、「原爆の父」とも呼ばれるオッペンハイマーの伝記映画が公開されること、あるいは公開されないことが大きな議論を巻き起こし、公開以前から話題を呼んでいたこの『オッペンハイマー』。蓋を開けてみれば日本国内でも興行収入は10億円を超え、3週連続で洋画1位を獲得するなどのヒット作となった。
上半期が終了した今日この頃、SNSで見かける「上半期ベスト」なるリストに『オッペンハイマー』が並べられることも少なくなく、そのヒットの背景には興行的な意味合い以外のものもあるのだろうと推察できる。
しかし、だ。
僕はこの作品の良さがまったくわからなかった…。
それは被爆国に住む人間として「広島」「長崎」の扱われ方に違和感や憤りを抱くといったようなものではなくて、シンプルに映画としての面白さ、映画としての表現といった視点で言っても、脆弱な作品に思われてならなかった。
この作品の基本構成としては、「核分裂」と章立てられたオッペンハイマー(キリアン・マーフィー)への尋問(公聴会)のシーンと、「核融合」と章立てられた原子力委員長ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr.)への公聴会のシーンから成り立っている。
そのうえで、「核分裂」で描かれるオッペンハイマーの回想(供述)として戦前〜戦中の原爆開発の物語がカラーで描かれ、「核融合」で描かれるストローズの回想(供述)として戦後の水爆開発や原子力委員会の活動などがモノクロで描かれる。
ここで最初の疑問が頭にもたげるのだけれど、なぜこのような複雑な構造になったのだろう。
もっともらしい説明としては、時系列でオッペンハイマーの人生を描いていても、それはただの伝記であって(ノーランの目指す)エンタメではないという考え方だ。それはたしかに理解できる。オッペンハイマーという男の物語に、「公聴会」というカタチで舞台装置からして疑惑や疑念を投げかけることで、「原爆の父」という神話的な英雄(プロメテウス)を疑うという姿勢は悪くはないと思う。
※時系列で描いた伝記映画にも傑作は多いのだけれど。
ただそれにしても、本作では時系列がごちゃ混ぜにされすぎていはいないだろうか。それになぜ、より過去の話である「核分裂」がカラーで、新しい「核融合」がモノクロなのかもわからない。こちらもオッペンハイマーの目線か否かとか、もっともらしい説明ができなくはないけれど、そうまでして押し通したい演出なのかは甚だ疑問だ。
例えばではあるが、「オッペンハイマーの解説」「時系列や登場人物の整理」などの記事が多く掲載され人気を呼んでいるのも、この映画が必要以上に複雑であることの証拠ではないか。
そこで僕の頭に浮かぶのが、ノーラン監督らしい「インテリ主義」だ。ノーラン作品の多くが——その際たるものは「TENET」だけど——複雑な構造を読み解いていくことを要求し、その謎解き的な快楽にこそ映画の魅力を見出そうとしているような気がしてならない。
ノーラン監督作品の多くは「構造がわかった」「謎が解けた」というレベルの読後感しか与えないというのが個人的な印象で、だから僕はどうしてもノーランが好きになれない。ノーラン好きの友人たちに総スカンをくらうのだけれど、僕が唯一好きな作品は「ダンケルク」。なぜなら、あの作品には“心”が描かれているような気がするからだ。
そしてこの作品を観たあとに僕が感じたことも、「で、結局なにを伝えたかったんだっけ?」という感想だった。ノーランなりに、オッペンハイマーの苦悩やらストローズの独善やらを描こうとしているのかもしれないけれど、上述の複雑な構成ゆえに心情に寄り添っている余白がそこにない。「悩んでいます」「怒っています」という感情が貼り付けられた映像と演技が構成されていくだけ。少なくとも僕はそんなふうにこの作品を観てしまった。
当然SFやファンタジーに、精緻で奥深い感情表現など必要ではないという考え方もあると思うけれど、本作は「原爆の父」であるオッペンハイマーの物語。それこそ感情や反省を抜きにして「エンタメ」として昇華させてしまうことに、多少なりとも躊躇いは感じて欲しい。
そしてその軽薄さを上塗りするように、演出もまたチープだ。やたらうるさい爆発音や足音で無理やり盛り上げようとする、あるいは緊迫感を出そうとする、力業な音の世界。(前作まではもっと重厚で苦しいちゃんとした音世界だったと思うんですが…)
オッペンハイマーにフラッシュバックする原爆投下のイメージは、「とりあえず明るくしておけばいいだろう」という程度に白々しく光り続ける画面と、あまりにちゃちなケロイドの肌(しかも繰り返されるのはたった1人の女性)、リアルとは程遠い黒焦げになった遺体など、さすがにお粗末ではないかと感じてしまう。あの痛みのないチープなフラッシュバックで、オッペンハイマーが”ちゃんと悩まされている”とは到底思えない。
長々と文句を書いてきてしまったけれど、当然あくまでも僕個人の意見で、『オッペンハイマー』が大好きな人もいるだろうし、ノーラン監督に心酔する人もいるに違いない。それを理解できるほどには屹立していた作品だ。
この映画で僕がいいなと思ったところが1つある。
観賞していると、否が応でも「トリニティ作戦」の成功である種のカタルシスを感じ、映像のなかで歓喜する登場人物たちの胸中がわかるような瞬間がある。でも同時に、その成功が「広島」「長崎」に災禍をもたらし、オッペンハイマーの言葉を借りるなら「世界を滅ぼす」ということを私たちは知っている。
その矛盾した感情、ドラマとして感じさせられるカタルシスと、それを抑制しなければいけないと痛感する現実の理性とがせめぎ合う独特の映画体験がここにはあった。
オッペンハイマーの人物像、人生を描いた映画
原爆の父と言われたオッペンハイマーの人生の物語。
※日本人からの視点ではなく、完全に個人的な、
一人間としての視点でレビューすることをお許しください。
オッペンハイマーは
天才物理学者で語学も堪能。
天才科学者達を含むたくさんの人々を惹きつけてまとめるカリスマ性があり、
母国愛が強い人物。
驚いたのは、
オッペンハイマーは実験は苦手で精神的に不安定、
女性関係も淫らなところがある、友人をかばうような発言をする、など、
とても人間らしい人だったというところ。
完全に私の偏見だったが、
そういうプロジェクトに携わるような天才な人は
もっと、まるで心がないような精神の持ち主なのかと思っていたからだ。
ただ、人間らしく感情があるがゆえに
様々な葛藤や苦悩があり、その感情や思考と必死に向き合ったオッペンハイマーのストーリーが描かれている。
オッペンハイマーをはじめ
天才な科学者たちは先を見通す力がある。
作ったモノの先がどうなるかわかっていた。
オッペンハイマーは矛盾した現実その全てを受け入れ、覚悟をしていた。
覚悟をし、実際に受け入れ、必死に乗り越えていっていた。
精神的に弱いところがあったとは感じさせない、もの凄い強さだと感じた。
自分に正直でいることを貫いたオッペンハイマー。
彼を裏切るものもいたが、見てくれている人もいた。
そして最後、裏切られた水爆の父からの握手に笑顔で応えていた。
あの時の気持ちはどういう気持ちだったのだろうか。と考える。
この映画を観て
知識の危うさも感じた。
科学者として皆で原子力の可能性を発見して知識を深めていく場面。
科学者として知識を深めることが、ただ楽しくて好きだとして。
それが世の中の役に立てればと思う気持ちがあっても
人を殺める凶器を作り出してしまうことがある...
なんとも言えないジレンマ、胸が痛む。
そして国同士の争い。
国の中でも政治の派閥争い
同じプロジェクトの中でも妬みや恨み、派閥争いがある。
オッペンハイマーの社会的な立ち位置、さまざまな側面とそのドラマが描かれている。
人が集まれば派閥や争いがあるのは、
時代が変わろうが、国から自分の身近な場所でも、人間である以上変わらない、無くならないことなのか。
自分は関係ないと思っていても、知らず知らずのうちに派閥争いに巻き込まれる可能性がある。
色んな視点から、考えさせられることが沢山あり、とても複雑な感情に包まれた。
あっという間の3時間だった。
この映画を知ることがなければ、オッペンハイマーの存在を知ることも、もっと理解を深めたいと思うことはなかっただろう。
紛れもなく私の人生に影響を受けた。
もう一度観てまたレビューしたいと思う。
愚かな人間には過ぎたる兵器 ノーランがアメリカと人類に突きつけるメッセージ
量子力学が目覚ましい発展を見せた時代を生きた天才オッペンハイマー。同胞のユダヤ人を迫害するナチスが原爆開発をしており、彼が一目置く物理学者ハイゼンベルクがそれに関わっている。それに対抗する「ガジェット」開発への助力をアメリカが自らに望んでいる。そんな時代の要請が、内向的でナイーブな研究者だった彼を、カリスマで名だたる物理学者たちを率いるリーダーに変えた。
ナチスへの怒りと、彼らが先んじて原爆を実現することへの焦り、そして愛国心。そこには、物理学者としての知的探求心もきっとあっただろう。
それらの動機は、私欲とは距離をおいたある意味純粋なものである反面、完成したガジェットが現実に使われた結果もたらされる地獄絵図を見通す目を曇らせた。
第二次大戦後の安全保障に関する公聴会で、オッペンハイマーは言った。
「技術的に甘美なものを見つけたら、まずやってみる、それをどう使うかなどということは、成功した後の議論だ、と(科学者は)考えるものです」
しかし科学者には、特に原爆のような国策で開発したものに関しては、使い方を決める権限はない。一方、それを決める権力を持つ人間は、国家間の権謀術数や政治的駆け引きにまみれている。
この構図を考えた時、誰か原爆投下を止められる者がいただろうか、と思う。確かにオッペンハイマーはロスアラモスで科学者たちを牽引した。だが、仮に彼一人が開発を拒否したとして、アメリカという大国が大量破壊兵器を求め、テラーのような科学者たちがいる限り、多少時期が遅れることはあれ、止める道はなかったように思えてならない。
トリニティ実験の直前、ドイツが連合国軍に降伏した。オッペンハイマーはこの時点でグローヴスに、ロスアラモスの研究所を継続すべきでない旨の手紙を出した。「ヒトラーより先に原爆を持つ」ことを至上命令としてきたロスアラモスの科学者の中でも、敗色濃厚な日本への原爆投下の是非が論じられた。一部の科学者は原爆投下反対の署名を集めた。だが、研究所を去る者は誰一人いなかった。
戦後、オッペンハイマーが水爆開発に反対しだしたと見るや、国は赤狩りを口実に彼を排除した。ストローズの私怨だけではなく、ソ連の核開発の脅威がそこにあった。
物理学者の藤永茂氏は、著書「ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者」で、20年以上オッペンハイマーの記録を追い続けた末の答えとして「広島、長崎をもたらしたものは私たち人間である」と述べている。本作を観た私も、藤永氏に近い感想を持った。
確かにこの映画には、原爆投下後の広島や長崎の人々が晒された凄まじい災禍の描写はない。「被曝」の恐ろしさを知る私たち日本人の間で、描写不足との批判が上がるのも無理はない。
だが、人間が大量破壊兵器を持つことへの疑念を訴えるにあたり、さまざまな視点や切り口があることもまた表現のあるべき姿だと思う。ノーランは、圧倒的な兵器の力や大義がいかにして大量殺戮への罪悪感を覆い隠すか、その陥穽にあっけなくはまる人間の弱さや愚かさを描くことで警告を発している。強大すぎる兵器は、その存在自体が時代の趨勢を作る。それを平和裡に御する能力は、人間にはない。
オッペンハイマーが1965年にテレビ番組で回想とともに述べたバガバッド・ギーターの一節(「われ世界の破壊者たる死とならん」)は、ドキュメンタリーなどでよく引用され、彼を特別な人間のように印象付ける。しかし天才と言われた彼もその反面で、人並みの弱さと、原爆が正しい判断の元に管理されるという無邪気な幻想を持ったただの人間だったのだ。
ラストでアインシュタインが発する予言めいた台詞はノーラン監督の創作だ。設定上、この邂逅は1947年だが、その後1963年にオッペンハイマーがエンリコ・フェルミ賞を受賞した時の映像が重ねられる。アメリカはこの授賞によってオッペンハイマーの名誉回復を図ったが、その贖罪の姑息さを、アインシュタインの言葉を通じて監督は指摘しているように思えた。時代の都合でオッペンハイマーを理不尽に切り捨て、持ち上げるアメリカの勝手さも、本作は批判する。
ノーラン監督らしく、物語は時間軸を忙しなく切り替えながら進んでゆく。だが、オッペンハイマーに起きた出来事の時系列と、彼に接した主要な人物、それを演じる俳優の顔を予習しておけば、完全にとは言わないが比較的わかりやすく観られる作りになっている。ノーラン作品の中では親切な部類と言えるかもしれない。
上に書いた藤永氏の著作は、文庫で3冊ある原作よりもコンパクトにオッペンハイマーの生涯や人間関係を把握できるのでお勧めだ。映画の中でちらっと出てきた原子爆弾の構造、砲撃法・爆縮法の説明も図解付きで載っている。
IMAXフィルムの恩恵は、ロスアラモスの広大な風景などで感じたが、トリニティ実験のきのこ雲は、映像自体には正直期待したほどの恐ろしさがなかった。
遅れて到達する轟音と爆風、実験成功後に講堂でオッペンハイマーを賞賛する人々が踏み鳴らす足音がそれに重なる。胸を震わせる重低音が効果的だ。彼の視界でその風景が閃光に白飛びし、皮膚がめくれる女性が一瞬映る。日本人から見れば手ぬるく感じる被曝描写ではあるが、この女性をノーランの娘が演じたことに、彼のメッセージがあると信じたい。
映画作家ノーランのネクストレベル。
ちょっと偉そうな物言いになってしまうのだが、ノーラン、脚本の腕が上がったんじゃないか。いままではノーラン特有の理屈っぽさと、それを凌駕するロマンチスト気質がうまくブレンドされておらず、どこかチグハグな印象を受けることが多かった。しかしこの映画、相変わらず時系列は入り組んでいるものの、ひとつひとつのシーンに多層的なニュアンスがあって、次のシーンに繋がっていく推進力がある。3時間、初見ですべてを理解できなくとも、観客を否応なしに引き込む巧みさが備わっているのだ。
そして、原爆被害を直接見せなかったことに対してモヤモヤする気持ちはあるのだが、オッペンハイマーが原爆の衝撃を感覚的に理解してしまうシーン(ロスアラモスで科学者仲間を前にスピーチする場面)を、映像はもちろんだが音響の力を駆使して表現していて圧巻だった。確かにあの演出を成功させたら、それ以上の描写は説明のための説明になってしまうような気がする。IMAX云々よりも、音を浴びせられるような設備がある劇場で観るのが一番なんじゃないだろうか。
人類は同じ鉄を踏み続けるのか?
公開からそれなりに時間が経っているし、歴史的な事実の部分もあるので、細かなネタバレ的な部分も気にせずに書こうと思う。
3時間越えの本作はオッペンハイマーに対する公聴会の場面から始まり、全体としては三幕構成になっている。最初の1時間(第一幕)はオッペンハイマーとはどのような人物なのかという「人となり」が描かれ、理論物理学者としては優秀で量子理論のアメリカでの先駆け的な存在である一方、実験は下手で数学も大したことがない(アインシュタインも数学で大学受験を失敗しているというという逸話は映画には出てこないが、匂わせるセリフはある)上に、女にだらしなく、子どもにも冷淡なダメ人間であることも見て取れる。第二幕、次の1時間はマンハッタン計画、即ちロスアラモスにおける原爆の開発をナチスよりも先んじなくてはならないと急ぐ様子で費やされる。そして最後の1時間(第三幕)は、原爆投下後のオッペンハイマー自身の罪悪感との葛藤と公聴会の背景(ある意味の「種明かし」)が描かれる。
時系列が分かりにくいというコメントも目にするが、公聴会での発言があり、その発言の背景となる場面が描かれ、また公聴会に戻る、ということを繰り返しているだけで、それほど複雑でもない。そして、ストロースの指名を巡る場面については白黒画面になってオッペンハイマーの物語と区別してくれている辺りは、ノーラン作品としてはむしろ親切かも。
広島や長崎での原爆投下場面が描かれていないから原爆礼賛映画になっている的な批判があることを耳や目にしていたが、いったいこの作品の何処を見ていたんだ!といういう疑問の方が大きい。原水爆反対のメッセージは明らかであるし、何度も散りばめられたイメージ映像によってその悲惨さを伝えいることに加え、実際の投下について知らせて欲しいと軍部に伝えてあったにも関わらず投下後のニュースをラジオ聞くまで知らされなかったというオッペンハイマーの焦燥感を描く場面に、投下の映像を挟み込んでしまったらむしろダメだろうとさえ思える。
結局、科学者ができることは何なのか、その研究結果を良い方向に向けるのか、悪い方向に向けるのかを決めるのは科学者ではなく、政治家なのだ。もとは軍事用通信システムであったARPANETがなければ現在のインターネットも存在せず、SNSでこんな書き込みをすることもなかったであろう。ドローンを空撮に使うのか、それとも空爆に使うのかも、ドローン開発者が決めていることではない。
「時代の要請」というキレイなことばを使えば最先端の素晴らしいことをしているかのように聞こえるが、現代におけるAI開発についても無邪気に喜んでいるばかりではなく、「開発のその後」をどこまで自覚的になれるかによって、人類が同じ鉄を踏むか否かが違ってくるであろう。
天才物理学者の業績とその社会的評価に潜む内情に切り込んだ重厚な人間ドラマ
1938年に核分裂を発見したナチス・ドイツの勢力拡大に危機感を抱き、原子爆弾開発の“マンハッタン計画”を1942年に立ち上げたアメリカの、その極秘プロジェクトのリーダーであるJ・ロバート・オッペンハイマー(1904年~1967年)の理論物理学者としての生き様を赤裸々に描いたクリスファー・ノーランの力作にして、上映時間180分の大作。原作のガイ・バードとマーティン・J・シャーウィの25年の労作の共著『American Prometheus:The Triumph and Tragedy of J. Robert oppenheimer』(2005年)を一人で脚色したノーラン監督の映画に賭ける意気込みが、そのまま作品として完成した迫力と重厚さに圧倒されました。先ず驚いたのは、オッペンハイマーの生涯を分かり易い時系列順ではなく、1954年の公職追放になったオッペンハイマー事件の保安聴聞会と、彼と立場の違いから対立し謀略もしたルイス・ストローズ(1896年~1974年)が1959年に受けた公聴会の二つを基調としたモンタージュの複雑さです。オッペンハイマーの視点からみた世界をカラー映像(核分裂)、ストローズからみた世界をモノクロ映像(核融合)にした表現の対比構造、これが1926年のハーバード大学卒業から1963年12月のアメリカの物理学賞「エンリコ・フェミル賞」をジョンソン大統領(本来はケネディのはずだった)から授与されるまでの37年間の時系列に組み込まれています。これによってオッペンハイマーの行動と意識の両面が時空を超えて主観と客観の視点から重層的に描かれるという、挑戦的なモンタージュ技巧の革新さでした。ただ初めて本格的にノーラン作品を鑑賞したので、改めて指摘することでは無いのかも知れません。それでも栄枯転変の学者人生を歩んだオッペンハイマーの生涯を浮かび上がらせる表現法であるし、鑑賞時にはより集中力も必要とする特質も認めつつも、この独創性には最近になく衝撃と感銘を受けました。D・W・グリフィス監督の「イントレランス」や「去年マリエンバートで」のアラン・レネと比較したい衝動に駆られます。そして映画のラストシーン、オッペンハイマーとストローズが初対面した1947年のプリンストン研究所の庭園シーンのリフレインで、ここでアルベルト・アインシュタイン(1879年~1955年)とオッペンハイマーが交わした会話を聴かせる映画的語りの巧さには思わず唸りました。映画冒頭のモノクロシーンがカラー映像に変わり、カメラアングルを変えて量子物理学の2人の巨人、オッペンハイマーとアインシュタインで閉める見事な終わり方だと思います。
1943年のロスアラモス国立研究所建設から1945年7月の人類史上初の核実験の映像も興味深く観ることが出来ました。ナチス・ドイツが1945年5月に降伏して開発継続の意義に疑問をもつ科学者を前に語るオッペンマーの決意は、戦争終結のために日本に投下すること。しかし、敗戦濃厚の日本は既に1945年3月の東京大空襲によって甚大な被害を受け、終戦の交渉も同時進行していたとも言われます。太平洋戦争開戦の切っ掛けとなる真珠湾攻撃も、アメリカが第二次世界大戦に参戦するために故意に挑発していたとする後世の分析もあります。日本人にとって知りたいことが、この映画では描かれていないのは事実です。陸軍長官ヘンリー・スティムソンの言葉は、日本はいかなる状況でも降伏しない、本土決戦に至れば双方とも多くの命が奪われる主旨の内容でした。戦後80年語り続ける戦勝国アメリカの言い分には、日本人として納得できないものがあります。1919年生まれの私の父は、身体が弱く最初の徴兵検査で落とされたものの戦況悪化で国内の陸軍に徴兵されました。1945年8月9日は熊本の天草に駐留していて、遠く北西の空に舞い上がるきのこ雲を見たと言います。テレビで原爆についての放送があると、その衝撃を何度も語っていたことを想い出します。当時の日本人にとっては巨大な爆弾にしか思えなかったでしょう。しかし、日本にも優秀な物理学者がいたはずです。アメリカ軍が両国の物理学者を通して、完成した原子爆弾の本当の恐ろしさを伝えていれば、日本を降伏に導くことが出来たかも知れません。戦争とは憎悪の応酬でもあります。日本が敵国を鬼畜米英と罵れば、アメリカも日本人を差別する。ナチス・ドイツの反ユダヤ主義に開発の闘士を燃やしたユダヤ人科学者オッペンハイマーの動機が、人種差別から日本投下を正当化するのは、全て戦争という憎悪と不寛容が終わりなく消し去ることが出来ない、人類の特徴的気質でもあるでしょう。
(10代後半から社会人になるまで映画鑑賞の手立てとして心理学や人相学、と言っても雑学レベルの取るに足らない関心事として、ある血液占いに納得するものがありました。それは日本人に多いA型の特質とアメリカ人に多いO型の比較です。A型の人は真面目で勤勉で通常時平静を装いながら常に心配症で不安定ながら、限界を超えると最強になる精神性を持っている。居直たら強いのです。それに対してO型の人は、常に朗らかで明るく振る舞うも、限界を超えると一気に不安に駆られ精神的ダメージを負うというものでした。日本軍人の自己犠牲を目の前にして恐怖を感じたアメリカ兵の姿は、特攻隊を扱った映画などで知ることが出来ます)
8月6日の広島原爆がトルーマンの演説で成功したことを知るオッペンハイマーのシーンでは、涙を抑えることが出来ませんでした。アメリカンプロメテウスとギリシャ神話になぞられることにも、日本人として若干の違和感も感じます。文明の進化が数少ない天才の継続によって人類に高度な社会生活をもたらすと同時に、ダイナマイトを始め軍事産業に革新的な武器を提供するのも、凡人には計り知れない天才の偉業であるでしょう。原爆の父と言う称号には、善と悪が絡み合って観る者を考えさせる深いテーマがあります。特に興味深いのは、マンハッタン計画にソビエトのスパイが忍び込んでいた事実です。19歳の最年少科学者セオドア・ホール、スパイ容疑で1950年から9年間服役したクラウス・フックスの存在は各自別行動であったとする複雑さです。当時のソビエトがアメリカの同盟国であったことを改めて認識すると共に、当時のアメリカに共産主義が浸透していたことも分かり易く描かれています。オッペンハイマー自身共産党の活動に参加していたことを知ると、当時の知識階級の極普通の政治活動であったようです。それが戦後の冷戦状況で赤狩りによる弾圧があり、それによってオッペンハイマーの人生が狂わされるという展開は、アメリカンプロメテウスだけの考察に終わっていません。エドワード・テラーが提唱した水爆開発が戦後の国際社会で最優先の防衛の武器になってしまった今日にまで続く問題は、現在も解決の糸口が見つからない。
脚本の映画的な構成とその映像化の完成度の高さに匹敵するこの作品の見所は、多くの物理学者や軍人、政治家を見事に演じた俳優の成果にもあります。特に素晴らしいのは、オッペンハイマー役のキリアン・マーフィーの演技でした。感銘を受けた「麦の穂をゆらす風」の演技から更に成熟したものを感じました。ここ最近の演技では特筆すべき名演であると思います。敵役ルイス・ストローズのロバート・ダウニュー・Jrは、「チャーリー」の頃の才能ある芸達者な俳優から貫禄を付けた深みのある役者に転身していて、これにも驚きました。レズリー・グローブス役のマット・デイモンの安定した演技力も存在感を示しています。他にジョシュ・ハートネット、マシュー・モディーン、ゲイリー・オールドマン、ケネス・ブラナー、ラミ・マレックと登場シーンが少なくも懐かしさ含め楽しめました。この男性陣に負けない存在感を見せたキャサリン・キティ・オッペンハイマーのエミリー・ブラントと、恋人ジーン・タトロックのフローレンス・ピューも素晴らしい。兎に角演技面の不足が無いことに、キャスティングの良さとノーマン監督の演出力の高さを痛感しました。ルドウィッグ・ゴランソンの音楽のある程度抑えた不気味なメロディは、映像を補っても邪魔していない配慮もあり映像と調和しています。ホイテ・ヴァン・ホイテマの落ち着いた色調の映像美も素晴らしい。この作品は、日本人として付け加えたい内容でありながら、第二次世界大戦の時代を多面的に描いたアメリカ映画としての見応えと、その映像編集の斬新なモンタージュの試みに挑戦した画期的な映画として称賛するに値する傑作と思います。
恐ろしく難解、かつハイスピードな社会派
ここまでスピード感のある社会派の作品を観たことがない。
恐ろしいスピードで描かれるオッペンハイマーの原爆製作までの道程と、その後の顛末。
大前提として、オッペンハイマーが原爆製作後に罪悪感を抱えていた、という心象があって成立している。
原爆製作は科学者として、他国の先を行きたい、と思って突き進んだ結果であると。
先を見る、ということができていなかった彼は、原爆の成果から水爆は作ってはいけないと判断していたと。
ドイツやソ連といった明確な敵国が存在していたからこその軍拡だが、日本はそこにたまたまいた、厄介な島国に過ぎない。
原爆を落とさずして日本に勝利することはできたのか。
もちろん、勝利はできた。だが米兵の犠牲は増えただろう。圧倒的な軍事力を見せつけるだけなら、近海に落とした上で降伏を促す術もあったのでは、と考えるが、そこは戦争。しっかりと犠牲を産んで、事を納めたわけだ。
後半の裁判のような展開も、何となく分かるが、ほぼ分からない。
役者の芝居と音楽で、引っ張っているにすぎない。この辺りは、ソーシャルネットワークの展開にも似ており、スピード感のある編集で飽きさせずに保たせている。
ロバートダウニーJrが素晴らしいが、なぜ彼を貶めるような流れになってしまったのか、がイマイチ伝わりきらず、ストーリーとしては半煮えな印象。
総じて素晴らしいデキだし、傑作であることに間違いないが、反核ではなく、独りの男の苦悩を描いた作品として描かれていることに、日本人は物足りなさを感じてしまうのだろう。
プロジェクトXではないので、フィクションとして描かれる史実に、足りない描写があるとすればそれは、意図に対して不必要だったからにすぎない。
ちゃんと公開し、正当な広告がうてていれば、日本ではまた違った流れができていたに違いない。
長いが、あっという間。是非多くの日本人に観ていただきたい。何ならアメリカ人と一緒に観て意見交換するのも、楽しいだろうな。
長い。ヒロシマ、ナガサキは?
昨年映画館で見損ねた作品。話が話であるだけにまあ仕方ないのかもしれないがやはり3時間は長い。そして、日本人としては一番気になる所である広島、長崎の件に関してはほぼスルーだったのには驚いた。タイトル通りロバート・オッペンハイマーの一生を描いた作品で、それ以上のものではない。予習せずに観た僕にも問題があったが、カラーの場面とモノクロの場面の違いがどこから来ているのかを把握するのに1時間くらいかかった。ある意味狂言回しと言うべきストローズを見ていると、本当に男の嫉妬というのは醜いとしか言いようがない。マット・ディモンとか、フローレンス・ピューなど贅沢なキャスティング。
チェーンリアクション
3時間は長くて登場人物の立場が分からなくなる場面もあったので全てを理解できたとは思わない。オッペンハイマーは求められて、米国から求められた結果を残した。オッペンハイマーだけが非難されるべきではないし、原爆投下が戦争を止めたとも思わない。ましてや日本の負けはほぼ決まっていた。ニアゼロが現実と化していた場合は地球は滅んでいたが、実行に移してしまうものなんだなとは思った。核兵器開発競争のチェーンリアクションの引金を引いてしまったのは事実。止めることができた可能性があるのも事実。自分の利益や所属する国家の利益だけを求めることは間違っている。責任や影響力が大きい立場の人間ほど大きい十字架を背負わされてしまうことは悲劇だし、何者でもなくてよかったと思ってしまった。人間は私怨にとらわれたり、特定の利益だけを考えたりして行動してはならない。一つの判断による社会全体への影響を精査して決断を下さなければならない。
この時代のひとつの解釈として意味がある
日本への原爆投下の描写がないとか、十分だとか、いろんな意見を読みました。
でも中身がどうであれ、受け取り手がどう思おうが、この映画がこの時代に出たことに意味があると思いました。
少なくとも、アメリカのこの時代の原爆に対する、現在の解釈のひとつの例になるんだろうと思います。
ただわたしが受け取るには、当時のアメリカの理解が足りなかった。それぞれの人物の立場も関係性もよくわからないまま見てしまいました。
その上で、オッペンハイマーがなにかしらの罰を受けたいと考えていたのは意外でした。兵器を製造したこと、核戦争の火蓋を切って落としたことに対する苦悩があったと描かれていたと思います。
ロバート・ダウニー・Jrの演技は、マーベル作品や『シャーロック・ホームズ』でしか観たことがなく、しかもこのときのアカデミー賞の授賞式しかり、不遜なキャラクターが板についているイメージでした。
こんなにそのキャラクターを抑え込んだ、普通の人間をやるんだと言ったら俳優だから当たり前ですが、勝手に感動してしまいました。後半の畳み掛けがすばらしかった。
ノーランでなくても良い映画
オッペンハイマーの心情視点で描かれてはいるが入り込めないままどんどん上滑り展開で畳み掛ける長尺映画。誰が誰やらわからないまま早口会話で延々続く会話、会話、会話。疲れた。
ムズっ
登場人物が多すぎるから1回観ただけでは、ちんぷんかんぷん
アメリカのドラマや映画でよく見かけることだけど、時にはファーストネームで呼んだり、ニックネームで呼んだりミドルネームで呼んだりして更にちんぷんかんぷん
物理学に長けていないと、難しい内容はちんぷんかんぷん
現在かと思えば過去にタイムスリップ?モノクロとカラーで分けているとは言えちんぷんかんぷん
悪い映画ではないけれど、理解するためにもう1度観よう!とは思わない映画だった
ただいくつか分かったことはある
①実際にはこの言葉は使われてはいないのだけれど、アメリカ人にとっては
日本人=ジャップ=奴隷=56しても良い存在
つまり、未だに差別と侮蔑を当然のように浴びせている黒人達と同じレベルの民族なんだということ
②国というものは、国家に忠誠を誓っていても、都合が悪くなれば平気で『斬る』ということ
③原爆の開発者(オッペンハイマー)は、日本にそれが落とされたことに、かなりの責任を感じ、悩み、後悔していたこと
④投下する都市は、なんとも適当に選出等がなされていたこと
⑤原爆投下が戦争をやめさせるために使ったというのは建前でしかなかったこと
⑥多くのアメリカ人は、当時も今も原爆投下に後悔の念すら持っていないこと
⑦アメリカにも『ヤラセ』『茶番劇』があり、周囲はそれを分かっていて罰する側にいとも簡単になり下がること等
アカデミー賞は、そのアメリカ的な発想から授ける「太鼓判」であり、「お墨付き」であることを、特に日本人は感じないと今後も奴隷対応されてしまうだろう
この作品はアカデミー賞を●●個ノミネートされ、◆◆個受賞したから凄いんだ!なんて短絡的に捉えていていいのかな?
世界はこの映画の何に絶賛を送ったのだろう?
アメリカ人以外に本音を是非聞いてみたい‼️
▲広島・長崎のむごたらしい映像を微塵も出さずに、戦争の無意味さ悲惨さを訴えた作品だから?
▲前代未聞の悪魔の兵器を使った相手国に対して、日本人の多くが心の底からリスペクトしているというその恐るべき洗脳力の高さ??
▲クリストファー・ノーランの匠なカメラワーク?
▲1人だけでも十分に主役をはれるメンバーを大勢集めておきながら、彼等で脇役を固めたこと?
▲主演&助演の男優達の演技力?(微妙)
▲緊迫したシーンを、観客がまるで体感しているかのような臨場感溢れる持っていき方?
原爆の父の苦悩とスパイ疑義…
オッペンハイマーの人物像、史実を知らなかったので、ノーラン監督のいつもながらの時系列の交錯や、登場人物の多さ、早口の会話の応酬、緊張感を煽るような大音量と不気味な音に狼狽えながら、何となく理解はできた。アメリカ側の視点で描かれた映画なので当然日本人が見たら賛否はあるだろう。原爆を開発してから、その後苦悩に至るまでの原爆の悲惨さ、惨状の描写が圧倒的に少ないので、苦悩を描くという点と水爆反対に至るまで、その深さだったり、時間だったりが足りていないと思う。敢えて描かずとも、その惨状は知っているだろうと、それは前提、当然だと言われている気もするが。オッペンハイマーが原爆を作ったことで世界の破壊者という言い方ができるかも知れないが、作らずともソ連の科学者が作ったかもしれない。新たな水爆を作るより、地球滅亡には十分な威力のある原爆を管理する体制を作る彼の理想は形は違えど、冷戦を経て、抑止の為に核保有国が増えたが、結果的には地球滅亡を意味する核戦争には至っていない。しかし、結局戦争や紛争は無くなってない。映画でもあるように兵器を作るのは科学者でも、それを実行するのは政治家であり、いつ何時、その政治家が判断を下すのか分からない危険性が常にある。ノーラン監督が伝えたかったのは分断化が進むことで危険性が更に増す現代への警鐘なのかもしれない。
この映画が描くべきことはこんなことか?
オッペンハイマーを主題としている映画であり、それ以上でもそれ以下でもない。
オッペンハイマーを描くにあたり原爆の悲惨さを描く必要はないが、この映画が扱うべきテーマとしてはかなり矮小なものだった感は否めない。
オッペンハイマーに対してしょうもない理由で復讐する男との戦いみたいなしょうもない話を3時間もかけてやる必要があるのか?
評価が難しい
自分は、社会科教師をしており、歴史に対する見方では一歩踏み込んでいるので、この映画の評価は微妙で分かれるだろうなと感じた。米国でも、「あの原爆投下は不必要だった」という言説が少し広がっているらしい。トルーマンが、上陸作戦をした場合の米兵を守るためという嘘を流したのは有名な話だが、実際はWWⅡ以降の世界の覇権争いを有利に進めるためで、2発の原爆はウラン型とプルトニウム型の二つの種類を試すためというのが真相だろう。(映画では、1発目は衝撃を与え、2発目は降伏しないと落とし続けるためとの説明)この映画は、どうやら戦後に原爆や水爆を製造する情報がソ連に漏洩してしまい、誰がスパイだったかを特定する査問会が中心になっており、そこに主人公の民の視点を大切にする共産主義への傾倒、女性問題、物理学者としての苦悩などが描かれている。
実際、ソ連側に情報を提供したのは、帝国主義的なアメリカに核兵器が一極集中することの危うさを感じたという記述を見たこともあるし、また、ロスチャイルド家を中心とするディープステイトが、ウランを抑え、ソ連への情報漏洩を手助けすることで、米ソの核開発競争を促し、ウランの需要を吊り上げぼろ儲けするためという情報を見たこともある。
自分も、あのWWⅡの悲惨さから出発して、何故、戦争がなくならないかを考え始めた。戦争が一番お金が儲かるからであって、政府、財界、マスコミが結託して、相手を過大に恐れるような情報を流し、戦争に誘導して、軍備拡張し、したからにはどこかで使用するからって思っている。そのように世界はできているのだ。
今、日本は反戦だけでなく、如何にしてその罠に陥らず、諸国民が共存共栄できるかを考えていく必要があると思っている。そのためには、世界がどんな力学で動いているかを、理解しなければならない。
この映画は、自分からすると、米国のプロパガンダの一環であって、歴史的に多くの年月が過ぎた場合には、害のない情報であれば暴露して、その映画で少しばかりの反省のポーズをとって見せ、良識を示すふりをし、映画で金儲けするためにしか見えない。
凝ったつくり
日本人の私からしてみれば原爆を作ったオッペンハイマーの伝記など観たくもないのだが人間の心の闇を描き続けるノーラン監督だし、アカデミー賞でも話題になったので気にはなっていました。アマゾンで配信当初は字幕なしだったのが字幕がついたので観てみました。
オッペンハイマーはユダヤ人だし同じユダヤ人のアインシュタインとの交流シーンは見もの、原爆開発の動機がナチスに先を越される恐怖からというのも分かる気がします、日本は被爆国ではありますが日本軍も秘かに原爆開発を進めていたことは史実、終戦間際には朝鮮での核実験に成功していたそうですからひょっとしたら全く逆の加害者にもなっていたかもしれないので、米国を一方的に責める資格はないのかもと複雑な思いはあります。
以前、NHKで原爆開発のドキュメンタリーを観ていましたのでオッペンハイマーが戦後、水爆開発に反対し公職追放されたことなどは知っていました、本作も史実に基づいているのだろうと思いますが妻も不倫相手で更に結婚してからも不倫など私生活の裏面迄踏み込んでいるのは映画らしいですがB級映画のごとく必然性のないヌードやベッドシーンまでたっぷり入れているのにはどうなんでしょう、ノーラン監督ってそんな面があったのか意外でした。
映画は3つの時系列、2つの視点と凝ったつくり。意味不明な毒リンゴが出てくる奇妙な学生時代から原爆開発過程(~1945年)、スパイ容疑を受けた聴聞会(1954年)、アメリカ原子力委員会委員長ルイス・ストローズの公聴会(1959年)という3つの時系列が交錯するかたちで展開しますのでちょっとわかりづらいしオッペンハイマーの一人称で書かれた場面はカラーで、オッペンハイマーの“宿敵”ストローズの視点を描いた場面はモノクロで描かれていました。単なる伝記的再現ドラマを嫌ったノーラン監督らしい手法でしたが、3時間近い長尺が必要だったのかはちょっとわかりかねます・・。
【良作】彼らに厳しく罰せられたら世界が赦すとでも?無理よ
日本公開前「オッペンハイマー」公式Xが映画「バービー」と合わせて原爆をエンタメ化したようなプロモーションを行い炎上。日本の配給会社が日和って手を上げず、日本公開が遅れに遅れ、私も劇場まで行く必要ないっかーってサブスクで観た次第。
結果、観に行けば良かったと後悔しました。
ノーランは、なんだかんだ哲学的な小難しい台詞の応酬をしながら、平凡なディズニー的エンタメ着地をするから苦手だったけど、大っぴらに広島・長崎を描くとハリウッド(お金を出す人達)の抵抗に合うから、原爆の父と呼ばれるオッペンハイマーを巧妙に「赦してはいけない人」として描いていて巧いなぁと思った。
オッペンハイマーが科学者チームのリーダーとして原爆を作り、戦後すぐは「第二次世界大戦を終わらせたヒーロー」として祭り上げられるも、広島・長崎の惨状を目の当たりにして、核・水爆反対の立場となり、コミュニスト、危険思想の持ち主として、公職を解かれ、名声が地に落ちる……、までを描いている。
「“卑しい“靴屋」ウェイトレス“ごとき“と結婚するのかなどと、言葉の端々に選民意識が表れるオッペンハイマー。能力と実績のある自分は、何をしても、言っても「許される」と思っている。そんなオッペンハイマーを、俯瞰して見てる奥さんのセリフが、本作でノーランが言いたいことなのではないかと思った。
学生時代からの恋人で、結婚してからも愛人関係にあった女性が自殺(他殺?ここは曖昧に描かれている)自分のせいで愛人が死んだと、打ちのめされ、泣き崩れる夫に奥さんがいう。
「罪を犯しておいて、その結果(貴方)に同情しろと?しっかりしなさいよ!」
これは、浮気に対してのセリフだけど、原爆投下後、罪悪感に苛まれトルーマンの前で泣くオッペンハイマーにスライドできる。
「卑しい靴屋」と呼んだストローズから陥れた審問会の場で、オッペンハイマーは自己弁護しない。沈黙し、むしろ厳しく罰してほしいとすら思っているように見える。それは大量虐殺兵器を作ってしまった自責の念からではなく、殉教者のように自己犠牲をすれば、自らの罪がいつか赦されると思っているからだ。そう、罪悪感からではなく、世界から大量破壊兵器を作った破壊者と見られている自分への評価を変えたいんだ。
どこまで行ってもこの人は「自分のこと」しか考えていない。
そうやって、もやもやしているところに、また奥さんが言ってくれる。
「彼ら(審問会で)に厳しく罰せられたら、世界が赦すとでも?無理よ」
更にノーランは被せてくる。
ストローズは、アインシュタインとオッペンハイマーが話しているのを見て、自分を孤立させることを画策してると「思い込む」が、実際は全く別のこと(この冒頭のシーンが後半に効いてくる)。出自や学歴から来るコンプレックスによる被害妄想。ルサンチマン的な思考が垣間見えるが、その辺りを深く掘り下げることはしない。
また、涙するオッペンハイマーに時の大統領トルーマンがいう。「皆が憎むのは原爆を作った人じゃない。落としたやつ。つまり俺」みたいな。
こう解釈した。
原爆による、無差別大量殺戮、大量破壊、放射能の障がいによる長きに渡る苦しみより、ストローズの成り上がり劇や、オッペンハイマーの苦しみを大きく、ドラマティックに描くことはできない。お前らの苦しみなど、広島・長崎の人達の苦しみに比べたら、取るに足らない、どーでも良いことだ。
ノーランはそう言いたかったのじゃないか。
広島・長崎の惨状が映像としてないことに批判があるようだが、
私は原爆投下が「決して赦されないこと」として描かれていることを(偉そうだけど)評価したい。そこが一番、重要でしょ。
良作。
なぁーーーーがぃ
原爆の父。
もし開発が失敗だったらどうなってたのかな?
もしドイツが先に完成していたらどこで使ったのかな?
もしソ連なら.....
研究者?科学者?
頭に思い描いたものを作る時はさぞ楽しかろう。
当然完成までは苦悩の連続であろう。
作中で「水爆」にも触れていて
勘違いかもしれないけど「水爆」は
ただの大量虐殺兵器だ!と...(勘違いかもしれんが)
原爆も同じ。
あと、日本との戦争が長引いたらあと何万人兵が死ぬ...とか
観ていて「はぁ~」って。
実験が成功したときの参加者の中で結果に驚愕している人がいて。
本人もそうなんだけどね。
結局想像以上の結果が出て
もう核なんか使っちゃだめだよ
作っちゃだめだよって
そりゃ政治家には伝わらないよね。
オッピーってこういう人なんだって。
辛かったんだろうなって。
作った人が悪いわけじゃないんだろうな。
使い方が悪かったんだろうな。
投下候補地から京都は外す
新婚旅行で行ったけど素晴らしい街だから...
はぁ?
いきなり投下しないで
ちゃんと予告しようよ!
とかって意見もあったんだね。
さて、長くなってしまったけど
本当にいろんなの事を知って感じて考える作品だった。
小難しい作りしてるし、観てて疲れたw
流石ノーランって感じなのかな?
生意気かも知らないけど
みんな観たほうがいい作品って思った。
米国版「大河ドラマ」
中盤過ぎの、原爆投下を喜ぶ米国人のシーンでは日本人として悲しみの涙と共に米国人への憎しみの感情が沸く事も有りましたが、それも「娯楽」の内として作品のクオリティの高さです。内容は成功を収めた男と、それに嫉妬する男の物語だと感じました。鑑賞中に色々な思いを感じながら、3時間という尺を感じぬ程に時間が過ぎて休日を有意義に過ごす事ができました。
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