オッペンハイマーのレビュー・感想・評価
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国家と科学者の距離感
神経症気味の有能な物理学者が、ナチスと対抗するための国家機密プロジェクトのリーダーに抜擢され、ナチス崩壊後は対日戦を終わらせるためと称して原子爆弾の開発に成功し、時代の寵児となった後、赤狩りの時代に失脚したが、それは有力政治家との確執によるもので...と盛りだくさんな内容で、登場人物が多く、時制も前後していて、頭で理解しようとしても追いつかない。映像、音響とともに身を委ねるしかないが、それがクリストファー・ノーラン監督の狙いでもあるのだろう。
日本人としては、原爆被害の実態を描いていないことに関心が向くが、画面中に直接映されないものの、主人公が被害の映像を観てショックを受けるシーンや、世界を破滅させる兵器を開発してしまったことに苦悩する姿はちゃんと描かれている。
最も印象的だったのは、大統領との面談シーンで、自責の念に駆られている主人公に対し、大統領が「恨まれるのは爆弾を落とした私であって、爆弾を作った者のことなど覚えられもしない。」と言い放つところ。
作品全体を通して考えさせられるのは、国家と科学者の距離感。主人公が辿る国家との関わりを見ていくと、いかにもアメリカ的だなと思いつつ、今の日本でも、学術会議の任命問題や国家機密保護法など、ごく身近な問題であることに改めて気付かされる。
有名俳優がたくさん出ていることにも驚くが、主役のキリアン・マーフィは、主人公の繊細さと屈折さを体現している。ロバート・ダウニー・Jrは、眼鏡を外すまで気が付かなかった。アインシュタイン役がそっくりで誰だろうと思ったら、トム・コンティだった。
見どころはいろいろあるが、一度観ただけでは理解しきれない。改めて見直したら、理解も深まるだろう。
意図的な分かりにくさ一度の鑑賞では消化不良
日本では「要注意案件」として公開未定と異常事態からついに公開となった本作品。簡単に言えばスケール感の超大作でも栄光と挫折のドラマチック作でもありません。とにかくわかりにくい前半。カラー映像とモノクロ映像の二つの映像パートがあります。さまざまな人物が登場して専門用語が飛び交います。よってカラーは現在でモノクロが過去と思われました。ところがカラーがオッペンハイマーの視点、モノクロがストローズの視点と分かりました。この視点と時系列が目まぐるしく入れ替わるので混乱しかありません。2回以上の鑑賞必須作品です。オッペンハイマーの視点においては原爆開発は意義のある研究としていた彼がこの開発により殺戮を引き起こす可能性も理解していたことが描かれていきます。終盤はオッペンハイマーは「聴聞会」で取り調べを受けます。このパートもあまり説明がありません。この「聴聞会」の目的はオッペンハイマーのセキュリティ・クリアランスを取り消すか否かというのが目的でした。併行してストローズの公聴会のパートも展開されます。こちらはストロークが商務長官にふさわしいかという会です。この会でのオッペンハイマーの発見、水爆開発での意見の相違によりストロークのオッペンハイマーへの憎しみにより策略が展開され、核開発推進派の陰謀に満ちた聴聞会となります。ここまでくるとさまざまな人物との絡みが明確となり、原爆を開発した人物の生涯というドラマでないことがよくわかります。原爆による悲惨な映像が無いという指摘はありますが、それ以前での真珠湾攻撃、東京大空襲というのも言葉のみで映像はありません。それは事実だけを見た場合、アメリカによる原爆開発はどのように見えますか?と投げかけていると思います。これを映画として世に出した点では凄い作品と思います。
天才科学者の必要性とは
オッペンハイマーの世界観
史実を基にしているので、この映画の見どころはストーリーそのものではなくオッペンハイマーから見た彼の人生とその世界の描き方だと感じた。
冒頭でアインシュタインとのシーンがあり、ラストでもう一度描かれることで彼との会話が映画全体、というより彼の人生を総括するような構成になっているが、偉大すぎる発明をした科学者はいずれ己の罪を背負うというアインシュタインのセリフはこの映画が全体を通して表現したオッペンハイマーの世界観をうまくまとめていて、時系列的には途中であるにも関わらず非常にラストに相応しいシーンであった。
さっさと見よう
今の時代、実際にあった戦争や物事を題材にすると上映するな!なんていう連中が出てきたりするが私はこれは上映をしなければならない作品だと思うよ。そして私たちは考え方を改めるべきだとも。
これは単なる歴史劇のようなもので、別にこの行動を称えている訳では無い。あまりにも戦争を知らない、経験をしていない私たちは核がなんなのかを知るにおいてはいいと思うのだ。映画きっかけに知識をみにつけて危機感でも持ったらいいのです。
これを上映している彼らには非は無い。だって彼らが核を作った訳では無いのだから。戦争を起こした訳では無いのだから。むしろこの作品を上映されなかったら、この話でさえ知らない、オッペンハイマーさえ知らない人間だって出てきただろうに。
悲しいから、悲劇だから、なんて理由で作品を中止にしたら見なかったりするのはあまりにも酷い。
なら悲劇的なものはどうしたら無くなったのか、もし私たちが当事者になったらどうすればいいのかを考えるためにあるんですよ悲劇は。喜劇なんかよりもよっぽど自分のためになる。(この作品は悲劇ではなく歴史劇的だが)
たまに外国人は嫌だ、なんて連中がいて理由を聞くと「過去の戦争」の話をしてくる人がいる。これは経験者ならまだしも、それを母に持っていて、もしくは祖母に強く聞かされてなら分かる。ただ、私たちは結局何もされていなくて、しかもその後に生まれた海外の方たちだって別に何もしていない。恨むべきは当事者、そしてトップであることを忘れている人が多い。誰も総理大臣なんかに反論できないだろう。戦争時に反対したら一発でやられてしまうのに。起こしたことが悪なのだから。
みんな人種の壁を勝手に作って、当事者でもない人たちを悪くいうのはやめようと、少しでも思ってくれたらと見ながら考えました。
静かで美しく残酷な爆発
最高峰の頭脳と欲望と思惑の先The pinnacle of intellect, desire, and ambition.
あの当時の空気感をヒシヒシと感じた。
本当に未知であった
原子爆弾を創り上げていくとは?
その過程の緊張感、
手計算で、原子爆弾で何が起こるのか?
実験しても良いのか?
爆発によって
そんな可能性も示唆されていたと
驚く場面もあった。
アインシュタインに
可能性について意見を求める場面もあった。
世界初の原子爆弾の実験
トリニティ実験の行われていく過程、
準備の緊張感、
未明の嵐が去り、カウントダウン、
地上に現れた核の焔は
今の我々はその恐ろしさを知っているが
映画では、悪魔的な美しさで描かれた。
未知の領域に突っ込んでいく
優秀な頭脳達の熱狂ぶりは
その先が未知数という意味では
今のAIの開発競争を彷彿とさせた。
I could feel the atmosphere of that time vividly.
Creating an atomic bomb—something truly unknown at the time—how did they go about it?
The tension throughout the process,
the calculations done by hand to determine what would happen with an atomic bomb,
the question of whether it was even acceptable to conduct an experiment,
and the shocking realization that such possibilities had been considered—
there were moments that left me astonished.
There was even a scene where they sought Einstein’s opinion on the potential outcomes.
The world’s first atomic bomb test, the Trinity test—
the tense preparations,
the storm clearing before dawn,
the countdown,
and then, the nuclear flame that erupted on the surface of the Earth.
We, in the present, know its terrifying consequences,
but in the film, it was depicted with a demonic beauty.
The frenzy of brilliant minds plunging into the unknown
reminded me of the current race in AI development—
an endeavor where the future remains uncertain.
JFKの名前までだして。。。ハリウッドが民主党びいきな事は知っているが、日本人の目は節穴てはないよ!
アカデミーショーを取ったので、バイアスの係った映画だと覚悟して、とりあえず観ました。
この映画を「反戦映画!」と言う人は。。。アレです。
この映画は、原爆には肯定的な映画です。
予備知識と歴史観なく、この映画を観る事は、
真実とは関係なく、米国の都合の良い点だけを洗脳される事への"無謀なる挑戦"であり、ぜったいに勧めません。
主要登場人物数人は、判別できるが、他の人物が誰なのか、どのような肩書で、どんな相関図になっているのか、
背景を理解していない人が、この映画を観ても、まったく意味が解らないのではないかと、危惧します。
僕も判らない人 多々。
また、前半1/3位まで"白黒シーン"は"公聴会前後のできごと"を示すものだと、勘違いして映画を鑑賞していましたが
途中から、その判断の間違いに気づき、
本作の「カラーと白黒とのすみわけ」は、時間軸ではなく
主人公:オッペンハイマー視点かどうかのポイントである事を、理解する事が たまたま できたが。。。
本作では、交差する"時間軸"の対応と、登場人物の"名前"と"肩書"と"日時"を
絶えず、テロップとして入れ続けた方が、
観ている人には、映画の内面を観る事に専念できて、親切だったと思う。
逆に、鑑賞者に深堀りさせずに、流れだけに集中させる目的と 深い部分を理解させずらくさせる「オレ様」的な手法は
「監督が、自分が創った映画の解釈を、よく魅せる為」の邪道な手法であって、正統派映画で使う手段ではない。
幾度と出てくる 主人公の"脳内シーン"は、「インターステラ」を彷彿させるマトマリがあったが、
日本人からすれば、アレは「ウルトラセブン」の世界で、
絵的には美しいが、物理学者の脳内は、本作品のような映像では けしてない と、理系的には感じた。
セリフを持つ、ほぼ全ての役者が着ている服は、超1級の仕立て の"完璧なる 服のすばらしさ" を魅る事ができた事に感動し、ため息さえ出ました。
個人的な疑問だが、WW1の時点では、既に実用化されていた放射線防御服(鉛服)を研究者たちが、着ていないのは、不用心だと思った。考証的には史実なのでしょうけど。
口封じの為に、施設内の人間を 早期に始末したかったのか?
劇中、ピカソの絵が数点 登場したが、
広島・長崎の被災画像を映画内に出さないならば、代わりに ゲルニカ(ピカソさんによる スペインでの爆撃された街の抽象画)を出す事こそ、本作中では、必要だったと思う。
それとも、当初は作中にゲルニカを入れたが、映画の論点が、そっちに行かない様、ソフトな映画にする為にカットしたのか?
本作は「原爆の比較実験の意味」の重要部分には触れておらず、
ガラス鉢に、B玉を入れるだけで、お茶を濁しているが
アメリカ人自身やアメリカンマジックに汚染された多くの鑑賞者は。。。
『1945年時の日本に対する、国連側が取れる戦略は「原爆投下」と「ダウンフォール作戦(日本上陸作戦)」の2択しかないので、
「原爆投下の方が、両国両軍とも損害が少ない」選択肢だった』と、本作映画でも世論でも弁明しているが。。。
当時の日本は、1944年初頭から、再び和平工作に趣をおいて、再開していたが、
日本が何度も提示した"降伏条件"を まったく譲歩しないアメリカは
日本の持つ全派遣を手に入れる為に、日本を完全に粉砕しなければならなかったのだが、その2択のみの考え方の呈示こそ" 米国の帝国主義"の何物でもない。
当時のアメリカが本当に、和平を選ぶならば、幾らでも手法はありました。
この当時の両国が持っていた考え方を たとえていうと、
"日本の将棋型戦略概念"は、戦争の中で、敵の駒(地域)をドンドンこちら側の味方につけ、
最後は相手が「まいりました」と言えば、戦いが終わります。
即ち、敗者が終焉のタイミング(降参)の権利をもつのに対して
欧米の"チェス型の戦略概念"は、戦いによって、味方(人)も犠牲するが、敵(人)を殲滅し、
最後は敵王の動きを完全に封じる 勝利を目的とした
あくまで「勝者側本位による戦いの終焉」する論理に基づいています。
本作の中で、オッペンハイマー氏の悪意を表現してしまうと「坊主にくけりゃ、袈裟までニクイ」と映画評価が落ちる事を恐れて、
映画(映画評価)を護る為に
監督は、あえて、広島・長崎への投下・罪である"汚点"をはぐらかせていたが、
オッペンハイマー氏には、途中 何度も原子爆弾・水素爆弾を中止させるタイミングがあった筈だが、
それをしないばかりか、ウラン型とプルトニュウム型の"比較実験"を 同規模な街を使って行う事を、推奨した人間です。
原爆を作るだけならば、臨界点爆発だけで済む"ウラン型"だけで良い筈なのに、
あえて水爆とは反対方向に分岐を行わせるウランから生成(超ウラン元素)する 第二段階である「プルトニウム」を使用し、起爆剤を必要とさせてまで"プルトニュウム型"を並行させた事は
水爆製造の阻止を裏隠した意図があったと、僕は洞察している。
B玉を使ったプルトニウム型への誘導も。。。
また、原子爆弾開発・製造に当たっての全体オーガナイザーは、オッペンハイマー氏ではなく、
バットサイモンさんが演じた レズリー・グローヴス氏であり、包括的な評価を受ける冪人間は、彼であるが、軍人ゆえ、その名誉?が、民間人であるオッペンハイマーに棚ぼたされただけである。
オッペンハイマー氏は、長崎に落とした2発目のプルトニウム爆弾を、あくまで"製作しただけ"の人間であり
ウラン型 プルトニウム型 双方の開発・製造者でもない 単なる制作現場(ロスアラモス)の現場監督でしかなく。
オッペンハイマー氏が最終進化型である"水素爆弾"に関して、反対をした事は、論点ではなく、
あくまで彼は、当時の流行りである"赤"だったと、僕は考えている。
劇中、「核爆発により連鎖反応で、地球全ての空気まで、連鎖爆発するかもしれない」と主人公達に警告していたが、
故ホーキング博士は、LHC素粒子加速器による 素粒子の衝突実験はブラックホールを2次的に生成し、地球自体を飲み込むかもしれない」と忠告している。
アインシュタインさんを、映画に出したのも、映画に見せかけ的な趣をつけた小ネタでしかない。
オッペンハイマー氏は小賢しいが、本監督も小賢しい。
本作を観て、言いたいことが沢山あったが、ここでは相当な部分を割愛したが、
これ以上の長文は、ここでは辞めて、
後日、FBに書くようにします。
3度鑑賞した「シン・ゴジラ」では、毎回
「日本に原爆を落とす」という脅しで、僕は無意識の内に 涙が止まらなくなるが、
日本人は、けして"原爆被害"の経験を忘れない為に、「シン・ゴジラ」を、たびたび見る事が責務である。
予想外
映像の世紀で良くね?
先にNHK見ちゃったから、そもそもネタバレ。
この番組でオッピーの栄光と孤独が如実に描かれていた。
ダンケルクでも混乱した編集技法がここでも。
SEXシーンいらないよね。聴聞会、公聴会、はしょれよ。
皆さん言ってる様に音響効果は凄いね。
3時間飽きさせないのはさすがです。
反戦でも反核でもなく人間オッペンハイマーは
空虚。それでいいのかもしれない。
少なくとも彼は忠実な合衆国市民であった。
皮肉なもの、天候が違えば落ちていなかったのか
日本人の心にはあまり響かないとは思いますが、半歩進んだのかもしれない。
演技と脚本、演出が特出して良かったかな。
立場が変われば、主張は変わる。それによって状況や歴史は変わる。まだまだ、人類は未熟なまま。
己の行いに責任を持つことの重み。
追記
私にはこの映画は責任転嫁とすり替えなのかなぁと思えた。
博士はユダヤ人として、ドイツに落としたかったのだろう。日本に落としたからこそ、あそこまで、呵責に苛まれたのだろうかと見えました。
これら全ての人類の悲劇は、私怨なのかもしれないと悲しい思いです。
何か一つボタンがかけ違えば、これだけ多くの被害は避けれていなかもしれないと思うと、やり切れない。
同じ過ちばかり繰り返す人類は進化という妄想の中で、嘘と欲にもがいてるだけのように見える。
残念なところが結構ありました。!!!
原爆が実際に使われるまで、ストーリーを続けて欲しかった。
この映画の中で戦争がどういうものか??も中に入れて欲しかった。
何故、原爆が必要だったのか??がイマイチ表現力不足なのは凄い残念です。
共産主義だとかソ連のスパイ容疑の裁判は少し短くしてもらい他のことにストーリーの焦点をあてて欲しかったのも残念でした。
あくまで伝記映画。強い反戦反核メッセージを期待する人には…。
強い反戦反核メッセージを期待する人が見ると星1・2の作品になると思う。オッペンハイマー(長いので以下オッピー)の伝記映画であること、アメリカ人向けに作られていることを理解した上で鑑賞した方がいいかな。
ただひとつ注意点。NHKの取材でノーラン監督が『どう考えるべきかを伝える映画は、決して成功しないと思います。』と言っているので強いメッセージ性がなくて当然だしそこは監督の意図通りの作品になってると言える。核兵器について関心を持つための入門映画という点でよくできている。
☆音楽
・IMAXで見た恩恵を感じるのは実質2箇所のみ。冒頭の原爆シーンの爆発音は劇場内の空気まで震えているのがよく伝わり圧巻。オッピーを称賛する足踏みの音の圧力がすさまじかった。
・トリニティ実験のボタンを押す直前の音楽は緊張感と不安をよく表せていて素晴らしかった。音楽であそこまで緊張感を高められるのはすごい。
☆映像・演出や脚本等
・爆発の炎や煙の表現は不謹慎ではあるがアート表現として魅入られる感じ。
・ほとんど会話劇なのでカメラワークの工夫は特に見受けられない。
・場面も時系列もころころ変わるので置いてけぼりくらわないようにするのが大変。ストーリーも分かりにくくなるのがデメリット。
しかし、もしこの会話劇を時系列順で見せられたら間延びして退屈だったと思うのでこれでOK。
・カラーと白黒で視点を分けていたが必須レベルの表現になっているとは思えない。前情報無しで見た人は直感的にカラーが時間軸が新しく白黒は古いと思ってしまい余計な混乱を生んでいるように思う(そう解釈したレビューがあった)。
アメリカ人なら当然知っているであろう前提条件も日本人は知らないし、作中のセットから時間軸の新旧を判断するのも難しいから仕方がないとも言えるが。まぁ台詞をしっかり読み込めてかつ歴史的事実の順番を知っていれば一応序盤で時系列が理解できる可能性はある。でもカラーと白黒の違いについて考える暇があるなら台詞や役者の表情、今見ているシーンの社会的背景等に脳ミソのキャパを使いたい。
・マンハッタン計画とオッピーがそれに参加する経緯とその機微がわかる。オッピーの大学講師時代は共産主義に傾倒する人々への眼差しは危機感はありつつも少し緩かったが、計画進行中に少しずつ厳しくなり、終戦後には赤狩りが表立って始まりおおごとに。全てオッピー視点ではあるが社会的背景がじわじわと変わっていく様を映像作品で見るのはその空気感も伝わってくるようでおもしろかった。
ここまで考えると星4をつけようと思えるのだが、問題はメインストーリー。
強いメッセージを出さない意図で作り、原爆称賛でも反戦反核でもなく伝記映画として事実をそのまま描いているために『それが事実ですね。わかります。そりゃ当時のアメリカ人ならそう言う反応・そう考えるのは当然ですね。でも、だから何?』という感想を持ってしまう。『だから何?これ何の映画だっけ?』という感想では困惑してストーリーの評価ができない。
『だから何?』の原因はオッピーの人生に感情移入できなかったこと。
オッピーがあの性格(毒林檎の殺人未遂・女にだらしない・卑しい靴売り発言)&劇中の言動に自分の意見や強い主張もなくブレブレだったおかげ(?)で終始客観的視点で映画を見てしまった。この視点で見るのはいいこともあるが、オッピーの伝記がストーリーの基軸なので感情移入できないと映画を見終わった時『事実述べるだけならノンフィクションドキュメンタリー番組でよくない?』との結論になってしまうのだ。(ブレブレ具体例は長いので省略)
本来ならこのブレブレも「この人もまた弱い1人の人間」と捉えられるし感情移入に貢献するはずなのだがそうは思えなかった。また、作中描かれたオッピーの人生をもう一度振り返ると「原爆開発成功で持ち上げられ称賛の嵐→罪悪感等から精神的負担が大きくなる&水爆開発に反対→今までの言動と私怨により赤狩りに遭う。聴聞会で吊し上げ。昔の科学者仲間は味方になったり批判的証言をしたり色々でこれも精神的負担増。大統領にも幻滅され栄光とは真逆の掌クルックル」こう文字で見るとなるほど、科学者の凋落を表現できているように思えるが映画を見終わった感想がそちらに意識が向かなかった。
日本人だから感情移入できなかっただけじゃない?と言われればそれまでなのだが、理由はそれだけでは無いように感じる。具体的理由が思い当たりはするのだが、まだイマイチ明瞭にできていないので、今後いい感じに言語化できれば追記したい。
この映画を見て核兵器に関心を持った人は広島・長崎へ行って資料館の展示や復興した街、そこに住む人々や観光に来た外国人の笑顔。そして展示を見る人々の表情(来館者には日本人も外国人もいるだろう)を見てほしい。人間が持つ高い共感力が、もう原爆で亡くなる人を出してはいけないという思いにつながる。そのためのスタートラインがここだと思う。
日本に使えだと!
脅威か卑劣か凡人か
「オッペンハイマー」
別にIMAXじゃなくても良い映画かも
ただ音響が良い環境が良いと思います
内容は彼の人生譚なので
落とされた日本についての描写は無い
オッペンハイマーについての映画なので
あまり感動もせず
フラットな気持ちだった
原爆三世としてのわたしの感想は
それしか出ない
作品賞に値するかどうかは疑問も出る
アメリカ現代史のなか原爆開発者の生涯
オッペンハイマーの伝記の映画
という印象が強い。後半はストローズとの確執、戦いの物語。
カラーと白黒で場面分けしているが、時間が行ったり来たりで理解しづらい。
アインシュタインを、新しい物理を理解出来ない過去の人扱いする場面はいただけない。
ただ、プリンストンの高等研究所での再会の場面は、最後シーンでこの映画の意味合いを説明する。
オッペンハイマーの授賞式などの場面とかぶりながら。
原作?のアメリカンプロメテウスの最初の翻訳(上下巻、PHP)は訳がひどいという。特に物理の関連項目で。
現在のハヤカワ版(上中下巻)は、たぶんそのせいで物理学者(山崎さん)の監訳者がついたのだろう。
PHP版は絶版のようなので出会うこともないだろうが。
セックスシーンもあんな場面に入れ込むのは私は好みではないのでいらないシーン。
奥さんもだいぶひどい人のよう。オッピーも女性関係はひどいが。
思っていたのとだいぶ違っていた。
ストローズがあの俳優とは、まったくわからなかった。(今回、嫌な奴リストに入った。)
物理学者のブラケットも嫌な奴なのかな?映画のように。
単純に面白い映画だったでは片付けられない
タイトルのとおり
原爆が実際に現実で使われるまで、科学者以外の世界中の人類は、その恐ろしさを理解することができず、従って抑止力になり得ない。
劇中でこんなシーンがあった。
原爆資料館や裸足のゲンといった原爆の恐ろしさを伝える媒体に触れたことのある私にとって、原爆は恐ろしいものだ、こんなものは抑止力なのであって、実際に使われることはあってはならない。という考えだった。
が、本作を観て、その認識が少しだけアップデートされた。
原爆が使われてしまったことを到底肯定するつもりはないが、使われてしまったことで人類が原爆の恐ろしさ、原子力の恐ろしさを、空想上の存在としてではなく、現実に起こり得る事実、史実として認識できたことは、人類にとっては有益であったと感じた。
(原爆使用を肯定する意味ではない)
オッペンハイマーが開発した「原爆」は、従来の爆弾とは異なり、地球そのものを破壊し得るポテンシャルを秘めている。その力を人類に与えてしまった、プロメテウスが人類に火(破壊の象徴)を与えてしまったことに準えて、オッペンハイマーを描いたこと。
そして、人類が原爆の開発以降、いつ滅んでもおかしくないステージにあり、その蓋を一人の人間が開いてしまって、その蓋が未だに閉じられていないこと。
この二点が深く刺った。
水爆が完成し、いくつかの国が保有している現在の地球において、SFに描かれる地球滅亡は、SFではなく、現実に起こり得る、もっとも恐ろしいリアルであり、その扉をオッペンハイマーが開いてしまった。そう考えると、人類にとって、オッペンハイマーはとんでもない存在であり、そんな人物を題材に映画を作ると考えたノーラン監督の気持ちが少し理解できた。
※最初はSF題材にした映画にしてくれよ!って思ってました。監督、すみません。でも次回作はインセプションとかインターステラーみたいなSFがいいな。
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