オッペンハイマーのレビュー・感想・評価
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音量と画面圧がすごい
本日やっと鑑賞
ノーランハズレなし
オッペンハイマーが前半しか研究してなくて
後半はチームリーダーでまとめ役のみにみえた
また、後半の諮問会のシーンからのラスト
脚本がよいね
劇中モノクロ画面になるのだけどそこもまたよい
アインシュタイン激似です。
しかし、盛り上がる時の音量大きい〜!
最近洋画エッチシーン多いなあー
じんわりと名作の域に
正直半分あたりまで不倫やら裁判やらばかりでうんざりでしたが、実験から日本原爆投下までのながれで一気に背筋が伸びました。確かに実験の描写はゴジラ-1.0や他の視覚効果賞ノミネートに比べたらディティール、スケール感、立体感は地味で大人しいのですが、そこはノーラン監督。
それまで不快であった不倫やら裁判やら泥沼の人間劇で知らぬ間に距離感が縮められるリアリティの魔法が仕掛けられており、残酷な広島長崎描写は無いものの、実験と教会時の黒焦げた遺体と周りの人間が錆びれ吐き気をもようしている描写だけで原爆の恐ろしさがスクリーン向こうから充分伝わってきました。
はだしのゲンや原爆資料館で見てきた体験より、原爆被害の凄まじさが想像され戦争に対する貴重な追体験ができました。
これだけでも反戦争、原爆へのアンチテーゼ効果として賞賛に値するかと思います。
その後はまた裁判ですが、解決に向けての流れなのでサスペンスの結末を観れるスッキリ感、アインシュタインとの対話、ジョンFケネディの暗殺?に繋がる布石などフォレスト・ガンプにジョンレノンが出てきたような贅沢感も少し味わえ、個人的には有意義な体験となりました。
ノーラン監督の巧みな人心把握術の組み込みにより、明らかな名作!感動作!では無いものの総合的にじんわりと名作の域に達しているかと思います。
ゴジラ-1.0ほど2桁リピしたいとは思いませんが間違いなく観て良かったと思える作品でした。
音圧で鳥肌。
IMAXにて鑑賞。人物描写が多めな映画なのでIMAXで無くとも良い気もしますが、音の演出にかなり揺さぶられるので爆音音響のIMAX鑑賞は正解。最初の足踏みドンドンやオッピーの天才ぶっ飛び妄想中の音響表現などは凄まじく圧巻。コレを浴びにいくだけでも観る価値ありますわ。そしてラストのアインシュタインとのやり取り。全身に鳥肌が。恐ろしい。
◇贖罪、相対性、そして時間
ノーラン監督作品の主たるモチーフと言えば、初期の『メメント』 から一貫して「時間」そのものです。置き換えられたり、繰り返されたり、巻き戻されたりする可変的な時間軸。そのトリッキーな技法に巻き込まれて、われわれは「意識=時間」が再構築されて洗い替えされるような感覚に晒されます。
時間の魔術師ノーラン監督が、『インターステラー』『テネット』などの作品でSF考証を務めたキップ・ソーンというノーベル賞物理学者を通じて、辿り着いたのがアメリカ🇺🇸の理論物理学者でした。核兵器を世に送り出したオッペンハイマーという人物です。
一人の人間にとっての「時間」とは、継続する自己意識の有り様です。記憶や思い入れや執着の連続体として、存在する「時間=意識」。原爆を開発したオッペンハイマーの気まぐれな心変わりを描き出すことで、生々しい「時間=意識」ドラマが創造されました。
原爆には積極的であったのに水爆開発には反対する姿、優柔不断な女性関係、共産主義者からの転向。自らの一貫性の無さが引き起こした核兵器の時代への贖罪を自虐的に露悪的に曝け出し続けることで、辛うじて保たれる「時間=意識」の物語。
そこには、力強い「善」の姿はなく、絶対的な「神」もなく、果てしなく続く相対主義的な不連続でブツ切りの価値観の虚しさしかありません。一人の歴史上の人物を通じて、現代の解体された「時間=意識」が描き出されているようにも感じ入るのでした。
予備知識が必要な映画
まず、物語の理解に必要なことが作中で説明されない部分が多くあるので、J・ロバート・オッペンハイマーのwikipediaの記事くらいは読んで鑑賞したほうが良い。脳内であれこれ想像して補完すれば恐らく理解できなくもないが、本来それは不必要な負荷だと思うので、事前知識を入れておくことをおすすめする。
物語のあわゆる部分がその時の時代や世界情勢に紐づいている。
原爆そのものよりも、科学と国家安全保障、技術競争、研究効率と秘密保全のバランス、政治的な主義思想など、そういったことについて考える良い機会になった。
我々はトリニティ実験が無事に成功するのを既に知ってしまっていて、その実験に関わる人達の緊張感や不安がうまく想像できない部分があるが、そのあたりの感覚をしっかり描いてくれたのが興味深かった。
今まで観た映画の中で、もっとも恐ろしかった。
核爆発に向けて進んでいくシーンの緊張感が凄かった
〔60代男です〕
本作は劇映画の作り方を完全に理解している熟練者だけが作れる作品だ。
同じことを未熟な者がやろうとしても、こんなにうまく仕上がるもんじゃない。
普通どおり、たくさんのシーンのモンタージュで構成されていることに変わりはないのだが、現在時間の表示もせずに時間軸をたびたび前後させ、それでも観ている者に勘違いさせることもなく、バラバラに分断されている印象にもならず、BGМの力も借りて、3時間の上映時間全体を切れ目のない一つながりのものとして有機的な塊に仕上げることに成功していているのだ。
物語としての一本の道ではなく、オッペンハイマーという科学者の人生全体が、ひとつの印象として心に残るようになっている。
だから観終わっても、あのときこうしたらどうだった、とか、あのときこいつの正体を見抜けていたら、みたいなことは感じず、全体で大きな一つの印象だけを与える作品になっているのだ。
3時間にもなる大量の映像を、まったく混乱もなしに、これほどなめらかに一つながりに仕上げられるのは、並大抵の才能ではない。
おはなしは、第二次世界大戦中のアメリカ。
ドイツより先に原子爆弾を完成させることの重大性を意識する将校マット・デイモンは、主人公の優秀な物理学者オッペンハイマー/キリアン・マーフィを、原爆開発計画マンハッタン・プロジェクトのリーダーに抜擢する。
主人公は、優秀な物理学者とその家族を呼び寄せ、砂漠地帯ロスアラモスに原爆開発のためだけの厳重に管理された町を作り出し、原爆開発に没頭する。
そして史上初の核実験に成功し、その場にいた現場スタッフ一同と軍関係者は歓喜に包まれる。
その後、主人公は、自分が送り出した2つの完成品が広島と長崎に投下されたことをラジオのニュースで知る。
称賛を浴びて持ち上げられるが、恐ろしい兵器を生み出して実際に使用されたことが罪悪感として重くのしかかる。
政府も周囲の軍人も、次なる水素爆弾の開発に向けて動き始めたので、良心を持ってそれに反対する主人公は邪魔者あつかいされ始める。
世界的に注目された主人公に嫉妬と悪意を持つ、原子力委員会の議長ロバート・ダウニー・Jr.は、評価を地に堕とすための聴聞会をセッティングし、主人公の下で働いていたテラー博士を始めとする悪意ある科学者たちを証人に、主人公を危険な共産主義者で、最初からソ連のスパイだったというとんでもない容疑までかけて糾弾する。
この悲惨な後半は「ハドソン川の奇跡」「リチャード・ジュエル」のメインで描かれていた話とそっくりで、マイケル・ジャクソンもそうだったが、アメリカでは称賛される英雄がいると、それを悪意を持って破滅させようとする人たちが出てくるようだ。ひどい話。
主人公が非常に穏やかな人柄で、誰に対しても態度が紳士的すぎるため、彼に悪意ある人間の言動に対しては、代わりに妻エミリー・ブラントが腹を立てる言動で、観客が勘違いしないよう配慮されている。
腹立たしい人間が連続して出て来たあとに、良識ある発言をする人を出して溜飲を下げてくれるので、気分は暗くならない。
幸い主人公は破滅させられずに終わるものの、核開発は手の届かないところへ行ってしまうので、ハッピーエンドにはならない。
あとアメリカ映画では核爆発が出てきても、放射能による被害はいつも無視されるものだが、本作でも同様なのだけは残念な点。
ロスアラモスにだって被爆者はいたはずだ。
ここでの原爆は、あくまで超強力な爆弾、というだけにすぎない。
それと自殺してしまう愛人フローレンス・ピューを出すのは必要だったのか。彼女が全裸で出てくるシーンさえなければPG12の年齢制限もなくせただろうに。
主人公が仕事一筋の堅物ではなかったことを、浮気で描いておきたかったのかもしれないが、僕は不要に思えた。しかしこんな美人の物理学の教授なんているのか?
天才科学者ボーア役にケネス・ブラナー、トルーマン大統領役にゲーリー・オールドマン、アインシュタイン役にトム・コンティ、計画に参加した学者仲間でジョシュ・ハートネット、ほかに政府関係者にデイン・デハーン、ラミ・マレック、マシュー・モディーンほか。
聴聞会での原子力委員会側の弁護士ジェイソン・クラークが主人公をネチネチといたぶる腹立たしさは、役者が演技をしているということを忘れて憎しみを感じるほどだった。
ロバート・ダウニー・Jrも、これほどの嫌われ役は初めてだ。
のちに水爆を作りまくるテラー博士は、悪名高いキチ○イ博士として有名だが、それにふさわしい描かれ方をする。まあ、こういう人間だからキチ○イ博士と言われるんだろうが。
濃密な3時間
結局何でもそうだけど映画の『カティンの森』というか「勝てば官軍、負ければ賊軍」で勝てば正義で負ければ悪なのかなと思った。
オッペンハイマーはEテレの『フランケンシュタインの誘惑』で見た。
知っていたのはマンハッタン計画の責任者だったことと、戦後は水爆に反対して重要な役職から外されていたこと。
この映画を見て新たにわかった事実は女好きだったことくらいかな?
実際の原爆投下のシーンが入っていないという批判があるようだけど別に気にならなかった。
オッペンハイマー側からすると広島、長崎で何十万人死のうと別に痛くも痒くもないし、よくわからないだろうから入っていなくてもいいと思う。
Eテレの方を見た感じでは、水爆に反対したのは平和の為というより、自分の業績が軽くなるか否定されるのがいやだったからとなっていたけど、こっちの方が正しいような気がする。
科学者ってそういう人が多いし、だから『フランケンシュタインの誘惑』みたいなことになる。
オッペンハイマーは原爆の父と言われているけど、原爆を投下された当事者でない日本人としては別に恨みはない。
オッペンハイマーがやらなくても誰かがやったと思うし、一人で開発したわけではないのでそれほど責任はない。
できればこの映画のアインシュタインみたいな態度でいてくれればよかったと思うし、一時的に失敗するか、何らかの理由でもう少し遅れれば広島、長崎の人は死なずに済んだのかなとは思う。
でも東京大空襲で使われて『フランケンシュタインの誘惑』でも放送していた「地獄の業火ナパーム弾」も同じような効果のある兵器だったから、ナパーム弾で空襲されていたら原爆投下に近い被害が出ていたかもしれない。
オッペンハイマーには恨みはないけど、原爆投下を決定した人(トルーマン大統領?)彼には恨みがあるかもしれない。
戦争を終わらせる為と言っているけど絶対違う。
第一の目的はどう考えても人体実験。
戦争を終わらす為やソ連への牽制だけなら最初はある程度の予告をして被害の少ない所に投下すればいい。
それでも戦争を止めないのなら都市部に落としてもいいけど、いきなり民間人がたくさん住んでいる都市部に投下する必要はない。
百歩譲って落とす必要があったとしても広島だけで十分で、長崎にも投下する必要はない。
広島がウラン型で長崎がプルトニウム型だったことからして、どう考えても人体実験だったとしか考えられない。
仮にアメリカ人の将兵の命を守る為で、戦後の日本を全て支配しようという目的もないのなら、ソ連の参戦を許せばいいだけで、そうすればアメリカは本当に何もしなくても戦争は終わっていた。
よくナチスドイツのガス室が悪の権化みたいに言われるけど、こっちもかなり極悪非道。
原爆やナパーム弾で焼き殺すより、ナチスドイツのガス室の方が苦しまない分だけ良心的にさえ思えてくる。
結局何でもそうだけど映画の『カティンの森』というか「勝てば官軍、負ければ賊軍」で勝てば正義で負ければ悪。
ヒットラーが「力は正義なり」とよく言っていたらしいけど、結局そういうことなのかなと思った。
現在ロシアがやっているウクライナ侵略だって、ロシアが勝てば正義とはならないかもしれないけど、また再び当たり前のことのようになって、力のある国はまた同じ様なことをやり始めると思う。
日本がアメリカと戦ったのは気が狂ったとしか思えなかったけど、弱い国がどうせ大国にやられるのなら、一か八か戦ってみようと思ったとすればなんとなく納得がいく。
昭和の時代、学校でいじめれていた生徒が、先生に「いじめられているので助けてください」と言うと、先生は「おまえが弱いからいけないんだ、悔しかったら強くなれ!」と言ってそれで終わりだったらしいけど、あながち不適切ではないのかも?
次は大東亜戦争開戦の背景、被爆国日本側からみた原爆の惨禍について映画を作って欲しい
日本での公開に賛否のあった、原爆の父オッペンハイマーを観てきました❗天才物理学者が大量殺戮兵器を作り、その為に多くの日本人を殺してしまった❕
また、彼は面談したトルーマン大統領に対し「私は自分の手が血塗られているように感じます」と原爆開発を後悔するようなことを言ったことや、水爆再発に否定的なことを話したため、後に共産主義の疑念を持たれ失墜してしまう‼️
オッペンハイマーは広島への原爆投下による犠牲者が五万人程度と聞かされたが、実際にはその三倍もの民間人が犠牲になったことに心痛めてしまった❕
彼は純粋な学者でアインシュタインとも親交があった人物❕殺戮兵器を作るのではなく、自分の理論が正しい事を証明したかっただけなのかもしれない‼️
今年1月に広島平和記念公園で原爆ドームと原爆平和記念資料館を訪れたためオッペンハイマーには良い印象をもっていなかったけど、同地を訪れている外国人が説明書きを食い入るように読み、資料館では涙する外国人を多く見たので、この映画で原爆の酷さ、戦争の悲惨さを改めて考える良い機会になりました‼️
山崎貴監督はこの水爆実験によりGODZILLAが産まれた事を映画にして米国で大ヒットした❕皮肉なものだけど、やはり唯一の被爆国として反対の立場からみた原爆の悲惨さを映画にして欲しい‼️
タイトルなし
原子爆弾ではなく人間を描いており、日本での公開が危機一髪だったのがわからない。広島だ長崎だ言う人には、実験成功を喜ぶ祖国アメリカの体育館や公聴会、果ては未来の地球にまで落とされた原爆と水爆が見えなかったのか。落としたのは人間でアメリカ人ではない。ドイツ日本ソ連、全人類でボタン押したと言って良い。被害者面は周りに任せれば良い。
またフォローイングを見てからだと構造が同じで手腕の恐るべき進化がわかりやすい。
ちなみにノーランをIMAX GTで見るようなこだわりの強い人ってどうして両サイドの肘掛け使えるのが当たり前だと思うのだろう。両隣と米ソよろしく冷戦状態になってしまった。自分も良くないな、肘掛けぐらい良いじゃないか。
とまで書いた後になりますが、
広島長崎に原爆を落とした後に自分の思考を変えたとなると、確かに原爆の威力を描けよ!と言いたくなりますね。
考えが遅くて駄目だなあ。
日本には悲しいかなあ!!トム・コンティさんが登場時感激しました‼️🤗
昨日AU マンデーのためTOHO新宿にて鑑賞しました
ここからネタバレします
体力と集中力が低下していたので2回ほどウトウトしてしまいました
原爆の父と言われるオッペンハイマーの栄光と没落⁈の伝記映画でした
世界大恐慌の最中に労働組合に関わり
そしてドイツが原始爆弾の開発が発表されてアメリカが2年遅れで原始爆弾💣のために街を作り開発します
さすがアメリカ🇺🇸です
土地が広いですね😆🤗
そして目的のドイツが降伏しますが日本が戦争やめないのでそこで急いで実験成功して使用します
その後ダウニーに逆恨み⁈で没落と
原始爆弾の使用で葛藤します
後半の没落が少し長くかんじました
この労働組合や赤狩りやスパイに対しての取り組みや水素爆弾などの描き方は良かったと思います
ただやはり日本人の私からすると実際に原爆を使用された国民からすると悲しく😭くかんじました
あれだけ実験の場面は迫力と凄さ
爆風が時間差で表現されてましたが
成功と同時に威力に葛藤しました
私なら使わないように働きかけて欲しかったです
人間関係も恋人、友人、大学関係、政治、軍人、兄弟、思想、など丁寧に描いていたとかんじました
今回はアルベド・アインシュタイン役のトム・コンティさんが登場した時には
驚きと嬉しいさで心拍数爆上がりしました
実際には見たことはありませんが
♪(๑ᴖ◡ᴖ๑)♪😭🤗
この映画の関係者の皆様お疲れ様です!!
ありがとございました
♪( ´θ`)ノ🤗
傲慢な科学者と靴屋
オッパッピーではない
ストローズっておっさん誰?とか、小部屋での聴聞はなに?とか基本的展開での疑問はもちろん、次々とさまざまなキャラが登場し、ノーランが大好きな時系列いじりが入り、さらに時間軸に沿って人物が歳を取っていくので、オッペンハイマーと本作に関する予備知識がないと正直、話がよくわからない(と思われる)。
のりぴーではなくオッピーの半生を3時間観せられる映画なので人物への興味がないとよりしんどいが、原爆の父という点で被爆国の国民としてはスクリーンを観続けるモチベーションがあるといえなくもない。原爆の恐ろしさはオッピー目線で入れてるけど、広島・長崎後、ヤンキーたちの喜びようを見せられるとやはりムカッ腹が立ってしまった。反面、後半のソ連に原爆技術が渡った?という疑惑の会話劇は事実は決している話だけにけっこう退屈。まあ、小バカにされたとの勘違いだけで嘘をでっち上げたストローズの低レベルな人格には呆れるが、役者がアカデミー授賞式での露骨なアジア人差別をしたロバート・ダウニーJr.だけに納得感はある(後付け)。
主人公の高慢な感じや女好きも描きつつ、6週間でオランダ語を身につけ講演したり、複雑な数式を見ながらあーでもこーでもないと議論する人間はどんな頭の構造なのかとは思うし、マンハッタン計画のためロスアラモスに街まで建設しちゃう徹底ぶりには恐れ入る。こんな顔アップばかりの映画をわざわざIMAXで撮ったり、撮影のたびに大セットをおっ立てたりしちゃうノーラン監督自身もかなりヤバいと思うのだが、それゆえオッペンハイマーに共感して映画にしたのかも(勝手な想像)。
プロメテウスの後悔
被害者が見えないと云う指摘があります。加害者の苦悩は分かるとして、被害者の苦痛を伝えないでは、リトルボーイも、ファットマンも、その本当の恐ろしさが伝わらない。だから、未だに核は無くならない。それどころか、ガザをヒロシマのように…と言い出す議員まで。
計らずも、この映画は、落とした側と、落とされた側の温度差を、世に知らしめることになりました。
公開前から、映画の出来を評価するのではなく、この映画の存在自体、是非が問われています。
私はこの映画を否定しません。少なくとも、この映画がなければ、爆撃者と被爆撃者との温度差を、ここまで痛感することは、なかったはず。それだけで、意味があると思います。どう思うかは、ヒトそれぞれですが…。
以上、本作の事前情報を、レビューしてみました。
やはりと云うか、流石と云うか、ノーラン節、炸裂の時系列ですね。ついて行くのに苦労します。でも、社会正義を振りかざし、声高に一方的な正しさを押し付けるのではなく、一個人にスポットを当てた心理描写の方が、このデリケートなテーマには、良かったと思います。
因みに、原爆の研究は、米ソだけでなく、このクニでもしていたそうです。仮にこのクニで完成していたら、皆様は、どんな映画を創ります?。ヒトは自らの業火に焼かれて、灰になるだけの存在なのか、更なる進化を遂げるポテンシャルを秘めた存在なのか、どちらがいいと思います?。
いずれにせよ、過去を変えることはできない。今、そこにある温度差を、解消することもできない。それでも、過去と今を知ることで、今よりマシな未来を描くことは、許されるのでは…。
本作が、その一助になることを望みます。
「ナイト・ブレーカー」
原爆被害は、極東の島だけではない。と云うか、原爆開発チームは、放射能の人体被害を、理解していたのか疑わしくなるお話。古い映画なので、視聴困難やも知れませんが、探して観て下さい。全て実話だとすれば、呆れ果てる話です。
結局同じことを繰り返しているんだな
映画館にて鑑賞しました。
もっと様々な背景を勉強してから見ると違ったんだろうな、と思いました。自分の学のなさが恥ずかしいのですが、オッペンハイマーが原子爆弾を開発した物理学者だということも、正直、この映画の宣伝で知ったぐらいです。
原子爆弾の開発までを描く映画かと思い鑑賞しましたが、その後の部分がメインでした。ストロースが色々語ることや原子爆弾開発までのオッペンハイマーの様子が描かれることで、随所に挟み込まれる聴聞会のシーンの重さがどんどん増していきました。前述したようにシーンの重要性というか面白さが後半になるほど大きくなるため、逆に前半の聴聞会のシーンは、若干の「なに言ってるんだ感」は感じました。
この映画で印象に残ったシーンは2つあります。
1つ目はトルーマン大統領とオッペンハイマーが面談した時のトルーマン大統領のセリフ「恨まれるのは開発者じゃない。落とした人間だ。」です(たしかそんな言い方だったと思いますが…)。このセリフは為政者と科学者の覚悟(なのか面の皮の厚さなのか…?)の違いを見せつけられた気がします。短いシーンですが、個人的にはかなり印象に残っているシーンです。
2つ目は終盤のアインシュタインとオッペンハイマーが会話しているときのアインシュタインの言葉「時が経てば君は祝福されるだろう。それは君を許したからではなく、彼らを許すためだ。」です(たしかそんな言い方だったと思いますが…2)。この映画を通して一番印象に残ったセリフですね。祭り上げられた側だから感じることができる視点だし、まさにその通りだな、と思ってしまいました。
にしてもこの映画を見ていると、人間は結局同じことを延々と繰り返すんだな、と思ってしまいますね。
難しい映画だった。2つの意味で。
公開から1週間以上経ってようやく映画館に観に行くことができた。
いつものとおり、できる限り事前知識を入れずに観たのだが、一言で言うと「難しい映画」である。
■難しい① 映画のスジの理解が難しい
学者を中心に登場人物が多いが、誰が誰なのか、何をした人なのか説明がほとんどないので、主人公との関係性、マンハッタン計画との関係性がよくわからない。
また、オッペンハイマーの聴聞会の目的はおおよそ理解できたが、ストロースの公聴会は何のためにやっているのか、見終って検索するまで意味がわからなかった。米国の閣僚の選出過程など知らなかったので、何のための公聴会なのか理解出来なかったのだ。私と同じように、事前知識がなくて細部の理解が追いつかなかった人も多かったのではないだろうか。
それから、時制行ったり来たりで、実際に起こった事象の時系列がわからなくなる場面が何度かあった。聴聞会でオッペンハイマーが自身の過去を回想していくという演出はいいのだが、何度も行ったり来たりは少し疲れたというのが本音である。
この映画を理解するには(楽しむためには)オッペンハイマーとマンハッタン計画に関する一定の事前知識がないと難しい。知的で難解な映画だと思う。
■難しい② 扱うテーマが難しい
①の難しさに比べればこちらが遙かに難しい。難しさ故に、監督は「核兵器の是非、オッペンハイマーの行動の是非を評価しない」というスタンスを採った。そうしなければ、映画は公開できなかっただろう。その判断は、映画を観た者に委ねられた。
これは原爆の開発に関する映画だが、それに留まらない人間の欲望と探究心、科学と倫理というものを考えさせられる映画であったように思う。
ロスアラモスで研究者達が原爆開発計画をストップさせようとする集会を開いている場面にオッペンハイマーが入っていく場面があった。「ヒトラーは死に、日本も降伏目前なのに、なぜ原爆が必要か?」という一部の科学者たち。こういう人たちがいた、そして政府が決定する直前まで嘆願書に署名して実戦使用を止めようとしていた人々がいたことを知って、科学者の良心を感じると共に、それでも核開発に突き進む科学者達の存在を観て、人間とは何なのかをまた考えさせられてしまう。
もっと強力な兵器を!優秀な人間のクローンを!永遠の命を!賢い人工知能を!
人間の飽くなき欲望と探究心は、制御を失うと人間を破滅の淵に追い詰める。追い詰められてやっと気づいて慌ててルールを、管理をと叫び始める。核兵器もしかり。近年のAIしかり。その繰り返しである。
そして、本編とは直接関係ないように思われるストロースの公聴会を中心としたモノクロの場面。権謀術数を使って富の次に名声を得ようとする権力欲にまみれた男。オッペンハイマーとの対比で描くことで、オッペンハイマーの人物像をより際立たせようという演出だろうが、自分の欲望のために、原子力や核兵器さえも道具に使うこの男の描写は、現代の社会に対する皮肉のようにも思える。
オッペンハイマーを演じたキリアン・マーフィ、ストロースを演じたロバート・ダウニー・Jr.の演技は素晴らしく、オッペンハイマーの複雑な心情を描く粒子の飛び回る映像や爆発の映像、揺れや音の表現は秀逸だった。
しかし、やはり難しい映画である。
(2024年映画館鑑賞10作目)
この映画は過去の日本人とアメリカ人だけに関係する話ではない。今、世界を生きている人々の生活に潜むおぞましい黙示録。
オッペンハイマーという人物は、政治的に考えればアメリカ人にとっては正義でなくてはならず、日本人にとって彼は広島と長崎の多くの命を奪った悪魔でなくてはならない。それらは絶対に相入れないイデオロギーだ。
映画「オッペンハイマー」の一番凄い所は映画が結論を代弁するのではなく視聴者に彼の倫理的責任に対する呵責や判断を委ねている所だと思う。
映画ではどちらの視点の議論も間接的に傍聴会で提示した上で、あえて結論は押し付けず「君は彼をどう思う?」と投げかけているのが上手い。この映画はアメリカ人にも日本人にも結論を与えない、だから「これは傍聴であって"裁判"ではないので証拠は必要ない」と劇中何度も釘を刺している。
しかし、これを逆手に解釈すると理論上この傍聴会が「ニュルンベルク裁判」「東京裁判」に続くアメリカの戦争犯罪を裁く幻の"第三の国際軍事裁判"であった事が示唆されている。その意味でこの映画はこれまでの戦後史を根底から覆す視点を両国及び世界に示しただろう。
オッペンハイマーは、愛国心があれど共産主義に加担していた点でアメリカ人にとって"完璧な正義(ヒーロー)"ではないし、一方大統領に対して「私は自分の手が血塗られているように感じます」と語りトルーマンを激怒させたオッペンハイマーは日本人にとって"完璧な悪魔"でもない。しかしその両方を併せ持つ人物であるからこそ「オッペンハイマー」という映画を見終わった後にどの様な感情にさせられたのかすら分からない感情を日本人と米国人の両方に植え付けるのだと思う。
聴衆会で登場する発言が所々、現実で録音された「ノンフィクション」である以上、解釈を許さない場面とそうでない場面が矛盾を起こし、人々が映画を見る前に持っていた絶対的正義心を逆撫でし更に複雑な心境にさせる。日本人とアメリカ人はこの映画において真逆の歴史的観点から、オッペンハイマーというおおよそ両国人のスタンダードとは言えない経歴を持つ科学者という「防護メガネ」を通して感情移入し、最後に全く同じ心境(風景)を追体験する事になる。
最後のアインシュタインとの伏線が「いつオッペンハイマーが原爆に罪悪感を覚えたのか?」という傍聴で明らかにされなかった答えそのものになり、同時にとんでもないどんでん返しになって恐ろしい程の衝撃を覚えた。この映画はトリニティ実験における原爆実験がアメリカにとってナチスと日本に勝てるかどうか、レズリー将校の首が飛ぶかどうかと言う賭けだったのに対し、科学者にとっては爆発が世界全体を破壊するか、それともニューメキシコだけを破壊するかという「賭け」だったというとんでもない暴露を明らかにした。それまでの日本とアメリカに対してだけの問い掛けから「つまり地表に住んでる限りどこに隠れても原爆によって"大気に引火"するかも知れない恐怖に慄くことになっている現状について皆さんはどう思われますか?」と問いかけの対象が世界にまで飛躍している。ソ連がアメリカに核攻撃した瞬間世界が消滅するかも知れない。こんな議論がかつてあったなんて世界中の歴史教科書を覗いても書いてあるんだろうか?
それは科学者でさえ半ば懐疑的で賭けに興じるほどには信じていなかった。これを映画ではなくただ友達から聞いたら陰謀論だと思ってまともに取り合わなかっただろう。しかしオッペンハイマーの狂気にはそれを世界に生み出してしまうのではないかとヒヤヒヤする”凄み”がある。原爆の父オッペンハイマーと水爆の父テラーが対話し、「なぜあなたは臆病にも水爆を生み出そうとしないのか?」と激論しているが、水爆の行く末が「プロメテウスの炎」である事を理論屋であるオッペンハイマーとアインシュタイン(伝えられた)だけが知っているという怖い話。
アインシュタインは一貫して知的にオッペンハイマーに嫌味を言って煽っていた。「僕より優れてる気になってるけど僕の理論が無ければ君の功績はないよ、それに僕は亡命してでも科学を推進する強かさがあるし君より凄いよヘヘン」みたいに言うとオッペンハイマーが暗い表情で「ええ、あなたのお陰で地球を滅ぼすプロメテウスの炎(理論上、しかし理論屋には既に”見えてる”)を手に入れました、これであなたも世界を滅ぼした共犯者ですね。」と返してあのアインシュタインを閉口させている。
その重大さを悟ったアインシュタインは、現在絶賛炎上中の ロバート・ダウニー・Jr演じる原子力委員会委員長ストローズがこれから世界を滅ぼす男になるかも知れないので顔も合わせる事ができなかった。劇中でストローズに対しオールデン・エアエンライクが演じる側近役が話していた「2人はもっと重要な事を話していたのでは?」という軽い問いかけに重い答えがのし掛かる。
劇中の登場人物である「ストローズの炎上」と役者である「ロバート本人の炎上」が重なるが、それはまるでネットの炎上とは、SNSが生み出した国境を超え燃え続ける"言論"のプロメテウスの炎(原爆)と見紛うようだ。それはもしかしたら世界を燃やし破壊し尽くすかも知れない。
彼は原爆に罪悪感を抱いてる様で居ながら、自身の原爆プロジェクトの名前にノリノリで「トリニティー=神」の実験であると命名している。彼の中には相反する内なる爆弾を抱えている。彼にとってその線引きが原爆(fission)と水爆(fusion)の違いであったのかも知れない。後年の研究では、水爆が世界を滅ぼす為にはTNT換算2000万メガトン(世界最大の水爆"ツァーリ・ボンバ"の100メガトンの更に200万倍に相当)と海中に実際に存在する重水素の20倍の密度が無ければ"ゼロに近い"と言われている。しかしオッペンハイマーという理論屋には既にそれが見えていた。それは、この映画がただ原爆の誕生までを回想しているのではなく、今現在の我々から見た原子力の危険性を示している事が一番最後のシーンで視覚的に明らかになる。
この映画は「インセプション」の様な緻密な心理描写と「インターステラー」の様な天文学的スケールで描かれる壮大なSF要素を組み合わせた「ノンフィクション」映画史上最大のスケールであり、クリストファー・ノーランによる作品の集大成とも言える。
"कालोऽस्मि लोकक्षयकृत्प्रवृद्धो"「我は死神なり、世界の破壊者なり」
アインシュタインの帽子の飛ばされ方
エミリー・ブラントが良かった。
アインシュタインの帽子の飛ばされ方は、あれが正解だったのだろうか。テーマが近い『風立ちぬ』における飛ばされ方をあらためて確認したい気になった。
相変わらず「複雑」で「難解」、炸裂する音と光、圧倒的スペクタクルと美的センス!
やはり映画は映画館で体験してこそ!
とは思いつつ、どうも今回はダメだった。
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圧倒的な音と映像で語られる、戦争とイデオロギーの対立に翻弄された天才科学者の栄光と没落を描いた壮大な物語…ではあるのだが、叩き上げの政治屋が天才科学者への個人的な恨みを晴らして成り上がろうとするものの結局うまくいかない、というお話。
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180分間に、このショットを見られて良かったという実感はなく、映像と音には驚くものの、次の瞬間には「10年前に『インターステラー』でじゅうぶん(いやむしろこれ以上のものを)観たぞ」と思ってしまう。
SFに振り切った『 #インターステラー #interstellar 』や、『 #テネット #TENET 』では楽しむことができたスペクタクル性が、あるいはめくるめくスペクタクルを期待して観た『 #ダークナイト #darkknight 』シリーズでは不満を感じなかったそれが、『 #オッペンハイマー 』では単にショットが撮れていないことの隠蔽にしか感じられず、当然、敵軍が押し寄せるまでの時間的猶予が無いという設定をきちんと短い時間で処理してみせた『 #ダンケルク #dunkirk 』のような慎ましさは微塵もない。
たしかに、誰かの半生を「真面目に」描こうとすれば安易に話を切り詰められないのは分からないでもないのだが、さすがに180分もかけなければ撮れない内容とは思えず、粘着的な聴聞会と公聴会をグッと省略するだけでも2時間を切れたのではないか。
フローレンス・ピューのベッドシーンやキリアン・マーフィーが聴聞会で文字通り丸裸にされるシーンなどは最悪で、「見せられるものは全部見せてやろう」という品の無さが漂っているとしかいえず、爆発の炎や光の映像と同列に扱われるスペクタクルとしてのヌードに、もはや怒りを通り越して呆れるのであった。
撮る人が撮ればそれだけで涙が出てもおかしくはない、ニューメキシコの大地を馬で駆けるシーンさえ、まるで「伝記で乗馬が言及されていたからとりあえず撮った」かのよう感じられ(言及されているかどうかは知らない)、そこに何かしら映画的な馬の疾走があるわけでも、物語を語る上で必須のシーンだと感じさせる説得力があるわけでもなく、あるのはただ上映時間を引き延ばす一連の映像だけだった。
フォロウィング、インソムニア、プレステージの3作は観れていないので観る。
#映画 #映画館 #cinema #movie #theatre #theater #cristophernolan #oppenheimer
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