「アメリカ人観客の心には何が残りましたか?」オッペンハイマー モアイさんの映画レビュー(感想・評価)
アメリカ人観客の心には何が残りましたか?
興行的にも成功し、アカデミー賞も受賞したこの作品、この時代に原爆をハリウッドがどう描くのか大変興味深かったです。
感想としてはやっぱり被爆国の人間としては複雑ですね。
ハリウッドが作って米国の観客がギリギリ受け入れられるラインがこの程度だったんかな?まぁこんなものかなと…。
そりゃ流石に米国が、ゴメンやっぱ原爆投下はやり過ぎだったわ〜と認める事など期待はしていませんでしたが、原爆投下に対する作品としての見解がイマイチ釈然としない印象です。(それは見た人が決めることという演出方針があったとしても)
被爆国に生まれた一個人としては原爆を作った事よりも(米国が作らなくても他の国がいずれ完成させたんだろうなと思うから)、実際に人に対して使った事に対してどういう気持ちなの?という方が気になるのですが、それを上手くはぐらかされた感じです。
映画の中盤で日本に原爆が投下された後、オッペンハイマーは自分の所業に打ちひしがれ、国の軍拡路線に反対の立場をとります。ここから映画は反軍拡派のオッペンハイマーと彼の失脚を企てる軍拡推進派の陰謀によって法廷サスペンスの様相を呈し(裁判ではありませんが)、それがなまじ面白いので原爆の是非という部分がなんか印象が薄くなります。
法廷サスペンスパートが落ち着くと再び原爆の是非という主題が明瞭になりますが、その頃には原爆を使った事より作った事にテーマが絞られていると感じました。これは主に米国の観客に作品への拒絶反応が出ないように考えた結果のような気がしますが、その配慮が被爆国の人間からすると歯痒いのです。(広島・長崎の被害を直接的な映像で演出しなかったこともこの歯痒さの一因です)
さらにこの主人公のオッペンハイマーが一見、物静かで繊細で思慮深い人物なのですが、冷静に見ると、
・女性関係がだらしない!特に妻が育児ノイローゼになると不倫相手に子供を預けに行くのが凄い!
・同僚が止めるのも無視して研究所内で共産主義の啓もう活動や学者の労働組合を組織したりする筋金入りかと思いきや、恋人、結婚相手、弟夫妻もみんな共産党員なのに自分だけはなぜか党員じゃない!
・トップシークレットの国家事業をしているのに素性もろくに調べず(気にせず)にドンドン人員をスカウトして事業に加えていく。(案の定ソ連のスパイが紛れ込む)
・『300年の物理学の成果が爆弾づくりか?』と乗り気じゃない学者に対して『まぁいいじゃん、そういうの。ノーベルも爆弾作ってたんだし』と説得(こんな適当な台詞では無いが印象としてはこんな感じ)
・プロジェクトを一緒に指揮する陸軍将校に軍服を着るよう要請され、特に抵抗なく着ているのを、他の学者に『お前は学者だろ!?そんなもん脱げよ!』と指摘されると、これまたあっさり軍服を脱ぐ
というように、わりと行動が軽くてあまり信念のようなものを感じないフワフワした人物なので、彼が苦悩する姿も演技や演出の切実さとは裏腹に何とも軽く見えます。
あくまでも劇中で描かれたオッペンハイマーから受けた印象で、実際の彼がどうだったのかは知りませんが、人としては『原爆落とされた人間が恨むのは作ったお前じゃなく、落とした俺だ!』と言い放つトルーマン大統領の方がなんか原爆投下の責を一身に背負う覚悟を感じて、信念がある人物に見えてしまいました。(あくまで映画のキャラクターとしての印象で…)
かつて見たマンハッタン計画のドキュメンタリーでは、原爆開発はアメリカ人にとっては輝かしい栄光の一ページであり、それによって出た犠牲者など全く視野に入っていないのだなと、複雑な気持ちになりましたが、それに比べれば決して単純なアメリカ礼賛、原爆全肯定映画ではありません。
映画はオッペンハイマー自身の苦悩だけでなく、彼を英雄と祭り上げ、ソ連のスパイとして追い落とした後、賞を与え彼の名誉回復を祝した人々に対してもその欺瞞を指摘してみせるというように、一個人ではなく人々全体が自分たちの行いを省みる姿勢を提示している気がします。
こんな感じで多少軽い印象はありますが、戦勝国側がここまでやったんなら十分なんじゃないか?と納得しようとしてしまうのは、自分が期待したものとは多少違っていても3時間の長尺を苦も無く見せられ、終始興味深く、鑑賞後に何かしら言いたくなる映画だったからです。
この作品を支持したアカデミー会員や米国の観客はどんな感想を抱いたのか、それがこの作品の意義を決めるのかな?と思いました。
Mさんコメントありがとうございます。
鑑賞後時間が経った今思うのは、劇中のオッペンハイマーの軽さって、決して原爆の父を祖国の英雄として描くことはしないという、監督の意図があったのかな?という事です。
そんな人間によりもたらされた、常に破滅と背中合わせの世界とそこに生きる我々。その事実をどう考えるのかとの問いかけであるような気がしてきています。
自分自身も偉そうに人に言えるほど広島・長崎を含めたその事実を理解しておりませんが、おっしゃるとおり、本当に一人でも多くの方がその事を考える切欠となってくれる作品であればればいいなと思います。
トルーマンへの解釈は確かにそうも考えられるかもしれませんね。
ある意味、オッペンハイマーは、自分のやったことに責任を持てていないというか、覚悟もないままに、恐ろしいものを作ってしまったというか。
日本以外の人たちが、この映画を見て、原爆について自分で調べたり、それをきっかけに、広島と長崎を訪れてくれたらいいなと思います。