「ただの伝記映画でなく、観客のリアリティを突き崩す紛れもないノーラン映画」オッペンハイマー nanaoさんの映画レビュー(感想・評価)
ただの伝記映画でなく、観客のリアリティを突き崩す紛れもないノーラン映画
ノーラン作品といえば、観客に何とも言えない後味の悪さを残すものが多いと思うのですが、今回の映画は今まででダントツの後味の悪さだと感じました。
史実であることや日本人であることも原因の1つではあると思いますが、それ以上にノーランの演出によるところが大きいような気がしました。
まずテンポがとてつもなく早い。そして音楽が延々と鳴り止まない。余白や余韻が全くない。
李相日監督もパンフレットに書いていましたが、オッペンハイマーに感情移入するよりも、出来事だけがパズルのように並べられていくような演出でした。
しかも3つの時代が交互に描かれるので、仮に史実を知らない観客でも、原爆や水爆が成功したことや、オッペンハイマーが戦後名声を得たこと、後に失墜することなど、結論が予め先取りされています。
また時代的背景がオッペンハイマーから選択肢を奪っていく様子が描かれることで、オッペンハイマーがどれだけ葛藤しようが、予め結論が出ているような印象を受けます。
ノーランの演出によって感情移入を阻まれ、結論が先取りされることで、最初から全て織り込み済みというような印象を受けました。
そしてアインシュタインがオッペンハイマーに伝えた言葉が衝撃でした。
あの一言がオッペンハイマーが何故水爆に反対するようになったのかという疑問の答えになっているのだと思いますが、そこには葛藤だけでなく、打算的なもの感じ、何とも嫌な感じがしました。
実際そのことを検事や奥さんに問い詰められるシーンもあります。
ノーランはこの映画をオッペンハイマーの主観に寄り添う形で作ったそうですが、感情移入する隙を一切与えないにも関わらず、オッペンハイマーの主観体験映画として成功していると感じます。
量子力学では全ては確率としてしか存在せず、未来は完璧には予測できません。
アインシュタインは最後までこれを受け入れませんでしたが、オッペンハイマーが当時どういう立場だったのかは知りません。少なくとも映画の中には学生に不確定性について語るシーンがあったかと思います。
どちらにしろ量子力学の方程式は不確定性を織り込み済みで、全ては確率でしか存在しませんが、その確率分布は正確に予測できます。
原爆が地球全体を破滅させる僅かな可能性に科学者たちが気づくシーンが出てきます。これが量子力学の不確定性に関係するものなのか分かりませんが、少なくともここでは地球が壊滅するかどうかは可能性としてしか言及されていません。ですがどのくらいの可能性かは計算によって分かっています。
"ほぼ"ゼロです。
オッペンハイマーはこの不確定性を織り込み済みで、原爆を作り、トリニティ実験を遂行しました。
彼はアインシュタインの助言も同じように聞いたのではないかと思います。
全ての批判を受け入れれば、世の中はいつか許してくれるだろう。
その僅かな可能性を織り込み済みで、彼は敢えて闘うことを辞めたのではないでしょうか。
オッペンハイマーの苦悩を描いた映画という前評判でしたが、私にはむしろオッペンハイマーの苦悩が全くの虚無に帰してしまうような、そんな映画だと感じました。
彼があれだけ苦悩したことに何か意味があったのか、彼が苦悩しようがしまいがどのみち世界はそうなったのではないか、それどころかオッペンハイマー自身そのことを織り込み済みだったのではないか。
これがこの映画から受けた強烈な後味の悪さの原因だと思います。
ラスト近く。年老いたオッペンハイマーが何かの賞を受け取るシーンが出てきます。
アイシュタインの"予言"通り、彼は名誉を取り戻したようですが、その表情は虚で、心ここに在らずといった感じです。
あの表情を見て、私が感じた後味の悪さは、オッペンハイマー自身が感じたものなのではないかと思いました。
ここまでは映画を見て直感的に感じたことですが、ラストのオッペンハイマーのセリフの意味だけが、映画を見た後もしばらく分かりませんでした。
確かに核は戦後の国家間のパワーバランスを決定的にしたという意味で、旧来の秩序を破壊したという比喩的な意味で言っているのかなと最初は思ったのですが、ラストの地球破壊描写からすれば文字通りの意味で言ってるんだろうなと思い直しました。
理論物理学者であったオッペンハイマーには恐らくあの悲劇的な結末が相当な確率で起こる未来がはっきりと見えたのかもしれません。
【追記】
鑑賞からしばらく経って、言語化が難しかった部分がハッキリしてきたので追記しておきます。
ノーランのインタビューを読み、自分の鑑賞時の感触はある程度正しかったと思いました。
クロ現のインタビューを見ると、核について息子に聞いたエピソードは派生的なものに過ぎず、ノーラン本来の関心は一発の原爆で地球全体が壊滅する僅かな可能性を科学者たちが知っていながら、それでも開発を実行したことだと言います。
つまりノーランの関心は原爆の恐ろしさより、そのような異常な状況に置かれた科学者たちのリアリティにあるのだと思います。
ノーランはメメントやインセプションで、我々が現実だと思っているものは本当に現実なのか?という疑問を提示しました。他の映画もその変種です。
全てに共通しているのは人間の主体性は虚構であり、私たちが普段意識しない何かによってコントロールされているのではないかという感覚だと思います。
オッペンハイマーはこのことを意識せざるを得ない状況に追い込まれたのではないか、とノーランは解釈したのではないでしょうか。
それがある種免罪符として機能しているように見え、一部で強烈な反発を招いているのだと思います。
被爆地の惨状より科学者の葛藤の方が重要なのか?と言った論調が典型です。
しかし私たちが主体性を発揮したくらいではどうにもならないという状況は、原爆の完成後より強化されたと思います。
オッペンハイマーが当時の時代的条件から原爆開発に邁進せざるを得なかったのと同様、いやそれ以上に、現在の私たちは主体性を失って、核をコントロールするのでなく、核を巡る見えない力学にコントロールされているような気がします。
そう考えると、キューバ危機などを経験したノーランのような世代にとって身近なリアリティと、息子のリアリティの乖離にノーランが関心を持ったのも頷けます。
Mさん
作っている時は核がこの世から戦争を根絶するみたいなことを言っていたと思いますが、パイロットからソ連のミサイル?を見たみたいな話を聞いた場面からオッピーの中で見立てが変わっていった印象でした。
実際ラストのシーンでもオッピーがコックピットからミサイルを眺めるシーンが使われています。
確か「新しい爆弾」ではなく「新しい世界」を作った、というような会話があったように思います。
が、作っている時に、オッペンハイマー自身がその自覚があったのかどうか。
どの程度、原爆後の世界が見えていたのかな、と思いました。
共感ありがとうございます。
自分の観たノーラン作品は「ダークナイト」「インターステラー」と今作だけなので、他の作品との比較はよく解りませんが大分静かに作ってるなという印象は受けました。今後どうなっていくのかも注目ですね。