劇場公開日 2024年3月29日

「映画の限界をよく知っている監督の切実な訴え」オッペンハイマー シネアストさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0映画の限界をよく知っている監督の切実な訴え

2024年3月30日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

悲しい

怖い

難しい

この映画に写るのは大なり小なり、原爆の開発及び投下へ関わった人々、及び戦後の核の脅威を拡大させた人々だ。世界を永久に変えてしまったオッペンハイマーとその共犯者、すなわち加害者の犯行に至る経緯と犯行後の述回の映画である。
だからこそ被害者(広島・長崎)が受けた被害の規模はただの一コマも映像として写されていない。

上記の感想に至ったのには冒頭からの繊細な脚本と演出の賜物だ。
静謐の中で迫る破滅の予感。そこかしこで作中人物に指摘される原爆の危険性とオッペンハイマーや他の科学者への思慮不足。高まる緊張の中、ついに行われる実験に臨む人々がいかに無知であるかがその装いに現れる。日焼け止めにサングラスとは!直前までの理知的な彼らのイメージを覆し丸裸にするシーンだ。
(同じく諮問会ではオッペンハイマーの丸裸の心象イメージがインサートされることも無関係ではなかろう。裸の王様たる科学者達。)
理論先行型で実験の苦手なオッペンハイマーはここでようやく、(それでも周りの人々よりは)一足早く、自らが何を作ってしまったのかに気がつく。
原爆投下の成功に喝采を浴びせる科学者はそれまでの思慮深い表情とは打って変わって、まるでジョーカーのような屈託のない無邪気な笑顔で、無垢な喜びを爆発させている。
それに対するオッペンハイマーは日本やナチスの名前を出しスピーチをしてみせるが、その笑顔はもはや笑っていない。張り付いた笑顔の奥に狂乱に近い恐怖がもたげている。

いずれも前後の文脈や暗喩を意識して読解しないと見落としてしまうレベルの表現ばかりだ。
前半部、オッペンハイマーが鑑賞していたピカソの代表作はゲルニカであり、レコードで流れているストラヴィンスキーはナチスに非難されつつも、敵対者の音楽技法を学び、度々来日公演を果たしている大作曲家だ。
フィルムに直接写るのは加害者ばかり。被害者の立場に沿うものは、仄めかす程度にその存在が示されるのみだ。

この映画は相当に、けれどもかなり暗示的に、深く、当時のアメリカ政府だけでなく、関係した科学者、無邪気で無垢だったアメリカ人の群集心理までもを断罪している。
正直、これを見て激怒するアメリカ人が続出しなかったことが驚きだ。
おそらく、気がついていないのだ。そしてそれをも見越して、こうした無垢な人々全てに監督は激怒している。私がアメリカ人だったら途中で退席していたかもしれない。

オッペンハイマーは広島・長崎へ投下される原爆「だけ」を作ったのではない。それに加えて、はるか未来まで、地球丸ごとを変えてしまったのだ。その主犯と共犯者がこのフィルムに映る人々なのだ、とノーランはスクリーンの裏側で絶叫している。
「監督の娘だけが」ケロイド状に皮膚が変化する描写があるのはそのためだ。その断罪にあたっての人身御供だ、その代表として娘を選んだのだ。
「このフィルムに写るものにはただの一人として罪なきものはいない」と証しするために。

『一度も罪を犯したことのないものだけが、この者に石を投げなさい』

極め付けはラストの「かの人」とオッペンハイマーのやりとりだ。そこまで踏み込むのか。衝撃的だった。
かの人はこんなことを語る。
「あなたを持ち上げるのは自身の行為の正当化のため。あなたを罰するのは罪の所在を擦り付けるため。あなたを許すのは自分の罪悪感を誤魔化すため。あなたのためではない」と。言外に、彼らもまた、無関係ではない、共犯者である、という主張が見える。
だからこそ、この映画がアカデミー賞で多数の部門を極めて深い意味がある。原爆の父を都合よく持ち上げ利用して世界を変えてしまった罪を、問い続けなくてはならない、という作品が認められたのだ。

かような事情・テーマから、だからこそ、日本人は描かれない。
奢りと無垢で楽天的な熱意に浮かされた正義感の犠牲となった、その被害の実態を加害者側が決めつけてはならないという、これもノーランの怒りのメッセージだろう。

核を持って脅しあう世界となった事を示す、フィナーレのカット。
爆心地は丁度日本のあたりだった。あの日が引き返すことのできない始まりだったのだ。

クリストファーノーランは、映画の限界をよく知っている人物だと思う。
映画がどれだけ真に迫る凄惨な映像を見せたとしても、本物の人間が語るたった一言の哀しみに叶わないことがある事を、よく理解しているはずだ。
被害者を描くことで戦争の悲惨さを伝える作品は多数見たことがある。この映画は加害者のみを描くことで、彼がどれだけ無垢で浅慮な正義感の元、決断し、核兵器の発明と利用まで至ってしまったのかを糾弾し、反戦メッセージを伝えている。ノーランらしい、挑戦的傑作だ。

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シネアスト