「遍歴する芸能民の子は如何に学校と折り合うか」瞼の転校生 パングロスさんの映画レビュー(感想・評価)
遍歴する芸能民の子は如何に学校と折り合うか
本作も、昨今流行りの地方発インディーズ映画の一つで、埼玉県/SKIPシティ彩の国ビジュアルプラザと川口市の製作、制作プロダクションはアルタミラピクチャーズとデジタルSKIPステーション。
アルタミラピクチャーズは1993年に設立。
大手配給会社やテレビ局等との共同製作により周防正行の『Shall we dance ? 』や矢口史靖の『ウォーターボーイズ』『スウィングガールズ』などのスマッシュヒットを数々あげている実績豊富なインディペンデント系映画製作会社だ。
もう一つの制作元、デジタルSKIPステーションは、NHK川口ラジオ放送局跡地に、産官学連携により再開発したSKIPシティ内に、埼玉県と川口市、NHKが共同して2003年に設立した映像制作を目的とした施設。
埼玉県は、さいたま市に所在する、彩の国さいたま芸術劇場を拠点として、蜷川幸雄(1935-2016)がシェークスピア全作品の上演プロジェクトを手がけるなど、演劇に力を入れているイメージが強かったが、今や、映像コンテンツの制作にまで、活動・支援の幅を広げているようだ。
本作は、その埼玉県/SKIPシティ彩の国ビジュアルプラザと、市政施行90周年の川口市の共同製作だが、ふつう予想されるような川口市の観光案内的な要素は皆無に等しい。
ほとんど地元の人しか認識できないような住宅街や学校等のロケ地として川口市が使われている程度の、ごく控えめなプレゼンスだ。
要は、埼玉県/SKIPシティVPと川口市は、映画製作者のベースキャンプを提供する役を受け持ち、PRなどの見返りは強く求めないという、懐の深いパトロネージに徹しているように見える。
むしろ、本当の意味での製作協力は、本作のテーマそのものと関わる、日本文化大衆演劇協会と言えるだろう(エンドクレジットでは「特別協力」と表示)。
例えば、本作劇中で舞台が披露される篠原演芸場は、川口市ではなく、東京都北区十条にある。
さて、本作のテーマは、ひと言、全国を旅する芸能者、大衆演劇の子役が、ひと月ごとの転校を余儀なくされるなかで、如何に学校制度と折り合いをつけ、ひと月だけの付き合いのなかで学友との友情を育むか、のワンイッシューにある。
学校というもの、なかんずく義務教育のそれは、すぐれて定住民の生態に則して構築、運営されている制度だ。
芸能民とは、網野善彦の一連の中世社会史研究によって人口に膾炙するようになった通り、古来より、列島各地はおろか、時には海を超えて、あらゆる土地を経巡る遍歴民であった。
その生態は、農耕民に代表される定住生活を営む大多数の人びととは、時に真っ向から相違、対立するものであった。
その相違や対立あるが故に、遍歴民は、マレビトとして定住民のもとに来訪することで、彼らの停滞しがちな生活を活性化した。
また、それ故に、定住民たちにとって、ある種の畏怖と、卑賤視すなわち差別の対象ともなったのである。
定住と遍歴、畏怖と卑賤視、それらは本来両義的で併存、共生するはずのものが、思わぬ誤解が生じた場合、大きな不幸をもたらすことも、ままあった。
その最も不幸な実例のひとつとして、昨年映画化され話題を呼んだ「福田村事件」を挙げれば、この道理を理解するには充分過ぎるだろう。
ことは中世や近世の芸能民に限らない。
現代の歌舞伎役者も、新劇や小劇場の俳優も、「旅」と呼ばれる地方興行で全国をまわる生活を送る。
アーティストやアイドルも、ツアーという名の(それもビッグになれば世界を股にかけての)「旅」を本業の中心に置いていることは誰もが知る通りである。
ただ、全国ツアーを実施できるようなアイドルやアーティストは、成人か、若くても高卒以降の年代が多いだろう。
また、歌舞伎や新劇の地方興行も、子役はその土地ごとに地元の子どもを出演させるなど、現代においては、彼らの通学を極力妨げないことを最優先に配慮されている。
しかし、劇団が小規模で、ほとんど一家族に若干の劇団員を加えた程度の形で動く、大衆演劇やサーカス団等の場合、子役たちもまた一座とともに「旅」することを余儀なくされる。
本作の主人公、裕貴(松藤史恩 15歳)は大衆演劇一座の座長(生津徹)が父親にして師匠。
中学2年生の裕貴は、一座の巡業スケジュールにともない、ひと月ごとに転校を繰り返していた。
このため、学校で友だちを作ることは最初からあきらめていた。
ところが、そんな裕貴に初めて友だちができた。
一人は、成績は優秀なのに、不登校を決め込んでいる建(齋藤潤 16歳)。
彼は高校受験のことを考えて、塾には休まずに通っているし、自由時間は好きな地下アイドルの追っかけに費やしていた。
クラスメイトの誰とも話さず、劇団の活動のため早退を繰り返す裕貴に、担任が建への届け物を依頼したことから二人の交流が始まった。
たまたま地下アイドル「パティファイブ」の解散コンサートの観客となった裕貴。
そこには追っかけの建もいて、一挙に距離が縮まった。
あきらめていた勉強も、建が丁寧に教えてくれたおかげで、見違えるような良い点を取った裕貴。
そこに、建の元カノの茉耶(葉山さら 17歳)も加わって、裕貴も自分が女形を演ずる一座の舞台を彼らに観て欲しい、と誘うまでになった。
すっかり大衆演劇に入れ上げるようになっていた茉耶と、初めて接する舞台に圧倒される建。
すっかり打ち解けた3人だったが、やがて別れの時が来た‥‥
ストーリーは、ベタな展開とも言えるが、遍歴する芸能民にとっては桎梏でしかない「学校」という制度との違和を、「落ちこぼれ」ではなく、成績優秀で不登校を自ら選び取った建という存在を並べることによって、より解像度高く浮かび上がらせている。
本来、現代に生きる、旅する芸能者の抱える問題としては、子役の学校との折り合いの他にも、劇団を経済的に支えるパトロネージの問題など色々課題があるはずだ。
本作では、実際には小劇団でも多くのパトロンに支えられているはずのところ、高島礼子演ずる一人の女性のみにその姿を仮託している。
かつては、若い俳優は、男女を問わず、贔屓という名のパトロンの要求するまま酒宴にはべり、時に性的なサービスを提供することさえ拒めなかったことは、京劇を題材とした映画『覇王別姫』や室町時代の能や江戸時代の歌舞伎を題材とした多くの小説に描かれているとおりである。
さすがに現在の日本ではそのようなことはないはずと信じたいが、本作でも、父親が裕貴に、高島礼子に対してビールを注ぐように命ずるシーンがあって、冷やっとした。
高島礼子の役は、それを自ら拒んだが、実際には、それに類する、またはより無体な要求をしてくるパトロン、贔屓がいないとも限らない。
ただ本作では、テーマを一つに絞るため、こうした問題については、あえて深掘りを避けているようだ。
裕貴にとっては、建という「学校」から自らはみ出た存在によって、友情と勉強への意欲という、今まで得られなかったものを手にできた。
では、建が、裕貴から得たものは何か。
それは、学校や普段の彼からは想像もできない、舞台の上の裕貴の、ホンモノの演技者としての姿だった。
小生、雅楽・舞楽から能狂言、文楽、歌舞伎、落語、バレエ、オペラetc.と大抵の舞台芸術・芸能の類にはナマで接してきたつもりだが、大衆演劇だけは未体験だ。
正直、その演劇なり、芸能なりとしての質に、いささか疑問を持っていた。
ところが、本作の劇中で、一座が披露する『瞼の母』を観て、その芸の質の高さに唸らざるを得なかった。
『瞼の母』は、長谷川伸(1884-1963)が1930年に発表した彼の代表作の一つ。
発表翌年には、守田勘弥らによって新歌舞伎として上演、また稲垣浩監督により片岡千恵蔵主演で映画化。
その後、新国劇が持ちネタとした他、歌舞伎や新劇でも取り上げられる古典となっている。
小生も歌舞伎の舞台で何度か観たことがある。
大衆演劇は、もともと江戸三座に代表される大歌舞伎を下支えした宮地芝居や小芝居の流れを汲み、新国劇などの影響を受けて、現在の形が定着したらしい。
『瞼の母』などの股旅物を大衆演劇が得意とするのは、こうした歴史的な背景があるからだろう。
本作に登場する役者たちは、劇団美松の座員たち。
番場の忠太郎を演ずる座長の松川小裕司は、セリフ回しが臭いようでいて決して下品に落ちず、歌い上げるような口調に感情が乗っている。
母親を演ずるのは、歌舞伎と違い、女優で、一座の太夫元松川さなえ。
貫禄と苦衷を感じさせる情味にあふれた演技に真実味が感じられた。
そして、裕貴、松藤史恩の娘役。
彼の演技もホンモノだ。
日本舞踊の素養があると見え、演技も、踊りも手の先まで表現力を感じさせる。
松藤史恩くん、幼少の頃から、松竹の主催する「こども歌舞伎スクール 寺子屋」で歌舞伎と日本舞踊を学んできた実績がものを言っているようだ。
建を演じた齋藤潤は、『カラオケ行こ!』、『罪と悪』と、このところ出演作が相次いでいる。
『カラオケ‥』の聡実と本作の建とでは、別人のように見えるのは成長期特有の変化なのか、演技力のなせる技か。
いずれにせよ、若き演技派として、業界周知の存在であることは疑いない。
茉耶を演ずる葉山さらも、ストレートな物言いの爽やかさ含めて、素晴らしい存在感を放っている。
本作、テーマを浮かび上がらせる構成面だけでなく、セリフの言葉選び含めて、脚本が実に良く書けている。
しかし、残念なのは、藤田直哉監督の演出の詰めが、今ひとつ決まっていないところだ。
齋藤潤や葉山さらは、演技力でカバーしているが、肝心の主役、松藤史恩の素の演技がかなり見劣りする。
松藤の舞台上での演技が素晴らしいのは上述したとおり。
彼も、すでに映画出演も経験しているのだから、こうした演技の物足りなさは監督の技量によるところが大きいと見なければならないだろう。
せっかく良い題材を選び、脚本も優秀なのだから、頑張ればもう一ランク高い評価の対象にもなり得たのに、ともったいなく思う。
しかし、本作によって、知られざる大衆演劇の魅力を知ることができ、鑑賞後に大きな満足感が得られたことも事実である。
応援の意味も込めて、本作の志を高く評価したい。
トミーさん、コメントありがとうございました。
貴レビューの通り、どこか本作、もう少し良くなるはずのところが決まってないんですよね。
ただ私は、監督の意欲は感じられたので、今後とも応援したいと思った次第です。
共感ありがとうございます。このような力の入ったレビューに共感させてもらうのもおこがましいのですが・・
もっとドタバタ、メリハリ、と考えなくてもどこか今作はピリッとしない感が残りました。強いて挙げれば担任の先生の無神経な言葉、友達が推しになった! この辺りと思いましたが、具体的にどうすれば良かったのかは解りません。