「ドリルすんのかい、ドリルせんのかい、せんのかい、すんのかい的映画ではない」キリング・オブ・ケネス・チェンバレン 西の海へさらりさんの映画レビュー(感想・評価)
ドリルすんのかい、ドリルせんのかい、せんのかい、すんのかい的映画ではない
「ドアを開ける、開けないの話」そう言ってしまえば身も蓋もない。
・ドアをなぜ開けさせたいのか
・ドアをなぜ開けたくないのか
について考えないといけない。
オバマ大統領就任二年目の頃の実話。だが、黒人差別はまだ強く残っている。
差別は黒人に限った話ではなく、国に対してもある。民族に対しても。
もっとでっかく言えば、男女にもある。
とにかく、差別がなくなる世の中を作るって課題は
大人のためというよりも、子どもたちのためだと思うのだ。
大人はもう子どもの頃が終わってしまって、差別意識を取り除くことが
難しいと思う。それは、この映画を観ていて強く感じた。
ケネス・チェンバレンが黒人差別的な警察官に警戒を抱く。
複数の警察官がいて、大統領は黒人でなのに、安心してドアは開けられない。
差別意識が変わっているとは、考え難いからだ。
だからケネス・チェンバレンは終始ドアを開かなかった。
ドア越しに誰が来たかはわからないから、差別的な警察官かどうかは
判定しずらい。だが、危険だと思ったら危険に近づかない権利はあるというものだ。
自分の家ならなおさら。誰が自分にとって危険だと思えるものを、家に招き入れるだろうか。
危険はわずかでも嫌だ。0でないと。限りなく0も嫌だ。0でないと。
という点で、僕は家族や信頼できる友人のみしか家に入れない。
差別を受けているわけでもないが、そういうものだ。
宅急便でギリギリドアを開ける。そういうもんだろ。
ということは、銃を持っている人物を家に招き入れることは決してない。
これは、差別に関わる話ではなく。ケネス・チェンバレンの言う「権利」の話だ。
ここで安全に暮らす権利、家にはそれがある。
一方、執拗に家に入らせろという警察官はなぜそこまでしてドアを開けさせたいのか。
疑わしきは疑うという精神で、事件の可能性を感じたら絡みつくと言うスタンスなの
だろう。仕事熱心と言えばそうだが、いつもそんなに熱血で仕事をしていれば、
犯罪率は限りなく0に近づくだろう。
犯罪の起きている量や率は知らないけれど、そんな熱血に基づく意識であったとしても
警察は「法律」に基づいて捜査をする係だから、手の届かないところというものがある。
それが、「市民の権利」だと考える。権利を侵すことができない、その前提には特例がない。
犯罪者は法律の枠組みを越えてくるが、それ自体法律の枠を意識しているという前提がある。逃げるという行為は、法律があるからこそ、だと思う。法律の枠組みを越えてこないものは、戦争ぐらいだ。相手の権利を根こそぎ奪い取っても、逃走することなく讃えられる。
余談が過ぎたが、
・ドアをなぜ開けさせたいのか→そもそも開けさせたいというのがダメ
・ドアをなぜ開けたくないのか→開けなくていい、権利だから
吉本新喜劇、ドリルのくだりがある。
「ドリルすんのかい、せんのかい」
それを90分近くリアルな時間の流れで観るという、既にある手法ではあるが
ドア越しに起こる緊迫感は演者とシンプルな構成だけでなく、この物語が
物語ではなく実話であるというところにあると思うのだ。
ケネス・チェンバレンは死なずに済むかもと思いながら映画を観ていたのだが
タイトルを直訳すれば、「ケネス・チェンバレンの殺害」。
事件を知っている人たちにとっては、のっけから実話だし
ぼくみたいにトンチキな奴は、中盤ぐらいからあぁこれは殺害されるとわかるのだ。
警察官たちが不起訴という話だが、そこもまたスカッとしない。
スカッとしてはいけないのだとも思う。
起訴されていてもそうでなくても、この問題は差別が根っこにあるのだから
子どもたちに引き継がないように、していきたいものである。