「映画として映像化する意義は」月 うまぶちさんの映画レビュー(感想・評価)
映画として映像化する意義は
「犯人の考えは理解できる」と言うと誤解されそうだが、
「この考えに至ってしまう、陥ってしまう事は理解できる」とは実際の事件の報道時から思ってはいた。
それを再確認できる映画ではある。
だだ、それ以上の何かをこの作品から得ようとするのは脳が拒否する。
観て良かったと言える程に何かが改められる事は無いのだが、「偏見を助長する恐れ」も無いかと言うと、それは有ると感じる。
並行して描かれる夫婦のドラマが、内容自体は濃く、質の高い作りではあるけれど、この強烈な事件に絡めて考えさせられる事に一種の抵抗感もある。
現実の施設を知らない自分が、この映画を観て分かった気になって、こうあるべき、こうすれば変えられるなどとは言えない。
その程度にはフィクションが含まれ、一方で描かれていない日常もあるように思う。
少なくとも、今もこういった施設で働いている方々への敬意は感じない。
問題提起と言えば聞こえはいいが、それは実際の事件によって既にされてしまっている。
これでは追い討ちをかけて糾弾しているだけではないだろうか。
結局、この作品を世に出す意義を自分はあまり評価したくないのだな。
この作品が社会に生み出すものをプラスとマイナスで言うと、半々、或いはマイナスの方が大きいのではないか。
植松という人間の主張を役者の声を通してハッキリと映像化した事の影響力はかなり有ると思うし、その喧伝する行為自体に嫌悪感はある。
自分としては、彼や事件について知るにはドキュメンタリーやYouTubeの解説動画で十分だ。
そして障碍者や障碍者福祉に関わる人々のネガティヴな面だけを徹底的に現実として突きつけた一方で、フィクションとしての登場人物である夫婦にのみ希望や救済を与える内容もとても好感が持てるものではなかった。
ラストシーンで光が差し込む描写はとてもファンタジー的だ。
映画のクオリティとは違う部分で低評価をつけたい。
うーん、映画にプラスやマイナスなどと意義を求めるのも生産性を求めてしまっているようで傲慢ですかね。