「重苦しい障害者問題を扱うも、最も重要なポイントを外してしまった作品」月 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)
重苦しい障害者問題を扱うも、最も重要なポイントを外してしまった作品
1)本作のテーマについて
2016年に相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で利用者19人が殺害された事件をモデルとした映画である。
犯人の施設従業員は、当初は障害児のために紙芝居を演じてあげるなど、熱心な仕事ぶりだったが、周囲からそれを嘲笑され、非難されていくうちに、障害者への向き合い方を逆転させてしまう。そして、最後には「会話の出来ない存在は人間ではない」といい、社会をよくするために障害者を次々に殺していく。
主人公は同施設に勤務を始めたばかりの中年女性だが、数年前に障害児の息子を亡くした経験があり、つい最近、再び妊娠したものの、高齢出産の危険と障害児出産の可能性から、早期に中絶しようと考える。
しかし、彼女の決断には旦那や医師、施設の同僚から疑問が投げかけられ、激しく動揺しているところに、冒頭の事件が勃発してしまうのである。
この2人の人物の交差するところに、「障害者を殺す権利が誰にある」という疑問と、「出生前診断で障害者とわかった胎児を堕胎することは、障害者を殺すことと同じではないか」という疑問が重なり、何とも重苦しいテーマにウンザリさせられてしまう。
2)上記テーマを個人的に検討してみた
出産と育児は、主に母性の働きによるものだから、胎児の生きる権利と、母親の自己決定権との衝突とならざるを得ない。
宗教的、倫理的な観点から「人間の生命を選別する権利は、人間にはない」という声は大きい。米国ではトランプを支持するキリスト教原理主義者たちが中絶禁止を叫び、現在、14州で中絶が禁止されている。
他方、レイプで妊娠させられた女性や、貧苦にあえぐシングルにとって、出産を強要されるのは、自己を否定されることを意味するだろう。普通の生活を送る普通の女性にしたって、子供を産むかどうかを他人に決められるというのは、冗談じゃないと思うに違いない。
大江健三郎の『個人的な体験』は妻が障害児を産んだ直後の男の動揺と現実逃避から、最後に乳児を受け入れるまでを描いた作品だった。何故、あのように重い体験になってしまうかといえば、育児が親の生活の大きな負担だからに他ならない。
両者を両立させられるとしたら、出産後の育児を全面的に共同体が保障する等々の手厚い支援を行うことしかないだろうが、いかんせん、そんな社会的環境や条件を前提としないまま、産むべきか産むべきでないかの議論をし続けるところに、この問題の不毛さがある。
今やその問題は老人介護とパラレルの様相を呈し、中絶をするか否かは、親の介護を中断するか否か、障害者を施設に預けるか否かは、親を介護施設に預けるか否かと類比的に見える。
そして現在、その問題を決するのはやはり経済問題なのだと思わざるを得ない。とするなら、本作で描かれたように、死んだ障害児の子供への愛着とか、効率性とかで論ずるのは、何やらいちばん重要なポイントを外して、むしろ逃げているようにしか見えないのである。