栗の森のものがたりのレビュー・感想・評価
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何か起こることを期待してしまう自分。
争いや事件が起こるわけでもない。
何かが起こることを期待して観てしまう自分の前提が、この作品を観ていると、その浅はかさが嫌に思えてくる。
作られた世界ではなく、ひとに忘れられた、とある場所の景色がとても豊かで、自然光で撮影された映像からは、匂いや気温、肌触りみたいなものを感じさせるほど美しく、とくに綿毛や波で表現する風の存在は見事。
老夫婦の営みは「消えるもの」として、かすかな希望と切なさを表し、静かな絶望を抱えて立ち去る女性の存在はアクセントにもなっている。そして、老夫婦の息子は、どこか能天気に描かれる。
人にはひとりひとりに物語があって、その物語を繋ぎ続けて、ひととして全うすることに、しみじみと浸ることのできる作品。
丁寧につくられた絵画的な映画であるが、内実が伴っておらずもどかしい印象。
ある意味、もったいぶったつくりの映画ではあるが、
結局のところ、老婦人が流感にかかって亡くなり、
旦那にもそれがうつって亡くなるだけの話で、
そこまで深い内容を感じさせる映画でもなかったような。
久しぶりに「終わり」って出て、
「おい終わりかよ!」って気分になりました(笑)。
少なくとも、同じ映画館で観た『ノべンバー』や『マルケータ・ラザロヴァー』ほどの衝撃性や重厚さはなく、若干「ファッション文芸」映画のきらいもあるのでは。
それはそれで、徹底した映像重視の姿勢で、美術史的な視座をもって画面を作りこんでくれていれば納得もするのだが、宣伝で強調されていた「フェルメールやレンブラント」を意識した画面作りといえるくらい、引き込まれるようなバロキッシュな美観をたたえていたかというと、それほどでもなかった気がする。
たしかに、室内のシーンは明確にフェルメールやシェルダンを意識した調度や調光がみられたし、暗闇にろうそくの明かりで浮かび上がる様子は、レンブラントやジョルジュ・ラトゥールなどの北方バロック絵画を思わせる。
指を用いた賭け事の様子や、結婚式のダンス、死を前にして現れる三人組(亡霊? 天使? 田舎芝居? 楽団?)などは、ピーテル・ブリューゲルやヤン・ステーンなどの北方の風俗画からもモチーフを得ているのだろう。
冒頭の栗の埋葬(再生?)や森に舞う風花、木にもたれる老人、海辺を歩く若い女など、個々のシーンも一応のところ、美しく撮られている。
ただ、たとえばエルマンノ・オルミの『木靴の樹』や、 ヴァーツラフ・マルホウルの『異端の鳥』の如き、徹底した絵画的描写あるいは中世的スラブの再現的描写には至っていなかったというのが正直な印象だ。どうせやるなら、徹頭徹尾(ヴィスコンティのように)すべてのシーンが絵画として切り出せるくらいにやってほしかった。
ところどころで「破調」として比較的唐突に挿入される歌謡曲、シルヴィ・バルタンの「アイドルを探せ」(64)やパガニーニの主題を用いたポップス(調べてみたら、ベティ・ユルコヴィッチというクロアチア人歌手の歌った1963年の『パガニーニ・ツイスト』という曲らしい)も、なんで1950年代の戦後すぐの時代を扱った映画で、60年代半ばの曲をわざわざ使わないといけないのか、今一つ得心がいかない。ダンスシーンにしても、馬車で乗客が踊りだすシーンにしても、話の雰囲気に曲が合っているようにもあんまり思えないし……。ついでにいうと、馬車の女性二人が台詞を読み合わせているのは、1932年の映画『グランド・ホテル』(グレタ・ガルボ主演)の冊子らしく、さらに年代感がめちゃくちゃである……。
何よりこの映画の場合、いろいろと回想や幻想を取り交ぜて大変凝ったナラティヴで通しているのだが、その結果として映画が深まっているかというとそうでもないのが気になるところ。単に叙述がわかりにくく「文芸映画っぽくなっている」だけで、内実が伴っていない感じがどうしても否めないのだ。
まず出だしは馬車に揺られている弱り切った老人の回想として、そのあとは栗拾いの若い女の家での「回想内の回想」として、奥さんの発病から死の床に就くまでと、その後の出来事が小出しに紹介される。そこに、死の床に現れた天使たち(?)の幻影や、いるはずのない若い女の(戦争から戻らない)旦那さんの幻影などが当たり前のように挿入され、時系列も行ったり来たりを繰り返すので、お話は非常に追いづらい。
だが結局そのことで、この棺桶づくりの老大工の人生の機微だとか、奥さんへの無骨ながらも年齢を重ねた夫婦ならではの愛情、あるいは村から出ていこうとする若い女への複雑な想いなどが殊更深められるわけでもなく、単純に限界集落に生きる侘しさのようなものがやたら強調されるだけで、正直、あまり物語が胸に沁み込んでこない。
このへん、やはり監督さんのグレゴル・ボジッチも、プロデューサーのマリーナ・グムジも1984年生まれのまだ若い才能であり、「型」からは入れても、まだその「型」に見合った内実を伴わせることが難しいのかな、と。
個人的には、枠組みと題材から当然期待されるレベルの感興に届かないのが物足りないし、もどかしかった。
まあ、観ていて嫌な映画ではないし、終始静謐で物悲しくて、しっとりと浸れる映画ではあるんだけど。
個人的には、老大工が死にゆく妻の身体を棺桶を作るために木切れで測るシーンがいちばん良かった。こういう静的であってもエモーショナルなシーンを、もう少し積み重ねてくれていれば、だいぶ映画の印象も変わったと思うのだが。
あと、パンフやチラシで「フェルメールやレンブラントといったオランダ印象派の画家に影響を受けた」とあるが、フィルメールやレンブラントを印象派と呼ぶことはまずありえないので(アムステルダムの印象派だとアウグスト・アルべあたりか)さすがにどうかと思う。
ちなみに、この映画で老夫婦が命を落とすのが「インフルエンザか結核かチフス」(村の藪医者・談)ってのは、来たる「コロナ」の流行を予見しているかのようでじつに興味深い。
(映画自体の完成は2019年なので、12月から始まったコロナの流行より「先に」この映画は封切られている。)
あの医者が言う「(どうせもう先のない)老人なんだから、冷湿布でもおでこに貼って寝かしておけばいい」という考え方は、まさにその後、イタリアや北欧でコロナ大流行時に政府が採った「老人に特別な医療リソースを割かずに寿命だと思って見限る」という「切り捨て容認論」とも通底していて、そのあたりも含めて実は予見的な作品だったともいえるのではないだろうか。
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