「へんなものを見せられた」ラ・ボエーム ニューヨーク愛の歌 浦安のプーさんさんの映画レビュー(感想・評価)
へんなものを見せられた
チラシに「新感覚ミュージカルに生まれ変わった」とあるが、誤誘導で、この映画はミュージカルではない。まごうことなき、オペラ映画である。
プッチーニの音楽をそのまま(ピアノ伴奏だが。後述)使い、登場人物の名前も職業も話の展開(4幕構成)も全くオペラのまま。歌詞もイタリア語の原語を使用。
ただ、ロドルフォは中国人、マルチェッロはメキシコ系アメリカ人、コッリーネは日本人、
ショナールは黒人、ミミは中国人、ムゼッタはプエルトリコ人が演ずる。多様化の反映というが、さて。
屋根裏での4人の生活も不思議で、現代のニューヨークだというのに、テレビも電話もない。パソコンもスマホもない。電気さえなく、ろうそく生活。吉幾三の歌じゃあるまいし、
リアリティが全くなく、ニューヨークに移した意図はうかがえない。
そもそも、詩人と哲学者など、19世紀前半のパリなら通用した存在も、現代のニューヨークでは、落ちこぼれの貧乏青年に過ぎない。
既にニューヨークに舞台を移してミュージカル化された「レント」では、登場人物の職業は
元ロックミュージシャン、自称映像作家、大学で哲学の教鞭を取るゲイのハッカー、ストリートドラマーのドラァグクイーン、ヘロイン中毒のゴーゴーダンサー、アングラパフォーマー、などに置き換えられ、少数民族、(性的少数者)、麻薬中毒やHIVなど、ニューヨークへの置き換えに必然性が感じられた。
本作は、わざわざニューヨークに移しかえた意図も意義も全く不明な作品となっている。
最後に、これだけは言わなければならないが、なにより本作の最大の失敗は、伴奏がピアノ演奏だということ。オペラは歌だけではなく、オーケストラの演奏が重要で、歌とオケが相乗効果を生む。歌+オケで成り立っているのだ。このことを本作の製作者は見落としてる。ラストのミミの死は、わずか1分余りのオーケストラが観客の涙腺を決壊させる、まさに音楽の持つ力だが、ピアノでは力不足で、涙には至らなかった。終始、オケとの合わせ以前のピアノ伴奏の歌唱練習を聞かされている感じ。若手オペラ歌手の歌唱は、悪くはないが、感動を呼ばないレベル。
狭い室内の平板な描写、手持ちカメラなど意図不明な演出。最後は、病人を雪の降りかかる場所に放置する無神経さ。そして、エンドクレジットでラストシーンを終わった後の撮影風景を見せるなど、意味不明。
へんなものを見せられたな。
なお、チラシには、本作を絶賛している著名人の評が掲載されているが、これらの人々の今後の映画評は、疑問符とともに読む必要があるだろう。