劇場公開日 2023年8月18日

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「音楽に救われた父と子の再生物語」ふたりのマエストロ Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)

2.5音楽に救われた父と子の再生物語

2024年10月15日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

楽しい

単純

指揮者として互いに成功を収めた父と子の芸術家として譲れない対立と、それによる葛藤をシンプルに描いた音楽映画。父親フランソワは40年のキャリアを積んだベテラン指揮者で、息子のドニはフランスのグラミー賞にあたるヴィクトワール賞を受賞して将来を嘱望されるマエストロ。小さい時から意思疎通がうまく出来ず、父親は息子の栄誉に嫉妬し、息子は父親に認めてもらえず疎ましく思っている。この歪んだ関係を修復できず長く引き摺っていたのを一気に浮き彫りにするのが、ミラノ・スカラ座の音楽監督就任の依頼の人違い。世界三大歌劇場のひとつのスカラ座が、デュマールの姓だけで秘書が勘違いするというとんでもないミスをしてしまう。しかし依頼を受けたフランソワが疑問に思わないのがリアリティに欠けるためストーリーとして軽く、またスカラ座側も訂正と謝罪をしないのも無責任極まりない。40年第一線で活躍する指揮者なら、自分の実力も扱われ方も心得ているはずだし、息子に限らずどんな指揮者の才能というものにも敏感であるのが当然だ。これではフランソワのベテラン芸術家らしからぬ、ぬか喜びの一人芝居に終わってしまう。この時点で、この作品の脚本は評価出来ないと思った。

救いは役者の演技が良かったことと、美しいクラシック音楽を全編に効果的に配置した構成の丁寧さ。息子ドニを演じたイヴァン・アタルの知性的な佇まいが指揮者役に嵌り、父フランソワに直接真実を告げられないもどかしさにドンの人間味も感じられる。しかし恋人ヴィルジニの機嫌を取ろうと大太鼓を抱えて彼女のアパートを訪ねるエピソードの何たる陳腐さ。これでは役者が可哀想。父フランソワのピエール・アルディティは頑固で強権的な巨匠指揮者の貫禄は無いものの、何処か憎めない愛嬌があるフランソワの人間性を醸し出していて深みのある演技。でもこの作品で地味ながら最も良い演技を見せているのが、母親エレーヌのミュウ=ミュウだった。個人的には「夜よ、さようなら」(1979)の演技が忘れられない。片意地を張る夫と自立した息子の間に挟まりながら、問題が大きくならないように気遣うエレーヌの心の豊かさを的確に表現していた。キャロリーヌ・アングラーデが演じる恋人ヴィルジ二は、難聴を抱えたヴァイオリニストの設定の意図が意味不明。努力と才能の狭間で苦悩する音楽家で権限を持つ男性に媚びない生き方は、如何にもフランス女性を思わせるが一寸独りよがりにも見える。それに対してパスカル・アルビロが演じた元妻でエージェントのジャンヌが、一番生き生きしていた。仕事と私生活のバランスが取れた生き方は、女性に限らず誰もが望むもの。祖父と父が指揮者として対立するのを観てきた孫のマチュウは、家柄に拘らず料理人を目指すという。またルス・オトナン=ジラールの作為のない演技が自然で今風な趣もある。脚本上、祖父フランソワに宛てた父ドニの手紙を読む役割の人物設定でキャスティングされたものだろう。

ドボルザークの「母が教えてくれた歌」、ベートーヴェンの交響曲第九番第二楽章、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」、“カッチーニ”の「アヴェ・マリア」、モーツアルトのヴァイオリン協奏曲第五番と「ラウダーテ・ドミヌム」そしてクライマックスは「フィガロの結婚」序曲で、エンドロールにシューベルトの「セレナーデ」。美しいメロディの音楽の饗宴でした。
驚きは約5分の「フィガロの結婚」序曲をカットせず父子鷹の指揮で通し切ったことです。正式のコンサートで2人の指揮者が同時にタクトを振るのは有り得ないし、オーケストラ奏者も戸惑う事でしょう。これはあくまで映画の大団円としてのサプライズの演出でした。望むなら息の合った指揮のやり取りの演出が欲しかったと思います。

(クラシック音楽について)
今年亡くなられた小澤征爾さんがミラノ・スカラ座で指揮した映像が使われています。日本の指揮者がクラシック音楽の本場の欧米で活躍することが如何に難しく、大変な事であるかをこの作品で再認識しました。パリ音楽界のそのハイソサエティーな豪華で贅沢な生活様式を見ても、音楽の溢れる才能だけでは通用しないことが解ります。小澤さんは、若くしてフランスで認められたご縁もあってか、フランス音楽を得意にしていたように見受けられました。ドイツ音楽が好きな小生は、一度だけ小澤さんのコンサートでベートーヴェンの「田園」と「運命」の美しくバランスの整った演奏を聴くことが出来ました。その「田園」では余りに美しい音色に睡魔に襲われて、珍しく寝てしまいました。その代わり「運命」では感動的な名演を堪能したのはいい思い出です。
指揮者は巨匠の時代が終わったとも言われます。ベーム、カラヤン、バーンスタインの時代を少しでも共有出来たのは幸せでした。本当は、その前のトスカニーニ、ワルター、フルトヴェングラーの時代に生きて生の演奏に触れたかったと思ったこともあります。現代では独裁的で強権な指揮者は社会が許さなくなり、よく言えば演奏レベルの高い奇麗な音楽に溢れて、悪くいえば個性のない均一的な音楽が増えてしまった。これはクラシック音楽だけではないかも知れません。
フランソワが憧れるミラノ・スカラ座は、小生が敬愛するカルロス・クライバーの来日公演で2度ほど経験しました。今思うととても贅沢な事でした。幕間にステージの前のオーケストラピットを覗きに行くと、緞帳の裏で大道具のイタリア人スタッフが大きな声で作業指示するのが聴こえてきました。その雰囲気にも酔えたことが今でも深く印象に残っています。

Gustav