映画レビュー
実験的な短編作品だけど、だからこそベンダース監督のまなざしをより近くに感じることができる一作
現代映画を代表する映像作家の一人であるヴィム・ベンダース監督が、経歴の初期に制作した習作的な短編映画の一つです。
彼のフィルモグラフィを辿る行程であれば鑑賞は必須と言っても良い作品ではあるけど、前知識なく本作を観ると、モノクロームの都市風景を延々と写している本作の意図をつかみきれず、困惑するかも。
断片的で脈絡が内容に見える映像群は、ベンダース監督がかつて住んでいたミュンヘンの、当時の印象や記憶に基づいて撮影したもの、という経緯を知ると、かなり編集の意味が見えてくると思います。たとえば部屋に置いてある小物、あるいは流れる音楽もその回想的意味合いを強調しているとのこと。この辺りは当時を知る人には読み取り甲斐がありそうです。
抒情的で忘れがたい物語を綴るベンダース監督の、「語り手」としての側面は、本作からはまだ十分には見えてこないんだけど、実際の風景をあたかも心象風景のように捉える映像感覚、そして絶妙な間で入ってくる音楽の使い方など、そこかしこに後年の作品が引き継いでいる要素を見出すことができます。
説明的な解説すら削ぎ落しているので、観客の視線はより直接的にベンダース監督のまなざしと同期することになるのですが、そこには『東京画』(1985)でとらえた東京を、『PERFECT DAYS』(2023)で再び「再訪」した時のような懐かしさがあるのでした!
【ヴィム・ヴェンダース監督が、後年に固定カメラを多用した事が分かる気がする実験的作品。「東京画」アーリーバージョンでもある。】
抜群の編集
この手の作家の初期短編というのは往々にして鼻につくというか過度に実験的というか、とにかくそういうきらいが強い。
本作もその例に違わずといった具合なのだが、腹立たしいのは最後まで割と普通に観れてしまうということ。つまり編集が上手い。
序盤は街を望遠するショットが連続する。朝の薄靄の中に信号機と車のヘッドライトの灯りがぼんやりと浮かび上がっているショットが印象的だ。とはいえそれを繰り返しているうちに飽きがくる。
それを察したかのように差し込まれるのは線路を若者が横切るショット。刹那、画面手前から猛スピードで電車が通っていく。本作の中で間違いなく最も衝撃的な瞬間だ。電車の消失点に目を凝らす。薄く光が見える。何かが再び起こるという期待に胸を膨らませ、我々はその点を凝視する。アナログフィルムの塩梅で小刻みに振動する光はまるで彼方から向かってくる電車を錯覚させる。さらに期待が高まる。しかし電車は終ぞやって来ず、カットが切り替わる。
そしてまた画面に停滞が訪れる。飛行機の写真がひたすら映し出され続けるという文字通りの停滞だ。しかも音はない。ほどなくカットが切り替わるが、先ほどまで電車のショットに感じていたもはや完全に興奮は冷めている。
そして次はまた写真。無音+写真の組み合わせを我々はまた3分間も耐えねばならないのかと気が重くなる。しかしそう思っていた矢先、やにわに壮大な音楽が鳴り始める。再びの衝撃。気がつけば映画は終幕を迎えていた。
編集とは、それ自体は単なる光学的事実でしかない映像断片を、誰かに向けて公共化していく作業だといえる。
言ってしまえば手持ちの映像をただ並べ立てただけに過ぎない本作が、ひとまとまりの映画として実感できるのは、ヴィム・ヴェンダースが編集という作業領域において並々ならぬ実力を有していることの証拠だ。
とはいえ才知が勝ちすぎているという感じは否めない。こういうのはキャリア最初期だからこそ許されるんだよな…と改めて思った。