「原作の良さが生かされておらず、なにを伝えたいのかピントも合っていない」違国日記 sayさんの映画レビュー(感想・評価)
原作の良さが生かされておらず、なにを伝えたいのかピントも合っていない
原作が大好きで、楽しみにしていた。
正直キャスティングは新垣結衣さんは大好きだけれど慎生ちゃんにしてはキュート過ぎると思っていたが、それはそれで良いかと思い
それ以外の情報を入れずに見に行った。
ここの評価も高めだったので安心していただけに、非常にがっかり。
新垣さんは原作の慎生に近づけようといろいろ努力してくださっている感じは伝わってきたが、肝心の脚本が浅かった。
あの膨大な情報量の原作から何を切り取り
どこにピントを合わせたいのか全く分からなかった。全てが中途半端。
取捨選択が必要なのは分かるが、必要な台詞をカットし不要にしか思えない大胆な改変が続く。
セリフが一緒でも違う状況で言われたら全く印象は変わるし、
切り貼りされてる感じで余計チグハグだ。
タイトルへの言及も無かった。
そもそも何故構成を変えてしまったのだろう。朝を可哀想な子に見せたいからだろうか。
それなら身寄りの無い子どもを親戚として引き取るなんて違国日記でなくとも
オリジナルでいくらでもその設定で作ればよかったと思う。
途中で席を立とうかと何度も考えてしまった。
『この日このひとは群をはぐれた狼のような目で
わたしの天涯孤独の運命を退けた』
この言葉は繰り返し出てくる重要なものなのに、”その方が豊か”という理由でモノローグが無くなり
朝の内心が全く伝わってこない。
原作の無邪気だからこそ不躾になることがあり
幼いところがあるもののきちんと可愛い朝と違って、
慎生に対して態度が悪くうざいと言ったり心配させたり、そしてけして謝らないので
ただただ生意気で苛々してしまった。
歌が本当にうまい感じも伝わってこなかった。
槙生ちゃんの作家な感じも、上辺だけだった。
ちょっとした会話からふっと創作の世界に沈み込む感じが基本的に無い。
言うことが詩的で含蓄のある感じもなかった。
笠町くんと塔野は正直出した意味がなかったと思う。
特に笠町くんに至っては、元カノに未練がある上日記のことを口を滑らせる
余計なことしかしない男でしかなくてノイズだった。
原作の笠町くんは朝のことをさん付けで呼び、子供に話して良いことかどうか
言葉を選びながら嘘はつかず丁寧に接してくれる重要な人物なのに。
親が完璧で自分も完璧でいなくちゃならなくて
周りもそうなのが普通だと思ってしまうのは遺伝病のようなもので
だからこそ鬱になって苦しんで、大人になっても親との関係で苦しんでいる笠町くんは映画にはいなかった。
そもそも病院で母親に言われて仕方なくその日はうちに連れ帰るという流れが自然だったのだ。
大雑把なようでいて、取り敢えずあったかいものを食べさせようという
絶妙な槙生ちゃんの気遣い方が無かったし、
しかも「わからないのは変じゃない」はその後の
「悲しくなる時が来たらその時悲しめばいい」があってこそではないのか。
姉を嫌いだから悲しくない。朝を気の毒だと思う分それが悲しい。
大人がそうやってぶっちゃけてくれるのが大事なシーンなのに、
あれではただの思わせぶりだった。
日記は、悲しいか分からないという朝に
「たとえ二度と開かなくても悲しくなった時それがあなたの灯火になる」と
書くのをほぼ初対面の段階で勧めるから良かったのだ。
事前にこのやりとりがあっての葬儀の場面だから良いのに。
しかも、「あなたにこんな醜悪な場はふさわしくない」とはっきり言ってしまうところが。
自分の母親が朝に遺体確認をさせたことを怒っている描写は絶対大事だったと思う。
日記はタイトルにも含まれているとおり非常に重要なアイテムで、
「本当のことを書く必要もない。書いていて苦しいことをわざわざ書くことはない」
と慎生が言ったことが朝にとても響いた訳だし、
悲しくない自分が変なのかと思っていたから、
悲しくなったらでいいと言われてありがたかったという朝の台詞は非常に重要だ。
非常に気になったのだが、槙生ちゃんが玄関まで見送りに出ないのは何故なのか。
とても違和感があるし、朝も戸締りしないし普通に不用心。
しかも毎朝そうやっておばあちゃんもお母さんも慎生ちゃんも見送って
帰りになになにを買ってきてという会話があって、という話もあったのだから
見送るのは重要なシーンだと思う。
二人とも平気で外着で布団に寝転ぶのも気になった。
原作だと朝が布団に入ってスマホを充電コードに繋ぐ感じもリアルだったのにな。
朝がわざわざ仕事をしている槙生ちゃんの横に寝る理由もあれではわからないのでは。
姉が嫌いというのもフェアじゃないと思うから言っただけで
人の悪口をわざわざ聞くものじゃない、自分の意見に流されずおかあさんを好きなままでいなさいという理由で何故嫌いかを話さないのだ。
映画しか見ていない人に、その慎生ちゃんの思慮深さは伝わったのだろうか。
マンションを買うのを笠町くんにいわなかったのは、誰かに言ったら目が覚めて夢でしたってなるのが怖かったからであって、
アニメになったからお金があったから、では意味が違ってしまう。
朝と部屋を片付けに行った時、「来週」という姉の予定を見て
来るはずだった来週が来なくなり世界から忽然と存在が消えることに思いを馳せる慎生はいなかったし
ピクルスの前で、現在形で母のことを話す朝にあなたは考えている途中で強引に断ち切る必要はない、とも言ってくれず、あろうことか「ピクルスは好きになったじゃん!」
と朝に喧嘩を売られてしまって驚いた。
慎生がだらしない印象をつけたかったのか知らないが、原作の慎生は
卒業式の日にちゃんと見送るし、その時に記念だと写真を撮った。
朝も、食べたいのはピザとちゃんと答えたのだ。
えみりのLINEを無視している時も、「うるさいな、仕事してれば」と喧嘩腰になるが
「したいよめんどくさいな」「一日分喋って疲れた」という慎生に朝は「ごめん」と言う。
用意してもらった足湯を叔母に引っ掛けてがたがた当たり散らしはしない。
だいごからの手紙の話がカットされているのも解せなかった。
えみりの母親が原作では朝に謝るし、朝が一人で寂しいのに言えないのではと心配して
叔母さんに来てもらったら、と言うのに、映画ではただの嫌な人でしかなかった。
入学式で親が死んだとみんなに言った後、原作では母親ではなく慎生ちゃんが知ったらなんというだろうかと考えているのも大きな違いだと思う。
歌上手いんだから歌えば、と慎生ちゃんが言って、お母さんがバンド嫌がったからと返すのを、なぜマックブックプロの話にして流れを変えたのだろう。
弁護士をとりあえず登場だけさせたかったのだろうか。
原作の弁護士は笠町くんの次に良い人な男性という印象だった。
仕事ではなくちゃんと朝ちゃんを心配して、慎生ちゃんにもちゃんと謝ってくれた感じがあったからひっかからなかった。
映画の台詞の順序だと、塔野さんが慎生ちゃんを疑って、「行動を制限されたことはありますか」と朝に訊いているようにしか見えなかったし、実際「朝に訊いてる」と慎生の言葉を遮りもした。
えみりを家に呼んだ時、原作は慎生が家にいなくてLINEも返事がなくて、でも書斎スペースのドアをちゃんと締めていた。
変わった人だから、と朝とえみりで馬鹿にすることもないし、慎生が何度もドアを開け閉めして挙動不審な態度をとることもない。
ここの朝とえみりの会話も、「髪ピンクに染めれば」より
「ゆこちゃんがカットモデルをやってて朝ももっとおしゃれすればいいのに」が重要なのではないのか。
笠町くんが人を慰める時に肩を抱いて、大型犬だと思ってと言って、これまでのその経験があるから慎生ちゃんは朝にそうしたのに、
映画の感じでは元彼と酔っ払って良い雰囲気になっているように見えてしまって嫌だった。そういうのではないから慎生ちゃんも気にせず、テレビに朝の好きな人出てるよと呼んでくれるのが良いのに。
映画の元サヤに戻るのかと騒ぐようなのでは、
「わたしだけが知らない国にいるのだという心地で眠らない、いうなれば久々の幸せな夜」にはならない。
お母さんに似た人を見て一瞬はっとするのはわかるが、叫んで追いかけるのはやり過ぎ。
中学生という年齢でしかも目の前で事故を目撃した設定で
遺体確認までしてそうはならないだろうと思ってしまう。
おかーさまです、とかぐうっとか、漫画だからこその書き文字表現であって寧ろそういうところこそ実写化にあたって改変するところだったのでは。
えみりと慎生ちゃんのやり取りが恋バナしか残されていなかったが、
えみりに物語を貸すことで回答とするのが良かったのに。
慎生ちゃんが食べ物を口に入れたまま喋るのは、笠町くんや友達とか気を許せる人
とだからやったことだと思う。
朝の母親の日記は二十歳になったらあげようと思っていたと書いてあったのに
設定を変える必要はあっただろうか。
渡さない選択肢も5年もあれば出て来たかも、と慎生が思ったことも朝に伝えるか迷った重要な理由だと思う。
しかもあの書き出しの言葉、実里が泣きながら言っていたのなら話は違ってくるだろう。
実里には実里の怒り、孤独、葛藤があった。
朝のサボりを重要な試験をぶっちしたことにした理由もよくわからないし、
笠町くんが駆けつけて「頼るの簡単だろ」「難しい」の会話があったり
塔野さんが「大事にした方が良い」と言って大人三人で探すのが意味があったのに、
映画では先生に呼び出されるだけになっているのも改悪だ。
「親が亡くなったことをうけいれる準備ができ始めたのかも」と慎生が言うのも重要だったはずだ。
慎生の部屋に勝手に入ったことを笠町くんが怒ってくれるのも、
慎生には友達がいっぱいいるし自分がほしい嘘を慎生は言ってくれないと
朝がいじける流れまで自然だった。
それでやっと初めて両親が死んだ、と朝が泣くのだ。
ここまでで5巻の話だ。
どうせ最終巻までは話に入れられないなら、このあたりまでを丁寧に描いた方が良かったのではないか。
朝のライブが盛り上がりで終わられたらチープで嫌だなと思って見ていたら本当にそういう展開だった。
三森や塔野など、原作と見た目やキャラを変える理由はなんだろう。
なにからなにまで忠実にする必要はないが、不必要に変える必要もないと思う。
朝の作詞に慎生はちゃんと具体的なアドバイスもしていたし、
「死ぬ気で殺す」もこの前の「打ち、鍛え、研いで」が大事なのでは?
えみりが「もう絶対友達辞められないじゃんと思った」というのもカットされているし
不正の話も物語の舞台が2023年だからといってあそこまで変える必要はあっただろうかとてもチープになってしまった。
千世ちゃんとの
ひどいこときいていい?自分の人生終わったと思った?
終わってない、生きてるから という会話をカットするなら、千世ちゃんとのシーンの重みがなくなってしまう。
原作では慎生がする遠吠えをなぜ改変したのかも疑問。
えみりのカミングアウトの話を残すなら、慎生から映画を借りたり
最初に慎生に相談したエピソードは残すべきだし、
ベランダで外が見えるところでお弁当を食べながら話すのを
放課後体育館に呼び出してふたりきりひっそりというシーンに変えてしまったのはなぜなのか。
落ち込む三森の話を聞いて励ますこともなく、どちらかというと三森ちゃんの方が強くて
「大学では軽音はやらないからいまのうちに」と言うのを朝が自分は続ける、と言ったのを聞いて揺れ動く=本当はやりたい三森が
音楽好きだからやめるーと思わせぶりなことをライブが始まってから言うのも謎。
千世が「大丈夫じゃないまま生きていくからいい、田汲が忘れないでくれたら少なくとも田汲の周りでは変わる」という台詞があってこそ、
世界を変える、と願いを込めて朝が歌った意味があったのに。
朝のコミュニケーション能力を慎生が心底羨ましがっていることも
もし過去に戻れたらと言われても多分お互い自分の持っていないものを持っている相手が嫌いだったから無理だ、と話すのも無く
中途半端に掻い摘んだ会話になってしまっていた。