オオカミの家のレビュー・感想・評価
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本当にどうかしている映像しか出てこない!
噂に違わぬ異様なビジュアルが全編を彩る悪夢絵巻。一瞬映る鉤十字の意味とか、多少なりとも背景を知っているとより理解が深まると思うが、あくまでも背景であって元ネタになった宗教コミューンの話より普遍的なテーマを描いてはいるので、走り続ける映像を浴びるように摂取して、そこはかとなくテーマ性を感じ取ることができればいいような気もする。そもそも濃密すぎる映像からなにかを読み取ろうと必死になっても、見つかるのがポケモンとベジータのシールだったりするんで、あまり深刻に理屈を追い求めることはないのではないか。まあ、理屈で考えようにも映像の強さに引きずり回されて、ろくに論理的思考なんて働かないんですけども。大勢の観客と一緒に巨大スクリーンで唖然とさせられる体験を提供してくれた川崎チネチッタにも感謝。
2次元と3次元のハイブリッド
壁に絵を描いては塗り直して、ひとコマずつ撮影していくということをやっているのか、これは。壁の絵が動いては、元いた場所に塗り直した痕跡が残っているから、きっとそうなんだろう。気の遠くなるような作業をやっている。
この塗り直しの痕跡が得体のしれないゴースト的なものがこの家には宿っていそうな、そんな異様な雰囲気を醸し出していてすごくいい。さらに、本作は立体造形物も駆使して、2次元と3次元のアニメーションのハイブリッド作品となっている。壁画から命が生まれて、飛び出してきたかのようなそんな感慨を与える。
しかも、カメラの使い方が独特。普通、ストップモーションはカメラを固定するが、本作のカメラはひとコマごとに動いていて、まるでブレる手持ちカメラのような印象を与える。アニメーションなのに、手持ちカメラの実録ドキュメントを撮っているかのような、そんな奇妙な感覚が全編にある。それが、この異様な悪夢に強烈なリアリティを与えている。虚実をないまぜにするメタフィクション的な手法も相まって、鑑賞中、異様な混沌に放り込まれる、唯一無二の鑑賞体験が得られる作品だ。
「コロニア・ディグニダ」について知ると理解が深まる
圧倒的な労力を割いて描かれる、美しい悪夢の世界
《シネフィルWOWOWプラス〈週末限定無料公開〉》にて。
【イントロダクション】
とある宗教団体から逃げ出した1人の少女が、森の中で見つけた一軒家で連れ出した子豚達と共に生活する中で、内なる支配性を発露させていく様子を描くストップモーション・アニメーション。
監督は、チリの映像作家であり現代美術家でもあるクリストバル・レオンとホアキン・コシーニャ。2人は他に、脚本・美術・撮影・アニメーションも手掛けている。
【ストーリー】
チリ南部にあるとある宗教団体。そこで教育ビデオとして発見されたとある映像があった。
かつて教団からマリアという1人の少女が逃げ出した。マリアは森の中を彷徨うと、一軒家に辿り着く。彼女は、そこで出会った2匹の子豚を育てる事にした。彼女は自身の持つ不思議な力を使って子豚に人間の手足を与え、ペドロとアナと名付ける。
やがて人間となったペドロとアナ。マリアは囁く教祖の声と影に怯えつつも、2人の子供達と幸せな日々を過ごしていたのだが…。
【感想】
監督のクリストバル・レオンとホアキン・コシーニャが、その殆どを2人で、実に5年もの歳月を掛けて創り上げた世界は、まさに“観る悪夢”という表現が相応しい。
驚くべきは、そんな本作のセットは、一般的なストップモーション・アニメーションで用いられるスタジオにミニチュアを製作して撮影されたものではなく、実物大の部屋のセットの中で製作されたものである。その労力に想像を巡らせながら鑑賞するだけでも、一見の価値があるだろう。
また、本作は“ワンカット風のストップモーション”という一風変わった演出も採用しており、それがまた作品に独特な雰囲気を与えている。
描いては消し、作っては崩しを繰り返しながら紡がれていく物語は、絶えずダークでグロテスク、しかし同時に、儚さと美しさが共存している。
本作の元ネタが、ナチスの残党であるパウル・シェーファーを指導者とした宗教団体“コロニア・ディグニダ”である事は既に多くのレビューで語り尽くされているので、大まかな概要だけに留めておく。
“コロニア・ディグニダ(尊厳のコミューン)”はチリに実在した宗教コミューンで、指導者のパウル・シェーファーによる信者の洗脳、及び強制労働や拷問、武器の密輸、政府との癒着など、様々な犯罪行為を行ってきた宗教団体だ。とりわけ醜悪なのは、シェーファーはミソジニー(女性嫌悪)かつペドフィリア(小児性愛者)だった事から、幼い男子に性的虐待を日常的に加えつつ、女子は強制労働に就かせ酷使していたという事だ。
自由を求めて教団から飛び出してきたはずのマリアが、教団と同じく「豚」という弱き存在を育てる中で、自らの内に根付いている教団と同じ「オオカミ」としての差別思想が見えてくる。やがて、育ててきたペドロとアナに命を脅かされそうになると、逃げてきたはずの教団、教祖に救いを求め、再び教団へと舞い戻っていく姿は何と皮肉な事だろう。洗脳の恐ろしさを痛感させられる。
また、この「豚」というのは、教団が幼い少女達をそう呼称していた事にも繋がる。そう考えると、マリアは幼い子供達を連れて教団を飛び出したという事になる。“蜜”という甘言や庇護を与え、自分好みの美しい姿に生まれ変わらせる様子も、優生思想を掲げたナチスの残党であるパウル・シェーファーが指導者となった教団の持つ誤った思想の発露と捉えられるかもしれない。
そんなマリア、ペドロ、アナの声の出演を務めたアマリア・カッシャイの抑えたトーンの演技が良い。内に秘めた差別意識に無自覚で、ペドロ達の世話をまるで施しであるかのように口にする姿も印象的。
それとは対照的に、オオカミの声優を務めたライナー・クラウゼの優しくも不気味なトーンの演技も耳に残る。「マリ〜ア〜♪」と優しく諭すかのように教団へ連れ戻そうとする姿から、本性が垣間見えるラストの「お前も世話してやろうか?」という台詞の緩急が素晴らしい。
細かな演出だが、窓が描画される際、ナチスを示す鉤十字(ハーケンクロイツ)が描かれる瞬間にゾクッとさせられた。
恐らく、エンドクレジット後に映される、子豚に哺乳瓶でミルクを与える女性が、本作の主人公マリアなのだろう。再び教団に戻った後に、あれほどの笑顔で子豚達の世話をしているのだとすると、洗脳の恐ろしさ、根深さというのは計り知れない。
唯一残念なのは、本作の尺が過去の短編とは違い格段に伸びた事で、中盤以降段々と飽きが来てしまった点だ。それは、ストーリー展開に関しても、描いては消し、作っては崩しな独特のストップモーション演出に関してもである。
物語として描かれている事がシンプルなだけに、60分の尺に収まっていればもっと評価出来たかもしれない。あるいは、ストップモーション演出に更なる工夫があれば、飽きずに鑑賞し終える事も出来ただろう。
そういった点から、個人的には監督達の過去作の短編の方が好みではある。
【総評】
他に類を見ない実物大のセットでの撮影という果てしない労力を注がれて作られた恐ろしくも美しい悪夢の世界。実際の事件を基にしているからこそ、そこには単にファンタジーとして消費出来ない棘がある。
その独特な撮影方法から、すぐには新作を望めない監督達ではあるが、現代ホラーの名手アリ・アスター監督が惚れ込んだように、彼らの次回作を心待ちにしたい。
終始不気味ながらクセになる世界感
チリ発のストップモーション・アニメーション『オオカミの家』は、寓話的なホラーと社会的メッセージが交錯する異色作だ。少女マリアがコロニーを逃げ出し、森の奥の家に辿り着くところから物語は始まる。やがて家は彼女の心を映すかのように変容し、観る者は現実と幻想の境界を見失っていく。
この作品の真骨頂は、圧倒的な映像表現だ。壁や家具が溶け出し、キャラクターが歪み、再生と破壊を繰り返す空間。色彩が幾重にも重ね塗られていく様は、まるで悪夢と幻想の狭間を覗き込むかのようで、中毒性すら感じさせる。その異様なアニメーションは、洗脳や虐待から生まれる心の揺らぎを可視化しているように思える。
背景には、実在したカルト集団「コロニア・ディグニダ」がある。権力と支配、逃れられない恐怖、そして「家」に象徴される安心と監視の二面性。単なるホラーではなく、現実の闇を寓話的に描き出す鋭い批評性が本作を唯一無二の存在にしている。
もっとも、誰にでも薦められる作品ではない。寓意に満ちた物語は説明的ではなく、予備知識がなければ理解しづらい。映像の不気味さも強烈で、人によっては「気持ち悪さ」が勝ってしまうだろう。それでも、体験した者の心に何を遺すのか…その答えは観た人次第である。
総じて、『オオカミの家』は「怖い」というより「圧倒される」映画である。独特すぎる表現と世界観に身を委ねたとき、そこに浮かび上がるものは悪夢か幻想か、それとも私たち自身の影なのかもしれない。
驚き!
不気味
よくこんな事考えついたよな🤓
予習ありきの作品
題材と手法の融合
アニメ史に残る名作。
コロニアに支配され洗脳されてきたマリアは、脱走して自由の身になっても、支配的思考そのものが自身の内面(家)にこびり着いている。マリアはコロニアの権力者と同じ態度で、豚に対して「わたしたちは家族」「お世話してあげますよ」「ここは安全」と言いながら相手を閉じ込め、薬物を使い支配する。
そうした〝得体のしれない〟コロニアという題材と、部屋の細部が絶え間なく変化し観るものの視点や現実感を麻痺させる、〝得体のしれない〟アニメの手法がピタリとハマっていた。
窓枠を形作るシーンで、十字架がナチスのカギ十字に変化していた。コロニアがナチスの残党であることを想像させる。納得。
ラストで豚に食われてしまえ!と思ったところで、私は冒頭シーンを思い出した。本作はコロニア側が制作したプロパガンダを模した作品だ。胸がすくような気持ちにさせてはくれるはずかない。
胸のすくようなことなんてめったにないのが現実。これは決しておとぎ話じゃない。
【”支配する側とされる側。”あるコロニーに住む娘マリアに起きた悪夢のような出来事を描く、ブラック・ダークな極北のストップモーションアニメーション】
ー フライヤーや、今作の最後に収録された今作の制作の背景について語られている、チリに実在した忌まわしきコミューン「コロニア・ディグニダ」と今作の関係性は、作品内で一切触れられていないので、評点3.5は鑑賞した素直な得点である。
但し、途中で少し前に観たチリ映画「名もなき歌」を思い出したり、ピノチェト政権を暗喩したモノではないかと思った事は、敢えて記す。ー
■チリ南部のドイツ人集落で暮らす美しい娘・マリアは、ある日ブタを逃がしてしまう。
厳しい罰に耐えられず脱走した彼女は、逃げ込んだ家で2匹の子ブタに出会い、「ペドロ」「アナ」と名付けて世話をすることになる。
だが、彼女を捜すオオカミの声が聞こえ始める。
◆感想
・独創的で、ブラックダークな世界観が炸裂している作品である。
・ストップモーションアニメは、マアマア観て来たが、今作の独創性は「JUNK HEAD」を思い出すし、気色悪さは比肩するモノが無いと思う。
<実際にチリで有った悍ましき出来事とは、切り離して考えても、この作品は極北のストップモーションアニメーションだと思います。>
三匹目の子豚
とあるコロニーの宣伝映像、という体の作品。
罰を受けた理由やその罰が大したことなくてマリアを応援できないのは、それ故の偏向改変か。
主人公マリアが逃げ込んだ家は、はじめは何もない廃屋だったのに、次々と家具や内装が現れてくる。
ストップモーションアニメという手法が、これをそのまま受け取るべきかを迷わせる。
要するに、現実か妄想かの境界が曖昧なのです。
更に、絵画も含めた様々な造形で描かれ常に変容する人物や家そのものが、幻想的なイメージを増長する。
アナとペドロと名付けた豚が、徐々に人間の形を取り、疑似家族を形成していきます。
支配を嫌ったマリアがいつしか“家”の支配者になっていた、というのは皮肉。
逃げ出したとはいえ、コロニーしか知らなかったマリアの常識はコロニーのそれに侵食されていたのでしょう。
反逆されたマリアは、恐れていた“オオカミ”(コロニーの長)に助けを求め、コロニーに戻ってしまう。
洗脳からの逃れがたさを描いているようにも感じます。
コロニア・ディグニダに着想を得た、ということだが、『骨』に比べて前提知識なくても大筋は理解出来る。
しかしその捉えどころの無さは、常に変容し続ける本作の映像とも重なる。
2匹の豚一つ取っても、本当に豚だったのか、何かのメタファーなのか、いくらでも解釈出来てしまう。
前衛的な芸術性にばかり目を奪われそうになるが、意外と深い作品かも。
『Die Blümelein sie schlafen』と言うドイツの子守唄へと締めくくる。
ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲を繋いで『Die Blümelein sie schlafen』と言うドイツの子守唄へと締めくくる。
金色の髪の毛と青い目。そして、窓の枠が描かれる寸前に現れるハーケンクロイツがなんとも不気味。
ほとんど、先入観を持たずに見てみた。
しかし、ファシズムをワグナーやオオカミに例えるのは分かりやすいが、なんか逆ヘイトの様に思えてしまえる。ドイツ語の演説を聞くと、ヒトラーの演説を彷彿する事がある。それが怖い。
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