「「抑圧からの解放と世の変革」を夢見ることが許された時代のSFゴシックファンタジー ・・・その後味は最悪!!」哀れなるものたち みなとのジジイさんの映画レビュー(感想・評価)
「抑圧からの解放と世の変革」を夢見ることが許された時代のSFゴシックファンタジー ・・・その後味は最悪!!
19世紀末ヴィクトリア朝時代を舞台としたメアリ・シェリー風SFゴシックロマン?(ま、要するにスチームパンクね)を予感させる冒頭のモノクロシーン。ヴィクトリア朝とくれば「歪なまでに極端に性を抑圧した時代」という認識は私たち日本人にはやや馴染みがうすいかな。何せ、むきだしのままでは余りにセクシュアルだからという理由で椅子やピアノの足にカバーを付けたという時代です。
そんな時代を舞台設定に、母として・妻としての役割に囚われる抑圧から自死という形で解放されようとした女性ヴィクトリア(なるほどヴィクトリアね)が、マッドサイエンティストの手に掛かりベラとして転生、外の世界での様々な経験を経ながら真の解放と世の改革に突き進むことを志す、ざっくり言えばそんなストーリー。
馬鹿な男どもと、あの時代の社会通念の閉塞性を蹴散らしながらのストーリー展開は主演エマ・ストーンの力演、怪演に見事な映像美も相まって爽快、痛快、奇想天外・・・
・・・のはずなのに・・・何だろう、どこか拍手喝采できない感じが付きまとう。
もちろん私も「馬鹿な男」の一人であるが故の居心地の悪さ、気まずさはあります。
けれどそれ以上に私の胸にザワザワしたものをもたらす科学を至上とするストーリー基調。幼いゴッドが父から受けた数々の「実験行為」、それを経て尚も父と同じ道を行くゴッド。無垢な時代のベラも、ゴッドに倣うあまり、死体を刻むことを「学んで」いく・・・更に、ベラは己の転生の秘密を知って尚、最後にはそれをもたらした医学(科学)を我が進む道としてしまう。
そして、ヴィクトリアの夫が現れてからの終盤の展開・・・
はい、ここではっきりしました。僕がこの映画を決定的に相いれないものと思ってしまったワケ。
二人の対決シーン。
傷を負った夫を助けたいとベラが言って、思わせぶりにヤギが映る。
ここで一瞬ですよ、一瞬、僕の心にふと傷ついた夫にヤギの体を与える予感がしたのです。
この男のエキセントリックな性格は、彼自身が本当の愛を受けずに育ったからじゃないか・・・
このサイコパスな男は、実は愛に渇望しているんじゃないか。
だったら、ベラ、彼にはヤギの体を与えて、その無力な動物を愛してやったら・・・
ヴィクトリアが捨てたはずの「母性」で、いや、それ以上に大きな、大げさに言えば「人類愛」のようなもので彼を赦してやったら・・・
やっと安心したように身を寄せてくるヤギの体を優しく撫でてやるベラ・・・
ほんの一瞬、そんな展開を夢見たのです。
甘かった・・・
エンディングで、勝ち誇ったように、美しい庭園でお茶をしながら医学書を読む主人公の傍らに、社会主義に世の変革を展望するあの黒人少女が、そして庭では前夫の体をしたヤギが草を食み・・・。
ベラ、あなたの夫への行いは・・・
転生前の自分への因縁を断ち切る意味で必要だったのかもしれない。それだけの報いを受けるべきゲス野郎かもしれない。けれど・・・ヤギに夫の脳を移植するのではない、夫の体にヤギの脳を移植するというあの仕打ち。科学(医学)のために、死者の蘇生と並んで医術者にとって最大のタブーであるはずの脳の移植にさえ手を付ける。そこに医術の「パンドラの箱」を開けることへの躊躇、葛藤は全く描かれない。
ベラ、あなたは医学の道に進む決心をしたんだよね。あなたはその前にスピノザも読んでいなかった?(僕の見間違いならごめんなさい。一瞬彼女が「エティカ」を読んでいるシーンがあったようなんだけど・・・)
そんなあなたが夫に対して行った行為は、科学でも医術でも「救済」でもない!ただの「復讐」です!!
僕がここまでベラに対して反感を覚えるのは・・・そう数日前、テレビのNewsで、あの
京アニ放火犯の青〇被告の治療に当たったドクターの言葉に胸を打たれたこともあるかな。
「(死刑判決が出た被告には)自分の罪に向き合ってほしかった。どれほど多くの人の命を奪った憎むべき罪を犯した人であれ、医師として治療をしないという選択は私には全くなかった」
感情に流されず、人種、貧困差、宗教の違い・・・あらゆるものに偏見を持たず、ただ目の前で苦しむ命を救うことのみに全力を尽くす、それが医学の道の唯一の真理じゃないの、ベラ?
「哀れなるものたち」鑑賞後のこの後味の悪さ・・・ああ、これに似た後味の映画を思い出しちまった。ブラピ&フリーマンの「セブン」・・・あのラスト、何の救いもない、ただ猟奇殺人犯が勝利しただけのラスト・・・ 「哀れなるものたち」のラストは、或いはそれ以上の嫌悪感をベラに対して抱かせてしまう。
ひょっとしてここまでグロテスクな描写をすることで(それでもどこかに、夫の脳を宿した生物がいるのではと、一応最後の庭園シーンを見つめたんだけど、それらしいものが見つけられなかった・・・)、この主人公にさえ反発を覚えるように、主人公を含めそこにいるすべての者たちを「哀れなるもの」と見下ろす絶望的な視点でこの監督はこの映画を締めくくろうとしているのかしら。もしそれが監督の意図なら、はい、正直にそれを受け入れましょう。
これは、「科学の発展と社会主義」に「抑圧からの解放と世の変革」を無邪気に夢見ることが許された時代のSFゴシックファンタジー。けれど僕は今日、既に、科学技術の発展と社会主義による枠組みがもたらした新たな抑圧された世界を見てしまっている。
医術で「報復」したベラ、あなたの突き進む先には、次の世紀には、「報復」が「報復」を呼ぶ世界が待っている・・・。(今日、様々な国の指導者が「報復」を口にするニュースを何度見せられるんだろう・・・)
この後味の悪さ、2度目に見たら更に苦いものになりそう。だから再鑑賞はないかな。
(スケール感も、ストーリーの派手さも段違いなれど、性のリミッターを外して自らを開放するのに猪突猛進な女性を描いている点でふと似通ったニュアンスを覚えた「春画先生」、こっちの方によっぽど愛おしさを感じてしまう自分って・・・うーんただのキタカナ推し?)
・・・とまあ、総括的にこの映画のネガティブな感想をのべましたが、前時代的な小タイトルをつけた幕間で区切られた各エピソードの中には、ちょっとお気に入りのものも。
それは、あのマーサとハリーの船上エピソード。このカップル、いいですねえ。
性別と、年齢差と、人種の違い、全てを軽々と乗り越えてるこの二人の佇まい。
何度ダンカンに本を捨てられてもスッと次の本を差し出すマーサは「常に学び続けなさい」と教えてくれる、本だけでは世の中は変わらないというシニカルなハリーはそれでも世の中の矛盾、現状から決して目はそらさない。やや超越的な存在として描かれてはいるけれど、「常に学び続けなさい、そして世の中から目をそらさないで」という二人そろってのメッセージが何だかとても胸にきました。(PerfectDaysの平山さんへの当てつけみたいでごめんね)
あと、この監督がこの映画で見せたSFゴシック風の映像センス・・・
ふと、PynchonのGravity’s RainbowやMason & Dixonを映像化させてみたい、と思っちまったよ。