「ヤギ人間の謎」哀れなるものたち SP_Hitoshiさんの映画レビュー(感想・評価)
ヤギ人間の謎
久しぶりにパンチのあるすごい作品を観た。歴史に残る名作だと思うが、R-18だし、絶対にテレビでは放送できない内容なので映画館で観ておいて良かった。
現実なのか、幻想なのか、曖昧な世界観。めくるめくような極彩色の景色。ストーリーが意味ありげで謎めいているところは「魔笛」を思わせる。
序盤では、「脳の移植って、まるでブラック・ジャックだな…」と思ったが、ふり返ってみれば作品全体が手塚治虫っぽいと思った。もちろん偶然だろうが…。
「どろろ」(1967~)…父親の野望の犠牲になり、肉体のあらゆる箇所を欠損して生まれた主人公が、医者により義手や義足を与えられ、新たな生を得た主人公が、戦いを重ねながら自らの肉体を取り戻していく。
「人間昆虫記」(1970~)…性に奔放な悪女が主人公。様々な才能のある男に次々に近づいては、その才能を模倣して自分のものにしてしまう。
「ガラスの脳」(1971~)…事故にあった妊婦から赤ん坊(由美)が奇跡的に助け出されたが、生まれてからずっと眠り続けている。由美は17歳になったとき突如目覚めたが、中身は赤ん坊のまま。しかし急激に精神が成長していく。
この作品のテーマは「支配」と「自由」だろうということは分かるが、深すぎてどこまで読み取れているか自信がない。
「支配」とは、表面的にはキリスト教世界における男性からの支配を指すのだろう。たとえば、自分だけでむちゃくちゃに自由に踊るベラに必死でダンカンがおいすがり、二人で踊っているように見せかけようとする、というシーンがあるが、これは、社交ダンスを痛烈に批判したものだろう。我々は文化レベルで男性が女性を支配するものだ、という常識を受け入れてしまっている。
なぜベラは男性たちをここまで魅了することができたのだろう? ベラはおそらく、「原罪がない女」という設定なのではないか。
ベラは胎児のまま、生まれることがなく、脳だけが成人女性の身体に移植された。生まれていないので、原罪が無い。
「原罪」とは、アダムのイブが神の命令に背いて禁断の木の実(リンゴ)を食べてしまった、という話だ。この実を食べることによって、人間が善悪を知り、イチジクの葉で陰部を隠した。つまり、性的な「恥」の感情を獲得した。
ベラには名誉欲も虚飾もなく、保身のために嘘をつくこともない。これは原罪が無いからだ。そして最も重要な特徴として、性的な快楽を得ることを恥や悪だと思っていない。
ベラにとっては、セックスは食事と同じようなもので恥ずかしいことや特別なものではない。動物がそうであるように。
その意味でベラは汚れることが原理的に不可能な、究極に清らかな精神をもっており、原罪に苦しむ我々はその精神に惹きつけられずにはいられないのではないか。
無垢な存在であるベラが成長していく過程は、必然性をもった段階を踏んでおり、興味深い。
まず彼女が与えられたのは、「探究心」。嘘ではあったが、彼女の両親が「探検家」だった、というところから、彼女は自分自身の本性に「探究」がある、と思い込んだ。そして、この「探究心」は彼女を生涯突き動かすエネルギーになる。
次に与えられたのは、「愛」。子供のようなベラに対して、マッキャンドレスは親のような愛情を注いだ。しかし彼女は彼女を守るための厳しく束縛された世界に反発し、自由への激しい欲求をもつ。
ダンカンにより「自由」が与えられ、肉体的快楽を思う存分に得ることができるようになった。ここでそれまで白黒だった画面が、極彩色になる。これは、それまで受動的な守られる存在だったのが、能動的な自らが行動していく存在に変わった高揚感や感動を表現しているのではないかと思う。
次に、船の上で出会った老婦人からは「知識」を得る楽しみ、「哲学」の楽しみを得る。もともと世界を知りたいという欲求を持つ彼女にとって、自然な流れだった。ダンカンは彼女にとって退屈な存在になりつつあった。
「世界を知る」ことによる必然的帰結として、「現実の残酷さ」を知る。解決しがたい貧富の差があり、世界が彼女と同じくいびつで不完全である、ということを知る。彼女は、「世界を改善したい」という、はじめて個人的欲望を超えた欲望を持つ段階に至る。
次に娼婦館の主人と、同僚から得たのは、社会に関わる2つの方法、「仕事」と「教育」である。そこで行ったことが面白い。「仕事」では、お客から子供の頃の思い出を聞くことを行い、「教育」では、人体の仕組みを学んだ。つまり、人間の精神を学ぶことと、肉体を学ぶことに励んだ、ということになる。ここでようやく、彼女の「脳」(精神)は肉体に追いつき、一人前の大人の人間になる。
マッキャンドレスのもとに戻ってきた彼女は、今度は互いに完成された人間どうしとして愛し合う。いわば、愛ver.2である。ここで二人が行った会話は、「互いに対する告白と許し」である。ここからは画面の色調は極彩色から普通になっているように思う。大人としての成熟と安定を表しているのだろう。
物語的にはここで終わりでも良いが、もうひと展開ある。父親でもあり、夫でもある存在が登場する。
これまで登場してきた男性は、彼女を支配しようとしつつも、人間的な弱さがあり、どこか憎めないところがあったが、彼は度を越した残忍さがあり、支配欲の塊、悪の結晶のような存在だ。支配者の象徴のような存在。
彼は表向き紳士で善人のようで、中身が救いようもない悪、というところが、主人公と対をなしているようだ(表向き不道徳だが、中身は清らか)。
「支配」をテーマにすすめられてきたこの物語で、最後にこの支配に対して、我々は具体的にどう対抗すればよいのか、ということを彼女が教えてくれる。
それは、「勇気」である。支配者は、暴力をかざし、「恐怖」によって従わせようとする。その対抗策は、「勇気」しかない。これが彼女の成長の最後のピースだ。
ところで、彼は最後はヤギの脳を入れられた姿になっていたが、はじめはこれに違和感があった。というのは、もしヤギの脳を彼の身体に入れたのだとしたら、彼の脳はどうなったのだろう? 結局彼を殺してしまったのか?と。
しかし、よく考えてみれば、ベラは「彼を殺したくない」と言っていたはず。であれば、やっぱり彼は殺されていないはずだ。では、彼の脳はどこにあるのか? 必然。ヤギの身体に決まってる。たぶん、あの屋敷には彼の脳が入ったヤギがどこかにいるのだ。
共感ありがとうございました。そして私の気持ちを紐解いてくださるようなレビュー。お見事です!
手塚治虫先生は原点の方のような方でして、亡くなったとき号泣しました。(笑)あれほどの方でも巨人の星に人気があるとき苦悶されたとのこと。
って、ここ映画コムでした。(笑)これからもよろしくお願いします。
手塚治虫、原罪、哲学などなど…
新たな視点からの考察が素晴らしくて、目から鱗かつ説得力のあるレビューで感服です。
この映画のレビューは、どなたのを見ても再発見があって、何度も楽しめるのが凄い❗️
どろろの映画も思い出しました!かなり昔、今はないミニシアター、時は5月のゴールデン・ウィーク。お子さん連れの両親(パパが多かったかな)がいっぱい。いつもガラガラの映画館が満杯でした。朝から夜まで、ずーっと「どろろ」。素晴らしかった