少年(1983)のレビュー・感想・評価
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昭和日本に似たノスタルジーを感じさせる
若い世代で歴史に関心がない人などはひょっとして知らないかもしれないが、日清戦争後から第二次世界大戦終結の期間(1895~1945年)、日本が台湾を統治していた時代があった。1983年に製作された「少年」の時代設定は1960年代なので、主人公の少年アジャと家族が暮らす一軒家の造りや屋内の調度には、昭和30年代頃の邦画で目にする日本家屋に似た趣が感じ取れる。
原作は、のちにホウ・シャオシェン監督作品で数多くの脚本を手がけることになるチュー・ティエンウェンが書いた短編小説。ホウ・シャオシェンの監督デビュー作「ステキな彼女」(1980)から撮影を担当するチェン・クンホウの監督作品となる本作に、ホウ・シャオシェンが製作として関わり、ホウ・シャオシェンと原作者チュー・ティエンウェンが共同脚本で初めて組んだことで、以降のホウ・シャオシェン監督+チュー・ティエンウェン脚本というコンビにつながったそう。
物語は、未婚の母シウインが幼い息子アジャを連れて見合いの席に臨み、かなり年上の公務員ターシュンとの縁談がまとまるところから始まる。アジャは弟にけがをさせたり、悪ガキ仲間が盗んだ本で近所の子供相手に貸本商売を始めたりと、しょっちゅう問題を起こしては母親を悲しませるのだが、心優しい父親に実の息子のようにかわいがられ、守られて育っていく。
ストーリーテリングでちょっと面白いのは、アジャの成長と家族のドラマに、向かいの家の娘でアジャと同級生の女の子が成人後に回想するナレーションが適宜挿入されること。これは女性作家が手がけた原作小説の語りを尊重したのだろうと推測される。
アジャの折々の言動には共感しづらい部分もあるが、未成年の頃の鬱屈した感じや、家や学校の決まり事に反発したくなる衝動は、時代や国を問わず通じる要素かもしれない。
余談ながら、本作の舞台である淡水には2017年に旅行で訪れたのだが、昨今はすっかり観光地化していて、本作の中に収められた昔ながらの海辺の町とはずいぶん趣が変わっている。台北の中心から電車で1時間程度で行けるので、日本でいえば東京から横浜の距離感に近いだろうか。観光スポットが割とコンパクトにまとまっていて(自転車をレンタルして回るのもいい)、台北から近いという点も含めておすすめです。
悔いとともに生きるということ
台湾巨匠傑作選2024@シネ・ヌーヴォー。
侯孝賢作品のカメラマンとして知られるチェン・クンホウがメガホンとカメラも担当。未就学から小中高といろんな年代の子どもがたくさん出てくるが、まあみんな演技が達者だね。セリフは台湾語(閩南語?)だから自然なのかどうかわからないが、概ね違和感なく見れた。子どもの演出は難しいだろうなと想像する。
問題児アジャが巻き起こす騒動が物語を牽引するのだが、冒頭から一度も笑顔を見せない影のある母親シウインの存在こそ、この映画の鍵と見た。綺麗な顔立ちなのに、何でいつもむっつりしているんだろうと思っていた。結婚相手が相当歳の離れたヒラメ顔のおじさんだからか、と。そうじゃないんだね。今でこそシンママなんて珍しくもないが、1960年代の台湾にあって、寡婦ではないシングルマザーへの世間の風当たり、あるいは不倫によって出産したことへの自責の念は相当強かったのではないか。だから、夫ターシュンには、アジャを大学に進学させること以外、希望することは何もないと話し、シウインは自分を抑えて夫に尽くす。
そんな親心を知ってか知らずか、アジャは踏みにじる。
多かれ少なかれ、誰しも悔いを抱えて生きている。しかしシウインの行動原理は大き過ぎる悔いなのであり、最期は贖い難い夫への謝罪だった。
悪ガキ時代のシークエンスで流れる可愛くポップな曲と、しっとりとしたエンディング曲が滲みる。
別の世界線のカツオ
主人公と母に終始いらいらした。
残念ながら全く主人公と母に共感できなかった。シングルマザーが子供の為年の離れた男と結婚。男は少年を養子にし可愛がってくれたが少年は不良に。母は少年に優しい言葉も掛けず叱ることもない。食事を与えて洗濯をするだけ。説明もなく狂ったように殴る。あれで叱ってるつもり?台湾では皆あんな感じなのか?この母じゃ不良になってもしょうがない。少年はどんどん悪くなって行く。喧嘩で友達が刺される事態に。治療費に困った少年は家の金を盗む。母が撲り見かねた義父が少年を叱ると少年はあんたは父じゃないだろと。 母は自殺。父を大切にという遺書を残して。父は妻が可愛そうとおんおん泣く。自分の様な年寄りに嫁いで可愛そうだったと。とても愛していたと。このお父さんがいい人過ぎて泣けた。少年は軍隊入隊。母の遺言を守らなかった。 これ程後味の悪い映画があろうか?少年は最後まで改心しない。母も無責任。主人公と母に終始いらいらした。
過去の真実は遠ざからなければ見えてこない
俺の話をする。
10年以上昔のことだが、両親が離婚した。俺は姓を変えるかどうかを母親に尋ねられた。小4の時だった。俺は元からの姓に特段の愛着があったわけではなかった。にもかかわらず俺は絶対に嫌だと反抗した。その後しばらく、母親は面倒な手続きに奔走した。今思えば俺はただ母親を困らせたかっただけだったのだと思う。酷い話だ。ついていったのが父親だったとしても俺は同じような駄々をこねたに違いない。
なぜ俺はそんなことをしなければならなかったのか。「愛が深ければ深いほど傷つくことになる」という本作のナレーションが腑に落ちた。より卑俗で現代的な言い方をすれば「試し行為」というやつだろうか。親に本当に愛されているのか不安になった子供は、彼らをとことん傷つけることで、そしてどれだけ傷つけても自分を庇い続けてくれる彼らを感じることでようやく安寧を得る。
ただ、大人になればわかることだが、「試し行為」の悪辣さは相手の人間性を考慮しないことにある。無償の愛も休みなく注ぎ続ければいつかは枯れる。アジャ(シャオビー)は愛情の欠乏感の裏返しとして幾度となく非行を繰り返すうち、遂に不可逆の領域にまで踏み込んでしまった。継父に放たれた「本当の父親じゃないくせに」という言葉は彼よりもむしろ彼に人生の大部分を捧げていた妻、すなわちアジャの母親に鋭く突き刺さった。ガス自殺による彼女の呆気ない死は、あまりにも呆気ないからこそアジャを大きく揺り動かす。自分のほんの些細な稚拙さが人を殺した、という残酷な事実。強烈に現前する「他者」という存在。「少年」という言い訳はもはや剥落し、彼は大人になる。
日常が非日常に変転する劇的な瞬間というのは存在しない。非日常は不可視の領域に真夜中の雪のように静かに堆積し、気づいたときには既に日常を押し潰している。確かに予兆は山ほどあった。吹き矢が刺さって泣く弟、不良との小競り合い、盗んだ漫画の貸本ビジネス、デート中の暴力沙汰、海で溺れる弟、腹を刺された友人。しかしナレーションが淡々と示すように、過去というものはある程度遠ざからなければそこに潜む真実を知ることができない。
アジャの母親が死んだことと、俺の母親が今も元気に生きていること。これは本当に紙一重なことなんだろうなと思う。既に起きてしまった悲劇は決して書き換えられない。今の俺たちにできることがあるとすれば、過去を思い出すこと。慈しむこと。忘れないこと。そしてそれはたぶん、映画を作ることと似ている。
民間療法効果覿面!?
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