「“百合”におくられた特攻」あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。 かなり悪いオヤジさんの映画レビュー(感想・評価)
“百合”におくられた特攻
長ったらしいタイトルを読んでケータイ小説が原作のなんちゃって戦争ラブストーリーと早とちりしてはいけない。最近は新自由主義者にやられっぱなしで死に体同然の保守最後の牙城“松竹”の後ろ楯で制作された映画なのだ。なるほど、主演のゆるキャン△女優福原遥は高校生にはとても見えないし、戦時中だというのに松坂慶子は(誰だかわからないくらい)コロコロに太っている。舞台となっている鹿屋の住民は誰一人として鹿児島弁を話さないし、米軍の空襲にしても史実とは微妙に食い違っているようだ。
要するにこの映画歴史考証がかなり杜撰なのである。しかし、福原遥演じる女子高生百合が敗戦を間近に控えた昭和20年6月14日にタイムスリップした時点で歴史がすでに改変されていたことを考えると、少々の史実とのズレは別にあってもよかんべと思うのである。令和の世からタイムスリップした事実を、特攻隊の佐久間(水上恒司)や鶴屋食堂の女将(松坂慶子)にあえて打ち明けようとしなかった百合の気持ちにフォーカスを当てた作品といえるだろう。
おそらくこの映画、戦後教育でずっと“悪”と教えられてきた日本陸軍の帝国主義、そして戦歿した兵士を神として奉る靖国的精神vsアメリカから輸入された個人自由主義を、同じ土俵で対峙させようとした作品だったのではないだろうか。「どうせ戦争に負けるのに自分から死のうとするのはおかしい」とあくまでも令和基準で物申す百合に対し、百合を妹のように可愛がる佐久間曹長は「日本の未来のために俺たちは特攻に志願したのだ」と語るのである。
未来からやって来た百合はもちろん、佐久間曹長以下特攻隊の面々も、この時点ですでに“戦争に負ける”ことはわかっていたというのだ。父親が他人の子供を助けようとして亡くなったがために大学進学を諦めていた百合は、佐久間たちの特攻を単なる“自爆”としかとらえられなかったのである。が、欧米人には決して理解のできない、自己犠牲という日本人特有の精神性を“生”で目撃し体験した百合はもう一度、未来のために前向きに生きていこうと決心する。
“純潔”とか“無垢”とかいう花言葉の他に、「死者への捧げ物」という意味を持つ一本の白百合を胸に、佐久間は敵艦目掛けて旅立っていくのである。特効から逃げた若い兵士にしても、空襲で歩けなくなった許嫁のために一生を捧げたのである。つまり、佐久間たち特攻隊の目的は栄誉の戦死を遂げることではなく、後世の日本人に“白百合”のような美しい自己犠牲精神を伝えるためであった、本作のテーマはおそらくそこにあったのだろう。今後もし日本が滅ぶとするならば、それは国民全体が欧米人と同じ“今だけ金だけ自分だけ”のネオリバタリアン的利己主義に陥った時だと思うのだが、どうだろう。