「誰も居ない森で木が倒れたら、その木は音を出して倒れたのか?」ペナルティループ mamemameさんの映画レビュー(感想・評価)
誰も居ない森で木が倒れたら、その木は音を出して倒れたのか?
※がっつりネタバレしているので注意。見終わってから読んでください。
哲学で有名なこの古い命題は、認識と世界の関連性によって答が変わる。
認識され得るものを以て世界とするなら、認識されていない部分での事象は「存在しない」、すなわち音は出なかったことになる。
タイムループの中で主人公は何度も復讐の殺人を繰り返す。
が、それは途中でタイムループではなく仮想空間での演出だということがわかる。
この仮想空間で、契約者は好きなだけ復讐を遂げることができる。
主人公(若葉竜也)は自分の恋人(山下リオ)を殺した犯人(伊勢谷友介)を何度も殺すのだが、途中で「もういいです」と管理者に訴える。
この時点で主人公の中の復讐欲は浄化したようにも見えるし、あるいは何度も殺される犯人が「実在のものではなく、ただ殺されるために存在する複製物」であることに気付いたからかもしれない。
今いる世界が、「木が音を出さないで倒れた世界」であることに気付いたからかもしれない。
主人公に都合良く物事が運び、復讐を遂げられる世界。それは本当の世界なのか?
視点が犯人(伊勢谷)側に変わるシーンがある。そこから主人公と犯人の交流が始まるが、犯人は自分が「繰り返し殺されるだけの存在」であることに気付き、達観する。なので殺されるシーンでは唯々諾々と殺される。
この時点で、主人公も犯人も、「殺す」という行為の概念がおかしくなっている。
殺すということは自分のいる世界から抹消することなのに、何度も現れるからだ。
それに気付き、主人公の復讐欲は浄化される。
更に犯人から告げられた「彼女も死にたがっていた」という告白から、彼女の死が「理不尽な殺人」ではなく「彼女が求めた最期」ということがわかり、犯人を殺す理由は無くなってしまう。
それでも最後にもう一度犯人を殺したのは、その犯人が実在のものではなく虚像だとわかっているからだ。
最後に殺される前に、犯人は絵を書き、そして殺されるのが恐いと独白する。何度も繰り返す虚構の世界の中で、たった二人、それを意識して過ごしてきた同志。お互いがそう思い、しかしすべきことをして、ループする世界にケリをつける。
6月7日になってから、犯人の描いた絵を主人公は見つける。それで、あの犯人は虚構だったけれども確実に自分にとっては「存在していた」ことを認識する。
現実世界に戻るためのリハビリ世界で、死んだはずの恋人と一日を過ごす。
構築のための情報が少なかったからか、主人公の問いには答えず、はぐらかすばかり。そして主人公から一定以上の距離を取れない彼女の後姿を見て、主人公は再度、そこが虚構の世界であること意識したはずだ。
主人公は何を感じて、居心地が良いはずの虚構世界を捨てて現実世界へと戻るのか。
そこが、この映画の一番の主題だ。
恋人は何をして殺されたのか、犯人は実際にはどうなっているのか、ディテールを省いている部分が少なからずあるのは、メインのテーマから逸脱してとっちらかるから削ったのだろう。フォーカスすべきは主人公の情念で、そこに至る経緯は「余計な情報」だからだ。
描かれなかった部分から「なぜ描かれなかったのか」を読み取ることが必要になる。
そういう意味で、個人的には最後のパート……ケーブルを抜いた後の現実世界のシーンは不要に思えた。
あのケーブルを抜くという行為だけで、あの仮想世界の空虚さに気付いた主人公が現実世界へと進み出ることが十分に伝わるからだ。
フランス映画ならあそこでスパンと切るだろうな、と思った。
雑音だらけの世界で、事故を起こして血だらけになりながらも「大丈夫です」と答えた主人公が、何を以て「大丈夫」と答えたのか。最後にそれを監督は描きたかったのだろうけど。