PERFECT DAYSのレビュー・感想・評価
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世界は美しく思える。 そう見ようとする目と気持ちがあれば
平山さんは日々の美しいものを感じるために、ある意味刹那的な生き方を選んだのかな? と思った。
平山さんは耳や共感性が強過ぎるが故に、忙しない競争社会から距離をとって穏やかに暮らしてるんだろうか
冒頭の子供たちのが横断歩道を渡るシーンで、なぜだか泣いてしまった。
迷子の母親に、まるで汚いモノのように蔑ろにされても笑顔で子供に手を振る平山さんには、それでもこの世界は美しいものに映っているんじゃないかと思える。
妹さんと抱擁を交わした後に、平山さんが涙したのはなぜなのか
死期が近いであろう父親の病状を聞いてもなお、赦すことの出来ない自分に失望してなのか
幼少期の厳格過ぎた父親と、現状を比べて時の流れとその残酷さに悲嘆したのか
色々な感想を語り合いたい映画でもあったなぁ。
私にとっての木漏れ日
各国で様々な賞を受賞した本作でしたが先日遅ればせながら鑑賞しました。
本作のストーリーは役所広司扮するトイレ清掃員の日常生活を描いたものです。
普通のこの手の映画であれば「そんな主人公がひょんなことから◯◯に巻き込まれ」的な展開を見せるのですが、
(以下、少しネタバレになります)
この映画ではそんな「ひょんなこと」は発生しません。
都内の若干ボロなアパートで起きて植木に水をやり、軽自動車に乗って都内各地の公衆トイレを清掃する。仕事が終れば銭湯。地下街の飲み屋で1杯やり、古本屋で買った文庫本を読みながら床につく。この繰り返し。しかしこの延々と続く日常を見ている内に、主人公の不思議な充実感や、この「Perfect days」を送る何かしらの意味合いを感じるようになりました。
そしてその「何かしら」をイメージ出来る事が起きてラストシーン。
主人公は一切言葉を発せず、軽自動車を運転して一人で笑い、そして泣き出すのですが、その時やっと私が延々と主人公の日常生活を見続けたことで彼のこのシーンに感動出来ることに気づく仕掛けになっているのです。
と、この映画を見ていない人には訳のわからない感想を書いてしまいましたが、昨今は数分に一回クライマックス的なシーンを入れていくような気ぜわしい映画が多い中でこのような映画が評価されたのは驚きです。
多分この映画を見た人にとってこの映画が日々の生活の中で見つけた木漏れ日(この言葉もこの映画の大事なキーワード)のようなものかも知れません。
ワンパターンな日常こそ豊かな日
トイレ清掃員として働く平山。毎日同じ時間に目覚め、身支度をして仕事に向かう。このルーティンが繰り返し映し出されます。この平山の生活スタイルは彼なりの幸せにあふれた物となっています。掃除中の看板を倒していく男、トイレに閉じこもった子供を見つけて外に出してあげても、駆け寄った母親はお礼もなく存在すら無視されていも彼は荒げることはありません。独り身で、ほとんど声を発しない生活をしている。過去になんらかの悲しみ、苦悩を背負っていることも伝わってきます。同じことを繰り返し、丁寧に生活しているからこそ、その時間は大切なものである。しかし、同じパターンに見えても日々変化があることも彼は知っている。その変化により発見もある。時には、若い同僚にふりまわされたり、姪が家出してき、妹と再会するという大きな変化もあります。予期せずルーティンが壊されます。そこに流されることなく彼はまたルーティンを確立します。こんな彼の生き方に憧れる気持ちになります。変わらない毎日こそそこに変化と喜びを見出すことができればそれは完璧な一日ということかもしれないと思います。大切な日常が無情にも破壊されることがある昨今だからこそ毎日を丁寧に過ごすという贅沢をしてみたくなる作品です。
谷崎潤一郎の「陰翳禮讚」と高文脈文化を上手に取り入れている。
平山(役所広司)の置かれている毎日の環境の中で、つまり、繰り返しの人生のなかに変わるものがあるとしたら、それは天候、地球の自転から起こる風情のある『木漏れ日』(字幕で、It exsists only once.)である。彼はそれを敏感に感じ取り喜びを感じていて、毎日の繰り返しの人生に変化をもたらすものは『自分が何をどう観るか』であることを私に教えてくれている。この場合は、「木漏れ日」なのである。彼の人生で気づくことは『上向き』で、例えば、朝アパートを出るとき、毎日、朝日,陽の光をあじわい出かける。お昼休みにサンドイッチを頬張りながらも。彼の目の動きは天体にあり、それは彼の心に響くもののようだ。それによって、自然の動きを一番早く感じ取ることができると思う。彼の人生はこれによって毎日同じではないということだと思う。この感覚や感性が彼の人生を最高『perfect days 』にしているようだ。しかし、彼は人間関係では傍聴者で口数が少なく、木漏れ日の写真や読書、盆栽にこだわりを見せて、人間との付き合いがうまくいかないように見える。しかし、彼なりにはうまくいってるのかもしれない。父親との関係から何か傷ついてしまっているのがわかる。仕事が忙しくなったり、思いもよらないできことが起き、OCDタイプで完璧に順を追う生活が脅かされたり、パターンを壊されたりで、きりきり舞いしてしまうこともある。でもその中で起きる出来事でA perfect dayを日常のように感じ取れるようだ。例えば頬の接吻された時も。また、彼の姪が不意に訪れてからの妹との再会で彼の動揺がよくわかる。姪との日常的な会話が「今は今」で改めて今生きる大切さを私に再認識させてくれる。
そして、認知症の父親はまだ息子がわかるだろうと妹が彼に伝えたこと。また、飲み屋のマダムの前夫が(三浦友和)癌で父親と同様に追い先き短い)前妻に会っておきたかったので来たこと、これらが付箋になっている。そうして、平山の人生は変わっていく。それは映画の最後のシーンが物語っている。このシーンは平山はThe Tokyo Toitet のユニフォームを着て父親に会いに行くシーン。よかった会いに行ってくれてと私は思った。なぜ、父親に会いに行くと思うかは、平山が東京の街を背景にして運転していて、その背景が小さく見えている。トイレ掃除に行く日々のバックとは違っているように私には見える。それに、平山自身の運転中の顔の感情表現は、自分の迷いに踏ん切りがついて、父親との再会を前に、過去にあった経験を思い出し、目に涙を浮かべたり、微笑んだりしていると思う。我々も割り切っていても心の奥底は白黒で決断できないことがあるが、平山はそれを決断したと思えた。平山が妹に与えた抱擁は妹にとっては戸惑いだったかもしれないが、平山の心の奥底からのストレートの表現だと思う。こんなに自分そのままを出したのはこれが最初じゃないかと思う。家族に心を閉ざしていた平山が周りの人々に少しずつ多弁になっていくのがよくわかる。人間との繋がりに分かち合える人ができ安心感ができてきたようだ。(あくまでも私感)
平山は彼の周りの人の間には自分が「トイレ掃除夫だ」ということに抵抗を見せていないようだしこの仕事が本当に好きでやっているようにも思わせない。責任感のある人であることは言える。それに完全主義の性格から自負をもっているようにも見える。perfectionist で、例え、公衆便所利用者が『ありがとう』と言わなくともそれを意識に入れていないようであるが、人へ微笑みを浮かべている。
それに、一緒に働いていた若い男性は職場に来てからThe Tokyo Toitet のユニフォームを着るのに。しかし、平山は着てくる。父親とは亀裂が入っていて、自分の仕事などなどを堂々と話せない状態であるようだ。なぜかというと、妹がいう「まだトイレを掃除しているのか」でわかるように、家族はこの彼の仕事の価値を認めていないことがわかる。その意味は彼の価値も認めていないようだ。他にもあるだろうがここでは推測しかないので書けない。平山も家族の関係に解決策を見出せなかったが、それを乗り越えさせてくれたのが姪と妹の訪問とガン患者で生い先が短い男性(父親と同じ状況)との短い交流である。出会いである。(あくまでも私感)
『影』の価値:
この映画における『影』の価値をちょっと書いてみたい。実は5年ぶりぐらいに映画館に来てこの映画をみている。もう一度見て、分析した方がいいが、賛否両論があろうがあくまでも私観ということで私のレビューを理解してほしい。
映画評論家の 亡きロジャー・イーバートRoger Ebertのように、映画を見ながら 少しノートを取った。「スクリーンの光線」と「座席の闇」の間の「影』の中でノートに書いた。
監督は「光と影」の捉え方がうまい。これは一例だが平山の一日起きたことを光とするとと睡眠中は闇となる。夢のような部分は影であり、(グレーで表わしている。影=曖昧)の構成になっている。例えば、ウイリアムーフォークナーの作品(William Faulkner's 1939 “The Wild Palms” (野生の棕櫚))を読んでいるらしいが、を平山は夜、寝床に入る前に読んでいるが、映画ではこの一部分が影の部分になって夢に出てくるように思える。そして、映画で『影の中...』という文字にスポットライトが浴びている。その周りがはっきりしないモヤモヤしていて「影」のような白黒でないグレーの色で表されている。この状態が毎晩、平山に夢のようになって脳裏に現れてくる。この「影」である「曖昧さ」が、平山の心境(心の中)でもある。でも、ガンの男性と会った晩、それが夢のような影になって現れてこなかった(と思う)ここから、彼の態度に最終的に何か白黒の踏ん切りがついたような気がしてならない。
この影である曖昧さは「Subtle」と捉えて、かすかな、ほのかなで表され、ドナルド・キーンなどが日本文化が「曖昧文化」だと言っていたが、これはステレオタイプかもしれないが今も続く文化であると思える。特に、この『曖昧・影・グレー』という白黒つけられない日本文化を愛する日本文化研究家や日本文化愛好家が多いようだ。谷崎潤一郎の「陰翳禮讚」いんえいらいさん(In Praise of Shadows 1933 )は日本の伝統的な文化の『美』の『影』について賛美している。
それに増して、平山の会話が高文脈文化(英: high-context cultures)であるのも偏見承知だが日本映画や文学の特徴とされているようだ。これらの特徴が、文学などの芸術にとどまっていて賛美されるのは素晴らしいのだが、ビジネス、政治、外交などでは交渉することが大事であるから高文脈だと誤解を生むと思う。
平山の読んでいる本:
店主は幸田文『木』を文体の価値がもっと認められるべきだといったと思う。この本を読んだことがないがこの木は平山のような気がした。太陽からの光を受ける木、それが我々に「木漏れ日」を与えてくれて、「影」も与えてくれる。この木や平山のような人はこの世でなかなか認められないし、気づかれない。でも、姪のように気づく人もいる。平山の読んでいる本が3冊紹介されているが、映画との関わりが見られる(カモン カモン(2021年製作の映画)C'mon C'monもこういう設定)が私は一冊も読んだことがない
William Faulkner's 1939 “The Wild Palms” (野生の棕櫚)。フォークナーの『響きと怒り』((ひびきといかり、原題:The Sound and the Fury )の方が、より『影』に焦点を当てていると娘が言っていた。なぜかというと、その本には影という言葉が四十五回出てくるらしい。そして、語り手が過去の大切な瞬間に戻る時、そこが斜字体になっているそうだ。この映画のように影を作り出しているのだ。
Patricia Highsmith Eleven: Short stories: The Terrapin: Victor ヴィクターって私かもと姪が。母親が子供を独占し、思いのままにし、子供の人権が認められないようだが.....
一番私の好きなシーンは:平山が自分とガンの男性の影が合わさるとその影が濃くなると明言しているし、『そうじゃなければいけない』と確信を持っていってるシーン。人と人との協力によって可能性がより大きくなることを我々に示唆していると思う。人と人が繋がり合うことで、絆が強くなるというのを二人の影を使って比喩的表現としている。ここで私は平山は父親に会いにいくと思った。
まるで樹木のような主人公を定点観測することで気づく映画ならではの「余白」の大切さ
役所広司演じる主人公平山は寡黙で穏やかな「樹木」のような人だ。
仕事は実直。周りに対する暖かさもあり、自分自身に何が必要で何が要らないかを
知っている稀有な人物だ。
彼の視点を通して見えるものは我々にとっての「新鮮」であり、彼自身もまた日々を「新鮮」なものととして生活を営んでいる。
「変わらないものなんてない」
劇中終盤に登場する病に侵された人物に放った励ましのセリフに
思わず涙がこぼれた。
そして、この作品は昨今流行りの「伏線回収」や
平山の過去を穿り返すような無粋なことはしない。
まるで木漏れ日のように「光」を当てすぎない本作は
映画とはやはり「余白」という影の部分があるから素晴らしいのだなと感じる。
文明の発展であらゆるものが「光」に照らさてしまう現代。
スクリーンという木陰で平山の生活を覗きこむことで
ホッと一息できること間違いなしである。
心酔している人には不快かもしれないレビュー 読まない選択を
平山という人物の日常を描いている、とよく言われるのだけれど、実は日常ではなく非日常。実際の日常は、Perfect Daysに描かれたルーティーンの反復のように、同じ毎日がくり返されたりしない、決して。だから、平山の日常、平山のルーティーンは、それ自体がある意味『事件』。特別な出来事だから映画になる。その静謐に憧れを感じるのは、そのせいだろう。「足るを知る」という言葉が浮かぶ。
でも、静謐は人と関わることで、やぶられる。いろいろな思いが平山の、複雑な涙になる。生きている、ということはそういう事なんだろう。
と思いつつ、「自己犠牲」という言葉も浮かぶ。トイレ掃除という仕事を低賃金で、でも、賃金以上の働きをすることに喜びを感じる。それって、やっぱり自己犠牲のにおいを感じる。トイレという箱モノにはものすごいお金をかけているのに、それを美しく保つ人にはお金をかけない。それに組み込まれた平山の生き方を美しい、と感じるのって、何か、どっかヘンじゃないですか。
多少調べてみると、渋谷トイレ・プロジェクトから、この映画は始まった、とある。製作は柳井康治、脚本は高崎卓馬。
柳井康治は、ユニクロのCEO、資産4.9兆円と言われる柳井正の子息。ファーストリテイリング 取締役の彼が、資金提供したトイレプロジェクト。そこに絡むのは、資産3000億円に迫る日本財団。その一環でこの映画は作られた、らしい。
高崎卓馬は、(株)電通グループの偉い人。親会社、電通の方の社員の平均年収は1500万円。
推測するに、まずトイレの箱モノづくりがあり、その箱モノを使って内外の人を呼び込むための広告を打つ。ビム・ベンダースと役所広司なら世界で見てもらえる。トイレだけではもちろん映画にならないので、清掃員を軸にする。関連動画によると、修行僧のような清掃員。深みを演出するために、彼の過去を織り交ぜる。テレビCMでも、心に響くものがありますよね。そのロングバージョンがこの映画。
そういえば、大阪万博では2億円トイレが話題。ニッチな「クールJapan」「ニッポンすごい!」ねらいです。
足るを知らない人達が作った、足るを知る平山の映画。どうなんでしょう。どんな人が作ろうと、良い作品は良い、とも思うのですが、何か割り切れない。自己犠牲を美しいと思わされるのって、幸せと言えるのでしょうか。
ここまで、考えをまとめるのに1週間。それだけ、わたしにとってインパクトが強い作品だったことは、間違いありません。そして、足るを知るは、ある意味、真実だとも思います。だから、一応、評価は4。ん~、4なんて付けていいのかな?
だからなんなの?
親戚の中にいそうな人生をこじらせてしまったおっさん.あるいは,全てをこじらせて開き直るしかないおっさん.でも,側から見るとかなり魅力的である.
平山さんは,1週間をルーチンの中ですごしていく.決して完璧な日々ではなく,きっと同じままであることに忸怩たる思いをもっているのでは.そんな自分を慰めるためにカセットの曲を仕事前に聞いているのかな.
平坦な日常の中にたまに入ってくる雷のような変調を夢の中で追想することで目が醒める.平山さんとホームレスとの違いはどこなのか.どっちがよりパーフェクトなのか.メゾネットの一階に残されたガラクタの多さと二階のミニマルな部屋での暮らしから,自尊心を捨てきれないためにホームレスまでいけない苦しさ.それが麻生祐未さんと別れた後の涙の裏の理由なのかなと勝手に解釈しました.
最後の役所さんの顔芸の時間がちょっと長いなぁーと感じました.十分に伝わってきてました.
公衆トイレのイメージはかなり変わりました!お掃除ご苦労様です!
平山氏の贅沢な日常
平山氏の日常は朝起きてから夜寝るまできっちりとルーティーン化されている。とはいえ、人と関われば、そのルーティーンに横槍が入れられることもある。しかし、平山氏は特に不愉快に思っているわけではなく、ちょっぴり歓迎しているようにも見える。毎日同じことの繰り返しの中では、ほんの小さな差異、たとえば神社の木漏れ日の違いさえも、高い感度で感知することができ、毎晩夢の中で反芻する。静寂の中でこそ、微弱な音まで聞こえる。
平山氏は21世紀の物質主義からはほとんど隔絶されたところで生きている。昭和のバブル期以前から時間が止まったようなアパートには、電話もテレビもない。洗濯はコインランドリーで済ませる。自転車はロッドブレーキだし、ラジカセはソニーのCF-1980。愛用のカメラはオリンパスのフィルムカメラ。日本製品がまだ高品質で頑丈だった時代の製品だ。スマートホンはもちろん所持しておらず、携帯電話は会社から支給されたものがあるだけ。軽自動車の中で聞くのは70年代のロックのカセットテープ。
しかし、平山氏はお金に困っているわけではない。毎日銭湯で一番風呂に入るし、毎週のように現像に出すフィルム代もプリント代も金がかかる。大事にしている「エモい」カセットテープには思いもよらずプレミアがついている。
毎日サブスクで少しずつお金をむしり取られながら、否応なく流し込まれる大量の情報の中で、肩までどっぷりどころか、底に足がつかなくなっている我々からするとむしろ平山氏の生活は羨ましい。しかし、その平山氏の生活は、東京という物質主義の権化のような余裕のある大都市の隅っこでしか成り立たないというのもまた事実である。彼が毎日清掃している酔狂なトイレはその象徴だし、この映画の企画自体がその産物である。映画はよかったけれど、我々を情報に溺れさせているのが、まさにこの映画の作り手の側だということにある種の皮肉やあざとさを感じて、ちょっと冷めてしまった。
タイトルなし(ネタバレ)
観賞直後のメモ
・「無言」は時に言葉よりも意味を持つ
・日常をルーティン化して固定化するからこそ、ささやかな変化に気付ける
・経済的には恵まれているものの、不自由で抑圧されていると思われるニコ。彼女がおじさんと過ごした数日間はありふれた日常の数日間よりもずっと深く彼女の中に刻まれる時間だっただろう。日常に戻り、目の前に延びるレールに載ったその後を辿るとしても、きっと初めての家出を忘れることはないのだろう。
・「今度は今度、今は今」という言葉も、その今度が来ないと悟っているようにも見えた。別れ際の涙は何を表していたのだろう。ニコともう会えないことを意味しているのか、妹親子とは生きている世界が違うことへの想いか。
・彼は、他人を毛嫌いしたり煙たがったりしない。大半の人がそういった目を向ける人に対してフラットだ。優越意識から来る腫れ物に触るような態度は取らない。
・自分=ルーティンを、他人が壊していく
名脇役は1/fゆらぎ
前半はいつもの見慣れた都内の景色がカーステレオから流れる音楽にのって、おしゃれに感じました。
先に見た方が木漏れ日が愛おしくなるよと言っていましたがその通りでした。
名脇役は1/fゆらぎ。
木漏れ日、木々の緑、葉擦れの音、鳥のさえずり、虫の音、水面のゆらめき、道をはく竹ぼうきの音さえも。
映画のシーンの多くに緑の木々が配置されています。
私事ですが足を骨折し、同時期に身内を失うという心折れた時期がありました。
リハビリを兼ねて大木が重なりあうように植えられた近所の公園に行きベンチに座り上を見上げた時、まさに映画のあのシーンが目に飛び込んできました。
折からの強い風に揺れる木の葉たち、葉擦れの音、私はそれを浴びて癒やされたことを思い出し、泣きそうになりました。幸せに満ちた瞬間でした。
真に人の心を満たすものは巨万の富でもお金で手に入る物でもない。
だから平山さんが木漏れ日や木々の緑に向ける満足そうな笑顔に激しく共感して「わかる!わかるよ!」と思いながら見ていました。
映画の冒頭で平山さんの部屋が質素できちんと整えられているなと思いましたが、それもそのはず、平山さん、掃除の達人でした。
出かける前のルーティンも必要なものだけをきちんと並べる。
掃除道具は手作り。
腰でシャラシャラ鳴っているのは全て違う仕様の各トイレの鍵たち。仕様が違えば掃除の手順も、使う道具や洗剤も違う。
それを手際よく作業していく平山さん。
掃除の匠、達人、一流のプロです。
匠は無口なのです。
でも、平山さんならどんな仕事に就いても極める事ができる人だと思います。
スカイツリーが必ず背景に出てきます。平山さんの質素な暮らしを見ていると、ここが東京であることを忘れるので、「ここは大都会東京ですよ。でも、自分次第でささやかだけど満ち足りた時間を過ごすことができるんですよ。」というメッセージのような気がしました。
余談ですが、平山さんのアパートのドアの鍵、閉めないで出かけるシーンがあり、オートロックではなさそうだしと心配になりましたが、最後までシンプルに心が満たされ続けたので星5です。
これは、映画館でぜひ見てほしいです。
1/fゆらぎ音、高く低く全身に浴びてみてください。
どんな世界にもプロフェッショナルな人は居る…
そういう事を改めて感じさせて呉れる映画でした。
前半は殆ど役所広司さんの一人芝居の様な無言の世界から始まり、その慎ましやかな生活の周辺・奥行きが少しずつ広がりを見せて行きます。
中盤以降、物語に幾つかの小さな起伏が起きますが、ドラスティックに展開するという事では決してなくて、話は割合と淡々と進んで行きます。
この人は過去にきっと何か有る人なんだろうな…という予感の答えの片鱗だけが、後半で少しだけ明かされます。
孤独を噛み締めながらも、音楽を愛し、人を愛し、本を愛し、酒を愛し、木々の緑に心を癒やされながら、自分の仕事に誇りを持って誰かの役に立っている事を信じている…そういう人の日々の生活は質素で慎ましやかではあるけれども、きっとかけがえのなく満たされたPerfectDaysと言えるのでしょう。
不器用で気の利いた言葉の一つも言えない。けれども、その行間には優しい思いが溢れ出ます。そういう市井の人達が多く居る社会は、きっと優しくて豊かな社会の…ハズ。
石川さゆりさんの歌声がとても素敵で、一曲最後まで聴けなかったのが少し残念でしたネwww
繰り返しの毎日の繰り返しじゃない尊さ。
東京の片隅でトイレ掃除の仕事をしながらひっそりと、でも丁寧に生きる男性・平山さんの日々を描いた作品。
良かった…。
平山さん(演者・役所広司さん)の人柄が良いんだよな…。
誰が見ているわけではなくても、仕事の公共トイレ掃除は妥協せず細かいところまでしっかり綺麗にし、起きたら布団はきちんと畳み、神社の鳥居の前ではちゃんと一礼する。誰かの良いところを見つけて人知れず嬉しそうにする。
好きなものを大切にし、好きなカセットテープは高値がついても売らない。
(でも手持ちがない時のガス欠時は仕方ない。)
平山さんは多くを語らないんだけど、行動の端々から彼の善良さ、誠実さ、真面目さが伺い知れるところや、日常の中の喜びを見つけてちゃんと慈しんでいる姿が本当に素敵だった。
平山さんの毎日は基本はルーティンで同じ。
でもそこに後輩の恋愛事情が絡んだり、女の子にほっぺたにキスされたり、姪っ子がやってきたり、憎からず思うお店のママの元夫が現れて心乱れたり。
この作品でよく出てきた木漏れ日のように、毎日繰り返して見えるものだって、実はそれはその瞬間、ただ一度だけのものだ。
平山さんはそれをちゃんと知っているから写真を撮るのだろうな。
特になじみの店のママの元夫・丸山さんと平山さんが影踏みをするシーン、美しくって泣けた。
あと東京の公共トイレ、色んなタイプやデザインがあるんだなと面白かった。
そして平山さんを見ながら今まで勤めた会社で出会った清掃パートの方々を思い出していた。
仲良くなって連絡先交換して休みに一緒に遊びに行った人、トイレで会うたび話すようになって退職の時にはプレゼントまでくれた人もいたな、と。
今、どうしてるかな。そんなことをまったり考える時間をくれた作品だった。
一日も同じ日はない
ようやく観に行くことができた。
毎日の規則正しい生活で同じような日々を過ごしているようにみえて
実はゆるやかだけれど変化がある。
大都会の中で一つ路地を入ったら時代がとまったような平山の住む家
大多数の人の流れとは逆に通勤する車
世間で一般的にいわれる都会のきらびやかな生活とは異なるが
決してそれは不幸せではなく、その中でも平山なりに幸せな生活を送っている。
通勤時に音楽がかかるわずかな時間が旅をしているような非日常
仕事終わりの銭湯や休みの日の古本屋
幸せとは何かを考えさせられる映画でした。
当たり前のように過ごせている毎日に感謝しないといけないと
感じました。
退屈だったなー おしゃれ公衆トイレツアー?
この人、全部が嘘っぽい。
アナログをこよなく愛し
貧しいアパート風の家に住み(実際はそれなりの間取りだし、スカイツリーがあの距離で見えるとこで家の前に駐車場借りてるし)出退勤は直行直帰なのか?
朝も帰りも途中も都内移動でバンバン首都高使うし(それ経費ですか?)
植物を愛し(部屋にも鉢植えの緑があり)一部屋それ用のお部屋?
半分ボツになるような木漏れ日の写真を毎日撮って、
現像して溜め込んで、それなりの安酒屋っぽいとこで酒を飲んで、スナックのままに思いを寄せて、
しゃべらず寡黙な男気取って、古本屋で小説買って読んでる。
仕事は真面目にやってる体だけど、そのゴム手袋でさっきどこさわってましたか?と言いたくなる、ゴム手袋のままいろんなとこさわるし。
でも、そんな毎日がとても幸せです!って言いたそうな生きざまで最後のあの顔、
どうしたいのか全く分からなかった。
良い俳優も無駄遣いだらけ。何がしたいのか何も分からなかった。
良い景色、エモい画とおしゃれ公衆トイレ見せたいだけじゃない?
なんで評価されてるんだろう?
圧倒される素晴らしい映画
孤独と自由を生きる平山。トイレの清掃を仕事にし、単調な毎日を無理なく生き、小さな幸せを愛でる。この平山のような『変化のない日常』を生きることが最も難しいのが人間ではないか。
なぜなら人間は退屈や不安に耐えられず、変化を求めてしまう生き物だから。例えば、動物は将来への不安や過去の苦しみを感じなければ贅沢もしない。人間は動物のように今だけを生きることはなかなかできない。だからこそ苦しむ。
平山は姪に言う。世界はいろいろあって君のお母さんと自分は違う世界だと。ある意味、動物的な世界を生きている平山と人間的な世界にいる妹。姪が私はどっちの世界に生きているの?と聞く。
「今度は今度、今は今」という平山と姪の印象的なシーンは平山の人生観が伝わる。やっと自由を掴み取り、自分の人生を生きている。
人々との関わり、ちょっとの贅沢、特にラストシーンの感情が込み上げてくる表情。朝日の美しさに心が震え只々感動しているようにも見えたし、苦しみや悲しみが溢れ出しているようにも見えた。平山の人間らしさ全てが滲み出ていて、役所広司の凄さに圧倒された。素晴らしい映画だった。
心に刺さる
美しく、優しい世界。トイレの清掃員と言う職業にきちんと向き合い、一方で他者との交流を求めない。毎日、同じルーティーンで淡々と、自由に、かつ責任感を持って過ごしている。過去に色々な事があったのだろうな、と感じさせる、でもそれも詳らかには語られず、程よい感じに匂わせて、自ら他との交流をできるだけ断って生きる姿を描く。
そんな孤独かと思われるような日々の中でも、泣いてる子どもだったり、後輩だったり後輩の交際相手?だったり、姪だったり、偶然関わったり、向こうから飛び込んできた人や事件に対して本当に温かく、優しく、寄り添う姿。子どもを助けようとした主人公に露骨に向けられる母親の警戒の目、家族として心配を滲ませつつ、境遇に憐れみや蔑みの態度を示す妹、迷惑をかけっぱなしの上に平気で裏切る後輩とか、散々な目にも合っているのに、誰の事も攻撃せず、批判せず、時として心を揺らしつつも、淡々と日々を過ごしていく。毎朝、家を出るなり、空を仰いで見せる笑顔。本当に完璧な日々だなと心をつかまれます。現実には色々なしがらみや欲やプライドがあってあんな風に生きるのは難しいけれど、何一つ華美なものはないのに、心豊かで憧れる。
ジワジワ後味引きずる映画
トイレを掃除して風呂入って食事して寝るだけの映画が心に響くとは。いつまでも尾を引いている感じ。こんな感覚初めてです。自分は温かい家庭があって、食べログ見ては美味い物を探している部類の人間だけど、結局は毎日会社に行って家に帰って飯食べて、風呂に入って本読んで寝る。映画に出てくる妹家庭のような違う世界の人間かもしれないが人生は一緒。こんな生活していて良いのか?でも続ける以外の選択は無い。監督の奥様も傑作と言っていましたが、正に傑作。
木漏れ日から射し込む光は幸せへと導く人生の道標なのか
主人公、とにかく寡黙です。
朝、ご近所さんの掃き掃除の音で目を覚まし、植木鉢に水をやり、出勤の車内で缶コーヒーを飲みながらオールディーズのカセットを楽しみ、淡々と且つ丁寧にトイレ清掃員としての仕事をこなし、お昼にサンドウィッチと牛乳を飲み、開店直後の銭湯で口まで湯に浸かり、行きつけの居酒屋で野球を眺めながら焼酎を飲み、眠くなるまで小説を読む。
単調な毎日ですが、ささやかな出来事に幸せを感じるのか、この主人公、時々笑います。
途中、説明し過ぎない程度にほんのちょっとだけ、トイレの清掃員になった理由が分かります。
そしてラストシーン、主人公のいつもの笑顔の意味が少し分かったような気がしました。
気付いたら、見てる自分も泣き笑いしていました。
全218件中、61~80件目を表示