PERFECT DAYSのレビュー・感想・評価
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いつもの毎日を過ごしていても、時間は流れるということ。
○作品全体
手が届く範囲の世界で生きていく。そんな作品だ。
古アパートで植物を育て、安く買った本を読み、公衆便所を掃除し、安い銭湯と安いツマミで自分を労う。どれもがすぐに手に入り、周りに干渉されることがほとんどなく、そしていつでも手放せる。ローンを背負うでもなく、長期的なプロジェクトに関わるでもなく、人を気遣うこともない。その世界の気楽さと穏やかさが、木洩れ陽のように優しい。
作品序盤で繰り返されるそうした毎日は、変化のない理想の生活に見える。しかし、実際はそれだけではないことを後半で語ることで、主人公の世界に奥行きを作っていた。
「それだけではない」ことは、「時間」だろう。どれだけ手の届く範囲で生きていても時間を止めることはできない。同じような毎日だったとしても、それを生きる本人にとっては色々な場所に変化を見つけ、それを喜び、時に恐怖する。
主人公は「友人」と呼ぶ樹木の木漏れ日を毎日撮影し、現像した写真を保管している。興味のない人間からすれば全て同じ写真なのだろうが、主人公からすれば大切な日々の変化を感じるものだ。わずかな変化だが、確かな変化。それを大事にする主人公は、そういう点では時間の経過を楽しみ、喜んでいる。
「木」に関連するモチーフといえば、スカイツリーも同じような存在だった。主人公はスカイツリーを眺めるとき、にこりと微笑む。浅草の街の変化の象徴でもあり、いつどこから見てもそびえているスカイツリーは短期的な時間で見れば「不変」の象徴でもある。変わりゆく景色と今そこに変わらずある景色の双方を大事にする主人公の心象風景にシンクロするモチーフだ。
しかし一方で時の移ろいに暗い表情を見せる場面がある。妹から父の話を聞いた時と、建物がなくなって街の姿が変わるとき、行きつけの店主の元夫から癌があることを聞いたとき。時が移ろうことで取り返しがつかないところへ進んでいく。手が届く範囲の世界で生きている主人公でさえも、自分ではどうしようもない領域。時の移ろいが嬉しさや楽しさだけではない、ということを小さな世界観によって映すことで、フィクションとは思えないほどの説得力があった。
いつもの毎日がどれだけかけがえのないものか、ということ。そしてそんないつもの毎日が、いつかは終わってしまうということ。日々を穏やかに生きる主人公から沁みるように感じられて、とても良かった。
○カメラワークとか
・特段明度が高いわけでも、彩度が豊かなわけでもないのに、街の映し方がとても綺麗だった。日本を舞台にしているから普通であれば街の細かい汚さとかまで見つけてしまいがちだけど、本作はむしろ美しく見えた。光の入れ方が巧いからだろうか。そういえば同じヴィムベンダース作品の『パリ、テキサス』でも「街と道路」はやけに印象に残った。
○その他
・主人公と女性の関係とかはちょっと理想入りすぎてる感じがして鼻についた。妹の感じからして主人公は本当は格上の出自だった…みたいな匂わせも少し余計だった。単純な「負け犬」じゃなくて自ら選んだ道なんだっていうことを強調したかったんだろうけど、それは役所広司の芝居で十分伝わってきてたのにな。
「PERFECT DAYS」に幸せをみるか、苦しさをみるか。
役所広司がカンヌ国際映画祭で日本人として19年ぶりに男優賞を受賞した映画『PERFECT DAYS』はあまりにも美しい傑作でした。心の機微を描くプロット、自然で豊かなセリフ、そして見事な演技。「幸せとはなにか」を観客全員へ問う必見の作品。今回は3つのポイントからレビューしてみます。
【3つの感想】
1.役所広司の演技がエグい
本作最大の見どころは、なんと言っても主人公・平山を演じる役所広司の演技にあることはいうまでもない。カンヌ国際映画祭で男優賞受賞も納得で、その凄みは「繊細さ」に宿る。
そもそも、この映画には”大きな物語”はない。トイレ清掃員の平山の日常が淡々と描かれるなかで、”小さな物語”が泡沫のように浮かんでは消える。その微妙な変化が紡がれていくだけの曖昧なストーリーを、役所広司は見事に演じきっている。役所の表情や動作に、平山の微妙な変化が込められていて、そこに映画としての”物語”が表出してくる。
あまりに圧巻の演技に、映画館で笑みが溢れ涙すら誘われたシーンがあった。シーンの概要は次のようなところだ。
平山の同僚タカシ(柄本時生)は、ガールズバーで働くアヤ(アオイヤマダ)に夢中だ。ある日タカシは、平山の大切にしているカセットテープをアヤの鞄に入れ、気に入られようとする。しかし、タカシの恋はなかなかうまくいかないようだ。後日、アヤはカセットテープを平山に帰しにやってくる。「タカシ、なにか言ってた?」とアヤは聞くが、黙ったままの平山。アヤは突然平山の頬に口づけをして去っていく。その後平山はいつも通り、開店直後の銭湯で風呂に浸かる。
このシーンはつまり、おそらく恋愛とは無関係な人生・日常を送る平山が、年齢のかけ離れた青年たちの淡い恋心に振り回され、挙句行き場のなくなったキスをその頬に受け止めるという、それだけでも素晴らしいプロットなのだけれど、なによりも秀逸なのが、その後の銭湯での役所の演技だ。
役所は、鼻の下、口元を隠すように湯船に浸かっている。泡立つジャグジーは、なおさらその表情を読み取りにくくしている。にもかかわらず、役所は、ただその両目だけで、この絶妙な感情を見事に演じきってしまった。喜びでもない、戸惑いでもない、恋心でもない、でもどこか幸せにも似た感情が、ジャグジーの向こうでその眼に宿される。はっきり言って、この1カットだけで、カンヌ男優賞も納得だ。
こうした繊細で緻密な美しい演技がこの映画には溢れている。それはきっと、翻ってみれば、私たちが日常であらわす感情の機微に違いないのだと思う。
2.沁みすぎる人間関係
この映画にはいくつもの複雑な人間関係が描かれている。それはつまり、いわゆる相関図に描かれるような「好意」「ライバル」「尊敬」とかの”単語”で語り得ないような複雑さという意味だ。
いくつか例を挙げると。
・実家近くで裕福に暮らす妹と平山
・居心地の良さを感じる居酒屋のママと平山
・ママの元夫であり末期がんの男と平山
これらの関係性は、決して直接的には描かれることのない平山のバックグラウンドを暗示しているし、そのことが、トイレ清掃員で旧いアパートに暮らす現在の平山を物語ってもいる。なんとよくできた人物描写だろうか。
そしてこの「複雑な人間関係」は、この映画ではもう一歩先に進められている。それは、平山の職業をトイレ清掃員という”エッセンシャルワーカー”に位置付けることで、私たちの生活を支えてくれる人々と観客という人間関係をも、平山と観客の間に築こうとしているのではないか。
さらに実は、その平山も、多くの人々に支えられている。銭湯の主人、古本屋の店主、「おかえり」と言ってくれる居酒屋のマスター。なかでも特筆すべきは、劇中で描かれることのないアパートの自動販売機に缶コーヒーを補充する人。平山が毎日仕事を頑張れるのは、その名前も容姿もわからない”その人”のおかげに他ならないのだ。
「PERFECT DAYS」はこうした複雑で見事な人間関係を通して、観客に自分たちの日常で出会い、生活を支えてくれる人々への感謝を想起させる。
3.幸せとはなにか
「PERFECT DAY」の感想を友人や知人と話し合って興味深いのは、平山のような生き方、あるいはラストカットの平山の表情を、「幸せ」と捉えるか、「苦しさ」と捉えるか、ハッキリと別れるところだ。もちろん前者のほうが圧倒的に多い。
是非みなさんの感想を聞きたいし、観客1人1人がどう思ったか、が最も大切だというメッセージであり映画の意図だということは十二分に理解しつつ、ここではなぜ僕がこの映画を「苦しい」と感じたかについて書いていきたい。
まさに映画のラストカット。平山は朝日を浴びる車内で、涙を浮かべながら(正確には目を赤くしながら)笑みを浮かべて、いつもの通り首都高を走る。この表情は何を意味しているのだろうか。というのが、観客にとってこの映画をどう見たかという問いかけであり、だからこそ完璧なラストカットだとも言える。
この物語の1つの大きなテーマは”変化”だ。公式のあらすじにもあるとおり、「同じように見える」ということと「同じ」は違って、平山の日常には微妙な変化がある。変化に向き合うとき、人はどのような態度をとるだろうか。この物語では、大きく分けて3つに分類されていると思った。「変化を求める人」「変化に気づく人」そして、「変化に縋る(すがる)人」だ。
「変化を求める人」は極めて一般的な人間で、この映画ではタケシがその役割を主に担う。「恋人が欲しい」「お金が欲しい」「仕事を辞める」どれも、なにかしらの変化を自分から求めに行っている。観客の多くが無意識にこのタイプに分類されるのだろうし、「変化する=成功」という価値観が蔓延しているように感じなくもない。
だからこそ、この映画は平山を通して「変化に気づく人」を描いた。木々の木漏れ日に代表される自然の移り変わり、あるいは日常のちょっとした出来事、そこに湧き立つ人々の感情の機微といった、”小さな変化”に気づくことで、”大きな変化”を求めなくても幸せな人生が送れるというメッセージではなかったか。
公式あらすじにある「その生き方は美しくすらあった」という言葉には、こうした「変化に気づく人」を肯定し、今の忙しない現代社会へと余白を投げかけているようにも思える。その描き方に沿ってみれば、きっと平山の生き方や、ラストカットの複雑な表情の意味は「幸せ」になるのだろうと思う。(もちろん、ある程度の苦しさを前提とした)
ただ、である。この映画で描かれる平山が、僕には「変化に縋る人」として描かれているように思えてならないのだ。その最も顕著なシーンが、次のような場面だ。
平山が居心地の良さを感じる居酒屋を訪ねると、お店のママ(石川さゆり)が男性(三浦友和)と抱擁している光景を目の当たりにして、平山は急いで立ち去る。ふいに訪れたイレギュラーな出来事(=変化)に、平山はコンビニで酒を買い込み、河岸で飲み始める。するとそこに、先ほどの男性が現れ、「ママの元夫で末期がんである」と告げる。平山は、男性と影踏み遊びをして、「二人の影が重なると濃くなるのか」という男性の疑問に答えようとする。
そして、このシーンの最後。「二人の影が重なると濃くなるのか」という疑問に対して、男性が「変わりませんね」と言うのに対し、平山は「濃くなってますよ。(略)変わらないなんて、そんなハズないじゃないですか」と語る。
つまり、平山は実は変化を望んでいるのではないか、という疑問が頭に浮かぶ。そして望んでいるからこそ、大きな変化を避けているのではないかと。平山は「大きな変化を諦めた人」だからこそ、「小さな変化に縋る人」なのではないか。
平山の過去は明かにはされていない。ただ、妹との会話を考えると、裕福な家庭で育ったが、父との仲違いのすえ、トイレ清掃員として今は一人で古いアパートで暮らしている。平山はその生活を「理想」と思っているのだろうか。仮に「理想」だと思っているとしたら、妹と別れた後に見せた涙は、一体なにを意味するのだろうか。
当たり前だが、平山は感情を失った「善良な市民」ではない。急な仕事がふってくれば怒り、戻れない家族との日々を想っては涙し、行きつけのお店のママが知らない男性と抱き合っていたら動揺してしまう。平山にも「変化」に対する感情はあるのだ。「気づく」だけではない。平山の口から幾度となく「変化」が語られるたび、私はそれが「変化に縋る祈り」のように思えてならなかったのだ。
だからこそ、私は、この映画の平山に、あるいはラストカットの表情に「苦しさ」を見出した。おそらく平山にはもう「大きな変化」は訪れない。いつものように仕事場へと向かう車の中で、「小さな変化」に縋るほかないということではないか。
ただ、もちろん、そうであったとして、「小さな変化に縋る」という生き方も美しく、そこに幸せが宿るということも確かなのだけれども。
「求める」「気づく」「縋る」どのような関わり方であっても、私たちは変化のなかに生きている。そこに幸せを見出そうと僕は思った。
「PERFECT DAYS」
誰が、誰の生活を、そう呼んだのだろうか。
それでも世界は美しく、目を凝らせば刹那の幸せがある
心が洗われる映画を久しぶりに見た気がする。日常の風景の小さな美しさ、小さな満足感を大切にする平山の生き方に惹きつけられた。
トイレ清掃員平山の日常、それも起きてから寝るまでのルーティンを淡々と追う。話の骨組みはそれだけだ。
風呂のない古びたアパートは今の時代では一見寒々しいものだが、大量の古本とカセットテープが整然と並んだ簡素な和室で規則正しく寝起きする平山には、一片の侘しさもない。
朝は竹箒の音で目覚め、缶コーヒーとカセットテープの音楽と共に出勤する。昼は神社の境内で木漏れ日をフィルムカメラに収めたり、樹木の新芽を摘んで楽しむ。決められた仕事を精一杯した後は、銭湯でさっぱり汗を流し、行きつけの居酒屋でいつもの酒を飲む。古書店で見つけた本を読みながら床に就く。
そんな生活をしていても、彼の心を揺らす小さな出来事はたくさん起こる。判で押したような日常など、本当はありえないのだ。
平山の過去を明確に示す描写はほとんどないが、彼の嗜好や、日々の出来事に対する姿勢からうっすらと推し量れる部分はある。役所広司の表情の繊細な変化が、彼の周囲の人々に対する気持ちの動きなどを雄弁に語る。
音楽の趣味や読書の嗜み、清貧に楽しみを見出せるメンタリティなどから、過去に経済的な豊かさを経験している人なのだろうとは思った。果たして、実家は相当裕福なようで、妹は今もその恩恵に預かっていたが、父と平山の間には、彼に生きる世界を変えさせるほどの断絶が横たわっていた。普段心の底に沈めている記憶がよみがえった時、彼が流した滂沱の涙。それは心の古傷の生々しさからか、もう取り戻せない過去を悔いるものなのか。
そんな平山に、家庭で生きづらさを感じている姪のニコは、同じように親族に馴染めない者として、幼い頃からどこかシンパシーを感じていたのかもしれない。昔彼からもらったフィルムカメラを大切に持ち続けていたのもそのためだろう。
ひとりでいたら何をするかわからないとうそぶき、「十一の物語」に魅入られ、最後に母が迎えに来た時平山に「ヴィクターみたいになっちゃうかも」とニコは訴えた。この短編集に収録された作品「すっぽん」に登場する少年ヴィクターは、高圧的な母を刺し殺す。彼女の抱える閉塞感が滲む。
それを踏まえて振り返ると、夕暮れの橋の上でニコが平山を誘って行こうとした海が、なんだか人生の終着や死を暗示するもののようにも思えてくる。
だから、平山がそれを断り、「今度は今度、今は今」とふたりで楽しそうに繰り返したことに少しほっとした。
過去への陰鬱とした思いを胸の奥にしまって、日々小さなことに満足し、時々困ったりもしながら生きてゆく平山。昨今持て囃される、個性を発揮するとかクリエイティブであるなどと言われる生き方とはある意味対極の生き方だ。それでも平山の生活がどこかまぶしく見えるのは、彼の目が日々刹那の幸せをきちんと捉えていて、そのことによって過去の絶望や、無常がもたらす不安に打ち勝っているからではないだろうか。
ラストの平山の表情のうつろいは圧巻だ。彼がこれまでの人生に感じてきたこと全てが、あのシーンに詰まっている気がした。最初笑顔だった平山の目に涙が浮かんできた時点で、私も胸がいっぱいになった。わけもなく、「ああ人生ってこうなんだな」と思った。
台本には「平山は突然泣く」としか書いていなかったそうだ。ひとことの台詞もないそんな場面を、表情だけで1本の映画のクライマックスにしてしまう。名優の面目躍如。カンヌで主演男優賞を取るわけだ。
平山の生き方を見ているうちに、こちらも自分の日々同じなようでいて変わりゆく生活をもっと慈しみ、信じてみたくなる。心の風通しがよくなるような作品。
胸がギュッとなった作品
「私にとって幸せってなんだろう」って暇になったらすぐ考えてしまうけど、どう頑張ってもいつ考えても世間の尺度で自分の幸せを考えてしまう。それってつまり私も自分がかんじる幸せを他人に当てはめてしまってるってことなんだよな。明日からは小さな幸せを見つけて、それに心躍らせて生きていきたい、そう思える映画でした。あと、ラストのI'm feeling goodの曲が好きすぎてタイミングよすぎて胸がぎゅうううってなった。映画館でまた観たい
Perfect
主人公は多くは語らない
彼の思いやストーリーは、鑑賞者の想像の中
彼は毎日几帳面に生活をし、決して裕福ではない
だが、自分が誰か、どんな習慣をもっているかを知る人が近所にいて、仕事であるトイレ掃除を丁寧に、丹念にやる
趣味のフィルム写真も定期的に現像してはフィルムを買ってその場で詰め次に繋がる
文庫本は読み終えたら古本屋で次の100円の文庫本を買って読み始める
彼の生活と同じく、絶え間ないルーチン
彼が毎晩見る夢は、その日の印象的な出来事がモノクロで流れていく
そして近所のおばあさんのルーチンである竹箒の掃き音で目覚める
影は重なったら濃くなるか?彼の中では濃くなるのだそうだ
その理由は、そうならなければつまらないから
ぐっとくる
数多くのキャラが出ては消えていくが、彼らの人生も深くは描かれない
でも、誰もがいろいろなストーリーを抱えているのだろう
そんな、いろいろな人の人生が主人公の人生に少しずつ重なり、影を濃くして、彼のパーフェクトな日が成り立っているのかもしれない。。。
耳を澄ます
個人的に大好きな「パターソン」にとても雰囲気が似ていた。
平穏で静かな日常を送る平山の視点から見える世界は澄んでいて自然が煌めいている。
平山の毎日を充実させるのは、
・陽の光
・植物
・古本
・ハイボール
・サンドイッチ
・カメラ
・カセットテープ
・缶コーヒー
・人間観察
などなど
平穏な変わらない毎日だからこそ堪能できる。
心の幸せを得るのに、決して贅沢な生活はいらない。
しかし、姪との再会という"イベント"で、平山の表情は一気に明るくなる。平穏な生活で感じる幸せよりも、人との温もりで感じる幸せのほうが遥かに大きいことに気づく。
姪を迎えに来た妹とのやりとりから、人と距離を取るようになった彼の悲しい過去が垣間見えた。
厳格な父のもと育てられ、その期待に応えようと仕事人として忙しなく働いていたのか。。
一族経営の会社で妹とともに父のもと仕事をしていたのか。。
しかし、実利主義で忙しない環境に気を病み、厭世的な生活を送っているのか。。自宅の雑多な荷物の山からそんな背景が想像された。
明らかにはされないが、いろんな想像が頭を巡った。
姉と抱擁を交わした後の涙がとても切なかった。。
本当は大切な人と時間をともにしたいのだろう。でもそれをしたくてもできなかった過去があって、住む世界が違うと信じて、孤独感に蓋をしているのか。。
その後、突然辞めた同僚の尻拭いで朝から晩まで忙しなくトイレ掃除をする場面では、口調は荒くなり、仕事人時代の平山の姿が垣間見えた気がした。
最後の涙はなんだったのか。
美しい朝の景色に感動したのか?世界の美しさに涙が溢れたのか。
日々の幸せを噛み締めると同時に、抑え込んできた孤独感に苛まれ、単調に終わってしまうかもしれない自らの人生に悲しみの涙を流していたのか。
個人的には後者と感じた。
淡々と進み、説明もないのであれこれと想像を膨らますことができてとても良い。
表情だけで機微を表現する役所広司の演技が素晴らしかったです。
リアルじゃないけど、どこかリアルな映画。
観る前に、オチの無い、観てスッキッリするタイプの映画では無いことは感じていたので、がっかりすることも無く、伏線回収を期待すること無く、映像の良さや演技の上手さ、この監督の巧さに集中しながら飽きることなく観れました。面白かった。
前半、平山さんの毎日のルーティンを何度も観せられるんだけど、それがなんでかわからないけど、良くて。
あれ家の鍵閉めないのって、オートロック方式?地味に気になりました。
後半にいくにつれて、、おやっ?っていうシーンがいくつかあって。それが観終わった後に、「あれはなんだったろう……」ってなる。
例えば、姪っ子と自転車に乗ってるけど、2台も自転車あったの?とか、お互いに好意を持ってそうだった飲み屋の女将さんと男が抱き合っているのを目撃した後に平山さんが川でお酒飲んでるところにその男が現れ元夫で余命も短いから会いにきたんだと告げられるとか、、。ちょっとリアルなようで、リアルからズレている。希望的観測をこめた平山さんの妄想??とか思ったり。
本当は妹や姪っ子に会いたいけど会えないのがリアルなのかなと思ったり。
あと、毎晩見ているぼんやりした白黒の夢とか。窓のカーテンを全開で寝ているとろとか。随所随所に、「ただ淡々と毎日を自分なりに楽しんで生きている男」以外の要素が散りばめられていて、何かあって精神的に不安定になったような訳あり過去とか、そんな人生の影を抱えながら生きている様子を勝手に感じさせられる。
あとから考えると、平山さんの表情が全て語っているような気もして。
本当に役所広司さんの演技力が凄くて、本人ですよね、平山さんていますよねって、思うくらい。
観終わった後に、残ったのは、ほんのちょっとだけ恐いというか、狂気じゃないけど、もっとあったかいでもちょっと重い何か。あの日々のルーティンは平山さんの心の平穏を守るためなのかもしれない。
最近はこういう映画より明るくても暗くてもわかりやすい映画をよく観るし、こういう映画は好きじゃない時もあるけれど、この後に残った感じ、なんか分からないけど嫌いじゃないという。
論理的には考察できない感じ。やっぱり監督のヴィム・ヴェンダースさんと俳優さんの上手さが凄いなぁと思う映画でした。
トイレ清掃員の行き方に共感
古びたアパート、でも部屋の中はきれいに整頓された様子から主人公の几帳面さが感じ取れます。公園で見つけた植物を盆栽として育て、毎朝霧吹きで水をやることを怠らない。
朝は食事を取らず、缶コーヒーだけ飲んでトイレ清掃に車で出かける。
車の中では1960年代、70年代の懐メロをカセットテープで聴く。個人的に印象に残ったのは、オーティス・レディングのドックオブベイとアニマルズの朝日のあたる家だった。
昼は公園でサンドイッチを食べ、見上げた樹木の木漏れ日をオリンパスのフィルムカメラで撮る。隣のベンチには同じようにサンドイッチを食べるOL風の女性もいて顔見知りとなるが、特に会話はしない。
夜は地下街の定食屋でお酒と一緒に食べる。アパートにはお風呂がないので銭湯に行く。寝る前には読書する。
休日は自転車に乗って仕事着等をコインランドリーへ洗いに行く。その間、石川さゆり似のママがいるスナックに寄る。古本屋に行って本を買う。店主のおばさんは必ずその本について一言コメントする。カメラ屋にフィルムカメラの写真を受け取りに行き、同時にフィルムを買って帰る。家に帰ってその写真を整理する。気に入らない写真は捨て、気に入ったもののみ残して、アルミケースに入れて押し入れにしまう。押入れにはいくつものアルミケースがきちんと並べられていて、ここでも彼の几帳面さが伺える。
子供を見ると顔が微笑んだり、姪に優しい面がある一方、施設に入居している父親とは何があったかはわからないが、うまくいってないようで、妹が頼んでも会いに行こうとはしない頑固な面もある。
毎日が同じことの繰り返し。でもそのことの尊さを学びました。
主人公のような人間にはなれそうもない絶望
平凡で同じ事の繰り返し。ただ、同じ事を繰り返す中でも、ちょっとした出来事、小さな事件はある、
みたいなストーリーなのは良かったし面白かった。
でも、そこに幸福感や満足感、あるいは、
ささやかな楽しみを見出だせる主人公平山は、
大した人物だなとは思うけれど、
そうあるべきだとは思えなかったし、
自分は平山みたいに大した人物には、
どうやら、なれそうもない事に改めて気づいてしまった。
なーんだ、やっぱり説教映画じゃねえか。
あと、平山は運がいい。同じ趣味嗜好な女から突然キスされるし、「いい子」な姪が平山を頼りに家出してくる。
そんな女も姪も、自分にはどこにもいねえじゃねえか。
結局平山の日頃の行いが良いから、役所広司がいい役者だから、主人公にも「良いこと」が起こるだけなんだ。
なーんだ、やっぱり説教映画じゃねえか。
10ある中で8嫌なことがあっても、残りの2から幸福を掴める人は、この映画は刺さるかもしれない。
自分のような、10ある中で8嫌なことがあったら、8が16になっちゃうような人には、残りの2の幸福は、あっても気づかないまま。
捻くれ者にはちょっと辛い映画かもしれない。
現代プロラタの最高傑作
大切なものを見つめなおす機会になる。変わらないなんてバカはことはない。
同じ1日は存在しないし、同じ木漏れ日は2度とない。そんな日常の中にいるからこそ、変わらない静かな日を慈しむことを忘れてはいないか。また、誠実な人間は他者から信頼される。じぶんからもとめることはせず、話しかけることすらなくとも、同僚からも姪からも思い人の前夫からも即座に信頼される。それは誠実に生きてきた人間が獲得する年輪でありオーラである。平山は自分のロールモデルになった。
違和感の正体に気づいた時の気持ち悪さ
アマプラの配信で視聴。
映画公開時からレビューを見たり聞いたりして評判がいいのは知っていました。
ざっと見ての率直な感想はなんとも言えないおじさんのカッコよさ。
毎日同じような生活なのにそれを違った視点や切り方で見せる映像の綺麗さ。
俳優陣の演技の上手さ。そういった感想を抱きました。
最後の平山の涙はどんな涙なのだろうという疑問も残しつつもいい感じに終わったと思っていました。
他人のレビューを読んで平山の涙の訳を考察していました。
と同時に自分の中に一つの違和感が残っている事に気づきました。
それは「実は金持ちの家の出だった事」
これがなんだかもやもやしていました。
レビューを読んでいるとこんな事が書いてありました。
「監督はこんな感じの男がいいよね」と言っていたそうです。
これがどこまで本当でどんな意味なのかは定かではありません。他人のレビューに書いてあっただけですから。
ただ、これを聞いた時に自分の抱いていた違和感の正体に気づいたのです。
話は少し逸れますが、SNSに流れてくる広告で漫画の広告ってやつがあります。
漫画を数ページ読ませてアピールしてくるそんな広告です。
そこで見かけてちょっとエッチな感じにつられ無料分で読んだ漫画がありました。
それはオタクのモテなそうな男が主人公。
しかしそんな男がかわいくてスタイルもよいオタクの女子と知り合い、その日のうちに体の関係をもってしまうのです。
しかし付き合うとかそういう話は無し、オタク話で盛り上がり毎日のように会い体の関係を続けていく、しかし女は男の気分を害するような事は全く言いません。
他の男を匂わせたり、その男に対しての否定を一切しません。
そんな男にとって都合のいい夢のような妄想の話。
この漫画のタイトルが「こういうのがいい」
わかりますか?
作者の理想を漫画にしてるっていう事で、このタイトルってのは作者の言葉だと受け取れるのです。
そう考えた時、この漫画の気持ち悪さに鳥肌が立ちました。
いい体でめんどくさくなくて、共通の趣味で話が盛りる事ができ、自分の事を一切否定しない、そんなセフレがいたらいいなという話を悶々と漫画にしているんです。
作者の現実はわかりませんが、そういう作者像ができてしまったんです。それが気持ち悪い。
話戻ります。
今回のパーフェクトデイズもその漫画と同じなんじゃないか。
そう思った瞬間、違和感や他の事が全てつながったんです。以下羅列します。
・人との会話が苦手、しかし仕事は一生懸命やる。便所掃除にやりがいを感じている。
・自分の中に一本の芯のような、趣味というかライフワークのような、クリエイターのような部分がある。それは人には分かりずらい所まで行ってしまっていて、自分の中の合格が出ないと破り捨ててしまう。しかもそういう創作を何年と続けている。
・自分の趣味嗜好に興味を持ってくれる若い子に突然キスされる。
・家出をした姪は自分を頼ってくる。
自分に興味深々、自分のいった言葉が姪の心に刺さる刺さる。
まだ居たいという姪を無理やり母親に返す。
・実はいい家に生まれているが父親とのいざこざで家を継がずにいる。
父親に言われた「おまえは便所掃除のような底辺の仕事を続けていればよい」と言われたが父親への反抗心もありずっと便所掃除を続けている。(これは僕の妄想)
そんな状況を知っている妹も兄の心配をし続けている。
・好意を持っていた飲み屋の女将の元旦那が「あいつの事は頼みますよ」と言ってくる。
・辛い事はたくさんあるけども楽しい事もある。涙を堪えて踏ん張る男
これらが全て都合よく作られた話と感じてしまい、気持ち悪く感じてしまいました。
実際のおじさんって世間からの扱いはもっとひどいんです。救いようがないんです。
これ間違いない。こんなミラクル何度も起きないって。
そういえばこの映画を良いって言っていた人は40歳くらいから上のおじさんだったなあ。
そういう人間が都合よく気持ちよくなれる映画だったんだよ。
作者の都合のいい妄想を詰め込んでいる。
もっと楽しくて楽な人生があったのに、それを捨ててもそれより大事な何かを取り、それが結局辛い方だったとしても奥歯を噛みしめて、涙を堪えて耐える、そんな男がかっこいいよねって言ってる、自分に酔った人間の映画だと思いました。
かといって物語の創作の芯ってのはそんなものだとも感じます。
こんな恋愛をしてみたい。魔法を使えたらどうするか。とかね。
ただね、都合が良すぎるんですよ。そこが気持ち悪いのです。
しかし、役者の演技、キャストの面白さ。映像の作り方、これらが全て素晴らしく僕の言う気持ち悪さがぼやけているのではないかと感じました。
ヴィム・ベンダース監督の感性が日本の下町にベストマッチ
本作はヴィム・ベンダース監督が日本で撮った作品でかなり話題性があったので劇場でぜひとも観たかったのだが、タイミングが合わず今になってやっと鑑賞。
さすがはヴィム・ベンダース監督、おじさんの撮り方が絶妙だ。本監督作品で個人的に一番好きな「パリ、テキサス」をなんとなく彷彿させる感じがとても良い。
本監督作品らしくお涙頂戴系ではないので特別泣けるというわけではないのだが、主役と妹との遠慮がちな会話シーンなんかはやはりほんのりじーんとくる。
そして終盤の、二枚目ベテラン役者2人の「影踏み遊び」はレジェンドレベルでしょ。
もちろんラストシーンの朝日に照らされた主人公の泣き笑いは胸に深く刻まれる。
何だかんだと最後まで主人公の背景をはっきりとクローズアップしなかったところが、かえってストーリーに奥深さをもたらせたのかも知れない。
それにしても、カセットテープの音は確かに心に残る。
時間と金と思考の無駄使い
カンヌ国際映画祭で〜 との謳い文句と、YouTubeでもアマプラで観れるオススメ映画として大絶賛で紹介している配信者がいたので、騙されたと思って鑑賞。
初老の薄汚いオッサン、汚いアパート、汚い公衆便所の掃除、初老のカラダを晒した銭湯での入浴シーン、1日が終わった後の?オッサンの睡眠中の夢を象徴したかったのかわからんが白黒の意味不明映像(毎晩繰り返す)、ウンザリする仕事終わりからの居酒屋ルーティーン、休日のルーティーン、etcを延々と観せられて、苦痛以外の何物でもなかった。あれだけ高評価なんだから、途中で何かが変わる、そして感動する、そう信じて最後まで観た。
2時間という時間を無駄にした。
そして、不快感と、半ば怒りを覚えた。
だからこそ、こちらにID登録してまでもレビューを書きたくなり、書き残した。
こんな映画、観てはならない!
正直、主人公に近しい世代だからこそ刺さるとまで評させていたので、それも含めて期待して観たのだが、あまりにもおそまつ。そして、罪人でもない限り、こんな主人公みたいなルーティーン生活をしている日本人はいないと思いたい。ある意味終わっている。
希望も何もない。
そういえば伏線と思えるような、トイレ掃除の時に見かける浮浪者や、境内のベンチで毎回会うひとりランチ鬱顔OLとか、マルバツの紙とか、あんなのもなんだったんだ?観客をバカにしているとしか思えない。
とにかく不快極まりない駄作でした。
後から感じたのですが、挿入歌にしても、有名どころのちょい出演にしても、知っている人しかわからないようなモノもあり、これは映画オタクのための映画なんだなぁと思いました。
万人受けする映画ではありません。
〜追記〜
背景の説明が一切ないので、少女が登場したシーンでは想像を膨らませて、主人公の実の娘なのかと思ってずーっと観ていた。実の父を「オジサン」と呼ぶくらい、妻と離婚?してから会っていなかったのが、会いに来たのかと想像を膨らませて観ていたが、トンチンカン。結局、主人公に妻がいたのか、子供がいたのか、そんなのもわからず、少女は後半に主人公の姉?だか妹だかが少女を迎えにくるので、「あー、ホントに姪だったんだ」と、やっと理解する始末。
そして、どなたかのレビューで読んだかもですが、これはいわゆる「水槽の中の金魚」状態です。
居心地の良い小さな水槽の中でほぼ何もしないで寿命をすり減らしていく、この状態に私は不快感を覚えたのかもしれません。
私たちは水槽の中の金魚で満足なはずがないですよね?
少しでも大きな水槽に移ったり、たまには水槽から出たりするそんな楽しみがなくて生きていて、何になるのでしょうか?夢も希望もありません。初老の男にはもうそんなものは無いと言わんばかりのあの不快な水槽生活。これを観せられて、気分がいいわけありませんよ。
自分の人生、こんなんでいいですか?
私は、過去に何があったとしても、こんな収まり方で水槽の中で生き続けたくはありません。
毎日が変わらないわけなんてない
毎日、毎日トイレ掃除をする男の日常を描いた作品。
どこにでもあるような風景でどこにでもいるような人かもしれない。特別な展開があるわけでもない。
だからこそ貴重でもっと影になる部分にこそスポットを灯したいという監督の気持ちがあったのかなと感じた。
セリフもほとんど無いのでだが、それがまた物語に味を加えていた。
役所広司さんのセリフのない演技が素晴らしかった。
毎日が変わらないなんてない。
このセリフがグッときました。
とても深い映画で良かったです!
日常に非ず…
家族もおらず、無口で孤独な男の平日、休日の変わらぬ平凡な日常。いや、人に会い、ちょっとした出来事が毎日起こり、男はそれに一喜一憂する。そう、変わらぬ毎日なんて一日たりともない。毎朝、家のドアを開け、空を見上げ、雨が降ろうが男は微笑んでいる。これから始まる一日を楽しもうとするかのように。台詞も少なく、繰り返しの描写は多いのだが、観る人の心に響く演技、まるで演技をしていないかのような、自然な振る舞い。ラストの運転中の笑い、泣き、また笑い、泣きを繰り返すシーンは名優たる役所広司の圧巻の演技だった。
生真面目なトイレ清掃人
小津安二郎監督をリスペクトするビム・ベンダース監督らしい人間を淡々と描く演出は見事だしカンヌをはじめ多くの賞をとった作品なのだから、凡人の私が評価するのも口幅ったいのだが、実に地味で穏やかな映画。生真面目な仕事ぶりには頭が下がるが観ている自分も公衆トイレ清掃人になったかのようで気が滅入ってしまう・・。読書や古い洋楽、何よりも自然が好き、終末のスナックでのささやかな贅沢などある男の日常に寄り添って淡々と描いてゆきます、慎ましく誠実に生きることへの賛歌なのでしょう。
人生は人それぞれ、心の持ち方次第で楽しくも辛くもありましょう、だからといって役所さんの様な生真面目な人間にはなれそうもありません・・。
「足るを知る」ミニマムライフ
毎日のルーティンを移動して歩くロードムービーかなあと思ってみた。監督がヴィム・ベンダースだし。そう考えれば、大都会東京でルーティンをこなしながら、誰もが皆、旅をして歩いていると見えなくもない。同じことの繰り返しながら、眠気を催さなかったのは脚本とカメラ、役所広司の演技で言外のニュアンスに満ちていたためか。
毎日の繰り返しながら、少しずつ小さな出来事が起きて、それに微笑みながら、満ち足りた表情を見せる。足るを知る。ミニマムライフの世界。考えようによっては、僧侶、修行者の世界でもあり、ヘンリー・ソローの「森の生活」のような平穏・静寂な世界でもある。達人の境地かと思いきや、姪っ子と妹の登場で、過去の思い出に胸をかきむしられる。住む世界が違うのよっと言うからには、父に反抗して家を飛び出したか、何かよからぬことを起こしたか辺りだろうか。あまりにも欲がなく、謙虚なところ、トイレ掃除に強いこだわりをもっているところからすると、罪滅ぼし、恩返し的な感情だろうか。
生気の宿った木々のざわめき、木漏れ日から自分も生のエネルギーをもらってかのような喜ぶ表情。異常にセリフが少ないことから、主人公がまるで植物かのよう。日々、生まれ変わり、新しいスタートを切っている姿。ともすると、ルーティンがマンネリに陥りやすい人間だが、その対極にあるかのよう。
この境地に至るのは、至難の技に見える。どんな境遇にあろうと、高めようによっては充足した生活が送れる。そんなメッセージ性を感じた。
日々の幸せや楽しさは自分次第。感じ方次第。
トイレ掃除に対するプロ意識を感じた。何事も一生懸命、日々の創意工夫、単調に見えることでも楽しくなるということをこの映画を通して再確認できた。
劇中で流れるルー・リードのPerfect Dayのなかで「You’re going to reap just what you sow」という歌詞があります。
これは、行いの結果が自分に返ってくるという意味です。
このように、劇中の至る所で学び、教訓、生き方、がちりばめられています。
追記:トレインスポッティングの中で流れていた曲も「Perfect Day」であったことを知りました。
主人公の好物
とても素敵な映画でした。
影踏みシーンのところで、泣けてどうしようもなかった。
平山の部屋で、鎌倉・紅谷のクルミッ子の缶があるのを見つけてしまい、ずっと気になりながら映画を観ていたら、妹さんがお土産で渡したのがやはり紅谷の袋。
鎌倉で裕福な家庭に育ったのではないか…と言う推測が立ちました。
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