PERFECT DAYSのレビュー・感想・評価
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いつもの毎日を過ごしていても、時間は流れるということ。
○作品全体
手が届く範囲の世界で生きていく。そんな作品だ。
古アパートで植物を育て、安く買った本を読み、公衆便所を掃除し、安い銭湯と安いツマミで自分を労う。どれもがすぐに手に入り、周りに干渉されることがほとんどなく、そしていつでも手放せる。ローンを背負うでもなく、長期的なプロジェクトに関わるでもなく、人を気遣うこともない。その世界の気楽さと穏やかさが、木洩れ陽のように優しい。
作品序盤で繰り返されるそうした毎日は、変化のない理想の生活に見える。しかし、実際はそれだけではないことを後半で語ることで、主人公の世界に奥行きを作っていた。
「それだけではない」ことは、「時間」だろう。どれだけ手の届く範囲で生きていても時間を止めることはできない。同じような毎日だったとしても、それを生きる本人にとっては色々な場所に変化を見つけ、それを喜び、時に恐怖する。
主人公は「友人」と呼ぶ樹木の木漏れ日を毎日撮影し、現像した写真を保管している。興味のない人間からすれば全て同じ写真なのだろうが、主人公からすれば大切な日々の変化を感じるものだ。わずかな変化だが、確かな変化。それを大事にする主人公は、そういう点では時間の経過を楽しみ、喜んでいる。
「木」に関連するモチーフといえば、スカイツリーも同じような存在だった。主人公はスカイツリーを眺めるとき、にこりと微笑む。浅草の街の変化の象徴でもあり、いつどこから見てもそびえているスカイツリーは短期的な時間で見れば「不変」の象徴でもある。変わりゆく景色と今そこに変わらずある景色の双方を大事にする主人公の心象風景にシンクロするモチーフだ。
しかし一方で時の移ろいに暗い表情を見せる場面がある。妹から父の話を聞いた時と、建物がなくなって街の姿が変わるとき、行きつけの店主の元夫から癌があることを聞いたとき。時が移ろうことで取り返しがつかないところへ進んでいく。手が届く範囲の世界で生きている主人公でさえも、自分ではどうしようもない領域。時の移ろいが嬉しさや楽しさだけではない、ということを小さな世界観によって映すことで、フィクションとは思えないほどの説得力があった。
いつもの毎日がどれだけかけがえのないものか、ということ。そしてそんないつもの毎日が、いつかは終わってしまうということ。日々を穏やかに生きる主人公から沁みるように感じられて、とても良かった。
○カメラワークとか
・特段明度が高いわけでも、彩度が豊かなわけでもないのに、街の映し方がとても綺麗だった。日本を舞台にしているから普通であれば街の細かい汚さとかまで見つけてしまいがちだけど、本作はむしろ美しく見えた。光の入れ方が巧いからだろうか。そういえば同じヴィムベンダース作品の『パリ、テキサス』でも「街と道路」はやけに印象に残った。
○その他
・主人公と女性の関係とかはちょっと理想入りすぎてる感じがして鼻についた。妹の感じからして主人公は本当は格上の出自だった…みたいな匂わせも少し余計だった。単純な「負け犬」じゃなくて自ら選んだ道なんだっていうことを強調したかったんだろうけど、それは役所広司の芝居で十分伝わってきてたのにな。
「PERFECT DAYS」に幸せをみるか、苦しさをみるか。
役所広司がカンヌ国際映画祭で日本人として19年ぶりに男優賞を受賞した映画『PERFECT DAYS』はあまりにも美しい傑作でした。心の機微を描くプロット、自然で豊かなセリフ、そして見事な演技。「幸せとはなにか」を観客全員へ問う必見の作品。今回は3つのポイントからレビューしてみます。
【3つの感想】
1.役所広司の演技がエグい
本作最大の見どころは、なんと言っても主人公・平山を演じる役所広司の演技にあることはいうまでもない。カンヌ国際映画祭で男優賞受賞も納得で、その凄みは「繊細さ」に宿る。
そもそも、この映画には”大きな物語”はない。トイレ清掃員の平山の日常が淡々と描かれるなかで、”小さな物語”が泡沫のように浮かんでは消える。その微妙な変化が紡がれていくだけの曖昧なストーリーを、役所広司は見事に演じきっている。役所の表情や動作に、平山の微妙な変化が込められていて、そこに映画としての”物語”が表出してくる。
あまりに圧巻の演技に、映画館で笑みが溢れ涙すら誘われたシーンがあった。シーンの概要は次のようなところだ。
平山の同僚タカシ(柄本時生)は、ガールズバーで働くアヤ(アオイヤマダ)に夢中だ。ある日タカシは、平山の大切にしているカセットテープをアヤの鞄に入れ、気に入られようとする。しかし、タカシの恋はなかなかうまくいかないようだ。後日、アヤはカセットテープを平山に帰しにやってくる。「タカシ、なにか言ってた?」とアヤは聞くが、黙ったままの平山。アヤは突然平山の頬に口づけをして去っていく。その後平山はいつも通り、開店直後の銭湯で風呂に浸かる。
このシーンはつまり、おそらく恋愛とは無関係な人生・日常を送る平山が、年齢のかけ離れた青年たちの淡い恋心に振り回され、挙句行き場のなくなったキスをその頬に受け止めるという、それだけでも素晴らしいプロットなのだけれど、なによりも秀逸なのが、その後の銭湯での役所の演技だ。
役所は、鼻の下、口元を隠すように湯船に浸かっている。泡立つジャグジーは、なおさらその表情を読み取りにくくしている。にもかかわらず、役所は、ただその両目だけで、この絶妙な感情を見事に演じきってしまった。喜びでもない、戸惑いでもない、恋心でもない、でもどこか幸せにも似た感情が、ジャグジーの向こうでその眼に宿される。はっきり言って、この1カットだけで、カンヌ男優賞も納得だ。
こうした繊細で緻密な美しい演技がこの映画には溢れている。それはきっと、翻ってみれば、私たちが日常であらわす感情の機微に違いないのだと思う。
2.沁みすぎる人間関係
この映画にはいくつもの複雑な人間関係が描かれている。それはつまり、いわゆる相関図に描かれるような「好意」「ライバル」「尊敬」とかの”単語”で語り得ないような複雑さという意味だ。
いくつか例を挙げると。
・実家近くで裕福に暮らす妹と平山
・居心地の良さを感じる居酒屋のママと平山
・ママの元夫であり末期がんの男と平山
これらの関係性は、決して直接的には描かれることのない平山のバックグラウンドを暗示しているし、そのことが、トイレ清掃員で旧いアパートに暮らす現在の平山を物語ってもいる。なんとよくできた人物描写だろうか。
そしてこの「複雑な人間関係」は、この映画ではもう一歩先に進められている。それは、平山の職業をトイレ清掃員という”エッセンシャルワーカー”に位置付けることで、私たちの生活を支えてくれる人々と観客という人間関係をも、平山と観客の間に築こうとしているのではないか。
さらに実は、その平山も、多くの人々に支えられている。銭湯の主人、古本屋の店主、「おかえり」と言ってくれる居酒屋のマスター。なかでも特筆すべきは、劇中で描かれることのないアパートの自動販売機に缶コーヒーを補充する人。平山が毎日仕事を頑張れるのは、その名前も容姿もわからない”その人”のおかげに他ならないのだ。
「PERFECT DAYS」はこうした複雑で見事な人間関係を通して、観客に自分たちの日常で出会い、生活を支えてくれる人々への感謝を想起させる。
3.幸せとはなにか
「PERFECT DAY」の感想を友人や知人と話し合って興味深いのは、平山のような生き方、あるいはラストカットの平山の表情を、「幸せ」と捉えるか、「苦しさ」と捉えるか、ハッキリと別れるところだ。もちろん前者のほうが圧倒的に多い。
是非みなさんの感想を聞きたいし、観客1人1人がどう思ったか、が最も大切だというメッセージであり映画の意図だということは十二分に理解しつつ、ここではなぜ僕がこの映画を「苦しい」と感じたかについて書いていきたい。
まさに映画のラストカット。平山は朝日を浴びる車内で、涙を浮かべながら(正確には目を赤くしながら)笑みを浮かべて、いつもの通り首都高を走る。この表情は何を意味しているのだろうか。というのが、観客にとってこの映画をどう見たかという問いかけであり、だからこそ完璧なラストカットだとも言える。
この物語の1つの大きなテーマは”変化”だ。公式のあらすじにもあるとおり、「同じように見える」ということと「同じ」は違って、平山の日常には微妙な変化がある。変化に向き合うとき、人はどのような態度をとるだろうか。この物語では、大きく分けて3つに分類されていると思った。「変化を求める人」「変化に気づく人」そして、「変化に縋る(すがる)人」だ。
「変化を求める人」は極めて一般的な人間で、この映画ではタケシがその役割を主に担う。「恋人が欲しい」「お金が欲しい」「仕事を辞める」どれも、なにかしらの変化を自分から求めに行っている。観客の多くが無意識にこのタイプに分類されるのだろうし、「変化する=成功」という価値観が蔓延しているように感じなくもない。
だからこそ、この映画は平山を通して「変化に気づく人」を描いた。木々の木漏れ日に代表される自然の移り変わり、あるいは日常のちょっとした出来事、そこに湧き立つ人々の感情の機微といった、”小さな変化”に気づくことで、”大きな変化”を求めなくても幸せな人生が送れるというメッセージではなかったか。
公式あらすじにある「その生き方は美しくすらあった」という言葉には、こうした「変化に気づく人」を肯定し、今の忙しない現代社会へと余白を投げかけているようにも思える。その描き方に沿ってみれば、きっと平山の生き方や、ラストカットの複雑な表情の意味は「幸せ」になるのだろうと思う。(もちろん、ある程度の苦しさを前提とした)
ただ、である。この映画で描かれる平山が、僕には「変化に縋る人」として描かれているように思えてならないのだ。その最も顕著なシーンが、次のような場面だ。
平山が居心地の良さを感じる居酒屋を訪ねると、お店のママ(石川さゆり)が男性(三浦友和)と抱擁している光景を目の当たりにして、平山は急いで立ち去る。ふいに訪れたイレギュラーな出来事(=変化)に、平山はコンビニで酒を買い込み、河岸で飲み始める。するとそこに、先ほどの男性が現れ、「ママの元夫で末期がんである」と告げる。平山は、男性と影踏み遊びをして、「二人の影が重なると濃くなるのか」という男性の疑問に答えようとする。
そして、このシーンの最後。「二人の影が重なると濃くなるのか」という疑問に対して、男性が「変わりませんね」と言うのに対し、平山は「濃くなってますよ。(略)変わらないなんて、そんなハズないじゃないですか」と語る。
つまり、平山は実は変化を望んでいるのではないか、という疑問が頭に浮かぶ。そして望んでいるからこそ、大きな変化を避けているのではないかと。平山は「大きな変化を諦めた人」だからこそ、「小さな変化に縋る人」なのではないか。
平山の過去は明かにはされていない。ただ、妹との会話を考えると、裕福な家庭で育ったが、父との仲違いのすえ、トイレ清掃員として今は一人で古いアパートで暮らしている。平山はその生活を「理想」と思っているのだろうか。仮に「理想」だと思っているとしたら、妹と別れた後に見せた涙は、一体なにを意味するのだろうか。
当たり前だが、平山は感情を失った「善良な市民」ではない。急な仕事がふってくれば怒り、戻れない家族との日々を想っては涙し、行きつけのお店のママが知らない男性と抱き合っていたら動揺してしまう。平山にも「変化」に対する感情はあるのだ。「気づく」だけではない。平山の口から幾度となく「変化」が語られるたび、私はそれが「変化に縋る祈り」のように思えてならなかったのだ。
だからこそ、私は、この映画の平山に、あるいはラストカットの表情に「苦しさ」を見出した。おそらく平山にはもう「大きな変化」は訪れない。いつものように仕事場へと向かう車の中で、「小さな変化」に縋るほかないということではないか。
ただ、もちろん、そうであったとして、「小さな変化に縋る」という生き方も美しく、そこに幸せが宿るということも確かなのだけれども。
「求める」「気づく」「縋る」どのような関わり方であっても、私たちは変化のなかに生きている。そこに幸せを見出そうと僕は思った。
「PERFECT DAYS」
誰が、誰の生活を、そう呼んだのだろうか。
それでも世界は美しく、目を凝らせば刹那の幸せがある
心が洗われる映画を久しぶりに見た気がする。日常の風景の小さな美しさ、小さな満足感を大切にする平山の生き方に惹きつけられた。
トイレ清掃員平山の日常、それも起きてから寝るまでのルーティンを淡々と追う。話の骨組みはそれだけだ。
風呂のない古びたアパートは今の時代では一見寒々しいものだが、大量の古本とカセットテープが整然と並んだ簡素な和室で規則正しく寝起きする平山には、一片の侘しさもない。
朝は竹箒の音で目覚め、缶コーヒーとカセットテープの音楽と共に出勤する。昼は神社の境内で木漏れ日をフィルムカメラに収めたり、樹木の新芽を摘んで楽しむ。決められた仕事を精一杯した後は、銭湯でさっぱり汗を流し、行きつけの居酒屋でいつもの酒を飲む。古書店で見つけた本を読みながら床に就く。
そんな生活をしていても、彼の心を揺らす小さな出来事はたくさん起こる。判で押したような日常など、本当はありえないのだ。
平山の過去を明確に示す描写はほとんどないが、彼の嗜好や、日々の出来事に対する姿勢からうっすらと推し量れる部分はある。役所広司の表情の繊細な変化が、彼の周囲の人々に対する気持ちの動きなどを雄弁に語る。
音楽の趣味や読書の嗜み、清貧に楽しみを見出せるメンタリティなどから、過去に経済的な豊かさを経験している人なのだろうとは思った。果たして、実家は相当裕福なようで、妹は今もその恩恵に預かっていたが、父と平山の間には、彼に生きる世界を変えさせるほどの断絶が横たわっていた。普段心の底に沈めている記憶がよみがえった時、彼が流した滂沱の涙。それは心の古傷の生々しさからか、もう取り戻せない過去を悔いるものなのか。
そんな平山に、家庭で生きづらさを感じている姪のニコは、同じように親族に馴染めない者として、幼い頃からどこかシンパシーを感じていたのかもしれない。昔彼からもらったフィルムカメラを大切に持ち続けていたのもそのためだろう。
ひとりでいたら何をするかわからないとうそぶき、「十一の物語」に魅入られ、最後に母が迎えに来た時平山に「ヴィクターみたいになっちゃうかも」とニコは訴えた。この短編集に収録された作品「すっぽん」に登場する少年ヴィクターは、高圧的な母を刺し殺す。彼女の抱える閉塞感が滲む。
それを踏まえて振り返ると、夕暮れの橋の上でニコが平山を誘って行こうとした海が、なんだか人生の終着や死を暗示するもののようにも思えてくる。
だから、平山がそれを断り、「今度は今度、今は今」とふたりで楽しそうに繰り返したことに少しほっとした。
過去への陰鬱とした思いを胸の奥にしまって、日々小さなことに満足し、時々困ったりもしながら生きてゆく平山。昨今持て囃される、個性を発揮するとかクリエイティブであるなどと言われる生き方とはある意味対極の生き方だ。それでも平山の生活がどこかまぶしく見えるのは、彼の目が日々刹那の幸せをきちんと捉えていて、そのことによって過去の絶望や、無常がもたらす不安に打ち勝っているからではないだろうか。
ラストの平山の表情のうつろいは圧巻だ。彼がこれまでの人生に感じてきたこと全てが、あのシーンに詰まっている気がした。最初笑顔だった平山の目に涙が浮かんできた時点で、私も胸がいっぱいになった。わけもなく、「ああ人生ってこうなんだな」と思った。
台本には「平山は突然泣く」としか書いていなかったそうだ。ひとことの台詞もないそんな場面を、表情だけで1本の映画のクライマックスにしてしまう。名優の面目躍如。カンヌで主演男優賞を取るわけだ。
平山の生き方を見ているうちに、こちらも自分の日々同じなようでいて変わりゆく生活をもっと慈しみ、信じてみたくなる。心の風通しがよくなるような作品。
ベンダースだけにトイレ?
ただ単にトイレ掃除を見せられる映画。
先ずは
1.酒のんで自転車は乗るな!
2.トイレ掃除してるのに、手袋してない。
3.そもそも、手袋が工作用の手袋じゃん。
4.作業着なんで一着しかないの。3日に一回の洗濯って汚い。
5.トイレ掃除してるのに、昼休み手づかみでサンドウィッチなんか食べるな!汚い。
6.食事中にこの映画は見ない方が良い。
そもそも、ヨーロッパには公衆トイレがないので、彼等には珍しいんだろう。
それでいて、ラーメンをすする音を嫌う。郷に行っては郷に従えなんだけど、不条理と思う。
タルコフスキーや小津安二郎の継承を狙っているんだろうが、アラが出てしまった。台詞のない顔だけの演技なら、トイレであらぬ事をやっちまった芸人でも使えば人件費削減できたのにね。
7.メゾネットタイプで風呂なしのアパートなんてあっても浅草あたりじゃ高いだろ
ロード・ムービーと言うより、ここにもジャパニーズショートコントの毒が!
「温故知新」ならぬ「ウ○コ知新」だね。
すごい映画を観たな。。。
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「すごい映画を観たな。。。」PERFECT DAYS msnb76さんの映画レビュー(感想・評価)
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msnb76
4.0泣ける 知的 癒される
2025年4月9日鑑賞 CS/BS/ケーブルで鑑賞
2025年5月7日投稿
編集
すごい映画を観たな。。。
ネタバレ注意
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以前『東京ポッド許可局』でマキタスポーツ・プチ鹿島・サンキュータツオのお三方が熱っぽくこの映画について語っているのを聴いていたので知ってはいましたが、今回 日本映画専門チャンネルで初めて視聴しました。
視てた時は「思ってた通りの “おっさんの日常的映画” だなぁ」という淡々とした進行でしたが、まず始めに (トイレ清掃員で主人公の) 平山がトイレ内で迷子の男の子を発見し、トイレから手を繋いで一緒に出て、親を探そうとしたら母親が駆けつけてきて、平山に礼もないどころか (トイレ清掃員だからか) 除菌ウェットティッシュで男の子の手を拭いた時、私は思わずテレビに向かって「ふざけるなよ!!」と怒りで叫んでしまった。だが平山は、そんな母親をよそに微笑んで手を振る男の子に微笑み返す。
ここで最初に平山に感情を持っていかれた、感情移入が始まった事を後で自覚した。
上手い!👏👏
・・・後はまぁ、 だらしない若手清掃員のタカシ (柄本時生) に振り回される平山にも可愛らしさや「おかしみ」があって感情をひたすら持っていかれる。
基本的には今の日本の『格差社会』を浮き彫りにする映画 (特に妹のケイコ (麻生祐未) が運転手つき高級車でやってきて、平山の軽1BOXとオーバーラッピングするシーンが象徴的) なのだけど、浅草地下街の中華料理屋の大将 (甲本雅裕) や、スナックのママ (石川さゆり) や姪のニコ (中野有紗、 彼女が味があって凄く良い) に慕われていたりして『救い』がある所が良い。
その妹のケイコが平山を慕って家出してきた姪のニコを迎えに来る、『格差』が浮き彫りになる終盤のシーンが、あらゆる意味での『クライマックス』だと思うが、ケイコが「お父さん、もうよく分かってないの。昔とは違うから。施設に行ってあげて」と言い残し、高級車で去って行った後、平山は嗚咽する。六十男が嗚咽するなんて余りないこと。「きっと過去になにか大きな禍根があるに違いない」と、平山の過去に思いを馳せさせるが、決して詳細は明かさない。
……この辺は、神経質かつ気ぃ遣いが多い日本人 (の脚本や監督) なら、詳細を明かしてしまうのでは、とも思った。
そんなこんなで完全にこちらが『平山のファン』と化した最後に、軽1BOXで仕事場のトイレに向かって運転する平山のアップの2分間。絶妙に表情が変わっていく、「泣き笑い」とも言える表情の変化だけで心の機微を表す、役所広司の技量にすべて委ねられたようなラストシーン。
……思い返しただけで涙が溢れてきてしまう。
残念ながら “大俳優” 役所広司の素晴らしさに触れる機会が今までなかった私が「ようやく」その凄さに触れられた喜びまでをも同時に感じる。
私が貧乏人だからここまで感情移入できたのか。功成り名遂げた金持ちは、感情移入できないのか。できたとしても、貧乏人ほどの割合ではないのか。いや「貧すれば鈍する」と言うので、その割合は案外変わらないのか。
見終えた後も、いろいろと気にさせる映画でもある。
最後に、マイナス1は、友山 (三浦友和) が、なんで平山の居所を掴めたのか、「後を付いてきたの? でも平山は自転車だったよな?」とモヤモヤする分… かな。
主役の役所広司さんがほとんど口をきかないのも良い
良い映画でした。私の好みの映画です。
丁寧で、破綻していない映画。
最初のカットから良い映画だと感じたし、ラストにまた同じカット割で映画を締めるのが心憎い。
主役の役所広司さんが、ほとんど口をきかないのも良いですね。
ラスト前の長回しの表情だけの演技には、感情が引き込まれてしまいました。
一年のラストを飾る名作を観ることができて満足しました。
便器はブラシで掃除しないと普通に汚い。「日本を美しくする会」じゃあるまいし。
不特定多数が利用する公衆トイレの掃除は、ゴム手袋だけじゃなくて、ブラシをちゃんと使ってほしいです。(日本を美しくなる会、とかが推してるやつですよね。政治家にも信奉者がちらほらいて本当無理。教育現場とかにも入り込んででやらされてる児童にはトラウマです)見てて気持ち悪くなりました・・・・
便所掃除にブラシを使っていない時点で無理なのですが、
女性たちとの関係もすごく不自然。
金髪の若い子からのほっぺたへのキス。
姪っ子は風呂なしアパートに転がり込んできて「神田川」的シチュエーション。
飲み屋のママからも贔屓される。
話が合う書店員女子。
などなど、あらゆるジャンルの女性にほのかな好意を寄せられてて、なんかおじさんが気持ちよくなる要素が詰まった映画ですね。
最後のクレジットで「日本を美しくする会」が入ってないか凝視してしまった。
「日本財団」はありました。
不動のルーチンと変わりゆく時の流れの対比
平山さんは毎日変わらず自分の規則に沿って生きているし、積み重なる文庫本や写真缶からも分かるように、同じものだけをずっと大切にしている。スマホは持たないし、カセットテープで音楽を聴く。いつから変化をやめたのか、そこまでは推し測れないが、平山さんはずっと変わらない。
それなのに同僚は突然仕事を辞め、会いに来た姪(実際には、娘?)とは、また離れ離れになる。
「こんどはこんど、今は今」。でもそれは、自分の為の言葉なのでは?
今度っていつ?そう聞かれていたけれど、平山さんが一番知りたいことだったりするんだろうな。
そして好意を寄せていたスナックのママには、元旦那が会いに来る。元旦那は癌で先が短いという。変わらない完璧な日々なんてなくて、完璧は毎日形を変えながらそこに存在している。自分は変わらずに待っていても、一切は通り過ぎてしまう。同じように見える毎日も、少しずつ変化していて、同じ日はもう戻ってこない。
ルーチンに固執する平山さんだからこそ、痛いほどそれが身に沁みて、最後に泣いていたんじゃないかな。
この映画、そんなに良かったですか?
皆さんのコメントを読んでるとすごいべた褒めなんだけど。
なんか最初から海外での上映を意識してる作品だよなぁ、英語の歌をテープで聞いたり。兄、妹で抱き合ったりする????実際、当方(女性)、兄がいるけど抱き合ったことなんて人生一度もないよ???
てことで、すごい違和感ありあり、って思ってたら監督がヴィム・ヴェンダースって
ドイツ人てことで納得。日本人の監督なら車で聞く曲は日本語の曲だったろうし、兄妹がハグする場面もないよ。
それにしても高倉健さんの「あなたへ」もそうだったけど、寡黙な主人公の映画には必ずおしゃべりで絡んでくるその他の人たちが登場する。基本トイレ掃除は一人でするものだと思うけど。だから仕事仲間と顔見知りになってお互い干渉するような関係まで行くようなことはないと思う。あと、長いこと会ってない親戚のおじさんのところに泊まりに行くような姪とか、ありえない。年頃のお金持ちの女の子よ??家出したからって古いアパート暮らしのおっさんのところに行くことは絶対、ない。しかも公衆トイレの掃除を手伝うとか、絶対ない。
あと、使用した作業着を部屋に干してるの。これもないでしょう、と思った。排泄物は排泄された瞬間から汚物になるので、もし「それ」がついたままの作業着が部屋のなかにあるのは問題。使用した作業着はそのあとすぐ消毒して洗濯しないと、ほかの洗濯物も汚染してしまうので注意が必要なはず。実体験として介護にかかわったものとしてはそういう点も気になってしまう。
ストーリーとして全然あり得ない設定で、日本的な描写、というのか、早朝から掃き清める風景、銭湯、など。当方、東京23区暮らしですが、集合住宅ばかり。
まぁ、そんなこと言っては毎日判で押したような彼の人生が延々と描かれるだけになってしまうから時々人とのふれあいを描くことで変化を持たせる演出になってるわけだけど。
たまたまアマゾンプライムで見たからセリフが全部字幕で出てたので英語の曲の歌詞も字幕に出てて理解できた。で、この曲ってこんな歌詞だったんだ、って発見はうれしかった。当方英語の勉強は多少してきたつもりだったけど曲のヒアリングは全然できてなかったんだ、って改めて思い知った。ほとんどの曲は知ってた曲だったんだけど。これだけは拾い物だった。
「今度は今度、今は今」に込められたヴェンダースのメッセージ
カセットテープが主人公の平山を象徴するものになっている。カセットテープの全盛期は1980年代、バブル景気の頃とぴったり重なる。
また画面が4対3のアナログの画面比率で、カメラが常に平山にフォーカスしているので、何か理由がありそうだ思ってちょっと調べてみた。
そしたら画面比率16対9のハイビジョン試験放送が始まったのが1991年11月で、これはバブル崩壊の時期とほぼ一致する。
これらのことから分かるのは、おそらくバブルの頃に平山の身に何かが起きたということ。
バブル崩壊で多くの人の人生が狂わされたから、平山の人生もそこで大きく変わったんだと思う。
平山がスマホのアプリすら分からないアナログ人間だということは、姪っ子のニコとの会話でも分かる。
(ちなみに平山はガラケーを使っているが通話機能以外使っていない)
つまり、平山の人生はバブル崩壊とともに時が止まっていて、平山はその後30年以上アナログ人間のままで生きてきたってことを画面比率とカセットテープで語ってる。
物語終盤で平山が妹と再会するシーンがある。
運転手付きの高級車から降りてきた妹が、娘のニコがお世話になったお礼に「これ好きだったよね」と言ってオシャレな高級菓子っぽい紙袋を手渡す。
このシーンから分かるのは平山も昔は裕福だったということ。
そしてかつて父親との確執があって、父親がボケてしまった今でも会いに行く気にはならないということ。
つまり父親に対するトラウマが相当深い。
これは勝手な想像になるけど、平山は多分、昔父親が経営する会社で働いていて、バブル崩壊で会社が倒産、その過程で父親と大喧嘩して転職、その後色々あって人間不信になって無口になって、他人と関わらずに済むトイレ清掃の仕事に落ち着いた。
そんな感じじゃないだろうか。
そして妹の方は、自力で事業を起こして今の暮らしを手に入れたか、あるいは裕福な男と結婚して今の暮らしを手に入れたかのどちらかだろう。
では平山はいつからトイレ清掃の仕事を始めたのか?
平山は家出したニコがアパートを訪ねてきた時、最初誰だか思い出せなかった。
「大きくなったなあ」と感慨深げに言っていることから幼い頃のニコしか知らない。
ニコが持ってるカメラも幼い頃平山にプレゼントされた物。
現在のニコが十代後半として、見た目の変化で幼い頃の面影がなくなるほど昔というと、せいぜい9~10歳くらいか。(それよりも幼いと、カメラなんてプレゼントしないと思うし)
だとすると、平山が最後にニコに会ったのは、6~7年くらい前だと推測できる。
つまり平山がトイレ清掃の仕事を始めたのはおそらくその頃から。そして妹がそれを恥じたために妹一家と疎遠になってしまったということだろう。
しかし平山はトイレ清掃の仕事に就いて、慎ましい質素な生活に幸せを見いだせるようになった。
その事は田中泯演じるホームレスの存在で強調されている。
ホームレスは樹木に囲まれた公園ではイキイキとポーズ(光合成のポーズ?)を取っているが、ビルに囲まれた駅前の横断歩道では怯えて戸惑った表情を浮かべていた。
そしてそんなホームレスに対し平山は常に共感の眼差しを注いでいる。ホームレスが楽しそうだと平山も笑い、ホームレスが苦しそうだと平山も目に涙を浮かべる。
つまりホームレスが平山の感情を代弁している。平山は人混みが苦手、というか人間が苦手、そして物言わぬ樹木が好きということだ。
平山の樹木に対する愛情は樹木を育てている部屋の照明でも分かる。朝でも夜でも常に紫色の淡い光が当たっていて、平山が24時間惜しみない愛情を注いで樹木を育てていることが強調されている。
ちなみに物語の中で紫色の光が当たる対象がもう一つだけある。平山が休日だけ通うスナックがあるが、そのスナックのママがカウンター越しに接客していて、平山に近づいた時だけママの顔に紫色の光が当たる。
平山はあまり感情を表に出さないけど、樹木に対するのと同様に、ママに対しても好意を抱いていることが比喩的に表現されている。
平山が仕事についてきたニコと神社で会話するシーンがある。
平山は(格差が広がったことによって)同じ場所に暮らしながら接点のない別々の世界が生まれたことを説明しているが、この映画で描いている問題はそれだけではない。
格差が長引くと身分が固定化しそこから這い上がれなくなる。
平山とニコが自転車で並んで走るシーンでは、ニコが「海へ行こう」と提案したのに対し、平山は「今度」と言ってお茶を濁す。
「今度っていつ?」とニコが尋ねると、平山は「今度は今度、今は今」と笑って答える。
ニコの「海へ行こう」という言葉は現状を変えられるかどうかというメタファー。
ニコには今すぐ何かを始めて何にでも成れる可能性があるが、平山の方は今の年齢(多分60歳前後)で急に生活を変えることもできないし、転職も現実的に難しい。
つまりニコには無限の可能性があるが、平山には何の可能性も残っていない。平山に「今度」はない。だから「いつ?」と聞かれても答えられない。だがニコは「今」すぐにいくらでも新しいことを始められる。
そんな2人の世界がひとつになることはない。自転車で並んで走っていても、二つの線がひとつになることはない。隣どうし並んでいても全く別世界の住人だという残酷な現実がここで描かれている。
だから妹がニコを迎えに来た時、嫌がるニコの味方をせず帰るように促した。
一緒に暮らすのは無理なこと、自分がニコの面倒を見るのは無理なことをよく分かっていたから。
そして妹とニコを乗せた車が去る間際、俯いて涙を流した。家族なのに一緒にいられない現実が悲しくて悔しかったからだろう。
また格差というテーマは他のエピソードでも描かれている。
たとえば平山の下で働くバイトのタカシが「金がなきゃ恋も出来ない」て台詞を何度も繰り返してたけど、そう思いこんでること自体が問題。
「金がないから何もできない」という考え方は「金がないから何もしない」という考え方につながり、タカシが底辺から抜け出す機会を永遠に奪うことになる。
そしてこういう若い世代が増えると、格差は縮まるどころかますます開いていく。
実際タカシには全く労働意欲がなく、平山に金を借りて恋人の店に遊びに行き、最後は突然バイトを辞めてしまう。
恋人のアヤにしてみれば、金を借りてまで店に遊びに来て欲しくはなかったはず。でもタカシにはそれが分からない。
(障害者に偏見なく接する優しさがある一方で、金にばかり固執して他のことに興味がない)
アヤはそんなタカシが悲しくて平山の前で涙を見せたんだと思う。
物語終盤、スナックのママの元夫である友山と平山が影踏みをして遊ぶシーンがあるが、平山と友山、どちらも名前に山の字がつくのは意図的なものだと思う。
友山は末期ガンで顔色は悪いものの身なりはそこそこ良くて、それなりにいい暮らしをしてることが窺える。(少なくとも平山とは対照的)
そんな友山が平山に投げかけた「ふたつの影が重なると濃くなるか」という問い。
平山は「濃くなる。何も変わらないなんてそんな馬鹿なことあるはずがない」とムキになって答える。
格差や職業差別がなくなってふたつの世界がひとつになれば世の中はもっと良くなるはず。
2人の影踏み遊びにはそんなヴィム・ヴェンダースの願いがこめられているように感じた。
この映画って平山自身があまりにも寡黙で自分の過去を何も語らないから、観客が勝手に想像するしかない。
でも役所広司の演技が上手いので平山の感情がつぶさに伝わってくる。
特にラストシーンで役所広司が見せる涙の芝居には深く胸を刺された。長回しの一人芝居で、それまで抑えてた感情が堰を切ったように溢れ出てくる。
バブル後30年以上に渡って続く格差の中で、底辺から抜け出せなくなった男の悲哀が滲み出ていた。
普段は穏やかに暮らしていても、思うようにならなかった人生に何の後悔もないはずがない。
特に仕事に対する差別は平山にとって苦痛だろう。
でもそういう生き方をせざるを得なかった、もしくは他に生き方を選べなかったから、その中でどうにか生きがいを見出し、ささやかな幸せを見つけられた。
平山はそのことに満足し充実した日々を送っている。そういう意味でのパーフェクトデイズ。
(金があれば何でもできるのに。と言ってやる気を失ってるタカシとは対照的)
バブル崩壊後広がった格差、二極化した社会、どんな裕福な人間でも公衆トイレにはお世話になっているのに、清掃員の仕事は蔑んでいる。
迷子の我が子を保護してくれた平山を一瞥するなり、礼も言わずにウェットティッシュで我が子の手を拭いた母親。
兄妹としての愛情を持ちながらもトイレ清掃員というだけで平山を拒絶する妹。
ヴィム・ヴェンダースが日本の社会構造をガチ勉して、社会格差と職業差別をテーマに作った映画。
資本主義の象徴のようなスカイツリーの下で、物言わぬ植物のように無欲で質素な暮らしを続けている平山。その姿は物欲に支配されて人間味を失ってる現代人に対する風刺でもあると思った。
※この映画ってほぼ全編平山の一視点のみで描かれてるけど、一部だけニコの視点で描かれてるシーンがある。
平山の仕事が他人の目にどう映っているのか、ニコの視点を通して客観的に描く必要があったからだと思う。
※※「今度は今度、今は今」のシーン。
一つ前の銭湯のシーンから振り返ると分かりやすい。
まず、平山は妹がニコを迎えに来ることをあらかじめ分かっていた。(銭湯で妹に電話していた)
そして妹がニコを連れて帰ったら、もう当分自分に会わせないようにするだろう事も想像出来た。
だから「今度っていつ?」とニコに聞かれても、いつ行くとは約束できなかった。
また銭湯のシーンで平山とニコは何か食べに行こうと話していた。つまり、自転車に乗っている2人はこれから食事に行くところ。
「今度は今度、今は今」
この台詞の表だけを見るととてもシンプルで、ニコとの休日の締めくくり(食事の時間)を楽しく過ごしたい。先のことはとりあえず置いておいて今を楽しもう。そんな意図だと受け取れる。
しかしこの一連のシーンをメタファーとして考えると上記の感想でも書いた内容になる。
ニコの「海へ行こう」という言葉は現状から抜け出せるかどうかのメタファーであると同時に、ニコが折り合いの悪い母親とではなく、幼い頃から慕っている平山と生きていく選択をしたことを意味するものでもある。
(ニコはこの直前の台詞で「私はおじさんの世界とママの世界どっちの世界にいるの?」と問いを投げかけている。これは裏を返せば自分はどっちの世界で生きていきたいか迷っていると受け取れる)
しかしニコが平山の世界で平山と一緒に生きていく選択をしたところで、経済力のない平山はニコに何も与えてやれない。
それが格差社会の現実であり、平山はそれを身に染みて知っている。
だから「今度っていつ?」という質問に「今度は今度、今は今」とはぐらかす答えを返した。この平山の「今度」は問題を先延ばしにしているだけで、ニコの質問に正面から答えていない。
もっと分かりやすく言うと、裕福な世界の住人であるニコは今すぐ「海」へ行けるが、貧乏な世界の住人である平山は今どころか残りの人生をかけても海へ行けない。
つまり平山には「今」どころか「今度」すらない。それでも「今度」という言葉にすがったのは、自分を慕ってくれてる可愛い姪っ子の前で、自分は「海」へ行けないとは言えなかったから。
だからこの物語でこの「今度」と「今」は決して交わらない物の象徴になっている。
ニコの「今」はあらゆる可能性に満ちているが、平山の「今度」は何のあてもなく頼りないもので、何の可能性も残っていない事を現している。
平山はそれをよく分かった上で「今度は今度、今は今」と言っているが、ニコはまだ何も分かっていないので言葉の表面だけをとらえて「今度は今度、今は今」と無邪気に繰り返している
人生を表情で表現する
主人公の平山は、日常の中にある小さな幸せに気付き、たくさん集めることが出来る、ある意味幸福な人間なのだと思います。
生活に必要なだけの給与で、自分の好きなことを繰り返し行い、余計なしがらみを持たず生きていく人生。
でも自分の周りは確実に変化していることにも気付いている様子。
終盤、新しい一日の始まりを朝日を浴びながら運転している中で見せる表情。
繰り返す毎日の充実感と喜びの中に、不安や後悔が入り交じったような平山の表情は、役所さんにしか出来ない、人生が凝縮されているようで圧巻でした。
タイトルなし(ネタバレ)
平山演じる役所広司さんの寡黙な演技と、同僚である柄本時生さんのチャランポランだけど人たらし系の演技が、思わず微笑んでしまうほど素晴らしい。
平山さんの丁寧な掃除は、心までスッキリする感覚を覚えた。綺麗好きなところと清潔感を大事にしているのかなと言う部分を見て取れた。
寡黙だから車で流れる洋楽と、とてもよく合う。
観客に想像を任せるシーンが2回ほどあったかも。
穏やかな気持ちになれる、リラクゼーション的作品
今日(2025/02/08)から数日間かけて観ました。
無口で影のある男が主体の作品ですが、彼が本作の主人公というべきなのか、少し考えてしまいます。
早朝から出勤。仕事用の車はカセットテープが再生できる旧式。心地よい洋楽が流れるなか現場に到着。
公衆トイレの清掃員という、過酷で孤独な仕事に就いており、仕事終わりに一杯ひっかけて、就寝前に寝室で読書をして眠る。本当に絵に描いたような地味な生活。そんな中起こるわずかな変化やものごとに、自分自身の生活を重ね合わせ、気づくと彼に感情移入して魅入ってしまいました。
『かもめ食堂』、『ツユクサ』、『きのう何食べた?』などのようなゆっくりとした空気の流れが心地よい映画です。
監督が外国人(ヴィム・ヴェンダース)ということもあり、日本人にはない日本ならではの美しさ、おかしな所などを映像やキャストの振る舞いを見られます。
落ち着いた雰囲気の良い映画だと思います。アマプラからどうぞ👋
タイトルなし(ネタバレ)
「PERFECT DAYS」ってどういう意味なのかな、と考えてみた。一日、一日を、精一杯生きるってことかな。同じことの繰り返しに見えるけどいつも何か違う、平凡で大切な毎日を、命を尽くして生きる。
何にも分からないのが良いね。
役所広司はなぜトイレ清掃の仕事をしているのか。父親とどんな確執があったのか。姪っ子はなぜ家出したのか。柄本時生はなぜ突然仕事を辞めたのか。田中泯はなぜホームレスになったのか。飲み屋のママ石川さゆりと、元夫三浦友和はなぜ離婚したのか。皆んなそれぞれのPERFECT DAYSがあるのだ。不器用で、苦くて、それでもいつか必ずお別れする時が訪れる。サヨナラは名残惜しい。
バックで流れる往年の名曲や、古本屋で購入して来る文庫本を丁寧に紐解けば、そこに「なぜ?」に対するヒントが隠されているかもしれません。
映画を見始めてしばらくは、妙な違和感がありました。映像がすごく生々しくて、自分もそこに居るような感覚になるのはどうしてだろう?と。なんか質感が違う。最初は、自分が東京でずっと働いていたからそう思うのかな?と思ったけど、ドキュメンタリー風に撮影したと知って納得しました。使用するカメラが違うんでしょうか?凄く良かったです。匂いや音、風、光、雑踏の生活音も肌で感じられるようでした。
あと、現代的なスカイツリーと、昭和にタイムスリップしたようなレトロな街並みとの対比が面白かったです。ああ東京ってそういう街やんな…一歩路地裏へ入れば混ぜこぜで、そういうとこ大好きだ、、と思いました。無関心なくせにノスタルジックで、切なさが込み上げる不思議な街。
若い時はあまりピンと来ないかもしれません。歳をとってから見ると、きっとグッと来ちゃうと思います。人生は思っているより短い。最後のシーンは本当に言葉になりません。役所広司の素晴らしい演技に涙が止まりません。
何処にでもある哲学
単調な繰り返しの毎日、木の葉、木洩れ日、朝のホウキの音、影など至る所に深い意味と楽しみがある。主人公はどうやら良いところの子で父親に反発してこういう生活をしているらしい。テレビもなく植木と本と写真が楽しみのようだ。東京の公衆便所は様々で面白ろい。多分彼はこの生活に満足し、夢を見ている。日本なのに日本でないような所がある。ハグするところ。日本人はやらない。ハグしたい時があるけれど。でもなんだか見た後に何かが浮かんで残っている。
パーフェクトな日常の中に流れるもの
いまいち評価がわからない作品。東京都心でトイレ清掃員として暮らす60代男性の日常が淡々と映像で映し出される。潔癖で、質素で、単調な日々。それが彼のパーフェクトな毎日なのだ。チャランポランな仕事の同僚に困らされたり、姪っ子が突然やってきたり、行きつけの飲み屋の女将さんの元夫が現れたりと出来事は起きるがドラマは無く、日常に戻っていく。そんな彼の心、感情が揺れたのが妹から入所した父(認知症?)の様子を聞いた時と飲み屋の女将さんの元夫の命が短いという話を聞いた時。淡々と過ごす日常の中でも確実に訪れる老いや死という問題が、時間と共に流れているということを実感させる。
こうした淡々とした映像の中に、その背景にあるであろうドラマを様々に想像し考えを巡らせることが、この作品の面白いところなのかもしれない。
偽善まみれの駄作
過大評価されている作品。東京・渋谷の公衆トイレを清掃する男・平山(役所広司)の静かで淡々とした日常を描いた本作は、観念的で装飾的な「禅」的美学を表面に貼り付けただけの作品に過ぎず、日本の現実を真正面から見据えたものとは到底言えない。むしろ、外国人監督による「エキゾチック・ジャパン」的な視線が強く、実態を無視した日本の理想化されたイメージを押し付ける結果になっている。
まず、本作の最大の問題点は、その退屈さにある。平山の日々は同じ作業の繰り返しであり、映画はそれを執拗に映し出す。公衆トイレを清掃し、同じ道を歩き、コンビニで食事を買い、同じカセットテープを聴き、文庫本を読み就寝する。もちろん、繰り返しの中に微細な変化を見出すことが映画の意図なのかもしれないが、そうした「味わい」は、観客に何ら新たな発見をもたらさない。ただ単に「同じシーンをまた見せられている」という感覚が続き、特に映画後半では、そのマンネリズムが露骨に浮き彫りになる。退屈を美学に昇華できていない点で、これは大きな失敗と言わざるを得ない。
さらに、主人公・平山のキャラクターの掘り下げが極端に浅い点も問題だ。彼の過去には何らかの事情があることが示唆されるが、それは一切語られず、観客は「考察」を強いられる。しかし、その背景が示されないまま、彼の「現在」の姿だけを描いても、観客が感情移入するのは難しい。彼がカセットテープで音楽を聴く、植物を愛でる、モノクロ写真を撮るといった「趣味」の描写が積み重ねられるだけで、彼の内面にはほとんど迫れていない。これでは、ただの「無口で趣のある老人」という記号的なキャラクターになってしまう。
また、日本社会の現実との乖離も目立つ。平山が働く公衆トイレは、あまりにも美しく、実際の清掃員が直面するような過酷な労働環境や社会的な視線は一切描かれない。日本の労働者階級の厳しい現実をすべて覆い隠し、「静謐な生活を送る老人の美しい日常」という虚構を作り上げている。ヴィム・ヴェンダースはこれを「詩的な視点」と言うかもしれないが、それは単なる美化であり、都合のいい省略にすぎない。
加えて、映画の演出はあまりにも説明的で、観客を見下しているようにさえ感じる。例えば、カセットテープから流れる音楽は、「平山の気持ち」を代弁するかのように選曲され、映画のラストでは『House of the Rising Sun』が流れるが、その選択はあまりにもあざとい。観客に「彼の人生に何かあったのだろう」と考えさせようとする意図は見えるが、あまりにも表面的で、映画としての深みを生んでいない。
『PERFECT DAYS』は、映像的な美しさこそあるものの、その美しさは単なる「海外から見た日本の理想像」に過ぎず、映画としての力強さには欠ける。結局のところ、この作品は「静かな映画」という枠に自らを押し込め、退屈さと表層的な美学をもって「芸術性」として売り出しただけの作品なのではないか。
蛇足だが配役も酷い。名だたるバイプレーヤーが数多く出演したが(田中泯、モロ師岡、片桐はいり、あがた森魚、研ナオコetc)顔さえはっきり写さず、「俺ヴィム・ヴェンダース名匠だからね、出してあげるけど端役だよ」笑、みたいな驕りを感じた。
“完璧な日々“と幸せコレクションの1/fゆらぎ
古アパートに住み、毎朝同じ時間に起き、同様の支度を行い、同僚と清掃の仕事をして、銭湯で汗を流し、飲み屋で一杯飲んで、小説の続きを読み、眠くなったら就寝する。ルーティンで埋められた質素な生活、まるでお坊さんみたいと思いました。カセット音楽や文庫本の娯楽はあるし酒も肉も喰う、修行僧でもないお坊さんも今どきこんな感じ、と考えるとトイレ清掃を浄化と考えると公衆便所は檀家、毎日檀家を廻って念仏を唱えて浄化して、眠りにつくと浄土と俗世の間を微睡(まどろ)んでいる、と考えると平山氏の生活はちょっと仏教的で可笑しく見えて来ます。
修行僧の煩悩を排除した質素な生活を最小限とするとそこを何を足していけば自分のとって“完璧な生活“になるのでしょうか。音楽は欲しい今ならスポティファイ、観るなら小説と映画とネットフリックス、ビールと焼き鳥とカレーと寿司とラーメンは食べたい、そして自由なオートバイの旅。逆に足したくないものは理不尽な事を言う雇用主、イヤミを言う課長、騒がしい住処、変な匂いのする街。これくらいがちょうど良いな、と思うと平山氏よりもう少し収入が必要そうです。もっと欲望を剥き出せば海外旅行高級外車都内タワマンザギンでシースーなどなど、挙げればキリがありませんが宝くじでも当たらないと無理無理、結局のところ収入とのバランスで望む望まざるに関わらず取捨選択した結果で生活が築き上られているはず、時にはしんどい生活を送っていることもありますよね。
研究によると刺激が起きる頻度fと刺激の大きさPの関係がP=1/fの反比例、小さな刺激は頻繁に、中くらいの刺激はそこそこに、大きな刺激をたまにという感じでそれぞれ1/fの適切な頻度で起こると快適に感じるそうです(1/fゆらぎ)。例えば音楽とか関連があるようですね。平山氏の場合、綺麗な木漏れ日の写真を撮ったり小さな盆栽を育てているなどなど日々起こる“小さな幸せ“から、トイレで見つけた5目並べで対決したり音楽カセットが結構高値だったり同僚が狙っている女性にキスされたなどなど頻繁には起こらないイレギュラーな幸せ、それら大小合成された幸せの“ゆらぎ“が何でもない生活を充実させているように見えます。とはいえ逆に不快な刺激もある訳で、同僚がいいかげんな奴カセットテープを無くした(盗まれた)同僚にいきなりバックれられて仕事が夜までかかったなどなど本人としては不可抗力のコトもあり、人生は思うようにいかないところもまた刺激的です。
1/fゆらぎを作り出すように大小様々な幸せを程よい頻度で摂取できれば毎日を充実させて行ける、駅前の花屋の花が綺麗だったとか今年の桜の花が綺麗だったとか今日の夕焼けが綺麗だったとか美味しいラーメン屋を見つけたとかボーナスでブランド物を買ったとか最新のオートバイを買ったとか人それぞれ色々な幸せがあると思うのですが、それら大小の幸せを日々発見して自分だけのコレクションにしておくと容易に生活を充実させて行けるんじゃないかと思います。特に「食べること」については幸せの頻度と大きさを自分で御しやすい、と考えると美味しい店は正に“幸せのコレクション“、グルメ番組も流行る訳です。それらに加えて家族の幸せです。昔4人の子供がいる同僚に「子供の数だけ幸せが倍になる」と聴きました。家族もまた大きな幸せのコレクションに出来たなら理想的で最高です。日々折々適宜1/fゆらぎで幸せコレクションを摂取していければ、お金がなくても、やる気が起きなくても、運がついていなくても、何でもない日々を“完璧な日々“に近づけて行けるのかも知れません。
家出した姪が平山氏を頼って尋ねて来て、おそらく独身の平山氏は久しぶりの家族との再会ウキウキしているようで、姪の居心地が悪くならないよう細心の注意を払っているように見えました。滅多に起こらない大きな幸せの到来です。後日高級車レクサスに乗った妹が迎えに来た時の会話からどうやら実家が実業一家のお金持ちで平山氏は上流社会からドロップアウトしたような感じ。と言うことは平山氏はヘブンから堕ちてきた堕天使ルシファーに見えて来て、ベルゼブブ(姪)もヘブンから堕ちてきたんだけどガブリエル(妹)が迎えに来てルシファー(平山)に“大天使ミカエル(父)と仲直りしたら“と助言しているように思えて来ました。あゝこの映画は「カメイド 天使の詩」だったのか!お坊さんの話じゃなかった!
とりあえず幸せコレクションの一つ目は朝起きたら窓を開けて「太陽さーん今日もありがとう!、うわぁー今日もお花が綺麗!、あっ小鳥さーんオハヨウ!」と言うところから始めてみますかね。なんだかハイジとかキャンディで見たようなセリフ、思えば2作品とも“幸せコレクター“のお話でしたか。
胸がギュッとなった作品
「私にとって幸せってなんだろう」って暇になったらすぐ考えてしまうけど、どう頑張ってもいつ考えても世間の尺度で自分の幸せを考えてしまう。それってつまり私も自分がかんじる幸せを他人に当てはめてしまってるってことなんだよな。明日からは小さな幸せを見つけて、それに心躍らせて生きていきたい、そう思える映画でした。あと、ラストのI'm feeling goodの曲が好きすぎてタイミングよすぎて胸がぎゅうううってなった。映画館でまた観たい
Perfect
主人公は多くは語らない
彼の思いやストーリーは、鑑賞者の想像の中
彼は毎日几帳面に生活をし、決して裕福ではない
だが、自分が誰か、どんな習慣をもっているかを知る人が近所にいて、仕事であるトイレ掃除を丁寧に、丹念にやる
趣味のフィルム写真も定期的に現像してはフィルムを買ってその場で詰め次に繋がる
文庫本は読み終えたら古本屋で次の100円の文庫本を買って読み始める
彼の生活と同じく、絶え間ないルーチン
彼が毎晩見る夢は、その日の印象的な出来事がモノクロで流れていく
そして近所のおばあさんのルーチンである竹箒の掃き音で目覚める
影は重なったら濃くなるか?彼の中では濃くなるのだそうだ
その理由は、そうならなければつまらないから
ぐっとくる
数多くのキャラが出ては消えていくが、彼らの人生も深くは描かれない
でも、誰もがいろいろなストーリーを抱えているのだろう
そんな、いろいろな人の人生が主人公の人生に少しずつ重なり、影を濃くして、彼のパーフェクトな日が成り立っているのかもしれない。。。
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