PERFECT DAYSのレビュー・感想・評価
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「PERFECT DAYS」に幸せをみるか、苦しさをみるか。
役所広司がカンヌ国際映画祭で日本人として19年ぶりに男優賞を受賞した映画『PERFECT DAYS』はあまりにも美しい傑作でした。心の機微を描くプロット、自然で豊かなセリフ、そして見事な演技。「幸せとはなにか」を観客全員へ問う必見の作品。今回は3つのポイントからレビューしてみます。
【3つの感想】
1.役所広司の演技がエグい
本作最大の見どころは、なんと言っても主人公・平山を演じる役所広司の演技にあることはいうまでもない。カンヌ国際映画祭で男優賞受賞も納得で、その凄みは「繊細さ」に宿る。
そもそも、この映画には”大きな物語”はない。トイレ清掃員の平山の日常が淡々と描かれるなかで、”小さな物語”が泡沫のように浮かんでは消える。その微妙な変化が紡がれていくだけの曖昧なストーリーを、役所広司は見事に演じきっている。役所の表情や動作に、平山の微妙な変化が込められていて、そこに映画としての”物語”が表出してくる。
あまりに圧巻の演技に、映画館で笑みが溢れ涙すら誘われたシーンがあった。シーンの概要は次のようなところだ。
平山の同僚タカシ(柄本時生)は、ガールズバーで働くアヤ(アオイヤマダ)に夢中だ。ある日タカシは、平山の大切にしているカセットテープをアヤの鞄に入れ、気に入られようとする。しかし、タカシの恋はなかなかうまくいかないようだ。後日、アヤはカセットテープを平山に帰しにやってくる。「タカシ、なにか言ってた?」とアヤは聞くが、黙ったままの平山。アヤは突然平山の頬に口づけをして去っていく。その後平山はいつも通り、開店直後の銭湯で風呂に浸かる。
このシーンはつまり、おそらく恋愛とは無関係な人生・日常を送る平山が、年齢のかけ離れた青年たちの淡い恋心に振り回され、挙句行き場のなくなったキスをその頬に受け止めるという、それだけでも素晴らしいプロットなのだけれど、なによりも秀逸なのが、その後の銭湯での役所の演技だ。
役所は、鼻の下、口元を隠すように湯船に浸かっている。泡立つジャグジーは、なおさらその表情を読み取りにくくしている。にもかかわらず、役所は、ただその両目だけで、この絶妙な感情を見事に演じきってしまった。喜びでもない、戸惑いでもない、恋心でもない、でもどこか幸せにも似た感情が、ジャグジーの向こうでその眼に宿される。はっきり言って、この1カットだけで、カンヌ男優賞も納得だ。
こうした繊細で緻密な美しい演技がこの映画には溢れている。それはきっと、翻ってみれば、私たちが日常であらわす感情の機微に違いないのだと思う。
2.沁みすぎる人間関係
この映画にはいくつもの複雑な人間関係が描かれている。それはつまり、いわゆる相関図に描かれるような「好意」「ライバル」「尊敬」とかの”単語”で語り得ないような複雑さという意味だ。
いくつか例を挙げると。
・実家近くで裕福に暮らす妹と平山
・居心地の良さを感じる居酒屋のママと平山
・ママの元夫であり末期がんの男と平山
これらの関係性は、決して直接的には描かれることのない平山のバックグラウンドを暗示しているし、そのことが、トイレ清掃員で旧いアパートに暮らす現在の平山を物語ってもいる。なんとよくできた人物描写だろうか。
そしてこの「複雑な人間関係」は、この映画ではもう一歩先に進められている。それは、平山の職業をトイレ清掃員という”エッセンシャルワーカー”に位置付けることで、私たちの生活を支えてくれる人々と観客という人間関係をも、平山と観客の間に築こうとしているのではないか。
さらに実は、その平山も、多くの人々に支えられている。銭湯の主人、古本屋の店主、「おかえり」と言ってくれる居酒屋のマスター。なかでも特筆すべきは、劇中で描かれることのないアパートの自動販売機に缶コーヒーを補充する人。平山が毎日仕事を頑張れるのは、その名前も容姿もわからない”その人”のおかげに他ならないのだ。
「PERFECT DAYS」はこうした複雑で見事な人間関係を通して、観客に自分たちの日常で出会い、生活を支えてくれる人々への感謝を想起させる。
3.幸せとはなにか
「PERFECT DAY」の感想を友人や知人と話し合って興味深いのは、平山のような生き方、あるいはラストカットの平山の表情を、「幸せ」と捉えるか、「苦しさ」と捉えるか、ハッキリと別れるところだ。もちろん前者のほうが圧倒的に多い。
是非みなさんの感想を聞きたいし、観客1人1人がどう思ったか、が最も大切だというメッセージであり映画の意図だということは十二分に理解しつつ、ここではなぜ僕がこの映画を「苦しい」と感じたかについて書いていきたい。
まさに映画のラストカット。平山は朝日を浴びる車内で、涙を浮かべながら(正確には目を赤くしながら)笑みを浮かべて、いつもの通り首都高を走る。この表情は何を意味しているのだろうか。というのが、観客にとってこの映画をどう見たかという問いかけであり、だからこそ完璧なラストカットだとも言える。
この物語の1つの大きなテーマは”変化”だ。公式のあらすじにもあるとおり、「同じように見える」ということと「同じ」は違って、平山の日常には微妙な変化がある。変化に向き合うとき、人はどのような態度をとるだろうか。この物語では、大きく分けて3つに分類されていると思った。「変化を求める人」「変化に気づく人」そして、「変化に縋る(すがる)人」だ。
「変化を求める人」は極めて一般的な人間で、この映画ではタケシがその役割を主に担う。「恋人が欲しい」「お金が欲しい」「仕事を辞める」どれも、なにかしらの変化を自分から求めに行っている。観客の多くが無意識にこのタイプに分類されるのだろうし、「変化する=成功」という価値観が蔓延しているように感じなくもない。
だからこそ、この映画は平山を通して「変化に気づく人」を描いた。木々の木漏れ日に代表される自然の移り変わり、あるいは日常のちょっとした出来事、そこに湧き立つ人々の感情の機微といった、”小さな変化”に気づくことで、”大きな変化”を求めなくても幸せな人生が送れるというメッセージではなかったか。
公式あらすじにある「その生き方は美しくすらあった」という言葉には、こうした「変化に気づく人」を肯定し、今の忙しない現代社会へと余白を投げかけているようにも思える。その描き方に沿ってみれば、きっと平山の生き方や、ラストカットの複雑な表情の意味は「幸せ」になるのだろうと思う。(もちろん、ある程度の苦しさを前提とした)
ただ、である。この映画で描かれる平山が、僕には「変化に縋る人」として描かれているように思えてならないのだ。その最も顕著なシーンが、次のような場面だ。
平山が居心地の良さを感じる居酒屋を訪ねると、お店のママ(石川さゆり)が男性(三浦友和)と抱擁している光景を目の当たりにして、平山は急いで立ち去る。ふいに訪れたイレギュラーな出来事(=変化)に、平山はコンビニで酒を買い込み、河岸で飲み始める。するとそこに、先ほどの男性が現れ、「ママの元夫で末期がんである」と告げる。平山は、男性と影踏み遊びをして、「二人の影が重なると濃くなるのか」という男性の疑問に答えようとする。
そして、このシーンの最後。「二人の影が重なると濃くなるのか」という疑問に対して、男性が「変わりませんね」と言うのに対し、平山は「濃くなってますよ。(略)変わらないなんて、そんなハズないじゃないですか」と語る。
つまり、平山は実は変化を望んでいるのではないか、という疑問が頭に浮かぶ。そして望んでいるからこそ、大きな変化を避けているのではないかと。平山は「大きな変化を諦めた人」だからこそ、「小さな変化に縋る人」なのではないか。
平山の過去は明かにはされていない。ただ、妹との会話を考えると、裕福な家庭で育ったが、父との仲違いのすえ、トイレ清掃員として今は一人で古いアパートで暮らしている。平山はその生活を「理想」と思っているのだろうか。仮に「理想」だと思っているとしたら、妹と別れた後に見せた涙は、一体なにを意味するのだろうか。
当たり前だが、平山は感情を失った「善良な市民」ではない。急な仕事がふってくれば怒り、戻れない家族との日々を想っては涙し、行きつけのお店のママが知らない男性と抱き合っていたら動揺してしまう。平山にも「変化」に対する感情はあるのだ。「気づく」だけではない。平山の口から幾度となく「変化」が語られるたび、私はそれが「変化に縋る祈り」のように思えてならなかったのだ。
だからこそ、私は、この映画の平山に、あるいはラストカットの表情に「苦しさ」を見出した。おそらく平山にはもう「大きな変化」は訪れない。いつものように仕事場へと向かう車の中で、「小さな変化」に縋るほかないということではないか。
ただ、もちろん、そうであったとして、「小さな変化に縋る」という生き方も美しく、そこに幸せが宿るということも確かなのだけれども。
「求める」「気づく」「縋る」どのような関わり方であっても、私たちは変化のなかに生きている。そこに幸せを見出そうと僕は思った。
「PERFECT DAYS」
誰が、誰の生活を、そう呼んだのだろうか。
それでも世界は美しく、目を凝らせば刹那の幸せがある
心が洗われる映画を久しぶりに見た気がする。日常の風景の小さな美しさ、小さな満足感を大切にする平山の生き方に惹きつけられた。
トイレ清掃員平山の日常、それも起きてから寝るまでのルーティンを淡々と追う。話の骨組みはそれだけだ。
風呂のない古びたアパートは今の時代では一見寒々しいものだが、大量の古本とカセットテープが整然と並んだ簡素な和室で規則正しく寝起きする平山には、一片の侘しさもない。
朝は竹箒の音で目覚め、缶コーヒーとカセットテープの音楽と共に出勤する。昼は神社の境内で木漏れ日をフィルムカメラに収めたり、樹木の新芽を摘んで楽しむ。決められた仕事を精一杯した後は、銭湯でさっぱり汗を流し、行きつけの居酒屋でいつもの酒を飲む。古書店で見つけた本を読みながら床に就く。
そんな生活をしていても、彼の心を揺らす小さな出来事はたくさん起こる。判で押したような日常など、本当はありえないのだ。
平山の過去を明確に示す描写はほとんどないが、彼の嗜好や、日々の出来事に対する姿勢からうっすらと推し量れる部分はある。役所広司の表情の繊細な変化が、彼の周囲の人々に対する気持ちの動きなどを雄弁に語る。
音楽の趣味や読書の嗜み、清貧に楽しみを見出せるメンタリティなどから、過去に経済的な豊かさを経験している人なのだろうとは思った。果たして、実家は相当裕福なようで、妹は今もその恩恵に預かっていたが、父と平山の間には、彼に生きる世界を変えさせるほどの断絶が横たわっていた。普段心の底に沈めている記憶がよみがえった時、彼が流した滂沱の涙。それは心の古傷の生々しさからか、もう取り戻せない過去を悔いるものなのか。
そんな平山に、家庭で生きづらさを感じている姪のニコは、同じように親族に馴染めない者として、幼い頃からどこかシンパシーを感じていたのかもしれない。昔彼からもらったフィルムカメラを大切に持ち続けていたのもそのためだろう。
ひとりでいたら何をするかわからないとうそぶき、「十一の物語」に魅入られ、最後に母が迎えに来た時平山に「ヴィクターみたいになっちゃうかも」とニコは訴えた。この短編集に収録された作品「すっぽん」に登場する少年ヴィクターは、高圧的な母を刺し殺す。彼女の抱える閉塞感が滲む。
それを踏まえて振り返ると、夕暮れの橋の上でニコが平山を誘って行こうとした海が、なんだか人生の終着や死を暗示するもののようにも思えてくる。
だから、平山がそれを断り、「今度は今度、今は今」とふたりで楽しそうに繰り返したことに少しほっとした。
過去への陰鬱とした思いを胸の奥にしまって、日々小さなことに満足し、時々困ったりもしながら生きてゆく平山。昨今持て囃される、個性を発揮するとかクリエイティブであるなどと言われる生き方とはある意味対極の生き方だ。それでも平山の生活がどこかまぶしく見えるのは、彼の目が日々刹那の幸せをきちんと捉えていて、そのことによって過去の絶望や、無常がもたらす不安に打ち勝っているからではないだろうか。
ラストの平山の表情のうつろいは圧巻だ。彼がこれまでの人生に感じてきたこと全てが、あのシーンに詰まっている気がした。最初笑顔だった平山の目に涙が浮かんできた時点で、私も胸がいっぱいになった。わけもなく、「ああ人生ってこうなんだな」と思った。
台本には「平山は突然泣く」としか書いていなかったそうだ。ひとことの台詞もないそんな場面を、表情だけで1本の映画のクライマックスにしてしまう。名優の面目躍如。カンヌで主演男優賞を取るわけだ。
平山の生き方を見ているうちに、こちらも自分の日々同じなようでいて変わりゆく生活をもっと慈しみ、信じてみたくなる。心の風通しがよくなるような作品。
時間と金と思考の無駄使い
カンヌ国際映画祭で〜 との謳い文句と、YouTubeでもアマプラで観れるオススメ映画として大絶賛で紹介している配信者がいたので、騙されたと思って鑑賞。
初老の薄汚いオッサン、汚いアパート、汚い公衆便所の掃除、初老のカラダを晒した銭湯での入浴シーン、1日が終わった後の?オッサンの夢を象徴したかったのかわからんが白黒の意味不明映像、ウンザリする仕事終わりからの居酒屋ルーティーン、休日のルーティーン、etcを延々と観せられて、苦痛以外の何物でもなかった。あれだけ高評価なんだから、途中で何かが変わる、そして感動する、そう信じて最後まで観た。
2時間という時間を無駄にした。
そして、不快感と、半ば怒りを覚えた。
だからこそ、こちらにID登録してまでもレビューを書きたくなり、書き残した。
こんな映画、観てはならない!
正直、主人公に近しい世代だからこそ刺さるとまで評させていたので、それも含めて期待して観たのだが、あまりにもおそまつ。そして、罪人でもない限り、こんな主人公みたいなルーティーン生活をしている日本人はいないと思いたい。ある意味終わっている。
希望も何もない。
そういえば伏線と思えるような、トイレ掃除の時に見かける浮浪者や、境内のベンチで毎回会うひとりランチ鬱顔OLとか、マルバツの紙とか、あんなのもなんだったんだ?観客をバカにしているとしか思えない。
とにかく不快極まりない駄作でした。
後から感じたのですが、挿入歌にしても、有名どころのちょい出演にしても、知っている人しかわからないようなモノもあり、これは映画オタクのための映画なんだなぁと思いました。
万人受けする映画ではありません。
毎日が変わらないわけなんてない
毎日、毎日トイレ掃除をする男の日常を描いた作品。
どこにでもあるような風景でどこにでもいるような人かもしれない。特別な展開があるわけでもない。
だからこそ貴重でもっと影になる部分にこそスポットを灯したいという監督の気持ちがあったのかなと感じた。
セリフもほとんど無いのでだが、それがまた物語に味を加えていた。
役所広司さんのセリフのない演技が素晴らしかった。
毎日が変わらないなんてない。
このセリフがグッときました。
とても深い映画で良かったです!
日常に非ず…
家族もおらず、無口で孤独な男の平日、休日の変わらぬ平凡な日常。いや、人に会い、ちょっとした出来事が毎日起こり、男はそれに一喜一憂する。そう、変わらぬ毎日なんて一日たりともない。毎朝、家のドアを開け、空を見上げ、雨が降ろうが男は微笑んでいる。これから始まる一日を楽しもうとするかのように。台詞も少なく、繰り返しの描写は多いのだが、観る人の心に響く演技、まるで演技をしていないかのような、自然な振る舞い。ラストの運転中の笑い、泣き、また笑い、泣きを繰り返すシーンは名優たる役所広司の圧巻の演技だった。
生真面目なトイレ清掃人
小津安二郎監督をリスペクトするビム・ベンダース監督らしい人間を淡々と描く演出は見事だしカンヌをはじめ多くの賞をとった作品なのだから、凡人の私が評価するのも口幅ったいのだが、実に地味で穏やかな映画。生真面目な仕事ぶりには頭が下がるが観ている自分も公衆トイレ清掃人になったかのようで気が滅入ってしまう・・。読書や古い洋楽、何よりも自然が好き、終末のスナックでのささやかな贅沢などある男の日常に寄り添って淡々と描いてゆきます、慎ましく誠実に生きることへの賛歌なのでしょう。
人生は人それぞれ、心の持ち方次第で楽しくも辛くもありましょう、だからといって役所さんの様な生真面目な人間にはなれそうもありません・・。
「足るを知る」ミニマムライフ
毎日のルーティンを移動して歩くロードムービーかなあと思ってみた。監督がヴィム・ベンダースだし。そう考えれば、大都会東京でルーティンをこなしながら、誰もが皆、旅をして歩いていると見えなくもない。同じことの繰り返しながら、眠気を催さなかったのは脚本とカメラ、役所広司の演技で言外のニュアンスに満ちていたためか。
毎日の繰り返しながら、少しずつ小さな出来事が起きて、それに微笑みながら、満ち足りた表情を見せる。足るを知る。ミニマムライフの世界。考えようによっては、僧侶、修行者の世界でもあり、ヘンリー・ソローの「森の生活」のような平穏・静寂な世界でもある。達人の境地かと思いきや、姪っ子と妹の登場で、過去の思い出に胸をかきむしられる。住む世界が違うのよっと言うからには、父に反抗して家を飛び出したか、何かよからぬことを起こしたか辺りだろうか。あまりにも欲がなく、謙虚なところ、トイレ掃除に強いこだわりをもっているところからすると、罪滅ぼし、恩返し的な感情だろうか。
生気の宿った木々のざわめき、木漏れ日から自分も生のエネルギーをもらってかのような喜ぶ表情。異常にセリフが少ないことから、主人公がまるで植物かのよう。日々、生まれ変わり、新しいスタートを切っている姿。ともすると、ルーティンがマンネリに陥りやすい人間だが、その対極にあるかのよう。
この境地に至るのは、至難の技に見える。どんな境遇にあろうと、高めようによっては充足した生活が送れる。そんなメッセージ性を感じた。
日々の幸せや楽しさは自分次第。感じ方次第。
トイレ掃除に対するプロ意識を感じた。何事も一生懸命、日々の創意工夫、単調に見えることでも楽しくなるということをこの映画を通して再確認できた。
劇中で流れるルー・リードのPerfect Dayのなかで「You’re going to reap just what you sow」という歌詞があります。
これは、行いの結果が自分に返ってくるという意味です。
このように、劇中の至る所で学び、教訓、生き方、がちりばめられています。
追記:トレインスポッティングの中で流れていた曲も「Perfect Day」であったことを知りました。
主人公の好物
とても素敵な映画でした。
影踏みシーンのところで、泣けてどうしようもなかった。
平山の部屋で、鎌倉・紅谷のクルミッ子の缶があるのを見つけてしまい、ずっと気になりながら映画を観ていたら、妹さんがお土産で渡したのがやはり紅谷の袋。
鎌倉で裕福な家庭に育ったのではないか…と言う推測が立ちました。
緩やかに流れるそれぞれの人の時間、東京はそこにある
外国人の監督(ドイツ人)がただ日本好きで撮ってるだけの映画では無いのは、最初に主人公の平山が朝車で首都高や東京の街中を走ってるカットを見れば一目瞭然だった。これは探せばそこらにあるごく普通の東京だ。ただ何か現代日本人の目線と違う。懐かしい昭和の感じでも平成の感じでも無い。もちろん外国人目線で神社や秋葉原をいい感じにとるというものとも本質的に違う。ああそうだ、この監督は東京という画角に、住む人々、公園、木漏れ日、空などの風景を撮ってるんだと、それも本当に自然な今の日本人目線の風景を(あえて言えばトイレが人々の行き交う日本の重要ポイントと気づいた⁈点だけが日本人的では無い点かも)。
主人公の平山はといえば、寡黙な、それでいて自然体に生きてるトイレ清掃員。一人暮らしのボロアパートで読書や盆栽の様な植物と、フィルムカメラで木漏れ日の写真を撮ることを趣味にしている(そのボロアパートも映画の最後にはミニマリストとして最適で居心地良い住処に見えてきた)。そして彼はトイレ清掃という言葉のイメージに囚われない、知的で落ち着いた雰囲気のおじさんだ。これは失われた現代日本のおじさんの理想像?なのかもしれない。
なんやかんやと彼とその周りの人の間に小さなイベントが積み重なって過ぎていくが(なんやかやでまとめてしまったが)、そこにはいたってありふれた東京と東京から見た風景と人々がいる。
この映画を観終わって、夜の東京の街を歩いていると、10月にしては暖かい夜風と、東京の街に溢れるほんとに多くの人々、平山の様な男を含む人々の時間が身近に感じられて心地良かった。そんな映画。
残念
美しい退屈から始まる。
それは想像してた。
その後良い裏切りがあるか否かが判断の分かれ目かなと思いつつ鑑賞スタート。
美しい毎日を繰り返す主人公に憧れのような気持ちが湧いてきたところまでは、作り手の目論み通りだったかと思う。
「今度は今度 今は今!」
のコール&レスポンスや、おじさん2人の影踏あたりは若干背中がゾワる。
ママさんと元夫のくだりは陳腐。
そんなこんなであんなに美しかった主人公像が崩壊していくわけだが、崩壊の仕方に深みがないので感情移入できぬままエンディング。
何気ない日常感が最高
〝君は自分を忘れさせてくれた〟
〝僕は誰か他の善人になった気分だった──〟
──ルー・リード〈パーフェクト・デイ〉
観終わったとき、肩がガッチガチになっていました。これだけ引き込まれた映画は久しぶりです。
平山さんに共感できる部分が多かったので、深く入り込めたんだと思います。会話がぎこちなかったりとか、古い文庫本を読むのが楽しみとか、気の合う人としか話そうとしないとか。
僕自身、基本無口な人間なので、そういう何気ない日常感は堪らなく好きです。
あと洋楽好きなところも良いですね。ヴェルヴェッツとか、パティ・スミスとか、キンクスとか。僕も大好きです。
個人的に印象的だったシーンは、平山さんが妹と姪を見送ったあと、ひとり涙を流すシーン。直前の妹との会話を聞いてると、昔はもっと豊かな暮らしをしていたような感じがします。「あの頃には戻れない」みたいな悲しさ、寂しさが身に沁みるように伝わってきました。自分は平山とは違って、まだまだ人生経験が浅いので、「この先、自分もこんな思いをするんだろうか……」とぼんやり考えてしまいます。
でも悲しみって、悪いものではないとも思います。ひとり涙を流すのも、幸せの一つとして捉えれたら良いですね。
素晴らしい人間ドラマ映画でした。ヴィム・ヴェンダース監督の他の作品(『パリ、テキサス』)も観てみたいと思います。
「ママとおじさんって、全然似てないね」
「……そう?」
「おじさんとは住む世界が違うんだって、ママが言ってた」
「そうかもしれない」
「そうなの?」
「この世界は、ホントはたくさんの世界がある。繋がっているように見えても、繋がっていない世界がある。僕のいる世界は、ニコのママのいる世界とは違う」
「──わたしは? わたしはどっちの世界にいるの……?」
──平山さんとニコの会話より
三浦友和が役所広司に石川さゆりを頼むと言う。
ずーっと役所広司扮する平山のお仕事風景の繰り返し。
夜が明けかけた頃に起床歯磨き支度して家の前の自販機で缶コーヒーを買い車に乗って飲みながら運転して仕事場所へ。自身の車らしいが後部座席には、仕事道具が設られた棚にきちんと収納されている。
『東京公園』を思い出すがごとく、
東京トイレ巡りの様相。さすがの東京。
入室して鍵をかけたら透明な壁が不透明となる
以前聞いたような名物トイレ。
を筆頭に様々なデザインのトイレを仕事しに廻る。さすがの東京で日本であるからゴミが散らかっていても最新のトイレが設置されていて
綺麗、キレイ、きれい、⭐️⭐️⭐️❗️
(さすがのTOTOさん協力)
ま、実際は映像には出せない状況の時もあるかと思うが観客に嫌な気持ちにさせない配慮か。
お昼は、神社の境内のベンチに座りカメラ片手に空を見上げ木漏れ日を写す、毎日毎日。
コンビニのサンドと牛乳が昼食。
一日の仕事が終わると着替えて銭湯♨️でたっぷりと湯に浸かる。
自転車で、行きつけの飲み屋街の店で、夕食。
店の主人が「お帰りなさい。」といつも声をかけてチューハイと付き出しを出してくれる。
帰宅して布団を敷きお気に入りのカセットテープの音楽を聴きながら読書。これが一日。
相棒のタカシとアヤが入り込んで来たり、
もう一軒行きつけの、くら、のママが石川さゆり似で目の前で生歌を聴けたり、
その別れた夫が癌の転移を知らされ7年ぶりに会いに来たところに出くわしたり、そしてなぜかの影踏みをして遊んだり、
後でわかるが、姪のニコが母ケイコに反発して
会いに来てケイコも運転手付きの車で迎えに来たり、ちょっとずつの変化あり。
この平山さん、朝玄関を出て空を見上げたときは爽やかな笑顔、アイにチューされた時やタカシの後釜が女性だった時は、ニタ〜と笑う。
家にはTV無し冷蔵庫無し洗濯機無し掃除機無しクーラー無し、電化製品は、照明とスタンドとラジカセ。
清貧の暮らしともとれるが、ケチケチしてはいない。お風呂は無い分広い銭湯の湯を堪能❗️
夕食も外食でほとんど家では料理なし。
気まま〜に生きている感じ。
ただ、仕事着を家の中まで着て入り毎日洗濯しないのはどうかなぁ〜と気になった。
洗濯したてを朝着るのはいいが、車に乗るのもどうなんだろう?新車みたいだったが。
役所広司さんが、東京トイレを掃除してくださった、凄い作品。
(付け足し)
平山さんに妹が何か小さな紙袋を渡していた場面。
複数のレビュアーさんのご指摘で、鎌倉名物、
クルミっ子というお菓子と判明。多分全国百貨店や楽天でも販売。高島屋のメール画像見たら、以前食べたような気がした。阪急オンラインで切り落とし販売を衝動的に購入。今朝届き試食。やはり以前いただき物で食べて自分はあまり好みに思わなかった一品。好きだったら以後買い続けていた筈。ネットで調べたら、クルミかキャラメルが苦手な人は、嫌いと言うらしい。私はキャラメルがも一つなんだなぁという感想。もっと少ないのにすれば良かった。
と書いてしまったが、食べていくとだんだん美味しくなって来た。3袋あったが、1袋完食。クセになる美味しさ。ネットを見ると売り切ればかり。大人気のよう。
2回目鑑賞:
冬バージョンの部屋の中に興味が湧き想像した。
自動販売機商標名無し、
石川さゆりさんのスナックの向かいのコインランドリーにも店名も何屋さんかも書いていない。
役所広司いや、平山さん御用達のは、ちゃんと店名あり。
後ろ座席→仕事に真剣、
母親、一言お礼言え、
木漏れ日、4
やはり几帳面、苗木を入れる袋手製、
やはり東京、ビル近接、
苗木成長したらどうするのか
一番風呂シャッターと共に
役所広司さん、オシャレ、
ガスもったいない、1回お湯沸かしただけしか使っていない。
スカイツリー7
子供がいた?
自転車で色々いける、カメラ、古本屋、スナック、
幸田文、木、
クルミっ子の袋、小さい、
なぜ役所広司の場所がわかるんだ三浦友和、
結局何もわからないまま終わっちゃうんだなぁ。←三浦友和のセリフ、で”人生”を表していると思う。
🎶青い魚🐟、🎶PERFECT DAYS
🎶SUNNY AFTERNOON
ルーティンとイレギュラー
東京の綺麗な公衆トイレを映して、綺麗さをアピールしている。体感ははもうちょい汚いしあそこまで掃除もしてなさそう。整然とした部屋にしても綺麗なものを映したかったのだろうか。
淡々とルーティンのような生活が繰り返されていく中で、人手不足で会社に電話して苛ついていたり、姪っ子がきて納戸みたいのところで寝たりと、イレギュラーと綺麗過ぎないところも少しばかり表現していた。
路傍の芽をちゃんと断って貰ってるのもパーフェクトって感じですね。
見終わって、そういや姪っ子がいたときの写真を見せてくれないやと気付いて監督に悪態をついた(心の中で)。
どうしてこういう生活をしているのかも垣間見え、元々がパーフェクトな家に生まれたけど今だってパーフェクトって事か、なんて思ったり。
わかる人にはわかる
初老の独身男毎日同じ行動するそれを追うように進む。しかし姪っ子が現れ妹が訪ねて来る辺りから変化が起きる。同僚たかしが退職二人ぶんの仕事をこなし電話で声を荒げる、口にはだせないが恋心を懐く居酒屋のママに男の影に意気消沈する。その男がママの元夫で先が短く宜しく頼むと言われて胸が高鳴る。何も起きないどころか劇的な展開に。あがたもりおの伴奏で石川さゆりが浅川マキの朝日あたる家を歌い、柴田元幸が愛想の無い写真館の親父で出演。この演出には驚いた。やはり只ぼーと見ていただけではわからない面白さがあるこれに気がつかない人はビム ベンダースの作品には関わらないほうが良いかも。
ありがてぇ、ありがてぇ、ヴィム・ベンダース先生が日本なんか撮ってくれてありがてぇ!
過去に名作を作っているから、特に変哲も無いありがちな木漏れ日のカットを撮っても我々庶民には分からない考えがあるに違えねぇ。違えねぇ。
公衆トイレをもっと知ってもらう為にTOKYO TOILETプロジェクトというアーティスト16人が手掛けた「 公共トイレの価値観を変えるアート映画 」 を作るという企画に抜擢されたのが渋谷系が大好きなヴィム・ベンダース!これは見るしかないでしょう?!
役所広司が今どきカセットテープオーディオが搭載されている軽ワゴンに乗っていて懐かしい曲ばかり聴いているけど、このセットリストにも我々には思いつかない演出意図があるに違ぇね、違ぇね。
んでもって、仕事が休みの時は今どきカセットテープのアルバムを売っている店に通うんだけど、ここも音楽はアナログに限るという意図があるに違ぇねぇ。違ぇねぇ。
やっぱり監督の演出の腕は衰えていなくて途中でバックれる若いバイトくんの失礼にも程がある行動は、「 いた!いた!こんな使えないバイトの後輩!」 と思うし、おひとり様の日常風景も「 あるある、俺もこんなもんだよ!」 とはたと手を打ちました。
他所の国で撮影して、他所の国の役者を演出してこれだけの作品を作るんだから凄いよ?
惜しいのはEDテーマが、ニーナ・シモンのfeeling good という散々映画に使われる曲だった事。このサイトでは、仕様でリンクも貼れないし、長い行のコピペも貼れないからごめんなさいだけど。
「 今の俺、ちょー、気分最高!!」 って歌っている曲です。暇な人はググッてちょ?
あれは、紫外線なのかしらね
とても静謐で品があり、メッセージ性も洗練された、素晴らしい映画だと感じました。
絵の素晴らしさも、音の素晴らしさも、とても上質な映画だと思います。
敢えて皆様が特に感じておられない部分を起筆しますと、
私は平山の自宅から漏れる、紫色の明かり(紫外線ライト?)が とても気になっておりました。
それらは名もなき植物の生育を促進するものであり、毒でもあり、浄化の光でもあり、また影でもあります。
影はこの映画のテーマですから、もはや申し上げる必要もない要素だと存じますが
ブラックライトという「概念」は、影でもあり光でもある、この世に存在する世界の、
ギリギリの境界線にある存在なのだと思います。
それは平山の、閉じられながら開かれている心の中に常にあり、漏れ出でるほどの存在でありがなら、
自らが拾い、育てようとする生命を健やかに育てているようでもあり
同時に彼の孤独を示すバリアのような異色性を放っております。
ここに触れられる事はなく、そこに誰もが踏み込む事もなく、ある種の聖域でありながら
毒でもあり、と同時に優しくも静寂性を持った、紫色の光を揺蕩えた、
平山の完璧な日常は今日もまた、光と影を帯びながら、影を重ねて罪を詫びるように、
それでいて自己満足に満ちた、誇らしげな毎日、
それ故に、あぁ 静謐に、過ぎてゆくのだなあと感じます。
ラストシーンはその静かな日常の下にある、
彼自身の怒りや悲しみや優しさや諦めや迷いや誇りや償いや矛盾に満ちた光と影が渦巻いていることを表しているのかと思われました。
すべてがあの朝の変化に集約してゆく構成は見事でしたね。まさにパーフェクト。
可愛がっていた後輩はある日 突然 いとも簡単にいなくなってしまう
貸していた金は返ってこないし、
返ってくる宝物(カセットテープ)もあれば、失ってしまった宝物もある
後輩を慕っていた親友の幼馴染とはもう会えない
もうあの大好きだった耳に触れる事が出来ない 悲しみで走り去ってしまう
それは、自分にとっての敬愛の情は(相手が受け容れてくれさえすれば)示して良いという事であり、
〇×で返ってくる誰かとの気持ちの繋がりには喜びもあり
天を仰ぐホームレスは彼自身でもあり、父親の姿でもあるかも知れなくて、
場所を追われ、偶然にも出会えた街角が もう最後の機会だったのかもしれなくて
年寄りは街角の風景すら忘れてゆく、その変化を自分も感じ取れないが
時と共に確実に大きく変化してゆくものがある
彼は影の道ばかり走っている 高速道路も下段の影の道ばかり しかし下道ではなく
それを見下ろす巨大な存在を見上げながら、敬愛と支配から逃れられない日々
汚れた仕事をなぜ精一杯やるのか、彼の贖罪でもあり、生き甲斐でもあり
であれば おのずと手が抜けないからの徹底ぶりであり、
便器を清める行為と風呂に入り汗を流す行いは等しく
自分自身は罪に殉じる心安らかな囚人なのか、
誰にも許されていない鍵束を手に、社会の抜け道を通り抜ける自由な特権なのか
光と影を、世界を切り取りしては うまく生きているつもりだったが
自分の意志で姪っ子を失い、眠れぬ夜を明かしたのは
彼自身の最愛の情として抱擁があり、其れを示して良いのだと彼は学んでいて、
姪っ子と交わせたから、妹とも交わせたその抱擁は
時間と共に、本当は誰と交わしたいものだったのか
心惹かれた女将と(元)夫にも その抱擁があり
だからこそ動揺が隠せない彼の幼い行動と
死が生きる事のなにかを変えてくれるし せめて会いたくなってしまったという言葉、
なにもわからないまま死んでゆく者がいて
なにもわからないまま自分も老いて死んでゆく
影は死でもあり、静謐だった彼の生活は、影を重ねたものだったのでしょう
影は死でもあり、踏まれると死ぬゲーム(人生)はもう、自分に残された しんどい体力と年齢を自覚し
離してしまった姪っ子との約束は、彼自身の言葉であり
そう
「明日は明日、今は今」、ということは、「昨日は昨日、今日は今日」という事ですよね。
初めてこの映画に朝日が差し込み、彼はその世界へ一歩踏み出したのだと解釈すると
とても単調で静謐だったこの映画が、すべての感情が、一気に動き出しますよね
静かに重ねてきた日常と ほんの些細な出来事の積み重ねが、激しく光り輝き、渦巻き始めます
あの涙と戸惑いと笑顔と苦悩は、きっとそういう事の様な気がします。
彼は父親に逢いに行ったのでしょうか。抱擁し、果たせなかった妹との過去の、
そして未来の姪っ子との約束を果たしに行ったのでしょうか。
或いは 彼もまた「なにかを託し」に行ったのでしょうか。
それとも、今日もまた変わらぬ日常を送る、彼の心の中だけの朝日だったのでしょうか。
1回目の鑑賞眼は間違っていなかったと思う。
SFXも最新技術もない映画で十分に楽しめる作品でした。1回目の鑑賞では自分の鑑賞眼に自信が持てなかったので2回目を鑑賞しました。
平山(役所広司)が妹(麻生祐未)と再会後に涙したことをどう捉えるか?ここは大きなポイントかと思います。妹は取り返せない事実を諦めてはいるけれど、昔の姿ではない父に会うように頼みます。しかし、平山は首を横に振ります。その後に妹を抱きしめたことを考えればわかります。心底では身近な愛を求めているのだと。遣り甲斐のある仕事との対比で何とも物悲しい。アンポンタンでなければ、誰にとってもパーフェクトな日々なんてないのですよね。その後の平山がどのような生活をするのか?それをあれこれ考えたり、ああだこうだと議論するのが鑑賞後の醍醐味かと思います。
役所広司は大河ドラマ徳川家康の頃からのファンです。日本を代表する素晴らしいオジサンです。余談ながら、カセットテープの選曲は自分ならこうするなということでも酒席で盛り上がりました(笑)
役所さんの最後の演技
役所広司さん演じるトイレ清掃員の日常を淡々と流す映画。
映画が終わったあと、2時間が2週間に感じられて不思議な感覚になった。
無口な主人公だが、役所広司さんの口角の角度、目のしわ、ちょっとした表情の変化に釘付けになった。
アヤちゃんに頬っぺチューされたあとの銭湯では、目元しか見えなくてもにやけているのが分かったので凄いと思った。
台詞が少ないだけに主人公の過去は予想するしかないが、父に会いたくても会いにいけない事情、トイレ清掃員という仕事を選ぶに至った理由があることは分かった。
感動したのはやはり最後のシーン。
役所広司さんが運転しながら楽しそうに微笑んでいる、かと思えば泣き出すところ。
自身の人生を後悔しているのか、幸せなのか…
どちらでもないのか。観ていてなぜか涙がでた。
単調だがとても考えさせられるいい映画だった!
追記:インタビュー映像を観てより感動した。
アナログおじさんの日々
カセットテープを聴いて
文庫本を読み
フィルムカメラで写真を撮る。
当然ガラケー。
小さなアパートに独り住まい。
キッチリ仕事して
銭湯でひとっ風呂あびて
いつもの店で一杯やる。
そんな日常がつづられていく。
ずっと【お一人様】
だけど
一杯やる飲み屋も
フィルムを現像に出す写真屋も
文庫本買いに行く古本屋も
みんな古い付き合い
気心のしれた人々が沢山いる。
孤独じゃない。
そんな生活が心地いいんでしょうね。
特に説明はないけど伝わってくる。
そう、説明がほぼ無い。
それが良いのかも。
こういう生活にいたる経緯とか
全く出てこない。
若い頃の回想シーンとか
やりたくなりそうだけど
無いのがいい。
なんというか
無くていい、無い方がいい。
つまりは
そこは大事じゃない。
どうでもいいってこと。
ということを見てて感じた。
「今度は今度、今は今」
ってセリフがあった。
そういうことなんだよね⁉
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