「物語か、人生か」メイ・ディセンバー ゆれる真実 蛇足軒妖瀬布さんの映画レビュー(感想・評価)
物語か、人生か
作品自体がアカデミー賞クオリティに充分値する。
しかし、
ジョーのセリフを引用すると「これは人生なんだ」が示すように、
実話のエピソードのレイヤーが重なり過ぎて観客を良くも悪くも幻惑する。
その幻惑は、
演技者としてのナタリー・ポートマンというよりも、
プロデューサーとしてのナタリーと、
監督トッド・ヘインズの狙いでもあったのだろう。
ヘインズの狙いを前作『キャロル』を参考にして解釈すると、
感情にフタをして生きるという事は、
自らの存在意義を認めないという事、
それでいいの?観客のみなさん、
と、
観客に気持ちのシャドウイングをさせるのが演出意図のひとつだろう。
しかし『キャロル』には考え方の逃げ道があった。
今回はその逃げ道を断つように、
実話、認識論的相対性(劇中のセリフ)、
真実の愛と法律、
などのレイヤーがさらに重なっている。
そのレイヤーの増量はヘインズの投げ掛ける命題に、
付加価値を与えるものと解釈できる一方で、
ケミストリーに集約したケイト・ブランシェットとルーニー・マーラの芝居の激突のようなものを期待した観客にとっては、
多すぎるノイズになったのかもしれない。
もちろん、鏡の前の並列の2人が、
現実のグレイシー⇄グレイシー役(本作の)⇄ジュリアンと、
エリザベス⇄グレイシー役(劇中の)⇄ナタリー等々、
立体的マトリョーシカ的ツーショット?6ショット?
神がかり的カットはいくつかあった。
正確にサイジングされソリッドにカッティングされたカットを丁寧に積み重ねて、観客の胸に焼き付けていく。
ショットという曖昧な狙いではなく、
編集時のコマ数まで計算済みの精密な削り出しは相変わらず鋭い。
【蛇足】
オーディションの映像のシーンを入れたのは、
ジョーのおおらかな包容力やセクシーさ、
キャスティングに苦労した証拠を見せたかったのかもしれない。
そのキャラクターは、
この事件のコアのコアの部分。
グレイシーの感情が始まりなのか、
やさしいジョーの無垢さが始まりなのか、
または、
それぞれの家族との影響なのかは、
いくつかのシーンでほのめかされるが、
基本的には観客の解釈に委ねられている。
ジョーの父親の夥しい数の吸殻、
息子の弱い大麻で咽せるジョーの肺、
これだけで父親が息子を傷つけている描写だ、
といわれても、
自分なら、
他にも撮っているであろうカットを、
復活させて、
ハッキリとコミットするか、
この一対のみであれば、
いっそのことシナリオの段階でオミットする事を推奨する。
理由は下記にほのめかしておこう。
最後に、
子供の無垢な心が特殊な刑事事件を引き起こす類似作品は、
映画化もされている松本清張の『影の車』や『天城越え』、
イーストウッドの『ミスティック・リバー』のような名作があった。
重なったレイヤーを一枚一枚剥がしていく思考の補助線になるかもしれない。
人間の根源的な存在意義というテーマとその描写方法で幻惑させながら、ねじ伏せていくヘインズの演出は観客に多くの解釈の余地を与え、
その一つ一つのレイヤーを広義で楽しむことで、作品の真の価値を理解することができる、
という言い方もできるかもしれない。
いも虫から蝶、カゴから空へ羽ばたく、
ムーミンの神回を思い出した。