メイ・ディセンバー ゆれる真実のレビュー・感想・評価
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モデルにされた男性への配慮に欠け、後味も苦い
本作は米国で実際に起きた事件をモデルにしている。1996年、当時34歳で既婚の小学校教師メアリー・ケイ・ルトーノーは、13歳の教え子ヴィリ・フアラアウと性的関係を持ち妊娠、児童レイプの罪で実刑判決を受け、服役中に出産。メアリーは夫と離婚し、出所後にヴィリと結婚して家庭を持った。スタンダードナンバー『September Song』の歌詞から、メイ・ディセンバー(5月と12月)が親子ほど歳が離れたカップルを意味する慣用句になったが、メアリーの事件も“メイ・ディセンバー事件”と呼ばれた。なお、ケイト・ブランシェットが演じる中学校教師が15歳の教え子と関係を持つ2006年の英国発「あるスキャンダルの覚え書き」も、同じ事件をモデルにした小説の映画化だ。
「メイ・ディセンバー ゆれる真実」の成り立ちはというと、キャスティングディレクターとして長年キャリアを積んだサミー・バーチが書いた初の長編映画用脚本がプロデューサーのジェシカ・エルバウムの目に留まり、脚本を気に入ったナタリー・ポートマンも製作に参加。監督は「キャロル」のトッド・ヘインズに決まった。
本作は事件そのものを描くのではなく、世間を騒がせた出来事から20数年後、穏やかに過ごしているグレイシー(ジュリアン・ムーア)とジョー(チャールズ・メルトン)と子供たち家族のもとに、事件を題材にした映画の役作りのためハリウッド女優エリザベス(ナタリー・ポートマン)が訪れるところから始まる。エリザベスは近くのホテルに部屋を取りしばらく滞在して家族と数日を過ごし、今の暮らし向きから事件当時のことまでさまざまな質問を浴びせ、グレイシーの言動を観察し、キャラクターに近づこうとする。
物語の軸は主に2つあって、1つは成人女性と未成年男児がセックスしたときの心理的な関係性はどうだったのか(どちらに主導権があったかなど)を解き明かそうとするエリザベスの試み。もう1つは、長年好奇の目と非難にさらされ嫌がらせも受けてきた夫婦のプライベートな領域に、取材という名目で踏み込んでいく映画人(より大きくとらえるならメディア業界)の危うさについての自己言及だ。
鑑賞しながら気になったのは、モデルになった家族たちを実際に取材し了解を得た内容なのかということ。映画ではグレイシーの元家族も登場し、息子は母が起こした事件の影響で精神的な問題を抱える青年として描かれている。特に行き過ぎた創作だと感じたのは、ホテルの部屋でエリザベスに誘惑されたジョーが行為に及ぶエピソード。映画がフィクションであり実在の人物に無関係というのが建前とはいえ、女性に言い寄られたら(妻も子供もいるという)立場や倫理観から自制することもなくあっさり事に及ぶ男性だという印象を、間接的にせよモデルにされたヴィリに与えることになるのではないか。観終わった後に調べてみると、メアリーは10数年の結婚生活ののち2018年にヴィリと離婚、2020年に58歳で死去していた。米国での映画公開後、業界誌The Hollywood Reporterから取材されたヴィリは、本作を観て「気分を害した」と明かしている。製作陣から連絡を受けたことは一度もなく、彼の人生の物語と苦痛から「ハリウッドとメディアが搾取している別の例」だと感じたという。
たとえば「スポットライト 世紀のスクープ」「ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男」「SHE SAID シー・セッド その名を暴け」のように、さほど年月の経っていない大事件をスピーディーに劇映画化する米映画界の機動力とジャーナリスティックな志には敬意を表するし、邦画界と比べて羨ましくも思う。だが「メイ・ディセンバー」は、先に挙げた3作に比べると作り手の志も、作品の社会的意義もずいぶんと低いように感じる。大勢に影響を及ぼした権力者の性加害や大企業による不正を題材にすることは、啓発により将来の類似の事件と被害者を防ぐ効果も見込めるだろう。だが、長年にわたり興味本位の報道と世間からの誹謗中傷にさらされてきたメイ・ディセンバー事件の当事者たちを題材に、存命中の男性が気分を害するような創作を加えてまで映画を作る意義は果たしてあるのか。
エリザベスが行為のシーンの撮影に臨むラストにしても、映画人の自己批判を含むブラックユーモアのつもりかもしれないが、当事者への配慮と敬意を欠く作り手の尊大さと傲慢さが強調されるばかりで、後味の苦さがいつまでも残り続けた。
2人の女優の名演
36歳の時に、13歳の少年と関係を持ったグレースを演じることなった女優。外部の視点から幸せな物語に疑問を呈しつつも当の女優自身も都合の良い物語で引っ掻き回す。2人の名演に演出も上手いが…狂気のぶつかり合い、無邪気さと安直な構図だなとは思う。
うーん
メイ・ディセンバーという名称は知らなかったが、この事件は聞いた事があった。
36歳成人女性が中学1年生と関係を持つとは、センセーショナルな内容だし、普通ではない…とは思っていた。
真実や心理を探るコンセプトはまあわかるのだが…役作りのためにインタビューして掘り下げたところで、グレイシーという人物の理解は進むんだろうけど劇的に覆るような事があるわけでもなく(実際はこの後離婚したとのことだが)、うーん、あんまり面白くなかった。
音楽の入れ方も私はダメだった。
ナタリー・ポートマンとジュリアン・ムーアは素敵だったんですがね。
当事者の気持ちは理解しようがないと思う
題材となっている事件はワイドショーが好みそうな低俗で醜悪な切り取られ方もできるものではあったろうが、性的に健康で魅力的な男性と魅力的な女性が出会い情熱的な関係を持った話とすれば純文学にでも昇華できるものでもあろう。その時、そこでどのような心の動きがあったのか、何がきっかけで気持ちが動いたのか、なんてそれはきっと生物としての感覚が二人をそうさせた結果だろうから、実は当事者すら本当のことを記憶できてないのではないか。 だからそれを物語として虚構の中で再現することなんてどのような努力を以ってしてもできないように思う。
だから、監督さんには事件について相応の解釈はあったのだろうけど、その解釈に沿ってこの作品を追ったり、理解しようとしても、どうしても歪みが出てしまうのだろうと思った。ましてやそれを理解するために追体験して再現しようとするのが一つのテーマとして描かれている訳で、そうなると歪みから捻れになってしまった。
それが鑑賞後のモヤモヤの理由かもと思った。
二人の女優さんの力量のためか、作品としては緊張感も最後まで途切れず見応えがあったと感じた。でも理解できないシーンや設定は少なくなかった。 それはそれでいいんだろうと思った。
キャストに釣れれて見に行ったが大分狂ってる 隠れてる部分がわかり難...
キャストに釣れれて見に行ったが大分狂ってる
隠れてる部分がわかり難い
音楽から展開まで意地悪な演出で子供から止めてって言われてそりゃそうだと我に返った
社会的にはアウトだが、そこを超えた何かを問いかける感じ
アカデミー脚本賞とナタリー・ポートマン主演とあらば映画好きなら見るでしょ?
ぶっちゃけ、そんなに、面白くはなかった。
実話を元にした映画。実際にあった36才の女が11才の男の子を食っちゃった事件があって、逮捕されてから妊娠して刑務所の中で出産する。
何と出所後にその食っちゃった男の子と結婚してしまう。ペドフェリアで刑務所に収監された自分の歳の3倍の女と結婚するってこれは旦那も頭がどうかしてるぞ?
事件から、何十年も経ってから、元受刑者のジュリアン・ムーアの元に、その映画のヒロインを演じるナタリー・ポートマンが役作りの勉強の為に共同生活をおくるというお話し。
ナタリー・ポートマンは役作りの為に、母親に家族写真を提供してもらい、二人の情事の場所だったペットショップでロケハンするだけでは飽き足らず、大事な手紙を提供してくれたお礼に、旦那に股を開くのだが、旦那がありえないくらいの速さの早漏で開始15秒くらいで果ててしまうw
ローデッドウエポン1のエミリオ・エステベスかよ?
で、事後に突然キレてwナタリー・ポートマンに当たり散らすのは意味が分からなかった。
皆さーん、注目!注目でーす!早漏がいっちょ前にキレてますよー?めったに見られないシーンですよー?
結構いい家に住んでいる夫婦だが、引越しを何回もしていて、いつも家にいる旦那が何の仕事をしているのかが不可解。
嫁は嫁で近所に手作りケーキを送って稼いでるのだが、元性犯罪者の手作りケーキなんて誰が食べるんだ?ちょっと、脳内お花畑なとこあるよね?
場面は変わって、映画の撮影現場。ナタリー・ポートマンが少年を誘惑するシーン。
噛まないから大丈夫と言いつつ、蛇を腕に絡ませて行為に及ぶラストシーンはどういう演出なのか不明のままエンドロール。
これが、アカデミー脚本賞?いやいや、それはないでしょう。もっと面白い映画は沢山あるぞ?
どうだろう?
世間では許されない年齢差の結婚(生活)の話しなのか?それともそれを映画化するために近づく女優の話しなのか?
何となく曖昧な終わり方も中途半端感が否めない。
もう少しどちらかに寄った方がわかりやすい気がする。
せっかくのナタリー・ポートマン、ジュリアン・ムーアの名女優2人なのにもったいなさだけが印象に残った。
二重・三重・四重
May-December (5月-12月)とは、年齢が大きく離れたカップルを意味する言葉です。夫のある36歳の女性が13歳の少年の子を妊娠し、成人による性的暴行の罪で入った刑務所で出産し、出所後に結婚したという1990年代にアメリカで実際にあったセンセーショナルな事件に材を取ったお話です。この事件は当時日本でも報じられ、米マスコミの熱狂ぶりも話題になりました。
この映画は、それを単になぞるのではなく、この出来事をドラマ化する物語言とう二重構造にしたのが特徴です。事件当事者の女性・グレイシー役を演じる女優・エリザベスが取材の為に自宅を訪れると言う形でお話が進みます。グレイシーは、自分たちの行為は歳の差こそあれ愛の行為であると語りますが、グレイシーの目からそれは欺瞞的にも映ります。でも、グレイシーはグレイシーで、自分の演じるドラマの為にエリザベス夫妻を興味のままに消費しているだけの様にも映ります。更に考えれば、そのグレイシーを撮っている本作のカメラも事件を二重に消費しているんじゃないかと思えます。そしてもっと引いてみると、その映画を観ている我々も好奇心のままに覗いているだけの様な気がして来るのでした。
一体、どこに「真のカメラ」があり、何を描こうとしているのか分からないその不安定感が観る者を揺さぶります。そして、背景で流れる音楽が何処か煽情的で安っぽく、我々の不安を更に高めます。
いやぁ、何とも意地の悪い映画だわぁ。
魔法がとけてきて
何かが違う…と感じ始めた夫婦の心情が描かれてるなぁ、って思いました。サナギが孵化して成虫になっていく年下旦那さん。『あなたが誘惑した』と急に泣いたり《無邪気だ》と開きなおる年上奥さん。夫婦の心の機微がテーマならまずまずの出来。そこに役作りの為に役者バカの女優が絡んできた。旦那に近づいてみたり…奥さんの過去《兄弟との関係の噂》を『なぜその話をあなたとしてないのに、言ってきたの?!』みたいな不穏なシーン…。何がテーマで何が言いたいのか、まとまらなくなってしまいましたね。
語り得ぬ人生
May December
若く年齢が近い、人生経験も少ない、兄のような父
そのことを恥じている
しかし、周りの視線がどうあれ、時は流れ
絶滅寸前の蝶が育っていく。
あの時の感情を、今更になって話し合わないのは、これは「物語」ではなく、一つの選ばれた「人生」だからだ。
妖艶さを目一杯出したテイクの後の、作り手側の選択が、揺るがない「人生」を描き出そうとする
真に恐ろしきは人なり
36歳のグレイシー(ナタリー・ポートマン)が13歳のジョーと関係を持ち(これ犯罪です)
獄中出産、出所後に結婚して家庭を築くという、スキャンダラスな触れ込み(予告の煽りもこれです)で
ナタリー・ポートマン演じるエリザベスが、グレイシーを映画作品として演じるという導入です。
グレイシーはジョーから「誘惑された」と言い、ジョーを精神的にも拘束していて、
自分の思い通りにコントロールしている。自分の家族と過去に結婚していたときの家族と
いまだに関係があり、それを良しとしているかなり“変”な人だったりするのです。
そしてエリザベスも役者として完璧にグレイシーになりきろうとするあまり、
グレイシーとジョーの関係の深掘りをするんですね。
これもプロフェッショナルというか、こだわりがハンパないというか、
であるがゆえに、ジョーとも関係を持っちゃうんですね。仕事として必要だから。
ジョーはめっちゃ傷つくんですけど、そんなの気にしないくらいにビジネスライクなわけです。
ここまでくると“ヤバい”人だったりするのです。
さらにジョー。
ジョーは13歳で大人になってしまったため、青春時代を過ごしていないんですよね。
だから、蝶々🦋つながりの女友達とたぶん不倫したいと考えちゃっているし
失った青春時代を取り戻したいという欲求がどこかにあるんですよね。間違いなく。
そういう状態だから、エリザベスに誘われるとコロっといとも簡単に関係を持っちゃう。
それがビジネスだと知ると、すげぇ傷つくわけですね。なんと純粋なんでしょうか。
タバコも吸ったことがなくて、じぶんの子どもから「マジで?」と言われるくらいですからね。
というわけで、主要人物が全員ヤバいやつなわけで、
これはもはやスリラー?ホラー?というくらい、人って怖いよね・・・と感じてしまう作品です。
そして何が真実かわからない!
だから副題の「ゆれる真実」には、なるほどなぁと唸りました。
トッド・ヘインズ監督は女性を美しく見せる天才だと思いますが、
今作のひねり方は尋常ではないですね。
すごいつくりだな・・・と思う一方で、好きかどうかは別です。これは好きって言えない作品かも。
いやぁ、余程の映画好きしか観ないでしょ。コレ。
よくわかるのはデイブさんの解説動画
突然じゃじゃーんと大音量で入ってくるピアノの劇伴が火サスっぽくてドキッとする。ジュリアン・ムーアとナタリー・ポートマンの表情に的を絞った長回しの緊張感、実像と虚像が交錯する鏡の場面、喘ぎ声をも思わせるペットショップでの動物の啼き声、芋虫がサナギになってチョウになって羽ばたくカット。そんな思わせぶりなネタふりが多々あるものの、結局、大事は起きず、いろいろわからないまま終わるもやもやドラマ。まあ、それこそがこの作品のテーマということか。
当然、元ネタとなった30年近く前のショッキングな性虐待事件、当事者たちの真の気持ちはよくわからないが、ポートマン自身の13歳でのレオンへの出演関して今になって思うところがいろいろあるようなので、それゆえ本作の製作に加わっていることは間違いない…って、いや、ホントのとこわかんないけど。
続ける嘘、言えない真実
あっぶねぇ。まじギリッギリ。
いつもの映画館が朝8時とか誰が見れんねん!?って時間にスケジュール組んだせいで見ることが出来ず、公開終了とのことだったので1ヶ月以上ぶりに他の映画館へと遠出することに。全く、やれやれだぜ。1週間体調不良で映画見れなかっただけで、こうも苦労するのか。いかに自分が映画に囚われているのかを実感した月でした。
オススメされた作品だったから見たんだけど、ごめんなさい。あまりハマれなかった...。Filmarksと映画.comで評価がかなりわかれてるから、映画に対する向き合い方とか考え方で好き嫌いが顕著に現れる映画なんだろうなと。
まだまだ自分は映画好きと名乗るには生半可なもので、男の子が喜ぶようなヒーロー映画や全身に訴えかけてくるバイオレンスアクション、ヒヤヒヤしてスリリングな気持ちになれるサスペンス、今にも踊りたくなるような音楽映画なんかばかりに高評価を与えちゃうから、こういうじめっとしたスローテンポの映画にはまだまだ慣れておらず、自分の趣向に引っかかるものが自ずと少なくなる。
しかし、映像表現的な観点から見るとかなり面白い。ストーリーはハマれなかったけど、その点においてはすごく評価できる。ドキュメンタリーのようなリアリティのある作りをしてるんだけど、垣間見える映画感が見る人の心を揺さぶる。
いけないところに踏み入れてしまったのか。人の心を覗くこと、理解しようとすることの怖さや、どんな人でも抱える心の闇(それを真実という)なんかがすごく繊細に描かれていて、この作品が伝えたいメッセージは何となくで正しいかは分からないけど、読み取れた気がする。ナタリー・ポートマンがとにかくいい顔してた。
自分がハマれなかったのは、映像表現すごい!だけで終わっていて、実際に起きた事件を追いかける物語として未完成のまま幕を閉じているようなそんな気がしたから。なんかフワッとした、地に足着いていないような物語の進め方がどうもこのテーマとは合っておらず、もっとキツイ...苦しい...頭悩まされる...みたいな感情で満たされていたはずなのになー、とどうしても思ってしまう。観客に対してちょっと不親切な映画。でも、映画的になかなか興味深い作品だった。
見どころは2人の女優の演技?
真相がわからない、のがリアルだったりする。のはわかるような気はするけど‥それが映画としていいのかわかりません。見どころを感じるのは2人の女優の演技。作る側はやり甲斐のある作品だったのかも。でも見る側には何を伝えたかったのでしょうか?2人の女優の演技、ということであれば成功してますね?
藪の中?
真実は当事者の間であっても解釈が異なるという主題は映画羅生門でもお馴染みですが、そういうことを描きたかったのかしら?
女優が関係者にいろいろ聞いてみて、ますます訳がわからなくなっていくというのも、当事者だった女性に寄り添っていく中で、一線を超えてしまうのも、解釈し切れない人の気持ちの中の闇を描いているのかな。女優も訳ありな彼氏と付き合ってるみたいだし。
わざわざ昔の家族と過ごした場所に戻って来なくてもいいよねとも思ったし、なんであんな大きな家に住んでいられるのって、謎だらけの映画でしたね。
最後の蛇はアダムとイブの寓意だとすると、女優は、これは女から誘ったと解釈したってことかな。
基本⁇な映画ではありますが、映像の面白さ、女優の演技、また米国南部独特のじっとりとしたサバンナの空気感が伝わってきたりして、個人的には好きな映画でした。
まぁ、一人で見た方が無難ですけどね笑。
物語か、人生か
作品自体がアカデミー賞クオリティに充分値する。
しかし、
ジョーのセリフを引用すると「これは人生なんだ」が示すように、
実話のエピソードのレイヤーが重なり過ぎて観客を良くも悪くも幻惑する。
その幻惑は、
演技者としてのナタリー・ポートマンというよりも、
プロデューサーとしてのナタリーと、
監督トッド・ヘインズの狙いでもあったのだろう。
ヘインズの狙いを前作『キャロル』を参考にして解釈すると、
感情にフタをして生きるという事は、
自らの存在意義を認めないという事、
それでいいの?観客のみなさん、
と、
観客に気持ちのシャドウイングをさせるのが演出意図のひとつだろう。
しかし『キャロル』には考え方の逃げ道があった。
今回はその逃げ道を断つように、
実話、認識論的相対性(劇中のセリフ)、
真実の愛と法律、
などのレイヤーがさらに重なっている。
そのレイヤーの増量はヘインズの投げ掛ける命題に、
付加価値を与えるものと解釈できる一方で、
ケミストリーに集約したケイト・ブランシェットとルーニー・マーラの芝居の激突のようなものを期待した観客にとっては、
多すぎるノイズになったのかもしれない。
もちろん、鏡の前の並列の2人が、
現実のグレイシー⇄グレイシー役(本作の)⇄ジュリアンと、
エリザベス⇄グレイシー役(劇中の)⇄ナタリー等々、
立体的マトリョーシカ的ツーショット?6ショット?
神がかり的カットはいくつかあった。
正確にサイジングされソリッドにカッティングされたカットを丁寧に積み重ねて、観客の胸に焼き付けていく。
ショットという曖昧な狙いではなく、
編集時のコマ数まで計算済みの精密な削り出しは相変わらず鋭い。
【蛇足】
オーディションの映像のシーンを入れたのは、
ジョーのおおらかな包容力やセクシーさ、
キャスティングに苦労した証拠を見せたかったのかもしれない。
そのキャラクターは、
この事件のコアのコアの部分。
グレイシーの感情が始まりなのか、
やさしいジョーの無垢さが始まりなのか、
または、
それぞれの家族との影響なのかは、
いくつかのシーンでほのめかされるが、
基本的には観客の解釈に委ねられている。
ジョーの父親の夥しい数の吸殻、
息子の弱い大麻で咽せるジョーの肺、
これだけで父親が息子を傷つけている描写だ、
といわれても、
自分なら、
他にも撮っているであろうカットを、
復活させて、
ハッキリとコミットするか、
この一対のみであれば、
いっそのことシナリオの段階でオミットする事を推奨する。
理由は下記にほのめかしておこう。
最後に、
子供の無垢な心が特殊な刑事事件を引き起こす類似作品は、
映画化もされている松本清張の『影の車』や『天城越え』、
イーストウッドの『ミスティック・リバー』のような名作があった。
重なったレイヤーを一枚一枚剥がしていく思考の補助線になるかもしれない。
人間の根源的な存在意義というテーマとその描写方法で幻惑させながら、ねじ伏せていくヘインズの演出は観客に多くの解釈の余地を与え、
その一つ一つのレイヤーを広義で楽しむことで、作品の真の価値を理解することができる、
という言い方もできるかもしれない。
いも虫から蝶、カゴから空へ羽ばたく、
ムーミンの神回を思い出した。
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