エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命のレビュー・感想・評価
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神は死んだ
史実を元にしながらも
自分の(宗教的)信念を他人に強要・強制することの恐ろしさと
洗脳の怖さを痛烈に描いた作品です
それは残念ながら心から愛する我が子に対しても同じであると
いかなる宗教も
宗教的権威も
宗教的儀式も
宗教的対立も
宗教裁判も
宗教教育も
破門も
神の裁きも罰も
後に整備された教義もしきたりも
欺瞞と矛盾に満ち満ちている
洗礼、布施、修行、巡礼、審判、改宗、教会……
人間が宗教に縛られ
宗教が人間を蹂躙する
理不尽・理不尽・理不尽
一体、宗教は
誰のためにあるのか?
何のためにあるのか?
神の名のもとに
拉致も 誘拐も 虐待も 洗脳も 服従も 裏切りも 贈賄も 策略も
何でもあり
そう、戦争や死刑さえもが正当化される
つまりそれは、人類を救おうとした神への冒涜に他ならないのでは?
「信じる者は救われる」との真理をついた美しい信条は、もろくも’権威’に悪用される
それは、この映画だけでなく歴史が証明している
創立?当初には
神や仏は本当に存在したのかも知れない
その組織や団体は希望に満ち溢れ、人々を救ったのかもしれない
でも皮肉にも
その組織が必然的に
大きくなればなるほど
世界に広がれば広がるほど
時が経てば経つほど
本来の光を失っていく
時の権力に利用されながら
宗教や宗派なんかよりも大事なもの、それは愛
そう信じたい
映画の終盤、それまでの信念を翻し、突然
「教皇の遺体を川へ投げ込め」と叫んだエドガルドは、いったい何だったのだろうか
一瞬だけ訪れた覚醒?
母の死に際に、彼女の洗礼を迫ったのは、もとの洗脳された自分に戻ったのか
誰か解説して欲しい
【”家族が望まぬ幼き子への、強制的な改宗が惹き起こした事。”今作は、人間にとって宗教とは何であるかを観る側に問いかける、史実を基にした重く哀しき作品なのである。】
■1858年、ボローニャのユダヤ人街で、ローマ教皇ピウス9世から派遣された異端審問官に率いられた教皇警察たちがモルターラ家の7歳の息子・エドガルドを、彼が幼き時に洗礼を受けた事を理由に連れ去る。
世論と国際的なユダヤ人社会に支えられ、両親は息子を取り戻そうと奔走する。
だが、教会とローマ教皇はエドガルドの返還に応じず、時は流れエドガルドは成人し、立派なローマカトリック教徒になっていた。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・1800年代のヨーロッパは、国家体制の転換期であり、ローマ教皇の権威も揺らいでいた事が、事件の背景にある。
・エドガルドが生誕6カ月の頃、病に罹りそれを心配した使用人のアンナは”悪魔”から命を守ろうと、簡素な洗礼をするシーンが描かれている。
では、その事実を誰が知り、エドガルドをユダヤ教からキリスト教に改宗させようとしたのかは、ユダヤ教徒から告発された異端審問官がはっきりと言わないため、劇中では明らかにはされない。
が、上述した時代背景がある事は間違いないであろう。ローマ教皇ピウス9世は、自らの権威を誇示するために、幼きエドガルドをユダヤ教からキリスト教に改宗させようとしたのである。
■ご存じの通り、キリスト教はユダヤ教から産まれている。ユダヤ教徒だったイエス・キリストがユダヤの教えに疑問を唱えた所から発し、更にキリスト教の中でも厳格なカトリック、プロテスタント、正教会など多数の宗派がある。
日本でも、仏教、神道があるが、日本人は宗教には余り固執しない民族で、寺に行くことも神社に行くことも同じように捉えている人が多いし、クリスマスにはにわかキリスト教になったりする。
だが、これが欧米、アラブになると宗教は厳格に扱われ、古来から大掛かりな宗教戦争が多発している事は周知の事実である。
今作は、この欧米、アラブの厳格なる宗教観を前提に描かれている事で、重い面白さと怖さに満ちているのである。
・ローマ教皇ピウス9世が、強引にカトリック教徒にしたエドガルドが、ドンドン敬虔なカトリック教徒になって行く様を見る時の表情が、何とも言えず恐ろしい。まるで新興宗教の教祖の様である。
<哀しいのは、成人したエドガルドが老いた母の病床に行き、洗礼をしようとするシーンである。
あれ程、エドガルドを求めていた母は、エドガルドの手を振り払いユダヤの教えを呟いて、息絶えるのである。
今作は、人間にとって宗教とは何であるかを、観る側に問いかける史実を基にした重き作品なのである。>
宗教に翻弄された一人の少年の人生を通して見えてくるもの
時代はまさに19世紀の近代、教会法から世俗法の時代。時の教皇ピウス9世はイタリア統一運動が巻き起こるさなか中世来の教会の権威保持のため洗礼を受けたユダヤ人エドガルドのキリスト教への改宗を迫り、彼の身を断固として手放さなかった。ヨーロッパやアメリカのユダヤ人社会をも巻き込んでの救出活動も実を結ぶことなく、教皇の手厚い庇護下で育てられた彼は敬虔なカトリック信者へと成長する。
統一運動のさなか、連れ戻しに来た兄に対して自分の人生は自分のものだと言い放つエドガルド。もはや手遅れだった。人生を奪われ、その奪った元凶であるカトリックに身を託した弟に対して返す言葉もなかった。
カトリックに傾倒し教皇に心酔、尊敬していたが、粗相をした自分への容赦ない教皇の仕打ち。敬愛しながらもどこかで彼を憎んでいる。信仰しながらも自分と家族を引き裂いた宗教を憎んでいる。
教皇の遺体に群がる暴徒から身を挺して守りながら、次の瞬間にはこんな教皇は河に放り投げろと言い放つ。このエドガルドの抱える自己矛盾。これは信仰する誰もが持つものではないのだろうか。いくら信心深い者でも心のどこかで常に信仰への疑念を抱いている、その疑念を打ち消すためにさらに信仰に没頭する、それこそが信仰の持つ罠なのではないか。自己欺瞞の沼にはまり込めばもはや容易には抜け出すことはできない。自分の中に疑念がわくたびにそれを打ち消そうと己をだまし続ける。信心と疑念が常に交互に訪れる。その疑念を打ち消すためにだけ人生は費やされる。
自分と家族を引き裂いた洗礼をエドガルドは今際の際の母に施そうとする。盲信の末の純粋な信仰心からなのか、そのあまりに純粋で無神経なエドガルドの姿に母は絶望して死んでゆく。信仰は何を信じようが自由だ、ユダヤ教徒として生まれたエドガルドが改宗することもそれが自己の自由意思で行われたのなら。しかしこのキリスト教への改宗で明らかだったのはこの家族に悲劇をもたらしたことだけだった。
幼き頃のエドガルドが夢の中でキリストを十字架から開放する。キリストはそのエドガルドに憐みのまなざしを向けて立ち去る。彼の境遇を憐れんでいるのか、あるいは歪曲された教義にただただ踊らされ翻弄されて、いまだ世界中で宗教に端を発した争いをやめれない人々を憐れんでの表情だったのか。
激動の時代、宗教に翻弄されたエドガルド。一人のその少年の姿を通して、今も宗教に端を発した争いを続ける世界の姿を垣間見た気がした。
人間が最恐であることを思い知らされた作品
ユダヤ教の子どもを国のお墨付きでさらうキリスト教。
家政婦が子どもに洗礼をしたため、というのがその理由です。
洗礼ってそんな軽いものなの?誰でもできるの?あるいは言いがかり?
人間って本当に恐ろしいなと率直に感じましたし、どんなホラー映画に出てくる怪物の類よりも
群を抜いて怖い存在だと思います。
さらわれて少しの期間は実家への思慕があるエドガルドですが、
徐々に少しずつキリスト教に感化されていきます。
6歳でしたから、ユダヤ教からキリスト教を上書きインストールすることができる年齢というのも
あったのでしょうね。
しかしながら、徐々に変化していくエドガルド少年に恐ろしさも感じた次第です。
子どもはこの頃の教育次第で、どういう大人になるのかが決まっていくのでしょうね。
そういう示唆もあるのかもなと思いました。なくとも私はそう受け取りました。
青年になってから、教皇を押し倒したり、教皇の死後に棺を運んでいる最中、
教皇への暴言を吐いたりするシーンは、キリスト教の信心はあるものの、教皇には恨み的なものがあるため
そういう行動に至ったのかな!?と、ちょっと考え込んでしまいました。実にエドガルドの矛盾を表現しているなと思い、
その真意は何だったのだろう?と考えてしまいましたね。それもまた映画の面白いところです。
母親の死に際に、キリスト教の洗礼をしようとするエドガルドですが、
母は凛とした態度ではねつけます。この母親の表情には死に際と言えど気概・迫力がありましたし
まさに信念を感じることができました。素晴らしいなと思いましたね。
ここが最大のみどころでしたし、ここでラストを迎えるというエンディングも素晴らしいと思いました。
19世紀末でもまだこういうことが事実として起きていることが驚愕でした。
今は表面上なかなかこういうことは表出しませんが、あるのかもしれないですよね。それはわからないなと思いました。
ある意味ホラー映画よりも現実の方が奇なり。
恐ろしい映画作品だと思いました。
タイトルなし(ネタバレ)
19世紀半ば、ボローニャのユダヤ家庭にキリスト教徒が押し入り、7歳になる息子エドガルドを無理やり連れ去ってしまう。
彼らの主張は、エドガルドはキリスト教の洗礼を受けたキリスト教徒であり、キリスト教徒はキリスト教徒以外に育てられてはならない、というもの。
エドガルドの両親は洗礼など受けていないと主張するも受け入れられず、かつて働いていたキリスト教徒の家政婦が、エドガルドが病気になった際に簡便な方式での洗礼を授けたことが判明する。
一方、エドガルドはローマにある寄宿の神学校で学び、着実にキリスト教徒としての信条を身に着けていく・・・
といった物語で、イタリアの近現代史を描き続けるマルコ・ベロッキオ監督ならでは映画。
ここで描こうとしているのは、宗教の理不尽さだけではなく、旧弊な宗教観から脱却する現代イタリアの入口のようなものなのだが、後者の方はあまりうまくいっていない。
人民の蜂起や暴動、戦争の様子が、エキストラ不足なのかもしれないが、うねるほどまではいっていない。
その分、エドガルドがキリスト教徒の神父になるまでの過程は丹念に描かれており、父母の死にも立ち会えなくなってしまうまでの様子は痛々しい。
直截は描かれていないが、枢機卿との間で、精神的なつながり以外のものがあったようにも感じられ、そこいらあたりも胸がえぐられる。
キリスト教徒でもユダヤ教徒でもない身としては、両方とも理不尽に感じるのだけれど、それらを信じていて、その中にいる者にとっては、理不尽さや矛盾を感じていないのだろう。
そのあたりが、いちばん恐ろしい。
迷信と支配
エドガルドに洗礼を与えた使用人(アンナ?)の言葉が時々イタリア語じゃなかったが、カッコついてたし、あれは何語だったんかな?
モルターラ家でのお祈りは、ヘブライ語よね?聞き分けられへんけど。
カトリック教会でのお祈りは、ラテン語よね?聞き分けられへんけど。
イタリアにドイツ語圏とかフランス語圏もあるけど、そのどちらでもなかったような…
方言かな?
カトリックもユダヤ教も結構迷信あるんやなぁと思った。ベッドに帽子を置くと不吉とか。忘れたけどモルターラ家でもなんか迷信信じてたような。
そんでやっぱ神が一緒やからアーメンっていうのもおんなじ。ユダヤ教でもアーメンてゆうの知らんかった。
頭に被るちっさい帽子も似てるし。
思考が苦手な人に、〇〇じゃなければ地獄に落ちる的な恐怖を植え付け、〇〇してれば救われるという優越感を植え付ける。しかも死後に救われる。
そう信じ畏れさせるのは、支配のため。
権力を振るうため。なんて醜い所業でしょう。
わたしはそのように受け取りました。
支配ってそんなに楽しいのかなぁ。美味しいのかなぁ。気持ちいいのかなぁ。権威を翳すのも楽しくなさそうなのに、なんでそんなことしてんのかなぁ。本当に神の意思?神って道理の通らないことさせるの?
死後に救われることを喜ぶ意味がわからないけど、死への恐れがつけ込まれるのかなぁ。生活が苦しいってのもあるよね。あまりに辛い現世を生きるために、死んだら救われると考えるのは、わからなくはない。
死んだら肛門緩んで便が漏れる肉の塊になるんや。地獄も天国も浄土もないと思う。
無宗教だと自認してるけど、仏教・神道ミックスの倫理観を植えつけられてるし、思考が苦手で信心深い(迷信深い)親と親戚に育てられてるし、多少の洗脳はされてるけどね。
セム系一神教の異教徒への蔑み・傲慢は、誠に見苦しい。
音楽がオペラやバレエの音楽のようで、迫力があった。1850年台はまだイタリア統一されてへんのかとか、世界史の資料集見直したくなった。
エドガルドは今っぽくいえば重ーいストックホルムシンドロームよね?教皇の遺骸を運ぶ道中で襲われた時、雰囲気にのまれて襲撃者に同調してしまうところが、恐ろしかった。
彼はとにかく周りの空気に合わせることで、生きてきたから、それしかできない。それが恐ろしかった。
子どもらが学んでいる教義?も、飛躍がすごいな、道理が通ってない…と思った。
観て損はないんだけど、私はちょっと飽きたかな。
壮大なストックホルム症候群
スピルバーグが映画化しようとしたという事なのでかなり有名な話だと思うのだが全く知らなかった。
教会や神父の立ち合いもない遊びの様な洗礼のされ方でも認められるという事に驚くが、洗礼された事もちゃんと中央に知らされている事にも驚いた。
信仰さえなければ寝食や教育もたタダだし、家族とも自由に会えるのである意味ラッキーな訳だか、いかんせん異教の敬虔な信者なので事は重大。
幸せになる為の信仰だと思うが、しばしば手段が目的となり争いやトラブルを起こしがちなのでいつも怖さを感じる。
親子が似てればもう少し同情できたかも。
教皇は人間味があって良かったw
ラストで今際の際の母親に改宗させようとする姿にはさすがにゾッとした。
ユダヤの子
あまりにも理不尽、非道、何の権限があってというか、当時のカトリック教会はすごい権限があったんだな。
信者の方たちには悪いが、あいつらならオーメン・
ザ・ファーストでやったこと実際にやるだろうなと思ってしまう。
これでまた教会離れが進むだろう。
描かれている事件には憤りを禁じ得ない、エドガルド本人や両親、兄弟の気持ちを思うとつらくてやりきれない。
映画は、映像・音楽・俳優、みな素晴らしい。
特にエドガルドを演じた少年と青年、母親役の凛とした美しい顔と眼力(めぢから)。
十字架に磔けられたイエスが、エドガルドに手足に打ち付けられた杭を抜いてもらい、自由になって歩き去る姿が幸せそうに見えた。
ユダヤの子イエスも、ある意味(キリスト教に拉致されて)キリスト教のシンボルとされていたということか。
こんな教皇は川に捨ててしまえ!
エドガルドの叫びが頭から離れない。
カトリックの権威とは?
あのスティーブン・スピルバーグも映像化を試みようと資料を独占していたにも関わらず映像化は難しいと断念させたという難題をベロッキオ監督が実現させてしまったのが今作品である。
時は1858年(日本は安政5年=江戸時代)のイタリア・ボローニャ。ユダヤ人のエドガルドが7歳にも満たないときに、生まれたときに秘密裏にカトリックの洗礼を受けていたために、熱心なユダヤ教徒だった両親から引き離される形で連れ去られてしまう。
時はイタリア統一運動が盛んに行われる中でカトリックの権威でもあるバチカンの神威が次第に薄れゆく中で、意地としてでもバチカンの権力を見せつけたかったのでは?という内容。
結局モルターラ家に帰ることは許されず、洗脳されたエドガルドはカトリック司祭となり布教活動に生涯を捧げて終わりのエンドロール。
バチカンの闇は根深いとは云うが、当該作品もバチカンが権力を維持したいが為にお金を払ってまで洗礼を受けたことを理由に両親から引き離すのはあまりにも理不尽である。青年期を迎えたエドガルドが教皇ピウス9世に対して突き倒したのは今までの事に対する抵抗を示したかったのか、ピウス9世が他界して遺体を運ぶ際に反乱が起きたときでも川に突き落とせばと再び抵抗する姿勢を見せながらのカトリックという地獄から抜け出せなかった。
良い子にしていればという、あのセリフがあるのとないのとでは顛末は違っていたかもしれない。
ローマ教皇を市民が平気で攻撃できる空気感にビックリした。
(60代男です)
僕には宗教の無意味さを描いたものに見えた。
主人公は6歳の時の拉致さえなければ、両親の教え通りユダヤ教を信じていたはずだ。
それがバチカンで育てられたから、キリスト教徒になった。
もしチベットで育てられれば? バグダッドで育てられれば?
つまりそれは、周囲の人間による洗脳にすぎない。
誰に洗脳されたかの違いによって、対立し、憎み合う。
どうしてそれが人間にとって大切なことだ、などと思う人がいるのだろう?
本作は社会派の問題作だが、作者は娯楽作品の作り手なのがいい。
ただリアルなだけの退屈な作品にはなっていない。
演技も演出も、娯楽映画として面白く観れるように作られているのが長所。
無駄なセリフもなく、非常に分かりやすい。
ただ、終盤で、教皇の遺体が運ばれるのを市民が襲撃するという場面で、必死に遺体を守ろうとしていた主人公が、なぜか途中から一転し、市民と一緒になって、こんな教皇の死体は川に捨てろとわめき始める、その心変わりの理由がまったく分からなかった。
しかもそこでキリスト教と決別したのかと思いきや、そのあとも敬虔なキリスト教徒のままだったので、なおさら分からない。
こんなに娯楽的に作られた作品なのに、その点を分かるようにしてくれていないことだけが、僕には不満。
主人公の少年エネア・サラが異常にかわいいのも引き込まれて観れる重要な要因だった。
それと、本作ほど、ローマ教皇を普通の俗っぽい人間として描写した作品は初めて見た。実在した人なのに、カトリックから抗議されないのかな。
なんて悲しいんだろ
2023東京国際映画祭にて鑑賞。
6歳の頃にユダヤ教だから誘拐されて
洗脳されてキリスト教徒にされて成長し
正しいと信じるものが家族と違っていってしまった。
垣間見える本来の彼が暴動を起こすシーンは胸が痛む。
母親の臨終にキリスト教徒の洗礼をしようとし
拒まれて放心した顔が本当に切なくて涙が出た。
宗派は全く違うけど、宗教をもつ家族に生まれた私にはとても深いところをえぐられた作品。
宗教と家族にここまで仔細に踏み込んだ作品は初めて見た。
映像が暗すぎるのは効果というよりも技術的な問題も感じたので、そこは残念。
信仰心は親子の繋がりよりも強い
厳粛な信仰心や、日常の祈りや感謝、教会の空気。
そういうものが随所に散りばめられて、と言うかむしろ、ほぼ全編がユダヤ教とカトリックの信仰に基づいた画面で、没入感が期待以上。
特に、ユダヤ教とカトリックの祈りが同時進行するシーンは、神秘的だった。
誘拐され、「神は心の中も見ている」と教えられても、本音ではカトリックに改宗しきれないエドガルド。
カトリックへの改宗を条件に息子を返すと言われても、信仰が揺らがない母親。
この二人の葛藤が、クライマックスに向けて丁寧に描かれている。
信仰は、親子の愛情すらも上回る、という明確なメッセージが強烈だ。
一方で、地位や権力や闘争に振り回されて揺れ動く教会、教皇、父親などは、その強固な二人と対比されている。
家族や信仰について、考えさせるストーリーは素晴らしく、実際の事件が世間の耳目を集めたのも理解できる。
一方で、ユダヤ教徒が被害者という立場でカトリックにはやや批判的、という内容のため、世界の映画市場、と考えたときに、誰をターゲットに採算を狙うのか?と訝ってしまった。
少なくとも、日本で配給されたことは奇跡的だと感じた。
「一番大切なのは宗教だ」
ある時そう聞かされて依頼、特にヨーロッパや中東はそういう世界なのだろうと思っている。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教はもともと一つの宗教であったことを考えれば、十億単位の人がどこかで共通の価値観を分かち合っていることを、羨ましくも感じる。
自分の日常では感じることのできない、素晴らしい信仰の世界を味わえる二時間だった。
期待度◎鑑賞後の満足度◎ 信仰という個人的なものが、一家族の幸せが、宗教権力という公的なものに呑み込まれ、潰える怖さ。
①大変重厚な映画。終始冷徹な視線で描かれることで、この事件の悲劇性と社会性とが浮き彫りにされている。
②ただ、額に水を垂らして十字を切り「父と子と精霊の御名において」と唱えただけのことが、一人の少年と家族の運命を変えたことが、日本人として理解の範囲を超えている(私は無宗教ではありません)。
キリスト教とユダヤ教とは根っこは同じ筈なのに。
③キリスト教(カトリック)とユダヤ教と当時のイタリアの社会情勢を勉強しよう。何とか頭でだけでも理解出来るように。
④6歳のエドカルドが、父と逢った時は抑制していたのに、母と逢った時には抑えていた感情を爆発させるところは実に哀切。
⑤歴史的には、ローマ教皇の権力が弱体化した契機になった事件らしいが、断ち切られた親子の絆は再び繋がらなかった。
音楽に圧倒される
キリスト教カトリック、ユダヤ教の違いや対立関係が全然わからない人間には、完全に理解するのは難しい作品かもしれない。ドラマチック過ぎるBGMがイタリアの作品であることを更に痛感させる。
今から150年前、生後6ヶ月の時に家政婦の若い女に勝手にカトリックの洗礼をされてしまって、ユダヤ教の一家なのに7歳で枢機卿の元に強制的に連れ去られるエドガルド少年。家に帰りたいと両親を請い、父親も何度も訴え出て裁判まで開かれるが、願いは届かず敗訴。しかし10年も経つと、カトリックで良かったと思い、ローマ教に反乱を起こし弟を救いに来た兄を追い返す。更に死の床に臥す母に洗礼しようとするのだった。実際、エドガルドはカトリックとして90歳まで生きたという。
ということでカトリックとユダヤ教、どっちが良いのかなんていう話では当然なくて、むしろいたいけな子どもを誘拐までしていたというカトリックの閉鎖的な社会を今ここで世に明らかにしたという意味はあるのだろう。
権力者というのはどうしようもないなというのは世の普遍か。
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