エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命のレビュー・感想・評価
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ゆったりした語り口で語られる、不条理なまでに翻弄された人生の物語
1858年にボローニャで起きた事件を題材にした歴史劇である。仲睦まじいユダヤ人一家に育つ少年がとある理由によって親元から引き離され、カトリック教徒としての生活を余儀なくされる。ストーリーの柱には、現代でもあらゆる争い事の火種となりうる「宗教上の違い」があり、教義のため、宗教上の権威のために是が非でも事を為そうとする、優しい顔をした非情さが本作を不気味な闇で覆う。その一方で、これはいたいけな少年の瞳を通じた年代記でもあるのだ。己の理解がまったく追いつかぬところで全てが目まぐるしく移ろうお伽話のような感触すら持ち、彼は数十年のうちに大きな精神的変容を辿ることになる。ベロッキオ監督曰く、この事件はイタリアにとって重要な歴史的瞬間だったとのこと。なるほど、描かれるのは、宗教的支配が近代史のうねりによって変わりゆく過渡期。ゆったりした語り口ながら、当時を生きたあらゆる人々にとっての激動の物語なのだ。
怖い映画だった
怖い映画。一言につきると思います。
宗教という名のもとで起こる理不尽な誘拐、洗脳、無知で純真な召し使いの浅はかさ、すべてが怖いです。
一番怖いのは、教皇庁の支配という現実的な障害が奇跡的に取り除かれ、革命が起こったというのに、洗脳されてしまった人の心は戻らないという現実です。
これをみて、ロシアに連れされられたウクライナの子どもや、北朝鮮に拉致された日本人とか思わずにいられませんでした。
これは昔の話でもなんでもなく、今の話ではないか。
そう思うと背筋が凍ります。
すごい映画だったけど、後味が悪かったので評価は低めです。
家庭に持ち込まれた宗教戦争
宗教は本当に平和のためなんだろうか?
バチカンにある美術品の数々に、教皇の権力の大きさに恐れを感じる。
こどもを拉致して改宗を迫るなど、本当に言語道断な話である。
当時はそれなりに行われていたのでは無いだろうか。
しかし洗脳とは恐ろしいもので、最終的に親子の仲を断絶してしまう様子に涙が出た。
権力にすがるローマ教会の傲慢さ
ユダヤ人家族の元に教皇の命を受けた人々が訪れ、“洗礼を授けられた”という理由でエドガルドを半ば強制的に連れ去る。浮き彫りになる権力の衰えに恐怖するローマ教会の傲慢さ。しかし、引き摺り下ろしたところで奪われたものは返ってこない。
永遠の宗教二世問題
1858年のイタリア。ユダヤ教一家の7歳の息子を「この子は赤ん坊の時に洗礼を受けたキリスト教徒だ」とローマ教皇が拉致したという歴史的事実に基づく物語です。現在からさほど遠からぬ時代にこんな横暴が許されていた事にまず驚き、イタリアの人々に及ぼしていた教皇の権力は斯くも甚大だったのかと知りました。でも、本作の訴えを本当に理解するには、イタリアの歴史とキリスト教・ユダヤ教の背景を知っていなくてはならないんだろうな。と、またまた自分の不勉強を恥じる。
「でも・・」
と、不信心な僕は思います。無責任な事を言ってはいけないし、教皇の行為は許されないのですが、子供に何を信仰させるのかと綱引きする姿は、現在の日本で取り上げられている「宗教二世問題」にそのまま被さって僕の目には映りました。
人間らしい
幼いころに不可抗力で連れ去られ
育てられ
教えを叩き込まれると
人間はやはりその道を信じるようになるのか。
本人にとっては自分の世界はそこにあるんだろうなぁ。
宗教との付き合い方は永遠の課題のような気がした。
悪いものではないけど、
付き合い方によっては、争いや悲しみの火種になる。
権力者の言動に嫌悪感を感じた。
ユダヤ教に関する知識皆無、キリスト教に関する知識義務教育程度で鑑賞。
権力者たちの行動に反吐(へど)が出そうだった。
家族の情を絶って何が宗教だろう。
教育の怖さも感じた。ロシアに囚われた子どもたちも既に教育(洗脳)されているかもしれない。
どうして?生きてる内は答えがでないコトでは
何しろ映像が美しい、構成もドラマチック。役者さんも素敵な方ばかり。すご〜く満足!…したことでしょう今が昭和あたりなら。
昨今の映画にしてはとてもクラシックなつくりといわざるをえないというかなんというか。キライじゃないけど手ばなしで褒める感じではない。
にしても、宗教にからむ話題に触れる時、日本人でよかったなとつくづく思う。文化と信心は異なるもの。そうなった諸々の歴史はあるのだろうけれど
24-053
キリスト教って難しい宗教ですね。
特に中世から近世にかけての権力が国王や皇帝より強いなんて、訳がわからん。
布教、宣教、改宗、とにかく神のご加護を受ける子を増やしたい。
欺瞞と横暴に支配された教典が人々を救うとは思えないなぁ。
終始胸くそ悪い話でした😤
宗教めんどい。
当時のイタリアでキリスト教とユダヤ教の関係など多少知識が無いとさっぱりわからない。
なんでユダヤ教あんなに教皇にぺこぺこしてるんだろ?
宗教に上下あるんかい?
誰が?何故ユダヤ人家族の子にキリスト教の洗礼を?というミステリ仕立ての前半と、すっかり洗脳されたエドガルドが家族と信仰の間でブレまくる後半、、っという仕立てのはなしです。実話だってのが怖いよね。
本来宗教は人を救う目的で産まれた物だけど、組織化し拡大し始めると大抵ダメになるね。
教会/世俗のイタリアの断裂線を描く妙
イタリアの歴史に走る断裂線、教会/世俗の上にユダヤを配置して見事。カトリック教会の独善的な思考(あらゆる新思想を否定した誤謬表、教皇不可謬性)がピークに達した頃にリソルジメントの国家統一が重なった時期の問題性を一人の少年の運命により語ったのが見事。原作の力もあろうが、近代にぶつかったカトリック世界を絵巻物のように描いたのには感服するしかない。イタリア近代史を知る基点にもなる時期、教材にもよし。
熟練の作品
自由と平等を推し進める民衆と、それに対抗するカトリック教会。イタリア統一に一役買ったのは、広場の銅像になるような立派な英雄ではなく、無学な家政婦がきっかけだったという不合理で残酷な実話。
冒頭。ヘブライ語で赤子に祈りを捧げる父母。赤子の瞳は遠くを見通すように澄んでいて、まるで飼い葉桶に生まれ落ちた赤子のように特別な存在だった。それを覗き見る家政婦の視線は、その後の数奇な運命を示唆する重要なシーンだった。
ユダヤ人迫害、権力乱用というカトリックの傲慢さと凋落をあぶり出しながら、マルコ・ベロッキオは犠牲者の少年の痛みを現代社会に提示してくれた。
かくれんぼ遊びが家庭と教会で二度描かれる。イタリア統一という歴史の中で隠れてしまいそうなエドガルド。彼自身も自分がどこに居るのか分からない。
そんな彼を置き去りにせず、「あなたはどこにいるのか。どこにいようと我々はちゃんと見つけ出しますよ」とマルコ・ベロッキオの声が聞こえるようだった。
印象的なシーンは数多く。母のスカートの中、寝台のシーツの中、教皇の法衣の中、母との別れ。たった一枚の布切れが、少年の残酷な断絶を浮かび上がらせていた。
そして十字架から釘を抜いてキリストを解放するシーン。キリストは〝受難の象徴〟いばらの冠を捨てて歩いていく。
ユダヤ人でありながらユダヤ人に殺されたキリスト。キリストが磔になることで信仰者は罪から解放されるのに、キリストを十字架に掛けた責任はユダヤ人が負うべきだというのなら、ユダヤ人の僕がキリストを解放してあげるよ。
現実では宗教の和解は困難だが、少年の無垢な夢が、同腹の兄弟(ユダヤ教とキリスト教)をなんなく和合させたみたいで面白かった。
少年期、青年期の二人が良かった
6歳でユダヤ教徒の両親の元から離され、カトリックの教会に入った彼の心境…なかなか想像しにくいですが、私には相反する気持ちに揺れ続けているように見えました。
ピウス9世に対しては、尊敬や敬愛だけではなく、家族と引き裂かれた憎しみを心に秘めていたのではないでしょうか。
衝動的な行動に、理屈では説明できない彼の心の揺れを感じました。
青年エドガルドを演じていたレオナルド・マルテーゼは2023年の『蟻の王』がデビュー作です。
デビュー間もないとは思えない印象的な演技で、数日経っても表情が心に残っています。
まだ少し演技が硬いような気もするし、上手いのかどうかイマイチわからないのですが、記憶に残るタイプでとても気になります。
印象的なシーンも随所に散りばめられていて、よい作品だったと思います。
まさに、数奇な運命
個人的に久しぶりのイタリア映画。しかも19世紀のお話とのことで、映像の色彩がまさにクラッシックなイタリア映画。ただ、音楽がいまいち、モリコーネがもし生きていたら、名曲がついたのでは…と思ったりして。
実際にあったお話とのことで興味津々で鑑賞。因みにこれは描かれている宗教とイタリアの歴史について少し知識が無いと、誤解しそうなお話。キリスト教全般について調べたり理解を深めるきっかけとなる作品になると良いですね。
この頃のローマ教皇は絶大な権力を持ち、なんと横暴だったのか。信仰は誰にも押し付けられるものでも強制されるものでもなく、自分が知らないうちに儀式によって教徒になるものでもない。
ただ、印象的に描かれていたシーン、夢の中でエドガルドが、礼拝堂に掲げられている十字架の上のイエス・キリストの手、足から杭を抜き取ると、イエス・キリストが蘇って微笑み、歩き去って行くシーン。エドガルドがイエスと個人的に出会った、と言えるシーンだったのでは。
半ば誘拐され強制的に教育された少年は、実際に個人的にイエスに出会い、自らの意志でイエスの使徒となったということなのかもしれない。悲劇は彼が家族と平安や愛する心を分かち合えなかった事。
世界を知る上で、ユダヤ教とキリスト教は似てるけど、違う、ということは知っておく必要はありますね。
大きな政治的波に巻き込まれた少年エドガルドがとっても可愛らしく健気。それだけに、辛さに耐え無表情になるシーン、からの母の前で耐えきれなくなるシーンは涙涙でした。
実話というのが恐ろしい。幼い子供へ「洗礼」するというのは
エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命
神戸市内にある映画館シネ・リーブル神戸にて鑑賞 2024年5月1日(水)
パンフレット入手
この作品にはクラシック音楽が使用されてました。残念ながらパンフレットには記載がありませんので解説しておきます。(全2曲)で他にもありましたが、分かりませんでした。
1.ラフマニノフ作曲 交響詩「死の島」作品29
セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)はロシア(帝政ロシア時代)の作曲家
スイスの画家「ベックリン」の同名の絵画から着想をして作曲。
小さな船に櫃が一体積まれていて、埋葬する先の「死の島」へとゆっくりと漕いでいる。
波の音、時に荒波に揉まれて転覆しそうななるが、間一髪で逃れると、静寂の海に戻って、船は進んでいる。(私の解釈)
2.アリフレート・シュニトケ Agony Suite (Arr. F. Strobel) I. Einleitung
Agony組曲 フランク・ストローベル編曲 1.序曲
アリフレート・シュニトケ(1934-1998)ドイツ・ユダヤ系現代音楽作曲家
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ここから本編
「エドガルド・モルターラ誘拐事件(1858年)」の映画化
実話(ドキュメンタリー映画)
原題は{Rapito」
1858年、イタリア北部ボローニャのユダヤ人街で、教皇から派遣された兵士たちがモルターラ家に押し入る。枢機卿の命令で、7歳になる息子エドガルド(エネア・サラ)を連れ去りに来たのだ。
エドガルドは生後間もない頃、何者かによって秘密裏に洗礼を授けていた。教皇の命は絶対であり、洗礼者はカトリック教育を受けなければならない。24時間の猶予を与えられたが、状況の好転は見込めない。
エドガルドの父モモロ(ファウスト・ルッソ・アレシ)や母マリアンナ(バルバラ・ロンキ)、親族による歎願空しく、エドガルドは必死の叫び声に喉を枯らしたまま連れ去られてしまう。
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一体だれがエドガルドに洗礼を授けたのか?エドガルドは1851生まれ。当時の使用人はキリスト教徒のアンナ・モリージだった。彼女は盗癖によりモルターラ家を解雇されていた。
一方、連れ去られたエドガルドはローマに向かう船の中にいた。同乗した老女に「キリスト教の王」のこと教皇の存在を教えられる。教皇は首を長くしてエドガルドの到着を待っているという。
モモロは息子らと共に、アンナ・モリージを尋ねるが彼女は彼らの到着をみるや脱兎の勢いで逃げ出そうとする。方言でまくし立て証言を拒否し、十字架を携えた神父らと共に民家に逃げ込んだ彼女からは「エドガルドに洗礼を受けた」という言葉を引き出すことは叶わなかった。
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6月28日の夜。ローマに到着したエドガルドは、院長の出迎えを受け、寝室を案内される。就寝用のベッドでシュマ(ユダヤ教の祈り)を唱える彼に、エリアという同世代の男児が「君はユダヤ人?」と声をかける。「いつ帰れるかな?」と問うエドガルドに「言うことを聞けば早く帰れるよ。賢い者が勝ちだからね」と意味深な言葉を放つエリア。
一方モモロらは、イタリアのみならず近隣国のユダヤ人組織の協力を仰ぐべく、文書の作成に取り掛かっていた。「これが何の役に立つの」とこぼすマリアンナ。エドガルド奪還には強硬手段が必要だと主張するが、今のところ手立てはない。
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教会によるエドガルド・モルターラ誘拐の報は、ユダヤ人コミュニティからの伝播で世界中に広がっていった。非人道的な振る舞い、歴とした犯罪であると追及する自由主義系のメディアや、遺憾の意を表明する、時の皇帝ナポレオン3世を擁すフランスなどの近隣諸国、教皇の存在を嘲笑うような演劇を上映したアメリカ。10年前は救世主と崇め祀られたビウス9世(パオロ・ピエロボン)は弱体化する権威そのものの象徴になりかけていた。
現実を伝える枢機卿に対し、ビウス9世は激昂し「私の答えは”拒否するだけだ”」「信仰の原則により子供を返すことはできない」と言い放つ。
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ある夜、少年エドガルドの夢の中にイエスが現れる。十字架にかけられた姿、両手両足に打ち付けられた杭を外すと、イエスは自由の身になって歩き出そうとしている。
少しずつ、少年エドガルドはイエスの心を受け入れるようになるが、しかし両親から授けられたユダヤ教の教えはどうなってしまうのだろう。こっそりと就寝前の寝台の中でユダヤ教のお祈りを唱えていたが、やがて身も心もキリスト教にすっかり帰依してしまうのであった。
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エドガルドは成長し大人になったある日
エドガルドの両親と面会した時、エドガルドは「僕の人生は僕が決める」と言い、両親は落胆してしまうのだった。
母マリアンナが危篤となった時に、瀕死に近い母へ洗礼を施そうとするが、それを拒み「どこまでもユダヤ教徒として信仰をまっとうしたい」と愛する息子、エドガルドへ伝えるのだった。
監督 マルコ・ベロッキオ
音楽 ファビオ・マッシモ・カポグロッソ
感想
実話というのが恐ろしい。幼い子供へ「洗礼」するというのが理解できないが
エルガルドが幸せならばと思います。
「数奇な運命」、で済ませていいのかな。
時代背景が絶妙。教会法という前近代的な聖なるゆえに(かつ)アウトローな法に対して、関係者は単に泣き寝入りしていたわけではなかった。言論の自由大国アメリカのメディアにも取り上げさせ世論に訴えた。
結局は、一人の人の心をコントロールしてしまうことの罪深さ、容易にコントロールは解けない(=自己否定につながってしまう?)の本性、無責任かつ罪の意識のない愚民、沈黙する神(信じるとしたら)、、、
何を馬鹿な思えるのは対岸のことだからか。現代にも蔓延る意味のないタブーは一体どれくらいあるのだろうかと考えさせられた。
映像は圧倒的に美しく、光と影効果が終始一貫。どの子どもも可愛くて切なかった。
一番の被害者であるはずの本人が、 全くそのことに気づいておらず、 ...
一番の被害者であるはずの本人が、
全くそのことに気づいておらず、
今の生活に満足してしまっている
そのせいで、
お母さんにあんなこと言うなんて、、、
洗脳ってこわい、信仰心ってこわい
当時はこんな事件がたくさん起きたのだろうけど、
本当に許せない
この作品を作ってくれたことで、
この事を知ることが出来て良かった
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