「ジェンダーとプロフェッショナリズム」ポトフ 美食家と料理人 佐分 利信さんの映画レビュー(感想・評価)
ジェンダーとプロフェッショナリズム
本当に久しぶりのトラン・アン・ユンの作品である。冒頭「イェン・ケーに捧ぐ」とあるので、「青いパパイヤの香り」で成長した主人公を演じた彼女が亡くなったのかと思いきや、長年を公私にわたるパートナーであり続けた彼女への謝辞であり、監督から彼女への思いこそが、映画の主題となっているのだ。
そして、「青いパパイヤ」で額の汗を片腕で拭いながら、もう片方の腕で鍋をふるう彼女の料理をしているシーンが脳裏によみがえり、本作のジュリエット・ビノシュの料理する姿とオーバーラップする。ビノシュは額に汗を浮かべるどころが、意識を失う手前まで疲労困憊の様子だ。
そう、このようにしてトラン・アン・ユン監督は、調理作業に従事する女性の肉体的な負担を直接的に何度も描いている。その重労働の所産として目を奪われんばかりの豪奢な一皿が生まれ、男たちの食卓が形作られるのである。
同じく食への強い関心を隠さなかった映画作家として我々は伊丹十三の名を思い起こす。彼の代表作「お葬式」においても、精進落としのごちそうを準備するのは女たちであり、それを食すのは男たちなのだ。男たちの饗宴に女たちが入ることはなく、女たちが台所でその料理を口にすることは本作にも共通する。
観客が食べ物の美味しさ、舞台となる家屋の内部、農園、と美術のすばらしさに気を取られることは監督の本意だろうか。いや、これら美しい生活が女たちの労働によってこそ成り立っていたことを観客はもっと意識すべきである。生産する性と享受する性の固定化。このことを抜きにしては、この映画は単なる料理のデモンストレーションに終わってしまう。
さて、死の直前、女が男に対して「あなたにとって私は『妻』だったのかそれとも『料理人』だったのか」を問う場面がある。
もちろんこれこそが映画のテーマであり、監督が観客に問うている問題なのである。
命を削って作ってきた料理。これを相手がプロフェッショナルとしての仕事の成果と認めるか、愛情の対象へのまごごろの所産として感謝するのか。彼女が求めたのはジェンダーから逃れられない男と女の愛情の所産としてではなく、プロとしての評価だったのだ。
これこそが、彼女が結婚を拒み続けて理由であり、料理を続けてきた理由なのだ。
そうでなければ、丹精込めて作った料理を、台所で使用人と一緒に食べることなど耐え難い屈辱なのである。