「古代の地層のように幾重にも被さる寓意にうずもれる」墓泥棒と失われた女神 TRINITY:The Righthanded DeVilさんの映画レビュー(感想・評価)
古代の地層のように幾重にも被さる寓意にうずもれる
1980年代のイタリア・トスカーナが舞台の作品。
観光遺産を複数抱え、幾度となく映画の舞台となった(ロマンチック・ストーリーが多いが、タルコフスキー監督の『ノスタルジア』なんてのも)トスカーナは、監督アリーチェ・ロルヴァケルの故郷でもある。
でも、どうして80年代?
それはさて置き、この作品はイタリア映画の伝統を引き継ぎながら、現実と非現実のあわいを彷徨う主人公とともに、意味深長で謎めいたラストへと、鑑賞する者を誘なってくれる。
主人公・アーサーの仲間が奇抜な装いで街に繰り出して騒ぐシーンは、多くの人が指摘するようにフェリーニの監督作品を彷彿とさせるし、建物自体が遺跡のような館に一族とともにしがみ付くフローラ夫人は、まるでヴィスコンティの『山猫』のワンシーン。
だが、村を出て海岸に降り着くと待ち受ける、煙突やクレーンがそびえ立つ工場群は、この作品がネオ・レアリズモのDNAをも引き継いでいることを否応なく知らしめる。
工場の登場シーンを挟んであらためて見るトスカーナの風景は、もはやフェリーニ、ヴィスコンティの映像芸術の世界ではなく、F.ロージ監督の『エボリ(原題「キリストはエボリにとどまりぬ」)』の寒村のよう。
生業に着くことを厭い、墓荒らしで日銭を稼ぐ若者たちが棲みつくこの村もまた、神から見捨てられた土地といえるが、この地に舞い戻ってくるアーサーは見た目はキリストっぽいが、『エボリ』でのレーヴィのような啓蒙の救世主とはならない。
『映画で見つめる世界のいま』での藤原帰一先生の解説によれば、この映画の原型はギリシャ神話のオルフェウスの話なのだそうだが、それ以外にも寓意や宗教的なモチーフが幾重にも織り込まれているようにも感じる。
イギリス人の主人公アーサーを演じるのは、新鋭ジョシュ・オコナーで、彼自身も英国出身。アーサーは特殊な感覚で古代エトルリアの墓を探り当てる。
イギリスと古代の美術品との関係を考えれば、やはり大英博物館に思いが至るが、収蔵品の多くを植民地支配の時代に海外から掻き集めたせいで、今では略奪博物館とか、泥棒博物館なんて呼ばれることも。何のために主人公をイギリス人にしたのか、つい深読みしたくなる。
フローラ夫人の世話係として登場するイタリアと呼ばれる女性も、アーサー同様、異邦人。
シングルマザーの彼女が抱える子供が二人とも実子なら、どう見ても父親は別。
アーサーらの墓荒らしを非難してやめさせようとするイタリアは、この作品中、唯一の常識人だが、カトリックの旧い倫理観に許容されずにフローラ邸を逐われたあと、廃線脇の見捨てられた駅舎に同じ境遇の家族を集め、小さなユートピアを築こうとする。
アーサーを墓泥棒と非難しながら、救いの手を差し伸べるイタリアこそ、現実世界の女神なのに、冥界の恋人を求めてアーサーは彼女に背を向ける。
やがて迎えるラストシーンと、アーサーの運命はちょっと複雑。
観る者によって、印象や解釈は大きく別れるだろう。
単純に、アーサーが生還できたか否かや、ハッピーエンドかバッドエンドかで、観る人それぞれに意見がある筈。
閉じ込められた穴の中で、わずかに洩れる光に導かれ、天井から垂れ下がる赤い糸を手繰ると、地上でアーサーを待ち受けていたのは、恋人ベニアミーナ。
このシーンで二人の生存を確信する人は多くないかも知れないが、彼らの生死にかかわらず、ハッピーエンドと捉えたい人もいるだろう。
だが、自分がどうしても気になるのは別な点。
金蔓になる女神の頭部を海中に捨て、墓泥棒仲間から愛想を尽かされたアーサーが、新たに接触するグループに付いていくと、古代の金貨を見つけたと証言する若者が現れる。
彼の言葉はどこかたどたどしく、表情は固い。そして、グループのメンバーに「墓を発見した者が最初に入るべき」と促され、うかつに穴に下りてしまったことで、アーサーの運命は決する。
アーサーが穴に閉じ込められたのは、事故か、それとも故意なのか。
盗掘品の売買を巡って対峙するスパルタコの一味をアーサーの仲間は過小評価しているが、相手は重機を使って埋蔵品を掘り出し、客船にセレブを集めて美術品を密売する豊富な資金力もあれば、平気で警察にもなりすます大がかりな裏組織。
逆鱗に触れれば報復は当然で、アーサー以外の仲間もただでは済まされないだろう。
舞台となった1980年代のイタリアは、「鉛の時代」と呼ばれる暴力が横行する不幸な時代。
東西冷戦の対立がそもそもの起因といわれる世相を暗喩するように、巨大な工場群は経済格差やいびつな発展の影を落とし、貧困のために、犯罪に手を染める者も。
恋人を失い、傷心を抱え、仲間に求められるまま墓荒らしを続けた挙げ句、生き埋めにされるアーサーの最期は本来なら悲劇。
だが、監督は暗闇に囚われた彼に、様々な解釈が可能なラストシーンを用意する。
それは、単にファンタジーとしてのフィナーレなのか、墓泥棒という背徳を、命で贖ったアーサーにのみ与えられた宥しなのか、それとも不幸な時代を経験したすべての人へ捧げる癒しなのか─。
この作品を観るきっかけは、前述の「映画で見つめる世界のいま」(NHK「キャッチ!世界のトップニュース」の番組内、月イチコーナー)で取り上げられていたから。
監督や他の作品の知識はまったくなかったが、先に投稿された方の多くが絶賛されていた『幸福なラザロ』は、機会があれば、ぜひ観ようと思う。
それと、もうひとつ。
作中に何度か登場するコンロ付きの小型ガスボンベは、なんか便利そう。
今の日本でも手に入るのかな?