二つの季節しかない村のレビュー・感想・評価
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春と秋の無い村では、感情も簡単に、白日の元に晒されてしまうのかもしれません
2024.10.15 字幕 アップリンク京都
2023年のトルコ&フランス&ドイツ合作の映画(198分、G)
都会への転任を希望する教師がトラブルに巻き込まれる様子を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本はヌリ・ビルゲ・ジェイラン
原題は『Kuru Otlar Üste』、英題は『About Dry Grasses』でともに「乾いた草について」という意味
物語の舞台は、トルコ東部アナトリア地域にあるインジェス村
イスタンブールへの転任を希望する美術教師のサメット(デニズ・ジェリオウル)は、休暇を終えて村に戻ってきた
新学期の始まりを控えていた彼は、ルームメイトで同僚のケナン(ムサブ・エキチ)や友人の獣医ヴァヒト(ユクセル・アクス)、落伍者と揶揄される友人フェイヤズ(ミニュン・ジャン・ジンドルク)らと再会を果たし、他愛のない話を咲かせていた
彼が受け持つクラスには、成績優秀なセヴィム(エジェ・バージ)がいて、彼は土産物のコンパクトミラーを上げたりと、どことなく優遇をしていた
セヴィムもそれをわかっていて、自分や友人たちのささやかな願いを伝えたりしていた
ある日、友人の紹介で隣町の教師ヌライ(メルべ・ディズタル)と会うことになったサメットは、彼女と形式的な会話を進める
彼女はマンアラで起きたテロによって足を切断するハメになっていて、活動家としての側面もあった
サメットは、ヌライとケナンと合うと思い、仲介人となって二人の仲を取り持とうと考え始める
サメットの思惑通りに二人は意気投合し、車の運転を教えたりする仲へとなっていった
物語は、ある手荷物検査の日に、セヴィムが隠し持っていたラブレターが見つかるところから動き出す
その手紙に興味を示したサメットは「自分が返す」と言って副校長のサイメ(エルフ・ウルセ)から取り戻す
そして、その手紙を読んだサメットは、取り返しにきたセヴィムに「破り捨てて手元にはない」と嘘をついた
セヴィムはサメットが返そうとしないことを受け、友人のアイリン(ビルセン・スルメ)とともに「告発」を行うことになったのである
映画は、この告発を巡って対立するサメットとセヴィムを描き、べキル校長(オヌル・ベルク・アルスランオウル)や学部長(ユンドルム・ギュジュク)、教育カウンセラーのアタカン(フェルハト・アクグン)に指導を受ける様子が描かれていく
告発はサメットだけではなく、ケナンも含まれていたが、告発に立ち会った同僚のトルガ(エルデム・シェンオジャク)はサメットよりもケナンが狙われて、その煽りを受けているのではないかと言い出す
その言葉によって、サメットはケナンへの嫌疑を起こし、ヌライとの関係の進展に対して、横槍を入れ始めるのである
映画は、198分という長丁場の作品だが、意外なほどに体感時間は長くない
ミュージカルで傘増しした某人気映画の方が長く感じたくらいで、130分程度かなと思わせるぐらいだった
極端な長回しがあるわけでもなく、基本的には会話劇であるものの、その内容が濃くて面白いので、つい見入ってしまうという感覚になっていた
物語の中盤で「いきなりメタ構造になる」という遊びがあるのだが、その意図はパンフレットの監督のインタビューに書かれていたが、若干釈然としないところもあったように思う
いずれにせよ、生理的な抵抗は避けようがないので、持ち込む飲み物には気を使う必要があるが、私が鑑賞した回では多くの高齢者の中で席を立ったのは3人くらいしかいなかった
個人的にも後半は戦うことになったが、そのあたりに不安のある人は、出入り口に近い席を取る方が良いと思う
映画は、自分のことしか見ていない主人公が遭遇する出来事に苛まれていくのだが、完全に一人相撲になっていて、醜悪な本性が露見させていくだけだったりする
パンフレットのイラスト付き寸評が言い得て妙という感じだったので、興味のある方は購入しても良いのではないだろうか
ちなみに手紙の中身は描かれないが、サメットの会話の中に登場する「8年生のエミルハン(ポラット・セーヴァー)」だと思われる
おそらくは彼から貰ったラブレターで、私的なノートは交換日記か何かだったのかな、と思った
トルコに潜在する暗い影を垣間見た
2014年に「雪の轍」でパルムドールを取ったトルコのヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の新作。これもまた傑作だった。
観る前の予想に反してクズな男を3時間以上観続けることに。
冬が長く雪深いトルコ東部の村。
ここに赴任して4年たった美術教師サメット。
自己中でプライドが高く、何もない村を忌み嫌い、自分が行うハラスメントに自覚がなく、女性に対しても同僚に対しても誠意がなかった。不誠実だった。
そう、観る誰もが呆れかえる最低のクソ野郎だった。
サメットが出会った美しい義足の英語教師ヌライがこの作品を特別なものにした。
テロの爆発に巻き込まれ右足を切断したヌライ。以前は活発な活動を行なっていたようだが。
終盤のサメットとヌライが繰り広げる人生論のやり取り、そしてその後の展開は凄いとしか言いようがない。
サメットを最低のクズだと断定したヌライ。しかし義足を外してサミットを受け入れるヌライ。もはやサミットはただの肉棒でしかなかった。
う〜〜ん、これは凄い構図だった。
激しく感動した。
2023年のカンヌでヌライ役のメルベ・ディズダルがトルコ人として初めて女優賞を受賞したとのこと。彼女、圧倒的だった。
主人公を好きになれない
主人公は、周囲の人々の浅はかに常に苛立っている、自身が見込んだ相手に自分の思想を押し付けようとする、同居人でもある同僚のことをやや軽く扱うなど、傲慢さを強調した描かれ方をしている。
主人公と同僚の女性教師が議論をするシーンは名言の宝庫だと思うが、咀嚼するべき名言が早口で応酬されるため、消化不良で心に残りにくい。
風景の美しさには見ごたえを感じるものの、3時間という長すぎる上映時間の間、傲慢な主人公を見続けることに対する苦痛と、自分自身が無意識に主人公と似た言動を取っていないかと不安を感じた。このような不安を感じさせることが製作者の狙いだったのだろうか。
チャイでも飲みましょう
傲慢、偏見、色眼鏡
トルコにこんな場所があったとは
冬が長く閉鎖的なトルコの村で日々退屈に暮らす美術教師を中心としたストーリー。
人としての器はお猪口以下であろう主人公のサメットはヌワイが指摘したように屁理屈と文句ばかりで常に他の何かのせいにしてる。イスタンブールに行ったとしてもきっと同じなんだろうなと思う。
それぞれのシーンが長尺で特にサメットとヌワイの会話のやり取りはとても文学的というか、印象に残りました。最初にサメットとヌワイが「合う」って言ったの誰だ?笑
それでも彼の言い分が共感とまでは行かなくても分からないわけでもなく、あそこまで迷わず自分の意見言えるならむしろあっぱれだとも感じました。
3時間に及びますが大自然は美しく、人間の粗が浮き彫りになって、学ぶことが多いと感じた作品です。
自然と写真は美しかったよ
閉鎖的になりやすい地方の何もなさな途切れない自然風景、そこから早く脱出したい分かりやすい位クソ!な教師の勘違い行動が招く騒動や長回しな対話に一瞬?な光景に心理描写と、サスペンスを期待したがなく198分は長かった。
ここ!な見どころは勿論上記以外で複数あるし鑑賞後影響受けて紅茶飲んだりしも(飲み過ぎな位出てくる)
何だろうな、半分好きではないのだろうが記憶に残るんだろうな。
正しさを揺さぶられて
2023年。ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督。トルコ東部の寒村に小学校教師として赴任している主人公は退屈な日々を過ごしている。組織批判、田舎批判を繰り広げながら具体的な行動は起こさずひたすら転勤を待つ日々。そんな中、目をかけていた少女から告発されてあやうく失職する目に遭ったり、ルームメイトのなかのよい男性教師とともに近くの女性教師とつるんで出歩くようになって関係が変化したり。「どう生きるべきか」を喧嘩腰で議論し合う人々と、その中心で信じていた正しさを揺さぶられる知識人である主人公の苦悩を描いている。
トルコやイランの映画を見ていると感じる「なんかわかる」感じがこの作品にもある。非西欧圏で生きる知識人の葛藤の感覚。しかし、それとは別に、子供または女性によって自らの正当性の感覚を問い直されていく姿も描かれている。理想と現実のギャップに苦しんでいればいいのではなく、そのギャップ自体が男の身勝手な妄想だろうと突き付けられる。突き付けられるけれどもそれはもうどうしようもない。最後に主人公はこの閉塞的な田舎から転勤していくのだが、反省して生まれ変わったり、希望を見出したりということはなく、ただただ季節が移り変わっていくだけだ。
途中で挿入される現地の風景とそこに暮らしていると思われる人々の写真が異様に生々しい。
どんなに擦り切れた希望でもないよりあった方がいい
真っ白でどこまでも続く雪に覆われた平らな大地。そこを歩く人間も鉄塔もオモチャみたいにとても小さい。こんな自然の中では人間も人間が作ったものもあまりに小さいので無意味なものに見える。それが、職員室であろうと教室であろうと人間の群れの中に入り込んだ途端にどこにでもある世界が繰り広げられる。傲慢、噂話、贔屓、嫉妬、見栄、憧れ、信頼、家庭の問題、貧富、「都市と農村」の構図。
主人公のサメットは利己的で独りよがりで人の話を自分の都合のいいようにとり、ずるくて自分が一番偉いと思って他人を見下す男、そして突然大声で怒鳴り物を投げつける、一番嫌いなタイプだ。でもその人間性のどれかは自分の中にもあるかも知れないと思い始めると今度は自分の心がざわつき不穏な気持ちに襲われる。
映画の冒頭や中頃に流れるのはヴェルディのオペラ「ラ・トラヴィアータ」、ヴィオレッタが一人悲しく絶望の中で歌うアリアのピアノ曲だ。そのメロディーはヌライの美しさ、賢さ、悲しさ、夢、苦しみそのものだった。ヌライとサメットのやりとりは行動する理想論者と言葉だけの現実肯定かつ逃避者のあれかこれか議論。迫力はあったが感情や心が伴っていなかった。「擦り切れた希望」の一言で討論は終わり欠けていたエモーショナルな側面を迎える。冬と夏しかない大地があれかこれかという思考形式を作っている訳ではないだろう。世界中がそうなっているのだから。
サメットがスマホやカメラで撮影したという設定の写真映像は、映画映像よりずっと多くを語り豊穣で逞しい人間を映し出していたことに皮肉を感じた。ヌライの家の場面でいきなり映画セットが置かれたスタジオ空間にサメットが入りまた映画空間に戻り入り込むシーンは面白かった。これは嘘と虚の世界なんだよ、と観客の嫌悪感や感情移入を拒み落ち着かせてくれるための効果なんだろうか。だからか、若い聡明なサヴィムの未来には希望があるようにと素直に祈ることができた。
素晴らしい映像
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