「チャイを飲まないと始まらない人々」二つの季節しかない村 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
チャイを飲まないと始まらない人々
アナトリアの小さな村で教員をやっている男の低回。ねたみとそねみ、我欲と狭量と近視眼と疑心暗鬼が克明に描写されていく。嫌な男だが、かれが持っている表と内の乖離はわからないものではなく、すべての気まずさが白日の下に晒されるストレスフルな映画だった。
ヌリ・ビルゲ・ジェイランは一貫して重い題材で、人間感情の深層をえぐるクオリティの高い映画をつくっていて、それはアスガル・ファルハーディーやアンドレイ・ズビャギンツェフやアブデラティフ・ケシシュやクリスティアン・ムンジウなどにも言えると思う。
たとえば日本映画では重い題材でも重い題材で映画つくってみましたという感じになるので絶対の重さは見えない。
映画をつくっている人は重くないし、単にどやるために重い題材に挑戦したのかもしれず、いずれにせよ日本映画では重さが出ない。
それと比べるとヌリビルゲジェイランは重さの重みがぜんぜん違う。言いたいことは解ると思うが、比べものにならない重さの違いを感じる映画だった。
その年のカンヌでパルムドールに選ばれたのはAnatomy of a FallだったがMerve Dizdarが主演女優賞をとった。是枝裕和監督の怪物が脚本賞になった回でもあった。
撮影がいい。もったいぶった長回しはしないが構図の切り取り方と映画中の印象的な写真に目を奪われた。脚本に2年かかって、撮影も2021年から2年かかったという。
サメット(Deniz Celiloğlu)はじぶんが生きている世界に諦観や積怨をもっている。そういう人はたくさんいると思う。
たとえばわたしはコロナウィルスがまん延し人との関係や連絡や接遇機会が減ったり断絶したりすればするほど困った反面安らぎも感じた。今となってはコロナが懐かしくもある。なぜならコロナは人生のestablishment(建設的にたゆまず努力すること)をサボる理由となる強力な外的要因だったからだ。なんでもコロナのせいにしとけばよかった。でもコロナがなければ、わたしが落ちぶれるとしたら、それは自分自身の努力不足でしかない。
言ってみればサメットもそれに似た気分、姑息さや卑怯を体現するキャラクターであり、そういった感情は多かれ少なかれ誰にでも思い当たる節があるだろうと思う。
ただし解らない話ではないが、主人公が落ちるところは深く狭く暗く、ほかのヌリビルゲジェイラン映画同様、想定内のところへは落ちなかった。
それにしてもトルコというところはなにをするにもまずチャイ(紅茶)なのだった。帰宅するとチャイだし、職員室でもチャイだし、教育支部長に呼ばれてもチャイだし、軍人と会話するにもチャイだし、三角関係のもつれの話し合いの前にもチャイだし、じっさいになにをする前にもチャイシーンが挿入され、必ずくびれのあるクリアグラスで飲む。なにがなんでもチャイを飲まないと始まらない、という感じだった。
原題Kuru Otlar Üstüneは乾いた草の上と訳され、英題もAbout Dry Grassesだが、邦題はいつもながら配給社の誰かが勝手につけたものになっている。
Imdb7.7、RottenTomatoes92%と83%。